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5章
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オフィスに戻り、つい小一時間前に腰かけていたソファへ腰かける。別のソファには研大とミモナ博士が座り、全員でテーブルを囲うような配置だ。それとなく全員の顔を伺ってみると、イラついている者、後ろめたそうな人、飄々とした顔と、三者三様だ。
俺は空気のない仮想世界で、すぅ、と大きく深呼吸をした。俺の肉体がまだ現実世界と繋がっているからか、空気の流れを感じなくとも幾分か冷静になることができた。
「さっさと本題に入ろうか。浦敷博士」
剣呑な面持ちで切り出す哉否や、俺はずいっと二本指を浦敷博士の前に突き出した。
「俺達がここに来た目的は二つ。機械仕掛けの世界から協力者を集めること。そのついでに、終末の日を止める方法を探しに来た」
その後は理路整然と、これまでの出来事を博士たちに説明した。ベートが終末の日を起こそうとしていることから、俺が狙われていること、近々戦争が起きるからそれに備えていることも。
それから、俺が知っている限りでの現実世界の情勢も伝えておいた。オラガイアで戦いを共にした狩人たちは一応俺たちに協力してくれているが、機械仕掛けの世界は消えるべきだと考えている人が多かった、実はレオハニーもその一人だったことも伝えておいた。
機械仕掛けの世界は古くから終末の日の諸悪の根源のように扱われていたし、鍵者である俺も積極的に命を狙われてきた。だから、ジェイルたちのような過激派の方が多数で、俺のように機械仕掛けの世界と共存を願っている人の方が少数と考えるのは妥当だろう。
「──終末の日を止めるだけなら、旧人類が暮らしているサーバーを破壊するだけで十分だろう。でも俺は無関係の人まで巻き込まれるのは間違ってる。仮想世界の敵を倒すためには、やっぱり仮想世界の住人の手助けがないと難しい。だから博士には俺たちの協力者になってもらいたいんだ」
五分ほど話しっぱなしだったため、急に喉の渇きを覚えた。いつの間にかテーブルの上に用意されていたコーヒーを一気に呷って、浦敷博士の回答を待つ。
浦敷博士は目を閉じながらじっと考え込むと、顎に手を当てて低く唸った。
「想像以上に状況が良くないな。新人類からしてみれば旧人類は嫌われても仕方がないと覚悟していたが、絶滅を望まれるほど憎まれるのは予想外だ」
「それはトゥアハ派の印象操作の影響かもしれません。終末の日を齎すのは機械仕掛けの世界だ、とわざわざ予言書に記載していたのですから」
どこか冷たい口調でレオハニーが補足すると、浦敷博士は何か言いたげに彼女を見てから言葉を飲み込んだ。代わりに、研大と目くばせをしながら真剣な面持ちになった。
「君たちの目的はおおむね理解した。全面的に君たちをサポートしよう。協力者については問題ない。カフェテラスで見てもらった反応の通り、このサーバーの住人ならばすぐにでも動いてくれるだろう。……問題は、別のサーバーの住人だ」
「別のサーバー?」
クライヴがオウム返しに尋ねると、浦敷博士はつま先で床を叩きながら言った。
「ここヨルドのサーバーは他のサーバーと通信ができないよう閉鎖されているんだ。中央都市やリバースロンドのサーバーなら、データを送るだけで別の都市にワープしたり、都市同士を繋げたりして自由に生き来できるんだけど、ここではそれを禁止している」
「待ってください。浦敷博士たちはテララギの研究所で仮想世界に移住したはずです。それではヨルドのサーバーに来れないのでは?」
レオハニーが素早く矛盾を指摘すると、浦敷博士は言いづらそうに口を噤んだ。代わりに、ミモナ博士が冷静に告げる。
「テララギのサーバーは四百年前、ベート・ハーヴァーが持ち込んだ洗脳ウイルスで壊滅的な被害を受けたの。ベートの狙いは、浦敷博士のダアトの研究記憶だった。彼女本人は浦敷博士が欲しかったみたいだけどね」
ミモナ博士は苛立ち交じりに深い息を吐き、片手で目元を覆った。全身から話したくないという雰囲気をまき散らしながらも、ミモナ博士はわざわざ立ち上がってから椅子に座り直し、話を続けた。
「丁度その頃はね、ゴモリー・リデルゴアが仮想世界の仲間に命じて、皆で新人類の身体で復活しようって扇動していた時期だったの。テララギの人たちは旧人類に救われた人たちばかりだから当然反対したわ。その結果、ベートにウイルスを持ち込まれ、強制的に自我データを書き換えられる事件が起きた」
突然放り込まれた深刻な話に俺たちは言葉を失った。ミモナ博士は俺たちの反応に同情的な視線を向けながら両手を握りしめる。
「私たちは急いでバックアップをチップに映して、ダアトの力で現実世界に生成したわ。そのチップはNoDの子たちがヨルドのサーバーまで運んでくれた。お陰で私たちはこのサーバーで生きながらえることができたの」
「じゃあ、他の人たちは……?」
聞いてから、しまったと俺は口を塞いだ。俺の問いを聞いた途端、ミモナ博士も浦敷博士も沈黙する。研大は今から断頭台に向かう罪人のように目をぎゅっと閉じて、俺達から顔を逸らしていた。
密閉され、換気もされていない部屋のような息苦しさに包まれる。レオハニーは無表情のまま博士たちの顔を見渡して、ぽつりと言った。
「……見捨てたんです?」
ミモナ博士は愕然と目を見開き、テーブルに手をつきながら今にも泣きそうに弁明した。
「違うわ。いきなりの事で間に合わなかったし、ダアトの事を口外するわけには……」
「それでも見捨てたことには変わりない! でしょう!?」
「レオナ、あのね……」
「言い訳をするなら、まず私の質問に答えてください!」
紅色の瞳が、燃え盛る炎と悲しみを湛えながら怒鳴りつける。ミモナ博士が押し黙ると、レオハニーの灼熱の瞳が浦敷博士へ向かった。
「ずっと聞きたかった。浦敷博士、ミモナ博士……どうして貴方達は、シモン博士だけを置いて仮想世界に逃げたんですか!?」
その問いには隠しきれない憎悪が滲んでいた。レオハニーの怒りは、俺が一緒に機械仕掛けの世界へ行くと約束しなければならないほど強く、浦敷博士たちの言い分を聞く前に門を破壊してしまえと思うほど深い殺意で彩られていた。むしろ、よく今まで怒りが爆発しなかったなと思うぐらいだ。
レオハニーはもはやじっとしていられないほどで、ソファが後ろに下がるほど勢いよく立ち上がった。
「貴方達は菌糸融合実験の成果でドラゴン毒素の抗体ができていたはず。その証拠に、研究施設を離れる前日までみんな健康体そのものだったじゃありませんか。それなのに、どうして他の非適合者を差し置いて自分たちだけ助かろうとしたんですか!」
レオハニーの怒鳴り声を聞くだけで、喉の奥が音で溺れてしまったように震える。俺は頭から血の気が引いていくのを感じながら、目の前で土色になる浦敷博士の表情を見た。
浦敷博士は身を固くしながらレオハニーの顔を見上げ、意を決するようにぎゅっと目をつぶった。
「私たちの肉体に寄生した菌糸は……プロトタイプなんだ。レオナに移植した菌糸よりも脆弱で、民間の仮想世界計画が軌道に乗る前から、機能不全を起こしていた。研究施設の外に出るだけでも死ぬ危険があるほどにね」
「は……?」
「まだ幼い君を不安にさせたくなかったから黙ってたの。ごめんねレオナ」
ミモナ博士がフォローを入れるが、レオハニーは魂が抜けてしまったように動かない。話が耳に入っているか不安になる態度だったが、浦敷博士はゆっくりと、子供に語り聞かせるように種明かしをした。
「いち早く私たちの症状に気づいたシモン博士は、私たちに新たな菌糸を移植しようとした。だが君たちも知っているだろう? 普通の人間は、複数の菌糸を持つことができない。プロトタイプの菌糸が機能不全を起こした時点で、私たちはどのみち助からなかったんだ」
「……生き、残るには……仮想世界に行くしか、なかったと? 今更、そんなものが言い訳になると思っているんですか?」
静謐な、しかし先ほどよりも憎しみの純度が上がった声がにじり寄る。
「貴方達は研究所を離れるとき、シモン博士に一言も別れを告げなかったじゃないですか。一人残されたシモン博士は一晩中狂ったように泣き叫んで、血が出るまで壁を叩き続けていたんですよ。自分は役立たずだと言って、生きる価値はないと、何度も、何度も!」
後半になるにつれ、レオハニーの声は悲痛さを帯び、戦慄いていった。レオハニーは目じりから溢れそうになった涙を乱雑に拭うと、顎を引いて浦敷博士を睥睨した。
「あれは、置いて行かれた叫びにしか思えない。あれほどの怒りに別の理由があると私には思えない」
浦敷博士は一瞬だけ胸を貫かれたかのように顔を歪めると、片手で顔の半分を覆うようにテーブルに肘をついた。
「……すまない。まさかシモンがそこまで気に病んでいたとは」
絞り出すような声が部屋に落ち、レオハニーの怒りの気配が一瞬大きく膨れ上がる。
最強の討滅者たるレオハニーの纏う空気は、仮想世界の人間にとって猛毒だった。人間離れした美貌と歴戦の猛者を思わせる佇まいを目にするだけで、素人は呼吸すら忘れてしまう。俺だって初対面で怒り狂うレオハニーと出会ってしまったら気絶していただろう。
現に、レオハニーの幼少期を知るミモナ博士と研大ですら蒼白で震えている。だというのに、浦敷博士だけはレオハニーと向き直り、片手間にウィンドウを呼び出した。
「菌糸融合実験を成功させたとき、私たちはもうドラゴン毒素に侵され、人の形を保っているのがやっとの状態だった。自分たちの知識をこのまま潰えさせるよりは、意識をデータ化し、たった一人残されるシモンの手助けができればいい。そう思ったんだ」
くるりとウィンドウの向きが代わり、レオハニーの前へと移動する。座っている俺からでもウィンドウの内容を閲覧できた。そこにはよくあるメールフォルダと英語のテキストがずらりと並んでいた。
「シモンと私のやりとりだ。読んでみてほしい」
レオハニーは浦敷博士を長い間睨みつけると、険しい表情のままウィンドウに指を添えた。
石膏から削り出されたような白い手が上に滑るために、画面をテキストが占めていく。その途中、唐突に写真が表示された。茶色いくせ毛の少女が、白衣を着た男性に抱っこされている写真だ。ターコイズブルーの瞳を持つ男性に見覚えはないが、胸元にかかるネームプレートには英語でシモンと書かれていた。
きっと、茶色い髪の少女はレオハニーで、白衣の男性はシモン博士なのだろう。あいにくとレオハニーは眠っていたが、それを抱きかかえてカメラを持つシモン博士は、だらしない笑顔で頬を赤くしていた。
レオハニーは幸せそうな写真を凝視した後、震える手でさらにメールファイルの深くへ潜っていった。
ノートに文字を書きとり、集中していてカメラに気づいていない少女。
シモン博士の膝に乗ってピースサインをする少女。
眠っている研大に毛布を掛けながら、カメラに向かってしーっとハンドサインを出す少女。
撮影する人物は変わっているようだが、写真には必ずレオハニーの姿が映っている。それはまるで、子供の成長を記録したアルバムのようだった。
「シモンはずっとね、私たちに君の写真を送り続けてきたんだよ、レオナ」
浦敷博士がそっと語り掛けると、レオハニーは緩慢に顔を持ち上げた。そこには見知らぬ土地にいきなり放り出されたような、不安と困惑がないまぜになった少女がいた。
「そのメールに書かれている通りだ。シモン博士は私たちが仮想世界に行くことを承知で、現実世界に残ったんだ」
レオハニーははくはくと口を開閉すると、力なく首を振りながらじっとテキストに目を凝らす。スワイプするたびに「嘘だ」とか「じゃあの時のは」と言葉を漏らし、立て続けにショックを受けている様子だった。それが次第に涙を堪えるような吐息になり、気づけば張りつめていた部屋の空気がほぐれていた。
俺は英語が読めないから、メールの文面に何が書かれていたのか分からない。浦敷博士の言った通りであれば、シモン博士が仮想世界の近況を聞いているか、現実世界の出来事が綴ってあるのだろう。メールの頻度が高く、浦敷博士から毎回長文で返信しているようだから、少なくとも偽装工作には見えなかった。
それでもレオハニーは、できるだけ可能性を潰したいのだろう。あるいは自分の信じていた恨みを正当化したかったのかもしれない。
「この写真が偽物ではないという、証拠はあるんですか?」
五百年も恨んでいたのだから、至極当然な質問だ。
浦敷博士は数秒だけ目を伏せると、黒い瞳を細かく震わせながら半ば諦めたように眉を下げた。
「この世界に本物はない。人も、物も、自分の記憶でさえも、誰かに容易に改竄されてしまう。すべてが偽物なんだよ。だけどシモン博士がこうして私たちと連絡を取り続けてきた記録は、本物だと信じてほしい。君にだけでも」
はっきりと仮想世界を偽物と断言した浦敷博士に、俺は虚しさを覚えた。彼らがNoDの身体で復活できないということは、彼らにもちゃんと魂があるはず。だというのに浦敷博士の言い方は、まるで自分たちはただの自我データで、オリジナルの自分はすでに死んでいると割り切っているようだった。
レオハニーはしばしウィンドウをぼんやりと見つめた後、儚い笑みを口元に引いた。
「このメールは、まだ私がレオナだった頃に見たことがあります。すぐにシモン博士が私を部屋の外に連れて行ってしまったので、一文しか読めませんでしたが……」
指先が文字をなぞり、唇が読み上げる。
「『レオナがいれば一人でも頑張れる』。嬉しくて、忘れられなかった」
愛おしそうに睫毛を下げて、レオハニーはその一文を目に焼き付けた。そして浦敷博士とミモナ博士を振り返り、くぐもった声で内心を打ち明けた。
「本当は、貴方達のことを恨みたくなかった。もっと早く教えてくれればよかったのに……何百年も内緒にするなんて、酷いじゃないですか」
ウィンドウに触れていたレオハニーの手が力なく落ちると同時に、ミモナ博士が勢いよくレオハニーに抱き着いた。両腕でしっかりとレオハニーの頭を抱えながら、堰を切ったように涙を溢れさせる。
ミモナ博士の口はこれまでの後悔で大きく歪んで強張り、様々な言葉を紡ごうと震えては結局形にできずにいる。結局絞り出せたのは、万感の思いか籠った謝罪だけだった。
「ごめん。レオナ……ごめんね」
遅れて、研大が涙を堪えながら二人の背中を優しく撫でる。ふと雨音が聞こえて窓に視線を向けると、仮想世界の摩天楼は漫ろな雨に降られていた。
俺は空気のない仮想世界で、すぅ、と大きく深呼吸をした。俺の肉体がまだ現実世界と繋がっているからか、空気の流れを感じなくとも幾分か冷静になることができた。
「さっさと本題に入ろうか。浦敷博士」
剣呑な面持ちで切り出す哉否や、俺はずいっと二本指を浦敷博士の前に突き出した。
「俺達がここに来た目的は二つ。機械仕掛けの世界から協力者を集めること。そのついでに、終末の日を止める方法を探しに来た」
その後は理路整然と、これまでの出来事を博士たちに説明した。ベートが終末の日を起こそうとしていることから、俺が狙われていること、近々戦争が起きるからそれに備えていることも。
それから、俺が知っている限りでの現実世界の情勢も伝えておいた。オラガイアで戦いを共にした狩人たちは一応俺たちに協力してくれているが、機械仕掛けの世界は消えるべきだと考えている人が多かった、実はレオハニーもその一人だったことも伝えておいた。
機械仕掛けの世界は古くから終末の日の諸悪の根源のように扱われていたし、鍵者である俺も積極的に命を狙われてきた。だから、ジェイルたちのような過激派の方が多数で、俺のように機械仕掛けの世界と共存を願っている人の方が少数と考えるのは妥当だろう。
「──終末の日を止めるだけなら、旧人類が暮らしているサーバーを破壊するだけで十分だろう。でも俺は無関係の人まで巻き込まれるのは間違ってる。仮想世界の敵を倒すためには、やっぱり仮想世界の住人の手助けがないと難しい。だから博士には俺たちの協力者になってもらいたいんだ」
五分ほど話しっぱなしだったため、急に喉の渇きを覚えた。いつの間にかテーブルの上に用意されていたコーヒーを一気に呷って、浦敷博士の回答を待つ。
浦敷博士は目を閉じながらじっと考え込むと、顎に手を当てて低く唸った。
「想像以上に状況が良くないな。新人類からしてみれば旧人類は嫌われても仕方がないと覚悟していたが、絶滅を望まれるほど憎まれるのは予想外だ」
「それはトゥアハ派の印象操作の影響かもしれません。終末の日を齎すのは機械仕掛けの世界だ、とわざわざ予言書に記載していたのですから」
どこか冷たい口調でレオハニーが補足すると、浦敷博士は何か言いたげに彼女を見てから言葉を飲み込んだ。代わりに、研大と目くばせをしながら真剣な面持ちになった。
「君たちの目的はおおむね理解した。全面的に君たちをサポートしよう。協力者については問題ない。カフェテラスで見てもらった反応の通り、このサーバーの住人ならばすぐにでも動いてくれるだろう。……問題は、別のサーバーの住人だ」
「別のサーバー?」
クライヴがオウム返しに尋ねると、浦敷博士はつま先で床を叩きながら言った。
「ここヨルドのサーバーは他のサーバーと通信ができないよう閉鎖されているんだ。中央都市やリバースロンドのサーバーなら、データを送るだけで別の都市にワープしたり、都市同士を繋げたりして自由に生き来できるんだけど、ここではそれを禁止している」
「待ってください。浦敷博士たちはテララギの研究所で仮想世界に移住したはずです。それではヨルドのサーバーに来れないのでは?」
レオハニーが素早く矛盾を指摘すると、浦敷博士は言いづらそうに口を噤んだ。代わりに、ミモナ博士が冷静に告げる。
「テララギのサーバーは四百年前、ベート・ハーヴァーが持ち込んだ洗脳ウイルスで壊滅的な被害を受けたの。ベートの狙いは、浦敷博士のダアトの研究記憶だった。彼女本人は浦敷博士が欲しかったみたいだけどね」
ミモナ博士は苛立ち交じりに深い息を吐き、片手で目元を覆った。全身から話したくないという雰囲気をまき散らしながらも、ミモナ博士はわざわざ立ち上がってから椅子に座り直し、話を続けた。
「丁度その頃はね、ゴモリー・リデルゴアが仮想世界の仲間に命じて、皆で新人類の身体で復活しようって扇動していた時期だったの。テララギの人たちは旧人類に救われた人たちばかりだから当然反対したわ。その結果、ベートにウイルスを持ち込まれ、強制的に自我データを書き換えられる事件が起きた」
突然放り込まれた深刻な話に俺たちは言葉を失った。ミモナ博士は俺たちの反応に同情的な視線を向けながら両手を握りしめる。
「私たちは急いでバックアップをチップに映して、ダアトの力で現実世界に生成したわ。そのチップはNoDの子たちがヨルドのサーバーまで運んでくれた。お陰で私たちはこのサーバーで生きながらえることができたの」
「じゃあ、他の人たちは……?」
聞いてから、しまったと俺は口を塞いだ。俺の問いを聞いた途端、ミモナ博士も浦敷博士も沈黙する。研大は今から断頭台に向かう罪人のように目をぎゅっと閉じて、俺達から顔を逸らしていた。
密閉され、換気もされていない部屋のような息苦しさに包まれる。レオハニーは無表情のまま博士たちの顔を見渡して、ぽつりと言った。
「……見捨てたんです?」
ミモナ博士は愕然と目を見開き、テーブルに手をつきながら今にも泣きそうに弁明した。
「違うわ。いきなりの事で間に合わなかったし、ダアトの事を口外するわけには……」
「それでも見捨てたことには変わりない! でしょう!?」
「レオナ、あのね……」
「言い訳をするなら、まず私の質問に答えてください!」
紅色の瞳が、燃え盛る炎と悲しみを湛えながら怒鳴りつける。ミモナ博士が押し黙ると、レオハニーの灼熱の瞳が浦敷博士へ向かった。
「ずっと聞きたかった。浦敷博士、ミモナ博士……どうして貴方達は、シモン博士だけを置いて仮想世界に逃げたんですか!?」
その問いには隠しきれない憎悪が滲んでいた。レオハニーの怒りは、俺が一緒に機械仕掛けの世界へ行くと約束しなければならないほど強く、浦敷博士たちの言い分を聞く前に門を破壊してしまえと思うほど深い殺意で彩られていた。むしろ、よく今まで怒りが爆発しなかったなと思うぐらいだ。
レオハニーはもはやじっとしていられないほどで、ソファが後ろに下がるほど勢いよく立ち上がった。
「貴方達は菌糸融合実験の成果でドラゴン毒素の抗体ができていたはず。その証拠に、研究施設を離れる前日までみんな健康体そのものだったじゃありませんか。それなのに、どうして他の非適合者を差し置いて自分たちだけ助かろうとしたんですか!」
レオハニーの怒鳴り声を聞くだけで、喉の奥が音で溺れてしまったように震える。俺は頭から血の気が引いていくのを感じながら、目の前で土色になる浦敷博士の表情を見た。
浦敷博士は身を固くしながらレオハニーの顔を見上げ、意を決するようにぎゅっと目をつぶった。
「私たちの肉体に寄生した菌糸は……プロトタイプなんだ。レオナに移植した菌糸よりも脆弱で、民間の仮想世界計画が軌道に乗る前から、機能不全を起こしていた。研究施設の外に出るだけでも死ぬ危険があるほどにね」
「は……?」
「まだ幼い君を不安にさせたくなかったから黙ってたの。ごめんねレオナ」
ミモナ博士がフォローを入れるが、レオハニーは魂が抜けてしまったように動かない。話が耳に入っているか不安になる態度だったが、浦敷博士はゆっくりと、子供に語り聞かせるように種明かしをした。
「いち早く私たちの症状に気づいたシモン博士は、私たちに新たな菌糸を移植しようとした。だが君たちも知っているだろう? 普通の人間は、複数の菌糸を持つことができない。プロトタイプの菌糸が機能不全を起こした時点で、私たちはどのみち助からなかったんだ」
「……生き、残るには……仮想世界に行くしか、なかったと? 今更、そんなものが言い訳になると思っているんですか?」
静謐な、しかし先ほどよりも憎しみの純度が上がった声がにじり寄る。
「貴方達は研究所を離れるとき、シモン博士に一言も別れを告げなかったじゃないですか。一人残されたシモン博士は一晩中狂ったように泣き叫んで、血が出るまで壁を叩き続けていたんですよ。自分は役立たずだと言って、生きる価値はないと、何度も、何度も!」
後半になるにつれ、レオハニーの声は悲痛さを帯び、戦慄いていった。レオハニーは目じりから溢れそうになった涙を乱雑に拭うと、顎を引いて浦敷博士を睥睨した。
「あれは、置いて行かれた叫びにしか思えない。あれほどの怒りに別の理由があると私には思えない」
浦敷博士は一瞬だけ胸を貫かれたかのように顔を歪めると、片手で顔の半分を覆うようにテーブルに肘をついた。
「……すまない。まさかシモンがそこまで気に病んでいたとは」
絞り出すような声が部屋に落ち、レオハニーの怒りの気配が一瞬大きく膨れ上がる。
最強の討滅者たるレオハニーの纏う空気は、仮想世界の人間にとって猛毒だった。人間離れした美貌と歴戦の猛者を思わせる佇まいを目にするだけで、素人は呼吸すら忘れてしまう。俺だって初対面で怒り狂うレオハニーと出会ってしまったら気絶していただろう。
現に、レオハニーの幼少期を知るミモナ博士と研大ですら蒼白で震えている。だというのに、浦敷博士だけはレオハニーと向き直り、片手間にウィンドウを呼び出した。
「菌糸融合実験を成功させたとき、私たちはもうドラゴン毒素に侵され、人の形を保っているのがやっとの状態だった。自分たちの知識をこのまま潰えさせるよりは、意識をデータ化し、たった一人残されるシモンの手助けができればいい。そう思ったんだ」
くるりとウィンドウの向きが代わり、レオハニーの前へと移動する。座っている俺からでもウィンドウの内容を閲覧できた。そこにはよくあるメールフォルダと英語のテキストがずらりと並んでいた。
「シモンと私のやりとりだ。読んでみてほしい」
レオハニーは浦敷博士を長い間睨みつけると、険しい表情のままウィンドウに指を添えた。
石膏から削り出されたような白い手が上に滑るために、画面をテキストが占めていく。その途中、唐突に写真が表示された。茶色いくせ毛の少女が、白衣を着た男性に抱っこされている写真だ。ターコイズブルーの瞳を持つ男性に見覚えはないが、胸元にかかるネームプレートには英語でシモンと書かれていた。
きっと、茶色い髪の少女はレオハニーで、白衣の男性はシモン博士なのだろう。あいにくとレオハニーは眠っていたが、それを抱きかかえてカメラを持つシモン博士は、だらしない笑顔で頬を赤くしていた。
レオハニーは幸せそうな写真を凝視した後、震える手でさらにメールファイルの深くへ潜っていった。
ノートに文字を書きとり、集中していてカメラに気づいていない少女。
シモン博士の膝に乗ってピースサインをする少女。
眠っている研大に毛布を掛けながら、カメラに向かってしーっとハンドサインを出す少女。
撮影する人物は変わっているようだが、写真には必ずレオハニーの姿が映っている。それはまるで、子供の成長を記録したアルバムのようだった。
「シモンはずっとね、私たちに君の写真を送り続けてきたんだよ、レオナ」
浦敷博士がそっと語り掛けると、レオハニーは緩慢に顔を持ち上げた。そこには見知らぬ土地にいきなり放り出されたような、不安と困惑がないまぜになった少女がいた。
「そのメールに書かれている通りだ。シモン博士は私たちが仮想世界に行くことを承知で、現実世界に残ったんだ」
レオハニーははくはくと口を開閉すると、力なく首を振りながらじっとテキストに目を凝らす。スワイプするたびに「嘘だ」とか「じゃあの時のは」と言葉を漏らし、立て続けにショックを受けている様子だった。それが次第に涙を堪えるような吐息になり、気づけば張りつめていた部屋の空気がほぐれていた。
俺は英語が読めないから、メールの文面に何が書かれていたのか分からない。浦敷博士の言った通りであれば、シモン博士が仮想世界の近況を聞いているか、現実世界の出来事が綴ってあるのだろう。メールの頻度が高く、浦敷博士から毎回長文で返信しているようだから、少なくとも偽装工作には見えなかった。
それでもレオハニーは、できるだけ可能性を潰したいのだろう。あるいは自分の信じていた恨みを正当化したかったのかもしれない。
「この写真が偽物ではないという、証拠はあるんですか?」
五百年も恨んでいたのだから、至極当然な質問だ。
浦敷博士は数秒だけ目を伏せると、黒い瞳を細かく震わせながら半ば諦めたように眉を下げた。
「この世界に本物はない。人も、物も、自分の記憶でさえも、誰かに容易に改竄されてしまう。すべてが偽物なんだよ。だけどシモン博士がこうして私たちと連絡を取り続けてきた記録は、本物だと信じてほしい。君にだけでも」
はっきりと仮想世界を偽物と断言した浦敷博士に、俺は虚しさを覚えた。彼らがNoDの身体で復活できないということは、彼らにもちゃんと魂があるはず。だというのに浦敷博士の言い方は、まるで自分たちはただの自我データで、オリジナルの自分はすでに死んでいると割り切っているようだった。
レオハニーはしばしウィンドウをぼんやりと見つめた後、儚い笑みを口元に引いた。
「このメールは、まだ私がレオナだった頃に見たことがあります。すぐにシモン博士が私を部屋の外に連れて行ってしまったので、一文しか読めませんでしたが……」
指先が文字をなぞり、唇が読み上げる。
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愛おしそうに睫毛を下げて、レオハニーはその一文を目に焼き付けた。そして浦敷博士とミモナ博士を振り返り、くぐもった声で内心を打ち明けた。
「本当は、貴方達のことを恨みたくなかった。もっと早く教えてくれればよかったのに……何百年も内緒にするなんて、酷いじゃないですか」
ウィンドウに触れていたレオハニーの手が力なく落ちると同時に、ミモナ博士が勢いよくレオハニーに抱き着いた。両腕でしっかりとレオハニーの頭を抱えながら、堰を切ったように涙を溢れさせる。
ミモナ博士の口はこれまでの後悔で大きく歪んで強張り、様々な言葉を紡ごうと震えては結局形にできずにいる。結局絞り出せたのは、万感の思いか籠った謝罪だけだった。
「ごめん。レオナ……ごめんね」
遅れて、研大が涙を堪えながら二人の背中を優しく撫でる。ふと雨音が聞こえて窓に視線を向けると、仮想世界の摩天楼は漫ろな雨に降られていた。
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