家に帰りたい狩りゲー転移

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4章

裏 白髪

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 一か月前、エラムラ防衛戦が巻き起こる少し前のこと。

 初めてリョーホと出会ったその日、シャルはラビルナ貝高原でニヴィに襲撃された。肋骨を折られ、リョーホが目の前で殺されてしまった怒りに駆られ、シャルはパリュム草を食んでニヴィと激闘を繰り広げた。しかしパリュム草の副作用でシャルは気絶してしまい、次に目が覚めた時にはギルドに併設された医務室のベッドで寝かされていた。

 ニヴィに殺されたはずのリョーホが生きていると知って、シャルは酷く安心したのを覚えている。だが、リョーホが助かったのは運が良かっただけなのだ。

「リョーホの運が良くても、次は死ぬかもしれないし。他の人もノーニャみたいに動かなくなったら、シャルは……どうしたらいいの?」

 シャルはベッドの中で縮こまりながら、リョーホの首のあたりに視線を彷徨わせた。自分のせいで危険な目に遭わせてしまった負い目があって、リョーホがどんな表情を浮かべているのか確認する勇気がなかったのだ。
 長い沈黙の後、視界の端でリョーホの口が弱々しく微笑むのが見えた。

「今日は何考えても名案なんか浮かばないよ。まだ眠いだろ。ダウバリフが会いに来たら起こしてやるよ」
「……うん」

 少し期待していた分、リョーホの回答に少しがっかりした。ではどんな答えが欲しかったのかと問われれば、シャルにも分からない。気休めの言葉で安心したかったのか、それとも突き放してほしかったのか。

 複雑な気持ちを抱えたまま、シャルは泥のように眠った。瞼を閉じるだけで時間が過ぎ去る睡眠という行為は、疲弊したシャルにとっては甘美な逃亡先だった。シャルが完全に寝入るまで、リョーホはしっかりと手を握り続けてくれた。

 自分のせいで、リョーホはニヴィに殺されてしまった。結果的には生き返ったものの、死人のように真っ白になったリョーホの顔はシャルの心に深い傷を刻み込んだ。もう二度と自分のせいで誰かが死ぬ瞬間を見たくない。いっそこのままずっと眠っていられたらどれほど幸せだろうと夢想する。

 しかし、安らぎの眠りは長く続かなかった。

 誰かに抱きかかえられる気配がして薄っすらと目を開けると、見知らぬ女性がシャルを見下ろしていた。

「んん……リョーホは……?」

 シャルが声を発した途端、女性は驚いたように肩を飛び跳ねさせた。まるで後ろめたい事でもあるような仕草で、微睡んでいたシャルの意識は一瞬で現実に引き戻された。

「だれ……離して!」

 暴れようともがくが、毛布ごと芋虫のようにくるまれたシャルでは大した反撃が出来なかった。しかもパリュム草の副作用と折れた肋骨から発される鈍い痛みのせいで、余計に上手く動けなかった。
 パリュム草は感覚神経を麻痺させる成分が入っているため、正しく調合しなければ人体にとって有害になる。摂取しすぎると脳に異常が生じ、言葉が話せなくなったり物事を理解できなくなる症状も出るそうだ。今のところシャルに言語障害は出ていなかったが、手足の先端に麻痺が残っているため脱出は絶望的だった。
 
「あ、暴れないでください、シャル様!」

 やたら丁寧な言葉遣いにシャルは軽く目を見開く。いままでエラムラの人々から迫害されてきたシャルにとって、巫女ハウラのような丁重な扱いはあまりにも予想外だった。

 シャルが大人しくなると、女性はなぜか痛みを堪えるような表情で微笑みかけてきた。
 
「驚かせて申し訳ありません。私は貴方を迎えに来たものです。共にお父様の元へ行きましょう。シャル様」
「……父? ベアルドルフがいるの?」
「ええ。詳しい話はまた後でしましょう。今は時間がありません」

 エラムラで忌み嫌われる大罪人が、どうして今更娘に会いに来たのだろうか。不信感を抱きながら女性の顔を睨みつけていると、窓の外から凄まじい爆発音が響き渡った。続いて、ドラゴンとの戦闘では絶対に聞こえるはずのない、剣と剣がぶつかり合う金属音と怒号、人質を集めるような声と血の匂いが一気に五感になだれ込んでくる。どれもこれも、人間同士の殺し合いでなければありえないものばかりだった。

 シャルは毛布の中から腕を出そうと暴れながら、自分を横抱きにする女性に怒鳴った。
 
「みんなになにをした!」
「落ち着いてください。ベアルドルフ様はただ貴方を助けるために……」
「助けなんていらない! なんでエラムラを襲ってるの!? こんなのシャルのためじゃない! 離して! リョーホ! 助けて!」

 女性は眉間に深い皺を刻みながら顔を俯けると、覚悟を決めたようにキッと目を開いた。
 
「シャル様、ご無礼をお許しください」
「むぐっ」
 
 白く湿った布で鼻と口を覆われ、助けを呼ぼうと大きく息を吸い込んだ拍子に、透けるような匂いが一気に体内になだれ込んできた。あっという間に匂いで頭まで燻され、シャルの意識はするりと消えてしまった。



 ……ゆらゆらと、どこかに運ばれている気がする。断片的に伝わってくる感覚は、気力を振り絞らなければ滑り落ちてしまうほど曖昧だ。誰かが優しく語り掛けてくれたと思えば、怒鳴り声がしたり、肌のひりつく様な殺意が膨れ上がったりする。誰かが戦っているということ以外、状況が分からない。

 やがて強烈な殺意が風船のようにはじけ飛び、冷たい風が服の隙間を通り抜けていった。そこから急速に何かから引き離されていき、一瞬だけリョーホの声がしたかと思えば、完全に音が消える。そこまで来て、シャルはもう自分は助からないと漠然と思い始めていた。
 
 砂の混じった冷たい夜気が、束子でこそぎ落とすようにシャルの熱を奪っていく。身体が震えてもおかしくないほどの寒さなのに、シャルは相変わらず指一本も動かせなかった。

「殺してやりたい……なのにどうして……」

 ニヴィの声だ。シャルは今、彼女に抱えられているらしい。医務室で会ったあの女性はどうなったのか、シャルはほんの少しだけ心配になった。
 
「ベアルドルフがお母様を殺したのよ。復讐すると決めたはずなのに……でも、私は、私は仇を……仇は、誰だったの?」

 常に飄々と笑っているニヴィから想像もできないような、か細く懺悔するような言葉が聞こえてくる。もしかしたらシャルを抱えているのはニヴィではないのかもしれないと思えてくるほど、それは切実な吐露だった。

 一度自分の生存を諦めた影響か、シャルはここにきて初めてニヴィの本心を聞きたいと思った。今すぐ目覚めて彼女の顔を確認したい。それからどうしてノーニャを殺したのか、ベアルドルフをそこまで憎んでいるのか問いかけたかった。だが、なけなしの意識をかき集めてもシャルの固く閉じられた瞼は持ち上がってくれない。声だけでも出せないかと喉を絞るが、出てくるのは浅い呼吸ばかりだった。


 ――ふと、触れ合っている肌から暖かな力が流れ込んできた。それはシャルの首筋を伝って脳天を巡ると、暗い瞼の裏にとある情景を浮かび上がらせた。

 黒く汚泥を孕んだような海が、水平線の彼方まで広がっていた。振り返れば血で赤く染まった浜辺と、夥しい数の死体と瓦礫の山が積み上がっている。死体の中には狼程度の小さめのドラゴンや、樹齢百年を生きたような大木の上位ドラゴンまで、種類を問わず入り乱れていた。それに混じって人間の死体もちらほらと見える。

 ここはかつて海沿いの里だったのだろう。大量に転がっているドラゴンの死体からして、スタンピードで蹂躙されたばかりのようだ。

 シャルはいつの間にか、自分の両足で砂浜を踏みしめていた。いつの間に意識が戻ったのか、いや、これはただの夢なのか。

 困惑しながら壊滅したヨルドの里の奥へ進んでいくと、白髪の女性と小豆色の頭髪の大男が見えた。二人の前には首を断ち切られた女性の遺体が寝かされており、纏っている衣服の模様でエラムラの巫女だと推察できた。

『お母様……どうして、このようなことを……』

 巫女の死体の傍らで、ハウラによく似た白髪の女性が嗚咽を漏らしている。両手で口を押えているせいで顔が良く見えないが、ハウラよりもすらりとした体躯や声のトーンで、即座にニヴィであると気づいた。シャルは思わず身構えたものの、あの血も涙もない獣のようなニヴィが悲嘆にくれる姿には動揺を隠しきれなかった。

 しかも、ニヴィらしき女性の後ろにはシャルと同じ紫色の瞳を持つ男がいる。ダウバリフよりも若々しく、右目に黒い眼帯をつけた顔は並みのドラゴンよりも恐ろしかったが、見ているだけでシャルの心の奥から郷愁にも似た気持ちが込み上げてきた。あの大男とどこかで会ったような気がする。だがこれほど強烈な顔をした相手なら、そう簡単に忘れると思えないのだが。

 シャルは自分の記憶をひっくり返しながら、慎重に二人に近づいてみた。しかし目の前まで来ても二人はこちらに全く気付く気配はなかった。

 夢にしてはあまりにも現実的だ。夢とは無軌道で突拍子もないことばかりが起きるものだが、シャルが見ている光景には整合性があり、時間の流れが速まったり遅くなったりすることもない。どちらかというと、自分が幽霊になって全く知らない場所に放り出されているように思えた。

「これ、誰かの記憶……?」

 独り言をつぶやきながらシャルは首をかしげる。
 すると、固く口を引き結んでいた大男が重々しく声を発した。
 
『この件はオレとお前で留めてけ。誰にも漏らすな』

 低く労わるような声色は、聞いているだけで胸を締め付けられるような痛みがあった。ニヴィは目が萎れてしまいそうなほど泣き腫らしたまま、疲れ切った吐息と共に肩を落とした。その間にもニヴィからはほたりほたりと涙が伝い落ち、彼女の膝に降り積もっていった。

 惨たらしい砂浜は粛然としていた。時折思い出したように波の音が流れてくるが、積み上がった死体が壁になっているせいで、水中のようにくぐもっていた。

 やがて、ニヴィの喉から掠れた声がした。
 
『……ミカルラ様の死は隠し通せるものではありません。いずれエラムラの民に知られてしまいます。ひいては、ミカルラ様がヨルドの里にもたらした災禍も……」

 ミカルラの名を耳にした途端、シャルは弾かれたように死体へ顔を向けた。ここで首を断ち切られている死体がミカルラならば、シャルの目の前にある光景は、謎多きミカルラ殺害の現場ということではないか。では、ニヴィの後ろにいる大男は必然的にベアルドルフとなる。

 しかもニヴィの言い方は、まるでミカルラがヨルドの里を滅ぼしたかのようにも受け取れる。それを踏まえて状況を推理すれば、『ミカルラはすでにヨルドの里に到着していて、里が滅んでからベアルドルフに殺された』ということになる。しかしシャルが聞いていた話では、ミカルラはスタンピードに襲われたヨルドの里を救うために、エラムラを飛び出したのではなかったか。明らかに順番も立ち位置も食い違っている。

 ベアルドルフはニヴィの言葉に対し、石像のように黙しながら長い間熟考した。そして傷だらけになった腕を胸筋の前で組み、血の滲むような声で告げた。
 
『オレが直々に巫女の死を伝えよう。しかし、ミカルラの名に泥を塗らぬように』

 シャルにはその言葉の意味が分からなかった。だがニヴィは即座に理解したようで、素早く立ち上がりながらベアルドルフに掴みかかった。
 
『まさか、貴方がすべての罪を背負うというのですか!?』
『巫女の不祥事はスキュリアの里に隙を見せることになる。ならばオレが汚名を被り、次代の巫女に里を守らせる口実を与える。しかし巫女の代替わりによる情勢不安までは避けられまい。オレがスキュリアの里長の地位を簒奪し、里同士で膠着状態を作れば……エラムラの里は守られる』

 ベアルドルフの決意に、シャルはニヴィと同時に鋭く息を呑んだ。もしこの話が本当ならば、エラムラの人々はシャルを含めて全員ベアルドルフに騙されていたことになる。
 エラムラの里で慈悲深い巫女と崇められていたミカルラが、本当はヨルドの里を滅ぼした主犯であり、近衛であるベアルドルフは主人の乱心を止めようとしたエラムラの忠君だった。そしてベアルドルフは自分が大罪人と誹られることになっても、エラムラの里を守るために主人の罪を被ったのだ。

 自分が迫害されてきた理由を根本から覆されてしまい、シャルは力なくその場に座り込んだ。

 自分のせいでノーニャが死んだ。
 自分のせいでリョーホが危険に晒された。
 そう思って生きてきたのに、本当は自分のせいではなく、父が里のために罪を被ったからだった。

 ベアルドルフの行いはきっと里の上に立つ者としてきっと正しいことだったのだろう。

 では、いままでシャルが耐えてきた迫害には、なんの意味があった?
 ノーニャが殺されなければならない理由は、どこにあった?

 里のために身を汚したベアルドルフを、シャルは誇らしいと思えなかった。里のためなら娘も捨てられるような親だと薄々感じていたが、いざ現実を突きつけられてしまえば、自分の中で積み上げてきた大事なものが音を立てて崩れてしまった。それから空虚に開いた穴から行き場のない怒りが込み上げてきて、シャルは膝立ちの体勢から素早くベアルドルフに飛び掛かった。

「うあああああああ!」

 大きく拳を振りかぶり、全身の重みを乗せて鼻面を狙う。だがシャルの拳はベアルドルフをすり抜けてしまった。予想外の現象にあっけに取られたシャルは慌てて受け身を取ろうとするも、勢いよく砂浜へ倒れ込んだ。

 腕で顔を庇ったが、砂が柔らかかったため想像したような衝撃はなかった。どこも擦りむいておらず痛みもない。それが今のシャルにとって惨めさを加速させた。

「……なんだよぉ……もうやだ……」

 きめ細やかな砂を握りしめながらシャルは背中を丸め、歯が砕けそうなほどに食いしばった。

 どうして自分ばかりが、このような目に遭わなければいけない。いきなり医務室で意識を奪われたと思ったら、訳の分からない光景を見せられて、しかも干渉できないなんて、一体自分にどうしろというのだ。シャルが味わって来た不幸は全てベアルドルフのせいなのに、不幸を決断した当の本人はあまりにも痛々しくてやりきれなかった。

『親衛隊の狩人たちは、何を言われようと貴方についていくでしょうね』

 涙で声を曇らせながら、ニヴィは寂しそうに言う。シャルの知っているニヴィと明らかに違う温厚な雰囲気に、ますます疎外感を覚える。対するベアルドルフは、先ほどよりも覇気のない態度で首を横に振った。
 
『……お前はハウラの面倒を見てやれ。ミカルラのように暴走しないとも限らん』
『いいえ。私は……』


 
『――私は母の仇を討ちます』



 強い覚悟に裏打ちされた、力強い声が告げる。
 
『私の『支配』の力を使えば、スタンピードに利用されたドラゴンたちの菌糸から黒幕の足跡を辿れるでしょう。二度とNoDがこのようなことに利用されないよう、私が根元から悪を絶ちます』

 シャルは砂の上に座り込んだままニヴィを見上げた。そこには、他人を不幸に陥れて愉悦に耽る悪女はいない。愛する者を守るために自ら茨の道を突き進む聖女がいた。

 ベアルドルフはニヴィの赤い瞳を懐かしそうに見つめた後、すぐに睨みつけるような恐ろし気な表情になった。

『単独で牙城に攻め入るか。無謀だ』
『次に狙われるのは、お母様の実子であるハウラです。あの子が利用されるぐらいならば、私が一矢報います』
『貴様が生き永らえなければできぬこともあるはずだ!』
『近くにいるだけでは、守れないものもあるのです!』

 怒鳴りつけるベアルドルフに負けじとニヴィは反駁する。その途中で冷静さを取り戻し、深呼吸を挟んでから痛みを堪えるように言った。

『……貴方だってそうでしょう? シャルがいながら故郷を捨てようとしている貴方に、私を止める権利があるとでも?』
『……ふん、怒り方まで母親に似たな』
『今、それを言わないでください』

 ニヴィは狼狽えながら顔を背けると、そのままベアルドルフに背を向けてミカルラの遺体に向き直った。血を吸った砂を厭わずに膝をつき、両手を顔の前で組み合わせて黙祷を捧げる。ベアルドルフもその隣に膝をつき、ニヴィに倣うように両手を合わせた。

 それから数十秒か、数分は経ったか。砂浜を照らしていた夕暮れが山に隠れ、一気に夜の気配が忍び寄ってきた。暗く命の息吹が掻き消えた砂浜は息が詰まるほど静まり返っており、シャルは二人の隣に並びながら小さく身を震わせた。

 祈りが終わった後、ニヴィは白い睫毛の隙間から潤んだ瞳を覗かせ、思い出話でもするように言った。
 
『私やベアルドルフ様がいなくとも、貴方の友人がきっとハウラとシャルを守ってくださる。だから安心して背中を任せられますね』
『それは、ミカルラの受け売りだな』
『ええ。信じるとは、対等に背中を合わせられるということですから』

 遠のいていた潮騒が、穏やかな風と共に二人の元へ辿り着く。それらは砂浜を汚す死臭を僅かに遠ざけ、壮絶な死を遂げた人々の魂を慰めるように空へ還っていった。

 透き通るほど冷たい風を見上げながら、シャルは自然と涙を流していた。ベアルドルフはニヴィからも、親衛隊からも尊敬されているらしかった。信頼を寄せあう二人の姿を見ているうちに、シャルの中で膨れ上がっていた憎しみは底の抜けたバケツのように流れ落ちて、後には無力感しか残されていない。

 シャルの隣でニヴィが真っすぐと立ち上がった。そして砂浜を一歩一歩踏みしめるようにしてミカルラの遺体から遠ざかっていく。だがその途中でニヴィは足を止めると、肩越しにベアルドルフを振り返った。
 
『私、幸せでした。これ以上の幸せは、ハウラに譲ります』
『……別れは言わんぞ』
『母の言っていた通り、貴方は本当に頑固な人ですね。娘から嫌われる前に治した方がいいですよ。部下からの忠告です』

 ニヴィは目礼した後、涙の雫を散らしながらベアルドルフに微笑んだ。
 
『さようなら、ベアルドルフ様』

 その瞬間、シャルは足元から吸い込まれるように意識が遠のいていった。お淑やかで慈愛に満ちたニヴィの笑みが闇に溶け、砂の感触や夜気、潮の匂いまでもが奪い去られ、最後に音が消えた。



 ──気づけばシャルは、身体も動かせない暗闇の中にいた。背中と足には腕が通されて、誰かに横抱きにされている。滅びたヨルドの里に来る前と同じ、囚われの自分の身体に戻ってきた。

「……無理よ。殺せるわけない」

 葛藤で激しく震えるニヴィの声が聞こえる。先ほど見た光景は、もしかしたらニヴィの魂に刻み込まれた記憶だったのだろうか。意識と五感だけが残された状態だというのに、シャルはもう恐怖することはなかった。少し前までは死を覚悟していたのに、むしろ安心して身を委ねることができた。

 ふと、ニヴィの進行方向に強いプレッシャーを感じた。

「――っ」

 ニヴィが息を呑んだと思いきや、シャルの喉にさっと手を当てられ一瞬の喪失感に襲われる。『支配』で喉の菌糸を殺されたのだとシャルはすぐに察した。菌糸を失った喉は運動能力を失い、じわじわと呼吸器官が止まっていく。しかし不思議と苦しくない。肺の中で何かが空気を生み出し、血の流れが正常になるように操っているようだった。

 他人に命を握られている状況であっても、シャルの内心は凪いでいた。だが、触れ合う肌から伝わってくるニヴィの緊張で、自然と脈が速くなった。

「ニヴィ。魂の一族の末裔、ちゃんと殺した?」

 聞き覚えのない、美しすぎるあまりに人間味のない女の声がした。直感的に、これは死体の声だと悟った。ニヴィの声も複数の人間が混ざり合った様な不気味さを感じるときがあるが、この女は別格だ。死体に薄っぺらな魂が入って人間のフリをしている。

 もしシャルの身体に少しでも自由が利いていたら、ニヴィに縋りついていただろう。それを察したわけではないだろうが、ニヴィの腕に力がこもり抱き寄せられた。

「――ええ。もう死んでいるわ」

 命の籠った、優しい嘘の声がした。
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