家に帰りたい狩りゲー転移

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4章

(38)恋人

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 視界と意識が真っ白なキャンバスへと作り替えられ、誰かの記憶が流れ込んでくる。自分の知らない光景、思考、感情がみるみる俺の意識を希釈して、自己という存在から輪郭を奪い去っていく。最初は恐怖を感じたものの、ベートから強制的に記憶を流し込まれた経験のお陰で、俺はパニックになることなくそれらの奔流を受け止めることができた。

 これはニヴィの記憶だ。

 自覚した途端、映画のフィルムを早回しにしたように様々な光景が目の前に広がっては遠ざかっていく。初めてミカルラに会った時のことや、ベアルドルフが近衛に就任した時のこと。ハウラが生まれた時は、まるで自分の事のように喜びが溢れた。それは他人の感情だ、と冷静な意識が排除しにかかるも、その喜びが完全に俺の中から消えることはなかった。

 そして、とある記憶を前にして俺は思わず足を止めた。青々とした広い海と高床式の建物群、そして見覚えのあるくらげ頭の女性が砂道の上を歩いている。近くにはバルド村に続く大きな川もあり、考えるまでもなくそこがヨルドの里だと理解した。

「ここが……エトロの故郷か」

 もう二度と実物を見ることはできないヨルドの里は、月並みな表現だが美しかった。波は穏やかで浜辺で子供たちが走り回り、大人は狩人を連れて漁に出る。里の一角では昨日討伐されたであろう水棲ドラゴンが大規模な天日干しの材料にされ、はぎ取られた鱗は武器商人らしき人々が競り売りに興じていた。

 活気あふれる大きな里の中を、くらげ頭の女性が歩いている。よく見たらその女性はエトロではなくそっくりな別人だった。エトロは凛として鋭い印象の顔立ちをしているが、この女性は凪いだ海のように穏やかで慈母のような笑みを浮かべながら里の人々を見守っている。身に纏う衣服はシルクで作られ、緻密な刺繍は女性の気品を引き立てていた。

 エトロに似た女性の後ろには、この記憶の持ち主であるニヴィがいた。俺はその後ろをふよふよと浮いて追いかけている。後ろに気配がして振り返ってみると、十五歳前後のドミラスたちがニヴィの後に続くようにぞろぞろと歩いていた。その中には俺の恩師でもあり、家族のような人でもあるアンジュの姿もあった。

「アンジュ……ロッシュさんも、ベアルドルフまでいる……」

 ドミラスから話を聞いていたが、実際にこの目で見ると不思議な光景だった。まだ里長になっていないロッシュは気弱そうで、ベアルドルフに守られるようにして歩いている。だがロッシュの顔は明らかに不満そうで、たまに足を速めてベアルドルフの隣に並ぼうとしていた。そしてその近くではアンジュと肩を並べるドミラスがいて、誰がどう見ても距離が近い。もしかしたら二人は付き合っているのかと思ったが、ドミラスの目線の先を見てそれどころではなくなった。

 ドミラスが見つめる先には、アンジュの腕に抱かれたドラゴンの子供がいた。アザラシそっくりな愛嬌のある顔立ちと、鱗がまだ生えていない鮮やかな群青の体毛からして、まだ生まれて間もないマリヴァロンの赤子であろう。

「な、なにやってんだこいつら……」

 ドラゴンの中でも愛情深いマリヴァロンの子供を連れ去ったらどうなるかは馬鹿な狩人たちの歴史が物語っている。やれ子供を取り返しに来た母親が里を滅ぼしたとか、子供を探し回って人間の集落を片っ端から海に沈めたとか、どれも最悪の結末を招いていた。

 もしやこれのせいでヨルドの里が滅びたんじゃないだろうな、と軽く焦りを覚えたが、ニヴィの記憶からはどうにもそのような気配を感じなかった。それに、前に俺がヨルドの里を訪れた時に相対したマリヴァロンも、妙に人間に敵意を抱いていなかったような気がする。

「きゅっきゅっ」

 甲高い鳴き声を上げるマリヴァロンの赤子は、見ているだけで胸を締め付けられるほどに愛らしかった。アンジュが指先で顎の下を掻いてやれば、ぐるぐると猫のように喉を鳴らして甘えてくる。

「随分懐いてるな」
「うん。人間に慣れる前に自然に帰さなきゃいけなかったんだけどね」

 屈託なく笑うアンジュの表情が懐かしく、俺も無意識に微笑んでいた。俺の知っているアンジュは旅の途中で別れたり俺が死んでしまったりしたせいで、最後は悲しそうな笑みを浮かべてばかりだった。彼女にもこんな風に穏やかでいられる時間があったのだと知れて少しだけ救われたような気持ちになる。

 アンジュの台詞から推測するに、今日はマリヴァロンの赤子をヨルドの里に引き取ってもらいに来たのだろう。マリヴァロンは海に生きるドラゴンであり、陸地にあるエラムラの里では飼育に適していない。対して海沿いにあるヨルドの里ならばマリヴァロンの生態にも詳しいだろう。実際、俺が出会ったマリヴァロンも元気そうであった。

「さぁ、どうぞこちらへ。海の幼子をよく見せてください」

 エトロに似た女性が、浜辺からせり出した桟橋の先でくるりとニヴィたちを振り返る。マリヴァロンを抱えていたアンジュは神妙な面持ちで女性の前まで進み出ると、腕に力を込めながら寂しそうに海を眺めた。

「マリーナ様。この子はちゃんと自然に帰れるでしょうか?」
「もちろんです。彼らは生まれながらにして生きる術を身に着けた強い生き物ですから」
「でも、こんなに小さいのにいきなり海に入れるのは……」

 アンジュが尻すぼみになりながら不安を口にすると、後ろにいたニヴィとベアルドルフ一行から呆れた反応が返ってきた。俺も竜王の子供なら一匹でも平気だろうと言いたかったが、そういえば、アンジュはかなり過保護だということを思い出した。

 アンジュは俺を探すためにリデルゴア国中を飛び回ったり、俺に戦う術を教えつつも格下のドラゴンの相手ばかりをさせたりと、ことあるごとに心配性を発揮していた。言動や態度の端々から厳しくしようとする努力は垣間見えたが、全体的に見ればやはり過保護でしかなかった。

 今回もその悪い癖が出ているようで、アンジュはマリヴァロンの赤子を抱きしめたまま石のように固まってしまった。マリーナと呼ばれたくらげ頭の女性は仕方なさそうに微笑むと、差し出していた手を下しながらやんわりと言葉を紡いだ。

「心配する気持ちは分かります。ですが、ヨルドの里一帯は私たち氷の一族が結界を維持しています。カイゼル様ほどの力はありませんが、中位ドラゴンが入り込めない程度の強さなのですよ。狭い家の中を歩かせるよりも、広々とした海で自らの力で狩りができる方が、海の幼子の為にもなるのです」
「それじゃあ、もし上位ドラゴンが出たら……」
「それも大丈夫。ヨルドの里の守護狩人が結界の外で撃退してくれます。仮にもここは、ドラゴン狩りの最前線を張る里ですもの」

 ね、とマリーナが微笑みかけるも、アンジュはまだ納得できていないようで腕の力を緩めなかった。アンジュの不安を感じ取ったマリヴァロンの赤子は、きゅるきゅると鳴きながら慰めるようにアンジュの髪を甘噛みした。その仕草を見たアンジュはますます離れがたくなったようで、目を真っ赤にしながらすんすん鼻を鳴らした。

 これは長くなりそうだな、と小さな声でベアルドルフがぼやく。ニヴィからも同情気味な気持ちが俺の元まで流れ込んできた。が、その空気はあっさりとマリーナの発言で覆された。

「それでも心配ならば、時々こちらで狩りを手伝ってくださいな。この里はどんな方でも歓迎していますもの」
「……!」

 アンジュが息を呑んだ後、ベアルドルフがくわっと目を見開いた。

「おい、うちの近衛を口説くな」
「貴方もタメ口を使わないでください馬鹿!」

 バシッとロッシュに頭を引っぱたかれ、ベアルドルフは桟橋の根元へと連行されていった。ロッシュとベアルドルフがいなくなった後、アンジュはついに涙を堪え切れず、顔をぐしゃぐしゃにしながらマリヴァロンの赤子をマリーナに差し出した。

「うちのマリちゃんを……よろしくおねがいじまずぅ……!」
「はい。こちらでしっかり面倒を見ますからね」

 マリーナはアンジュの泣き顔にほんの一瞬驚いていたが、即座に包容力のある笑顔を浮かべてマリヴァロンの赤子を受け取った。受け渡しの時にマリヴァロンの赤子は大人しくしていたが、しばらくして理解が追いついたのか、アンジュの方を見つめながら寂寥感のある長い鳴き声を上げた。

「きゅぅ~……」
「ああぁ……マリぢゃん゛ごめんねぇ゛!」
「泣き方汚ねぇな」

 見たことのないアンジュの反応に俺は思わずツッコミを入れる。当然俺の声が誰かに聞こえるわけでもなく、マリーナは淡々と自分の役目に従った。

「……では、この子を海に還します」

 マリーナがそう言った瞬間、潮気を吸った風がふわりと沖の方から俺たちの方へ吹き付ける。僅かに雨の気配を滲ませた匂いがあり、なんとなく水平線へ目をやると筆で描いたような筋雲があった。マリーナは俺と同じように水平線を眺めた後、階段を降りるように桟橋の先端から足を出した。

 ふっ、と雪を踏むような微かな音を立ててマリーナの足が水面の上に浮かぶ。よく見れば、マリーナの足先から膝にかけて蔦のように伸びる真っ白な菌糸模様が見えた。エトロのそれとよく似た模様は、マリーナが歩みを進めるたびにクリスマスベルに似た音を立てている。彼女はそのまま水上を歩いていき、サンゴ礁が見えなくなるほど深い場所へと進んでいった。

「あれが氷の一族に伝わる能力か……」

 興味深そうにドミラスが呟くと、ニヴィが心なしか誇らしげにしながら答えた。

「マリーナ様は『氷晶』の力で海を統べ、水底の墓がドラゴンに荒らされぬように休みなく結界を張っておられます」
「ミカルラ様と同じだな」
「ええ。氷の一族とミカルラ様は、共に先祖の墓を守るという使命があるのです。ヨルドの里の水底には、我々のご先祖が眠りについており、来る時に再び魂が還ってくるのだと言い伝えられています。そして我々のエラムラの里には、先祖の眠りを覚ます大事な鍵が保管されています。ヨルドの里とエラムラの里、片方が欠けてしまえば、ご先祖様の祈りは一生叶わなくなってしまう……」

 俺はニヴィの話を聞きながら、遠ざかっていくマリーナの後姿を見つめた。アンジュがまだドミラス達の傍にいる様子からして、この光景は二十一年以上も前のことなのだろう。エトロはまだ生まれておらず、実質マリーナが氷の一族の末裔だ。彼女が死んでしまえば、先祖の墓は荒れ果て、機械仕掛けの世界が復活することもなくなる。

 無意識に手を握りしめると、固い感触が返ってきた。見下ろせば『雷光』で作られた太刀が握られており、静謐に刃を光らせている。

 NoDを皆殺しにすれば機械仕掛けの世界の企みは潰える。だが氷の一族が滅びる方が、もっと簡単にこの世界を守ることが出来るだろう。エトロを殺せば、人類の存続を巡る争いも止められる。

「……できるわけないよな」

 無力感を抱きながら太刀を見下ろす。

 俺はエトロが好きだ。最初は一目ぼれでもあったし、ドラゴンが闊歩する過酷な世界で生き残るために彼女に捨てられないようにするので必死だった。それからだんだんと彼女の強さに惹かれ、家族と故郷を失った共通点に喜んで、一度は酷い裏切りに遭わされたが、どうしても嫌いになり切れなかった。

 恋をするのは初めてだった。もしかしたらただ依存しているだけなのかもしれないと不安に思うこともあったが、エトロの笑顔を見るたびに自信をもって違うと言える。俺はエトロと一緒に生きていたい。彼女が取り戻そうとしているこのヨルドの里で、エトロと共に帰る場所が欲しい。そのためなら血反吐を吐く様な険しい道であっても進める気がした。

「────」

 潮風に乗ってマリーナの子守歌が聞こえてくる。やがて、マリーナを中心に雪の結晶が大きな陣を描き出し、海の上を青白く照らし出した。

「……魂の祝福が、貴方をこの海から守ってくれます。さぁ、お行きなさい」

 優しく、しかし力強い声が呼びかける。すると、マリヴァロンは笛のような声を上げ、マリーナの腕をすり抜けるようにして海へ飛び込んでいった。小さな水の飛沫が散った後、海上の雪の結晶で構成された陣も消え、穏やかな海の姿が帰ってくる。

 しばらくして、沖の方でマリヴァロンの赤子が水面から顔を出した。群青色の体毛がくるりとこちらを振り返って、また海へ溶ける。それきり、赤子の姿は見えなくなった。

 俺の手元からも太刀が消滅する。青い燐光を放ちながら空中へ消える『雷光』は、かすかに残った雪の結晶に紛れて風に流されていった。

「……行っちゃった」
「……ミカルラ様から聞いたのですが、ドラゴンは何百年生きても親の顔を忘れることがないみたいです。きっとアンジュ様に会うために何度もここに現れますよ」
「うん……そうだね、ニヴィ」

 アンジュは鼻をすすりながら笑いかけると、両腕を広げて子供のようにニヴィに抱き着いた。

「でもやっぱりさびじい゛!」
「はいはい。よく頑張りました」
「慰め方が適当すぎるよぉ!」

 ぽんぽんと背中を叩かれながらアンジュが泣きじゃくっているうちに、マリーナが桟橋の先端へ戻ってきた。すると緩んでいたニヴィの表情が即座に引き締まり、やんわりとアンジュを引き離す。

「ニヴィ? どうしたの?」
「……次は、私の本題に入らせていただきます。マリーナ様」

 研いだばかりのナイフのように鋭い声がマリーナへ突きつけられる。突然敵意をつき付けられたマリーナはなおも穏やかに微笑んだままで、刺繍の施された袖を揺らしながら唇に指先を当てた。

「ミカルラ様が、何か仰ったのですね?」
「……予言書に、終末の始まりが書かれました。最初に滅ぼされるのは……ヨルドの里です」

 ニヴィの発言にドミラスとアンジュが鋭く息を呑む。マリーナはじっとニヴィの青ざめた顔を見つめた後、青い瞳を俺の方へと向けた。明らかに目が合った俺はびくりと身体を硬直させたが、マリーナはさしたる反応を示すことなく、再びニヴィへと向き直った。

「そう。ついに運命が変わり始めたのね」

 身体の深い所から発されたその声色は、これから起きるすべてを受け入れる準備ができているように聞こえた。
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