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4章
(1)生還
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力を入れているつもりなのに、足は操り人形のようにふらふらとしている。意識もはっきりしているつもりが、瞬きをした間に景色がガラリと変わっている。
自覚できないほど細切れになった意識は、自我だけではとても抑えきれるものでなく、俺は何度もアンリの肩からずり落ちそうになった。
「リョーホしゃきっとしろ。もうすぐで帰れるから」
「悪い。なんか、疲れすぎて能力も出せなくて……」
俺の人生の中で、誰かに肩を貸してもらわなければ歩けなくなるまで疲れたことは一度もなかった。『雷光』の力ならばどんな疲労感も吹き飛ばせるはずなのに、今は全く効果がない。ヤツカバネのブレスで菌糸がやられてしまったのか、無限と思われた『雷光』にも限界があっただけか定かではない。少なくとも、今の俺は異世界に来たばかりのように無能力な人間だった。
とはいえ、ただの人間と化しているのは俺だけではない。カーヌマやエトロ、まだ年若い守護狩人はベテラン狩人たちに担がれている。むしろ、ベテラン狩人たちはなんで自力で歩けるのだろうか。特に、つい数十分前まで瀕死だったミッサは、レブナと仲良く会話しながら今日の戦利品を山のように担いで歩いていた。
ヤツカバネ討伐で得られた戦利品は、暴走状態が長引いたせいで、ほとんどが土塊と化して消えてしまっていた。俺としてはハインキーの魂を取り返せたので、素材を得られなくとも構わなかったのだが、討伐のために集まった狩人たちはそうはいかない。なので、自分で歩ける気力のある狩人たちが、手分けして戦利品を担いで帰路についていた。討伐隊結成時の約束通り、今回得られた戦利品は、全員で山分けする手筈になっている。
俺たちが手に入れた部位は、心臓とその周辺の骨、眼球と、鋭い牙のみだ。足の爪や鱗などは残っていれば強力な装備の材料になったのだが、毒煙で溶かされてしまったのですべて使い物にならなかった。
明らかに命懸けの討伐と戦果が釣り合っていないが、帰路に着く狩人たちの表情は誇らしげだ。夕暮れ時の日差しを浴びながら談笑する彼らは、なんとなく文化祭終わりの学生とよく似ている気がした。
鬱蒼とした高冠樹海を歩き続け、数分後。
討伐隊の帰還を告げる鐘楼の音色が、渓谷の手前から高らかに鳴り響く。遅れて、バルド村の見張りをしていた守護狩人たちが慌ただしく駆けつけ、戦士たちを歓声と抱擁で出迎えた。
守護狩人たちに連れられながら鐘楼の元まで凱旋すると、渓谷の底から清らかな川のせせらぎが聞こえてきた。俺にとってはすっかり故郷の定番となった川の音は、戦闘で昂った気持ちを緩やかに鎮め、強張っていた表情まであっという間にほぐしていった。
「やっと……帰ってきたんだ……」
鐘楼傍の階段から見下ろすバルド村はとても長閑だった。俺たちの帰還の知らせを聞いて、村人たちが階段から急いで駆け上がってくるのが見え、俺の胸がぎゅっと切なくなった。
「ほら、ギルドでみんなが待ってるよ」
息を詰めた俺がまた寝たと思ったのか、アンリはぐらぐらと俺の頭を軽く揺すった。
「ああ……もう少しだけ肩を貸してくれ」
「はいはい」
アンリに体重を預けながら、俺はため息のような吐息を吐いた。
人員も足りず、イレギュラーのせいで絶望的と思われたヤツカバネ討伐は無事に終わった。しかし、犠牲がなかったわけではない。
ヤツカバネの逆鱗の咆哮から俺たちを庇ったせいで頭部を損失したドミラスは、討伐を終えてもなお意識が戻らなかった。俺の治療は完ぺきだったし、失われていた体温も戻っているため、ドミラスの肉体はすでに生き返っている。ベートを拘束する『傀儡』の糸もいまだ健在のため、魂も戻ってくる余地があるはずだ。
それでもドミラスは目覚めない。であれば、ハインキーも無事に目覚めるとは限らなかった。もしかしたら、二人とも植物状態のまま二度と起きてくれないかもしれない。そのような最悪の可能性を考えると、ギルドで帰りを待っているアメリアに会うのが恐ろしくなった。
大事な人たちの存命が不確かだというのに、ベートはあの戦いの後でもピンピンしていた。戦闘の余波で多少皮膚が焼けたり足が消えたりしたらしいが、ベートのトカゲじみた再生能力の前では、その程度の傷は何ら問題がなかった。アークが回収に向かった時も、ベートは芋虫のように地べたに転がりながらヘラヘラと笑っていたそうだ。
そんなベートも、今はアークに大人しく担がれている。ミッサやレブナが話しかけても無反応で、ゼンはベートの顔すら見たくないと言わんばかりに背を向けていた。
ゼンとベートは、おそらくノクタヴィスで面識があったのだろう。二人の事情を知っているらしいミッサも、バルド村に帰ってからより一層ベートに殺意を向けていた。
殺伐とした事情と、それを知らぬ狩人たちの誇らしげな雰囲気が入り混じる中、俺たちは鐘楼の下のギルドに足を踏み入れた。
すると、受付のカウンターから亜麻色のショートボブが、ふわりと羽のように広がりながら飛び込んできた。
「カーくん! おかえりなさい!」
「アメリア!」
赤いドレッドヘアーの青年が、膝を曲げるようにして柔らかく受け止める。アメリアは涙を散らしながらカーヌマの肩口に顔を埋めると、声をくぐもらせながら泣きじゃくった。
「よかった……凄い音がして、樹海が燃えてたから何かあったんじゃないかって……ずっと心配だったの……!」
高冠樹海の火事の煙も、ヤツカバネのけたたましい叫び声も、崖上からほど近いギルドに全て伝わっていたのだろう。戦う力のないアメリアは、村から飛び出すこともできず幼馴染の無事を祈ることしかできなかった。こうしてカーヌマが帰ってくるまで、死んでしまったんじゃないかと不安だったに違いない。
カーヌマはぎゅっと唇を丸めて目に涙を溜めると、アメリアの後頭部を撫でながら戦慄くように言った。
「心配かけてごめん。もう大丈夫だから。全部、みんなで終わらせてきたよ」
「うん……うん! おかえり!」
「ただいま。アメリア……ただいま!」
ぎゅっと抱きしめ返す二人につられて、狩人たちの間から小さく鼻を啜る音がした。俺も一度殺されかけたカーヌマを目の当たりにしていたので、二人の安心し切った泣き笑いで胸がいっぱいになる。
しばらく二人の姿を見守っていると、湿っぽい空気を拭き消すようにミッサが声を張った。
「さて、わたしらは先にこの女を地下牢にぶち込んでくるよ。ついでにハインキーの顔も拝んどかないとね!」
「わ、私も行きます!」
アメリアは慌てて声を上げ、それからようやく狩人たちの注目を一心に浴びていることに気づいたようだ。顔を真っ赤にしながらアメリアがカーヌマの胸の中に隠れたところで、ヤツカバネの素材を担いだ男たちがわざとらしくドヤドヤとギルドの奥へと入っていく。アメリアは地元の狩人にとってはアイドルのような存在なので、彼女に向けられる生温かい視線もひとしおだった。
一つ一つが巨大なヤツカバネの素材が山のように積み上がっていくのを眺めながら、俺はレブナの方へと声をかけた。
「レブナ。悪いんだが、俺もハインキーさんの様子を見に行きたいんだ。素材の山分けとか報酬は任せていいか? 手数料は俺の持分全部で頼む」
「え!? いいの!? にゃはー! わたしったら信用されてるねー!」
報酬の分配役は、優先的に欲しい素材を得られる得役でもある。レブナは目を輝かせながら俺の申し出を快諾した後、バチッとウィンクしながらサムズアップした。
「心配しなくても、手数料なんて水臭いものいらないよ! 早く行ってきな!」
「ああ、ありがとう!」
俺はレブナに大きく手を振りながら、アンリたちより少し遅れてギルドの外に出た。疲労が残っているせいでまだ足はふらついているが、階段を降りれないほどではない。一つの重荷が抜けたからか、帰還途中よりも意識ははっきりしていた。
それでも階段の上で気を失ったら流石に死にかねないため、俺は手摺に寄りかかるようにしつつ、一歩一歩確かめるように最下層に向けて下っていった。
歩みが遅い俺は、どんどんとアンリたちから置いていかれる。一つ下の階段越しに、狩人に背負われたドミラスの後頭部が揺れているのが見えた。
誰も死なせないという約束でヤツカバネ討伐をしたというのに、目覚めぬ人がいるのなら死人が出たのと同じ。ハインキーもドミラスも目覚めなかったら、俺は今日の選択を毎日悔いるだろう。
ハインキーは、俺にとって頼れる先輩狩人であり、親戚や家族のような拠り所だった。異世界に来る前の俺は、一人暮らしに憧れても実行に移せるような殊勝な人間ではなかったし、親離れもできない子供だった。そんな中、いきなり故郷と無縁の土地に放り出され、明日の暮らしも想像できない過酷な世界で暮らさなければならなくなった。
あの時の俺は、死んだ方がマシなんじゃないかと本気で思うほど、異世界の孤独に追い詰められていた。それでもこうして狩人になって、生き抜く術を身につけられたのは、ハインキーのおかげでもあった。
ハインキーは、アパートのご近所に住んでいるからとか、アメリアと歳が近いからとか、色々な理由をつけて何かと俺に構ってくれた。家族が恋しかった俺は、時々お呼ばれされるハインキー家の食卓が眩しくて仕方がなかった。俺はさながら、死にかけの虫が光を求めるようにハインキーとアメリアに近づいたが、二人は嫌な顔をするどころか受け入れてくれた。その優しさのおかげで生きてこられたのだから、今では彼らに並々ならない恩義を感じている。
だから、ハインキー達のような家族にこそ幸せになってほしいと、心の底から願っている。こんなところで死んでいい人ではない。
そう願っていても、俺はとっくの昔に現実の無情さを思い知っていた。ドラマや映画のような奇跡は、脚本だから起きること。現実ではどう足掻いても手の施しようがない状況に簡単に陥ってしまう。
現代日本でも、植物状態になった人間の完璧な治療法は確立されていない。まして医学に関してど素人の俺が、ハインキーたちにできることなんて皆無に等しい。『雷光』の治癒能力は万能だが、病を治す類いの力ではないと頭では理解しているものの、一番欲しいところに手が届かないのが歯痒くて仕方がなかった。
考え事をしていたせいか、一段下に下ろしたはずの足が虚空を滑った。
「うわっ……」
がくん、と一気に身体が落ち、俺は反射的に目を瞑る。すると後ろから腕を掴まれ、前のめりに転がり落ちそうだった身体がギリギリのところで支えられた。
どっと冷や汗を流しながら振り返ると、紫色の菌糸を光らせながら俺の左腕を掴む小さな手があった。
「シャル? 先に行ったんじゃなかったのか?」
シャルはふるふると首を横に振って、俺の左腕をギュッと全身で抱きしめるようにした。
「はは、お前ってほんと可愛いやつだな。ありがとう」
コアラのようなシャルの姿に俺は笑った後、彼女の桃色の髪を撫でてから再び階段を降り始めた。
俺とシャルの関係は、いつのまにか傷を舐め合う野良猫のようになりつつあった。互いに帰る場所がなく、家族と離れ離れのあぶれ者同士で、片方が気落ちしていると、もう片方が自然と寄り添うのが当たり前になった。
最初に俺がシャルを引き取ろうと思ったのも、きっと無意識に同類だと嗅ぎ付けていたからだろう。シャルは育ててくれた祖父に置いていかれ、俺は異世界に来てしまったせいで家族と離れ離れだ。
自分の傷を癒すためにシャルを利用している罪悪感があるが、多少の悪戯や悪口を言われても許せるぐらいには、俺はシャルを妹のように愛している。俺の自惚でなければ、シャルも同居人という枠を超えて俺を兄のように慕ってくれている気がした。
シャルが隣にいるだけで、危なっかしかった俺の足取りが毅然としたものになる。アンリたちは随分先まで降りてしまったが、今のペースなら二、三分遅刻するだけで済むだろう。
最下層までの道はまだまだ遠かった。道中、ギルドに向かっている途中の村人たちと何度かすれ違い、温かい言葉をたくさん投げてもらった。
おかえり。
無事でよかった。
無理してない?
後でお祝いしよう。
形を変えて降り注ぐ言葉は、異世界人という差別感が全くなく、俺は誰かとすれ違うたびに涙を堪えなければならなかった。
『なきそう?』
すっと横から差し出されたシャルの拙い文章に、俺は口角を引くように笑った。
「泣かねーよ、こんなことで」
『きょうだけでへとへとじゃ 先がおもいやられるし』
「えー、俺めっちゃ頑張ったぞ?」
『オレはもっとがんばった!』
デカデカとページ一面に書かれたシャルの文字は、心なしか自慢げに見えた。バルド村に来たばかりのシャルは借りてきた猫のようにお行儀が良かったのに、ようやく本調子になってきたのかもしれない。俺は些細なシャルの成長をしみじみと感じながら、褒めろと言わんばかりに頭を押し付けてくるシャルに軽くヘッドロックを決めた。
腕の中でバタバタ暴れながら、シャルは楽しそうに声もなく笑っている。何も考えていなそうな彼女の顔を見ていると、ハインキーに会うだけなのに怖気付いている自分がバカらしくなってきた。
ハインキーが目覚めていなかったら、起きるまでみんなで待てばいいだけだ。俺にはもう帰る場所があるのだから、明日一人で死ぬかもしれないと焦る必要はない。
「さっさと降りて、ハインキーさんの顔を見に行くか」
ほとんど独り言のような決意表明に、シャルは不思議そうに首を傾げてから大きく頷いた。
自覚できないほど細切れになった意識は、自我だけではとても抑えきれるものでなく、俺は何度もアンリの肩からずり落ちそうになった。
「リョーホしゃきっとしろ。もうすぐで帰れるから」
「悪い。なんか、疲れすぎて能力も出せなくて……」
俺の人生の中で、誰かに肩を貸してもらわなければ歩けなくなるまで疲れたことは一度もなかった。『雷光』の力ならばどんな疲労感も吹き飛ばせるはずなのに、今は全く効果がない。ヤツカバネのブレスで菌糸がやられてしまったのか、無限と思われた『雷光』にも限界があっただけか定かではない。少なくとも、今の俺は異世界に来たばかりのように無能力な人間だった。
とはいえ、ただの人間と化しているのは俺だけではない。カーヌマやエトロ、まだ年若い守護狩人はベテラン狩人たちに担がれている。むしろ、ベテラン狩人たちはなんで自力で歩けるのだろうか。特に、つい数十分前まで瀕死だったミッサは、レブナと仲良く会話しながら今日の戦利品を山のように担いで歩いていた。
ヤツカバネ討伐で得られた戦利品は、暴走状態が長引いたせいで、ほとんどが土塊と化して消えてしまっていた。俺としてはハインキーの魂を取り返せたので、素材を得られなくとも構わなかったのだが、討伐のために集まった狩人たちはそうはいかない。なので、自分で歩ける気力のある狩人たちが、手分けして戦利品を担いで帰路についていた。討伐隊結成時の約束通り、今回得られた戦利品は、全員で山分けする手筈になっている。
俺たちが手に入れた部位は、心臓とその周辺の骨、眼球と、鋭い牙のみだ。足の爪や鱗などは残っていれば強力な装備の材料になったのだが、毒煙で溶かされてしまったのですべて使い物にならなかった。
明らかに命懸けの討伐と戦果が釣り合っていないが、帰路に着く狩人たちの表情は誇らしげだ。夕暮れ時の日差しを浴びながら談笑する彼らは、なんとなく文化祭終わりの学生とよく似ている気がした。
鬱蒼とした高冠樹海を歩き続け、数分後。
討伐隊の帰還を告げる鐘楼の音色が、渓谷の手前から高らかに鳴り響く。遅れて、バルド村の見張りをしていた守護狩人たちが慌ただしく駆けつけ、戦士たちを歓声と抱擁で出迎えた。
守護狩人たちに連れられながら鐘楼の元まで凱旋すると、渓谷の底から清らかな川のせせらぎが聞こえてきた。俺にとってはすっかり故郷の定番となった川の音は、戦闘で昂った気持ちを緩やかに鎮め、強張っていた表情まであっという間にほぐしていった。
「やっと……帰ってきたんだ……」
鐘楼傍の階段から見下ろすバルド村はとても長閑だった。俺たちの帰還の知らせを聞いて、村人たちが階段から急いで駆け上がってくるのが見え、俺の胸がぎゅっと切なくなった。
「ほら、ギルドでみんなが待ってるよ」
息を詰めた俺がまた寝たと思ったのか、アンリはぐらぐらと俺の頭を軽く揺すった。
「ああ……もう少しだけ肩を貸してくれ」
「はいはい」
アンリに体重を預けながら、俺はため息のような吐息を吐いた。
人員も足りず、イレギュラーのせいで絶望的と思われたヤツカバネ討伐は無事に終わった。しかし、犠牲がなかったわけではない。
ヤツカバネの逆鱗の咆哮から俺たちを庇ったせいで頭部を損失したドミラスは、討伐を終えてもなお意識が戻らなかった。俺の治療は完ぺきだったし、失われていた体温も戻っているため、ドミラスの肉体はすでに生き返っている。ベートを拘束する『傀儡』の糸もいまだ健在のため、魂も戻ってくる余地があるはずだ。
それでもドミラスは目覚めない。であれば、ハインキーも無事に目覚めるとは限らなかった。もしかしたら、二人とも植物状態のまま二度と起きてくれないかもしれない。そのような最悪の可能性を考えると、ギルドで帰りを待っているアメリアに会うのが恐ろしくなった。
大事な人たちの存命が不確かだというのに、ベートはあの戦いの後でもピンピンしていた。戦闘の余波で多少皮膚が焼けたり足が消えたりしたらしいが、ベートのトカゲじみた再生能力の前では、その程度の傷は何ら問題がなかった。アークが回収に向かった時も、ベートは芋虫のように地べたに転がりながらヘラヘラと笑っていたそうだ。
そんなベートも、今はアークに大人しく担がれている。ミッサやレブナが話しかけても無反応で、ゼンはベートの顔すら見たくないと言わんばかりに背を向けていた。
ゼンとベートは、おそらくノクタヴィスで面識があったのだろう。二人の事情を知っているらしいミッサも、バルド村に帰ってからより一層ベートに殺意を向けていた。
殺伐とした事情と、それを知らぬ狩人たちの誇らしげな雰囲気が入り混じる中、俺たちは鐘楼の下のギルドに足を踏み入れた。
すると、受付のカウンターから亜麻色のショートボブが、ふわりと羽のように広がりながら飛び込んできた。
「カーくん! おかえりなさい!」
「アメリア!」
赤いドレッドヘアーの青年が、膝を曲げるようにして柔らかく受け止める。アメリアは涙を散らしながらカーヌマの肩口に顔を埋めると、声をくぐもらせながら泣きじゃくった。
「よかった……凄い音がして、樹海が燃えてたから何かあったんじゃないかって……ずっと心配だったの……!」
高冠樹海の火事の煙も、ヤツカバネのけたたましい叫び声も、崖上からほど近いギルドに全て伝わっていたのだろう。戦う力のないアメリアは、村から飛び出すこともできず幼馴染の無事を祈ることしかできなかった。こうしてカーヌマが帰ってくるまで、死んでしまったんじゃないかと不安だったに違いない。
カーヌマはぎゅっと唇を丸めて目に涙を溜めると、アメリアの後頭部を撫でながら戦慄くように言った。
「心配かけてごめん。もう大丈夫だから。全部、みんなで終わらせてきたよ」
「うん……うん! おかえり!」
「ただいま。アメリア……ただいま!」
ぎゅっと抱きしめ返す二人につられて、狩人たちの間から小さく鼻を啜る音がした。俺も一度殺されかけたカーヌマを目の当たりにしていたので、二人の安心し切った泣き笑いで胸がいっぱいになる。
しばらく二人の姿を見守っていると、湿っぽい空気を拭き消すようにミッサが声を張った。
「さて、わたしらは先にこの女を地下牢にぶち込んでくるよ。ついでにハインキーの顔も拝んどかないとね!」
「わ、私も行きます!」
アメリアは慌てて声を上げ、それからようやく狩人たちの注目を一心に浴びていることに気づいたようだ。顔を真っ赤にしながらアメリアがカーヌマの胸の中に隠れたところで、ヤツカバネの素材を担いだ男たちがわざとらしくドヤドヤとギルドの奥へと入っていく。アメリアは地元の狩人にとってはアイドルのような存在なので、彼女に向けられる生温かい視線もひとしおだった。
一つ一つが巨大なヤツカバネの素材が山のように積み上がっていくのを眺めながら、俺はレブナの方へと声をかけた。
「レブナ。悪いんだが、俺もハインキーさんの様子を見に行きたいんだ。素材の山分けとか報酬は任せていいか? 手数料は俺の持分全部で頼む」
「え!? いいの!? にゃはー! わたしったら信用されてるねー!」
報酬の分配役は、優先的に欲しい素材を得られる得役でもある。レブナは目を輝かせながら俺の申し出を快諾した後、バチッとウィンクしながらサムズアップした。
「心配しなくても、手数料なんて水臭いものいらないよ! 早く行ってきな!」
「ああ、ありがとう!」
俺はレブナに大きく手を振りながら、アンリたちより少し遅れてギルドの外に出た。疲労が残っているせいでまだ足はふらついているが、階段を降りれないほどではない。一つの重荷が抜けたからか、帰還途中よりも意識ははっきりしていた。
それでも階段の上で気を失ったら流石に死にかねないため、俺は手摺に寄りかかるようにしつつ、一歩一歩確かめるように最下層に向けて下っていった。
歩みが遅い俺は、どんどんとアンリたちから置いていかれる。一つ下の階段越しに、狩人に背負われたドミラスの後頭部が揺れているのが見えた。
誰も死なせないという約束でヤツカバネ討伐をしたというのに、目覚めぬ人がいるのなら死人が出たのと同じ。ハインキーもドミラスも目覚めなかったら、俺は今日の選択を毎日悔いるだろう。
ハインキーは、俺にとって頼れる先輩狩人であり、親戚や家族のような拠り所だった。異世界に来る前の俺は、一人暮らしに憧れても実行に移せるような殊勝な人間ではなかったし、親離れもできない子供だった。そんな中、いきなり故郷と無縁の土地に放り出され、明日の暮らしも想像できない過酷な世界で暮らさなければならなくなった。
あの時の俺は、死んだ方がマシなんじゃないかと本気で思うほど、異世界の孤独に追い詰められていた。それでもこうして狩人になって、生き抜く術を身につけられたのは、ハインキーのおかげでもあった。
ハインキーは、アパートのご近所に住んでいるからとか、アメリアと歳が近いからとか、色々な理由をつけて何かと俺に構ってくれた。家族が恋しかった俺は、時々お呼ばれされるハインキー家の食卓が眩しくて仕方がなかった。俺はさながら、死にかけの虫が光を求めるようにハインキーとアメリアに近づいたが、二人は嫌な顔をするどころか受け入れてくれた。その優しさのおかげで生きてこられたのだから、今では彼らに並々ならない恩義を感じている。
だから、ハインキー達のような家族にこそ幸せになってほしいと、心の底から願っている。こんなところで死んでいい人ではない。
そう願っていても、俺はとっくの昔に現実の無情さを思い知っていた。ドラマや映画のような奇跡は、脚本だから起きること。現実ではどう足掻いても手の施しようがない状況に簡単に陥ってしまう。
現代日本でも、植物状態になった人間の完璧な治療法は確立されていない。まして医学に関してど素人の俺が、ハインキーたちにできることなんて皆無に等しい。『雷光』の治癒能力は万能だが、病を治す類いの力ではないと頭では理解しているものの、一番欲しいところに手が届かないのが歯痒くて仕方がなかった。
考え事をしていたせいか、一段下に下ろしたはずの足が虚空を滑った。
「うわっ……」
がくん、と一気に身体が落ち、俺は反射的に目を瞑る。すると後ろから腕を掴まれ、前のめりに転がり落ちそうだった身体がギリギリのところで支えられた。
どっと冷や汗を流しながら振り返ると、紫色の菌糸を光らせながら俺の左腕を掴む小さな手があった。
「シャル? 先に行ったんじゃなかったのか?」
シャルはふるふると首を横に振って、俺の左腕をギュッと全身で抱きしめるようにした。
「はは、お前ってほんと可愛いやつだな。ありがとう」
コアラのようなシャルの姿に俺は笑った後、彼女の桃色の髪を撫でてから再び階段を降り始めた。
俺とシャルの関係は、いつのまにか傷を舐め合う野良猫のようになりつつあった。互いに帰る場所がなく、家族と離れ離れのあぶれ者同士で、片方が気落ちしていると、もう片方が自然と寄り添うのが当たり前になった。
最初に俺がシャルを引き取ろうと思ったのも、きっと無意識に同類だと嗅ぎ付けていたからだろう。シャルは育ててくれた祖父に置いていかれ、俺は異世界に来てしまったせいで家族と離れ離れだ。
自分の傷を癒すためにシャルを利用している罪悪感があるが、多少の悪戯や悪口を言われても許せるぐらいには、俺はシャルを妹のように愛している。俺の自惚でなければ、シャルも同居人という枠を超えて俺を兄のように慕ってくれている気がした。
シャルが隣にいるだけで、危なっかしかった俺の足取りが毅然としたものになる。アンリたちは随分先まで降りてしまったが、今のペースなら二、三分遅刻するだけで済むだろう。
最下層までの道はまだまだ遠かった。道中、ギルドに向かっている途中の村人たちと何度かすれ違い、温かい言葉をたくさん投げてもらった。
おかえり。
無事でよかった。
無理してない?
後でお祝いしよう。
形を変えて降り注ぐ言葉は、異世界人という差別感が全くなく、俺は誰かとすれ違うたびに涙を堪えなければならなかった。
『なきそう?』
すっと横から差し出されたシャルの拙い文章に、俺は口角を引くように笑った。
「泣かねーよ、こんなことで」
『きょうだけでへとへとじゃ 先がおもいやられるし』
「えー、俺めっちゃ頑張ったぞ?」
『オレはもっとがんばった!』
デカデカとページ一面に書かれたシャルの文字は、心なしか自慢げに見えた。バルド村に来たばかりのシャルは借りてきた猫のようにお行儀が良かったのに、ようやく本調子になってきたのかもしれない。俺は些細なシャルの成長をしみじみと感じながら、褒めろと言わんばかりに頭を押し付けてくるシャルに軽くヘッドロックを決めた。
腕の中でバタバタ暴れながら、シャルは楽しそうに声もなく笑っている。何も考えていなそうな彼女の顔を見ていると、ハインキーに会うだけなのに怖気付いている自分がバカらしくなってきた。
ハインキーが目覚めていなかったら、起きるまでみんなで待てばいいだけだ。俺にはもう帰る場所があるのだから、明日一人で死ぬかもしれないと焦る必要はない。
「さっさと降りて、ハインキーさんの顔を見に行くか」
ほとんど独り言のような決意表明に、シャルは不思議そうに首を傾げてから大きく頷いた。
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