28 / 232
2章
ある少女の過去 1
しおりを挟む
まだ一歳のころ、シャルは父親に捨てられた。
彼女の面倒を見てくれたのはダウバリフだけで、母親も兄弟も、親戚すらいなかった。
物心ついた時から、シャルを取り巻くのは古い石造りの家と、物々しい武器と、血の匂いばかりだった。ドラゴンは出会ってすぐに殺してしまうし、動物は血の匂いをまき散らすシャルに怯えてすぐに逃げてしまう。唯一生きているもので触れるのは、無口ですぐに怒り出す恐ろしい老人だけだった。
時々里に下りて、大勢の人々の傍を通り過ぎる機会はあった。
だが誰もシャルに触れようとはしなかった。
シャルの瞳は父親と良く似ているらしく、その目でエラムラの人々を見つめると誰もが目を背け、忌々し気に眉をひそめた。
どうして誰も自分の事を見てくれないのか。
ダウバリフに尋ねても、帰ってくるのは怒鳴り声だけだ。
言葉を認識するよりも、怒られたという衝撃のせいでシャルには何も伝わらない。
父の話。自分の話。ともかくシャルに関係のある事を話題にすれば、ダウバルフは恐ろしい剣幕でシャルにつかみかかった。ひとしきり大声を出して、それでも気が済まない時は家の裏手にある倉庫にシャルを閉じ込めた。
次第にシャルは、自分が孤独な理由を聞くのを恐れた。
下手なことを言ってダウバリフを怒らせぬよう、できるだけ喋らないように生きることにした。
ドラゴンの死体を持ち帰るだけで、ダウバリフはほんの少しだけ機嫌が良くなった。
料理を作ってあげれば、荷物を持ってあげれば、ダウバルフの怒りが収まっていくのを肌で感じた。それでも、毎日ダウバルフのために心を砕くと、だんだんと彼の機嫌を取るのが難しくなる。だからダウバリフの役に立てる新しい事を次から次に探さなければならない。
シャルは乾いてひび割れていく自分の中身を潤してやるために、ほぼ毎日ドラゴンの死体を持ってくることにした。大きければ大きいほど、苦労するほど強いドラゴンほどダウバリフの機嫌がよくなる。笑みの一つでも目にできれば、シャルは強張った体をようやく解すことができた。
ラビルナ貝高原と英雄の丘の境にある、エラムラ山道の荒野でのこと。
そこでシャルは、同い年ぐらいの子供がドラゴンに襲われているのを見つけた。採集の帰り道で襲撃されたらしく、子供の周りにはドラゴンに食い殺された人間の死体が散らばっていた。シャルはそれを事務的に確認しながら、今まさに子供を噛み砕かんとするドラゴンへと殴りかかった。
武器すら買い与えられていないシャルの武器は、自分の肉体と菌糸能力だけだ。シャルの腕には常人の五倍の菌糸が織り込まれているため、素手で打撃を生み出しても無傷でいられる。
重力操作で何倍にも重くし加速をつけたシャルの鉄拳は、跡形もなくドラゴンの骨肉を粉砕した。
血の雨が降る中、シャルは子供を見下ろした。
子供は黒い髪で、特徴があまりない顔をしていた。髪が短かったので気づくのが遅れたが女の子だったらしい。彼女の傍には納品用鞄が落ちており、中から鉱物の破片が零れ落ちていた。
「どうして……」
黒髪の少女はシャルの紫色の瞳に怯えながら、激しい怒りで全身を戦慄かせた。
「なんでもっと早く来てくれなかったの!? みんな死んじゃったし! アンタのせいでいなくなっちゃった! アンタが死ねばよかったのに! なんでよ! どうしてよぉ!」
ダウバルフとの会話を放棄していたシャルは、当時彼女が喚き散らす言葉をうまく理解できなかった。
辛うじて、自分のせいで彼女を泣かせてしまったのだと理解した。
だから、ダウバルフに怒られたときと同じように、頭を下げて小さく謝った。
「ごめん……ナサイ……」
悪いことをしたらこうしなさい、と教わった。
それ以外にどうしたらいいのか、シャルは誰にも教えてもらっていない。
少女は憎しみを剥き出しにしたまま中途半端に目を見開いた。
そして、立ち上がりざまにシャルの顔目掛けて何かを投げてきた。
「謝ったって、しょうがないじゃない! ふざけないで! アンタなんか消えちゃえ!」
飛んできた固いものがシャルの額を切る。少女が投げつけてきたのは、採集で使う泥だらけの小さなナイフだった。はらりと前髪が落ちて、目の片方だけ視野が開ける。しばらくすると眉毛の上を添うように血が流れて、やがて片目をふさいだ。
少女は全く動じないシャルに引き攣った悲鳴を上げると、手足をばたつかせるようにして逃げ出した。滅茶苦茶な走り方をする少女は何度も転びかけて、泣き叫びながら里に続く岩山を下っていった。
少女の後ろ姿が見えなくなった後、シャルは放置された人間の死体へ意識を向けた。
手足の長さからして、殺されたのは自分と同じ子供だ。
エラムラの里に住む子供たちは、よく列になって採集任務をこなしに出歩いていた。だからこの五人の死体も、子供隊列の成れの果てだろう。
羨ましいと思っていた隊列がこうして無残な遺体となっているのを見て、シャルはその場から動くことができなかった。人間の死体を目にするのは初めてで、見ているだけで目の奥が痛くなり、胸が苦しくなる。
離れてしまいたい。家に帰って藁のベッドの上で眠って、今日のことを忘れてしまいたかった。しかしそれと同じぐらいに、動かなくなった子供たちに何かしてやれることがないかと、言葉にしがたい複雑な思いが溢れていた。
数十分、下手をすると一時間近くシャルはそこに留まった。
すると、血の匂いに釣られてきたドラゴンが山道の向こうからのそのそと近づいてきた。無数の針状の岩を背負っている、カエルの形をしたドドックスだった。
ドドックスは死体を見つけるなり、長い舌でドラゴンの肉片を食らった。それから、前菜のように散らばった子供の死体も絡めとって口に含んだ。
その瞬間、シャルは無意識に走り出していた。
何も考えていなかった。
多くの言葉を持ちえないシャルならではの、言語化する必要のない情動が小さな身体を突き動かしたのだ。
次に瞬きをした時には、ドドックスはひしゃげて動かなくなっていた。
数分もしないうちに、新たな死体に釣られて別のドドックスが近づいてくる。
シャルはドラゴンの胃袋から子供の死体を取り返し、他の子供たちと同じ場所に並べてから、再び疾駆した。
殺せば殺すほど、山道にドラゴンの新鮮な血が流れていく。血の匂いに引かれて、一匹ずつだったドラゴンの来襲が、二匹、三匹と数を増やしていった。
やがて雨が降り始め、エラムラの里に続く道に真っ赤な川が流れだした。
もうすぐ夜になる。
明かりの乏しい山道はあっという間に真っ暗になり、ドドックスとの距離感や輪郭が曖昧になっていく。無傷だったシャルの身体にもドドックスたちの攻撃が届くようになり、徐々に彼女は追い詰められていった。
初めて自分が狩られる側になると思った。
幼いころから狩人だったシャルだからこそ、死の匂いには敏感だった。自分の掌の向こうで停止する肉の感覚がいざ自分に訪れると思うと急に夜の訪れが恐ろしくなる。
死ねば、眼球から光が消えてみるみる表面が乾いていく。口の中からは血と腐った匂いが流れ始めて、虫と菌糸に食われてぼろぼろと崩れて、跡形もなくなっていく。殺された子供たちと同じように、シャルの小さな体はドラゴンの剛腕によってバラバラにされるのだ。
周囲が暗くなればなるほど、シャルの脳裏では嫌な想像が肥大化していった。
完全に夜のとばりが落ちた。
恐怖と焦燥に駆られてシャルが精彩を欠いた瞬間、背中にドドックスの舌が叩きつけられた。
激しく地面を転がり、湿った何かにぶつかって止まる。目を凝らしてみると、脇に避けておいた子供の死体だった。雨のせいですっかり血を失って冷たくなっている。
その近くでは黒髪の少女が置いていった納品用鞄があった。鞄から零れ落ちた鉱物が、暗い中でも微かな光を吸って瞬いているのが見え、無意識に謝罪が漏れ出た。
「……ごめん……なさい……」
シャルはしびれて言うことをきかない腕で、無理やり身体を起こした。
間髪入れず、シャルの首にドドックスの舌が絡まり気道を締め上げた。上では別のドドックスが不気味な笑い声をあげて、シャルを押しつぶさんと落下してくる風音がする。
避けようともがくが、冷たい雨粒が衣服を濡らして重く圧し掛かって動きが鈍る。身体の芯もすっかり冷え切っており、長時間の戦いで磨り減った小さな闘志の炎が、この瞬間でついに消え失せた。
愛されていない。
ダウバリフは常にシャルを邪険にしていた。
何をしても褒めてくれることはなく、一番聞いた声は怒鳴り声だけ。
数少ない優しい声色も自分に向けられたものではないような気がした。
自分が消えてもダウバリフは悲しまない。
会ったことのない父は、自分の存在を知っているだろうか。
なんで、一度も会いに来てくれなかったのだろう。
瞼を降ろすと、己の意識が夜と同化するのを感じる。
狭まった気道から小さなうめき声を出しながら、シャルは即死の攻撃を受け入れた。
刹那、乾いた発砲音が山道に響き渡り、真っ暗な空に光の雨がはじけた。
閃光弾だ。
明るく照らされた戦場に、男たちの雄たけびと鈍色の武器が押し寄せてくる。シャルの首をねじ切ろうとしたドドックスの舌は目の前で千切られ、夜のあちこちでドラゴンたちの悲鳴が響き渡った。
圧倒的な数の暴力だ。ついさっきまでシャルを囲んでいたドドックスと見慣れぬドラゴンたちが、守護狩人たちによってあっけなく瞬殺されていく。
目の前で繰り広げられる殺戮を呆然と見守っていると、降り注ぐ閃光弾の粒子の向こうから誰かが走ってきた。
鋭い光に照らされたのは、昼間に山道から逃げ出した黒髪の少女だった。
少女は息を切らしながらシャルの前で立ち止まると、滂沱の涙を流しながらシャルを睨みつけていた。シャルはなぜ彼女が怒っているのか理解できず、ふと思い出して、死体と一緒にまとめておいた鞄を手に取った。
「……ん」
ギルドへの納品物は、狩人の信用に関わる大事なものだ。
以前ダウバリフと一緒にエラムラの里を訪れた時、近くの狩人がそんなことを子供に教えているのを聞いた。意味はよく理解できていないが、ともかく納品用鞄は持ち主に返すべきだろうと思って、子供の死体と一緒に守っておいた。
鞄を目の前に差し出された少女は、泣き止むどころかますます顔をしわくちゃにしてシャルを怒鳴りつけた。
「アンタ馬鹿よ! さんざん酷い事言ったのに、どうしてそんなボロボロになるまで戦ってるの!? さっさと逃げればいいじゃない! 私たちは、アンタのこと化け物だって言ってたのに!」
「……ごめんなさい」
「謝るんじゃないわよ! 私は……私が、馬鹿みたいじゃない! アンタなんか、大っ嫌い!」
少女は甲高く叫ぶと、差し出されていた鞄を無視してシャルに飛び掛かった。
ぎゅっと目をつぶって殴られる準備をする。
しかし待っていたのは痛みではなく温かい抱擁だった。
シャルの頬に触れる少女の濡れた髪や、顎に当たった肩は、自分と同じ形だ。なのに自分より軽くて柔らかくて、泣きそうなほど優しかった。
固い拳しか知らない。冷たい平手しか知らない。
シャルの背中に触れる少女の手は滑らかで、肉刺だらけで固くなった自分とは似ても似つかない。
急に両目が熱くなって、下瞼に吸い出されたそれが雨に交じって流れていく。慌てて指で拭ってみるが血ではなかった。痛くないのに透明なものが目から流れ続けて止められない。
耳元で泣き叫ぶ少女にされるがまま、シャルはドラゴンの殲滅が終わるまで座り込んでいた。
彼女の面倒を見てくれたのはダウバリフだけで、母親も兄弟も、親戚すらいなかった。
物心ついた時から、シャルを取り巻くのは古い石造りの家と、物々しい武器と、血の匂いばかりだった。ドラゴンは出会ってすぐに殺してしまうし、動物は血の匂いをまき散らすシャルに怯えてすぐに逃げてしまう。唯一生きているもので触れるのは、無口ですぐに怒り出す恐ろしい老人だけだった。
時々里に下りて、大勢の人々の傍を通り過ぎる機会はあった。
だが誰もシャルに触れようとはしなかった。
シャルの瞳は父親と良く似ているらしく、その目でエラムラの人々を見つめると誰もが目を背け、忌々し気に眉をひそめた。
どうして誰も自分の事を見てくれないのか。
ダウバリフに尋ねても、帰ってくるのは怒鳴り声だけだ。
言葉を認識するよりも、怒られたという衝撃のせいでシャルには何も伝わらない。
父の話。自分の話。ともかくシャルに関係のある事を話題にすれば、ダウバルフは恐ろしい剣幕でシャルにつかみかかった。ひとしきり大声を出して、それでも気が済まない時は家の裏手にある倉庫にシャルを閉じ込めた。
次第にシャルは、自分が孤独な理由を聞くのを恐れた。
下手なことを言ってダウバリフを怒らせぬよう、できるだけ喋らないように生きることにした。
ドラゴンの死体を持ち帰るだけで、ダウバリフはほんの少しだけ機嫌が良くなった。
料理を作ってあげれば、荷物を持ってあげれば、ダウバルフの怒りが収まっていくのを肌で感じた。それでも、毎日ダウバルフのために心を砕くと、だんだんと彼の機嫌を取るのが難しくなる。だからダウバリフの役に立てる新しい事を次から次に探さなければならない。
シャルは乾いてひび割れていく自分の中身を潤してやるために、ほぼ毎日ドラゴンの死体を持ってくることにした。大きければ大きいほど、苦労するほど強いドラゴンほどダウバリフの機嫌がよくなる。笑みの一つでも目にできれば、シャルは強張った体をようやく解すことができた。
ラビルナ貝高原と英雄の丘の境にある、エラムラ山道の荒野でのこと。
そこでシャルは、同い年ぐらいの子供がドラゴンに襲われているのを見つけた。採集の帰り道で襲撃されたらしく、子供の周りにはドラゴンに食い殺された人間の死体が散らばっていた。シャルはそれを事務的に確認しながら、今まさに子供を噛み砕かんとするドラゴンへと殴りかかった。
武器すら買い与えられていないシャルの武器は、自分の肉体と菌糸能力だけだ。シャルの腕には常人の五倍の菌糸が織り込まれているため、素手で打撃を生み出しても無傷でいられる。
重力操作で何倍にも重くし加速をつけたシャルの鉄拳は、跡形もなくドラゴンの骨肉を粉砕した。
血の雨が降る中、シャルは子供を見下ろした。
子供は黒い髪で、特徴があまりない顔をしていた。髪が短かったので気づくのが遅れたが女の子だったらしい。彼女の傍には納品用鞄が落ちており、中から鉱物の破片が零れ落ちていた。
「どうして……」
黒髪の少女はシャルの紫色の瞳に怯えながら、激しい怒りで全身を戦慄かせた。
「なんでもっと早く来てくれなかったの!? みんな死んじゃったし! アンタのせいでいなくなっちゃった! アンタが死ねばよかったのに! なんでよ! どうしてよぉ!」
ダウバルフとの会話を放棄していたシャルは、当時彼女が喚き散らす言葉をうまく理解できなかった。
辛うじて、自分のせいで彼女を泣かせてしまったのだと理解した。
だから、ダウバルフに怒られたときと同じように、頭を下げて小さく謝った。
「ごめん……ナサイ……」
悪いことをしたらこうしなさい、と教わった。
それ以外にどうしたらいいのか、シャルは誰にも教えてもらっていない。
少女は憎しみを剥き出しにしたまま中途半端に目を見開いた。
そして、立ち上がりざまにシャルの顔目掛けて何かを投げてきた。
「謝ったって、しょうがないじゃない! ふざけないで! アンタなんか消えちゃえ!」
飛んできた固いものがシャルの額を切る。少女が投げつけてきたのは、採集で使う泥だらけの小さなナイフだった。はらりと前髪が落ちて、目の片方だけ視野が開ける。しばらくすると眉毛の上を添うように血が流れて、やがて片目をふさいだ。
少女は全く動じないシャルに引き攣った悲鳴を上げると、手足をばたつかせるようにして逃げ出した。滅茶苦茶な走り方をする少女は何度も転びかけて、泣き叫びながら里に続く岩山を下っていった。
少女の後ろ姿が見えなくなった後、シャルは放置された人間の死体へ意識を向けた。
手足の長さからして、殺されたのは自分と同じ子供だ。
エラムラの里に住む子供たちは、よく列になって採集任務をこなしに出歩いていた。だからこの五人の死体も、子供隊列の成れの果てだろう。
羨ましいと思っていた隊列がこうして無残な遺体となっているのを見て、シャルはその場から動くことができなかった。人間の死体を目にするのは初めてで、見ているだけで目の奥が痛くなり、胸が苦しくなる。
離れてしまいたい。家に帰って藁のベッドの上で眠って、今日のことを忘れてしまいたかった。しかしそれと同じぐらいに、動かなくなった子供たちに何かしてやれることがないかと、言葉にしがたい複雑な思いが溢れていた。
数十分、下手をすると一時間近くシャルはそこに留まった。
すると、血の匂いに釣られてきたドラゴンが山道の向こうからのそのそと近づいてきた。無数の針状の岩を背負っている、カエルの形をしたドドックスだった。
ドドックスは死体を見つけるなり、長い舌でドラゴンの肉片を食らった。それから、前菜のように散らばった子供の死体も絡めとって口に含んだ。
その瞬間、シャルは無意識に走り出していた。
何も考えていなかった。
多くの言葉を持ちえないシャルならではの、言語化する必要のない情動が小さな身体を突き動かしたのだ。
次に瞬きをした時には、ドドックスはひしゃげて動かなくなっていた。
数分もしないうちに、新たな死体に釣られて別のドドックスが近づいてくる。
シャルはドラゴンの胃袋から子供の死体を取り返し、他の子供たちと同じ場所に並べてから、再び疾駆した。
殺せば殺すほど、山道にドラゴンの新鮮な血が流れていく。血の匂いに引かれて、一匹ずつだったドラゴンの来襲が、二匹、三匹と数を増やしていった。
やがて雨が降り始め、エラムラの里に続く道に真っ赤な川が流れだした。
もうすぐ夜になる。
明かりの乏しい山道はあっという間に真っ暗になり、ドドックスとの距離感や輪郭が曖昧になっていく。無傷だったシャルの身体にもドドックスたちの攻撃が届くようになり、徐々に彼女は追い詰められていった。
初めて自分が狩られる側になると思った。
幼いころから狩人だったシャルだからこそ、死の匂いには敏感だった。自分の掌の向こうで停止する肉の感覚がいざ自分に訪れると思うと急に夜の訪れが恐ろしくなる。
死ねば、眼球から光が消えてみるみる表面が乾いていく。口の中からは血と腐った匂いが流れ始めて、虫と菌糸に食われてぼろぼろと崩れて、跡形もなくなっていく。殺された子供たちと同じように、シャルの小さな体はドラゴンの剛腕によってバラバラにされるのだ。
周囲が暗くなればなるほど、シャルの脳裏では嫌な想像が肥大化していった。
完全に夜のとばりが落ちた。
恐怖と焦燥に駆られてシャルが精彩を欠いた瞬間、背中にドドックスの舌が叩きつけられた。
激しく地面を転がり、湿った何かにぶつかって止まる。目を凝らしてみると、脇に避けておいた子供の死体だった。雨のせいですっかり血を失って冷たくなっている。
その近くでは黒髪の少女が置いていった納品用鞄があった。鞄から零れ落ちた鉱物が、暗い中でも微かな光を吸って瞬いているのが見え、無意識に謝罪が漏れ出た。
「……ごめん……なさい……」
シャルはしびれて言うことをきかない腕で、無理やり身体を起こした。
間髪入れず、シャルの首にドドックスの舌が絡まり気道を締め上げた。上では別のドドックスが不気味な笑い声をあげて、シャルを押しつぶさんと落下してくる風音がする。
避けようともがくが、冷たい雨粒が衣服を濡らして重く圧し掛かって動きが鈍る。身体の芯もすっかり冷え切っており、長時間の戦いで磨り減った小さな闘志の炎が、この瞬間でついに消え失せた。
愛されていない。
ダウバリフは常にシャルを邪険にしていた。
何をしても褒めてくれることはなく、一番聞いた声は怒鳴り声だけ。
数少ない優しい声色も自分に向けられたものではないような気がした。
自分が消えてもダウバリフは悲しまない。
会ったことのない父は、自分の存在を知っているだろうか。
なんで、一度も会いに来てくれなかったのだろう。
瞼を降ろすと、己の意識が夜と同化するのを感じる。
狭まった気道から小さなうめき声を出しながら、シャルは即死の攻撃を受け入れた。
刹那、乾いた発砲音が山道に響き渡り、真っ暗な空に光の雨がはじけた。
閃光弾だ。
明るく照らされた戦場に、男たちの雄たけびと鈍色の武器が押し寄せてくる。シャルの首をねじ切ろうとしたドドックスの舌は目の前で千切られ、夜のあちこちでドラゴンたちの悲鳴が響き渡った。
圧倒的な数の暴力だ。ついさっきまでシャルを囲んでいたドドックスと見慣れぬドラゴンたちが、守護狩人たちによってあっけなく瞬殺されていく。
目の前で繰り広げられる殺戮を呆然と見守っていると、降り注ぐ閃光弾の粒子の向こうから誰かが走ってきた。
鋭い光に照らされたのは、昼間に山道から逃げ出した黒髪の少女だった。
少女は息を切らしながらシャルの前で立ち止まると、滂沱の涙を流しながらシャルを睨みつけていた。シャルはなぜ彼女が怒っているのか理解できず、ふと思い出して、死体と一緒にまとめておいた鞄を手に取った。
「……ん」
ギルドへの納品物は、狩人の信用に関わる大事なものだ。
以前ダウバリフと一緒にエラムラの里を訪れた時、近くの狩人がそんなことを子供に教えているのを聞いた。意味はよく理解できていないが、ともかく納品用鞄は持ち主に返すべきだろうと思って、子供の死体と一緒に守っておいた。
鞄を目の前に差し出された少女は、泣き止むどころかますます顔をしわくちゃにしてシャルを怒鳴りつけた。
「アンタ馬鹿よ! さんざん酷い事言ったのに、どうしてそんなボロボロになるまで戦ってるの!? さっさと逃げればいいじゃない! 私たちは、アンタのこと化け物だって言ってたのに!」
「……ごめんなさい」
「謝るんじゃないわよ! 私は……私が、馬鹿みたいじゃない! アンタなんか、大っ嫌い!」
少女は甲高く叫ぶと、差し出されていた鞄を無視してシャルに飛び掛かった。
ぎゅっと目をつぶって殴られる準備をする。
しかし待っていたのは痛みではなく温かい抱擁だった。
シャルの頬に触れる少女の濡れた髪や、顎に当たった肩は、自分と同じ形だ。なのに自分より軽くて柔らかくて、泣きそうなほど優しかった。
固い拳しか知らない。冷たい平手しか知らない。
シャルの背中に触れる少女の手は滑らかで、肉刺だらけで固くなった自分とは似ても似つかない。
急に両目が熱くなって、下瞼に吸い出されたそれが雨に交じって流れていく。慌てて指で拭ってみるが血ではなかった。痛くないのに透明なものが目から流れ続けて止められない。
耳元で泣き叫ぶ少女にされるがまま、シャルはドラゴンの殲滅が終わるまで座り込んでいた。
4
お気に入りに追加
33
あなたにおすすめの小説
せっかくのクラス転移だけども、俺はポテトチップスでも食べながらクラスメイトの冒険を見守りたいと思います
霖空
ファンタジー
クラス転移に巻き込まれてしまった主人公。
得た能力は悪くない……いや、むしろ、チートじみたものだった。
しかしながら、それ以上のデメリットもあり……。
傍観者にならざるをえない彼が傍観者するお話です。
基本的に、勇者や、影井くんを見守りつつ、ほのぼの?生活していきます。
が、そのうち、彼自身の物語も始まる予定です。
祝・定年退職!? 10歳からの異世界生活
空の雲
ファンタジー
中田 祐一郎(なかたゆういちろう)60歳。長年勤めた会社を退職。
最後の勤めを終え、通い慣れた電車で帰宅途中、突然の衝撃をうける。
――気付けば、幼い子供の姿で見覚えのない森の中に……
どうすればいいのか困惑する中、冒険者バルトジャンと出会う。
顔はいかついが気のいいバルトジャンは、行き場のない子供――中田祐一郎(ユーチ)の保護を申し出る。
魔法や魔物の存在する、この世界の知識がないユーチは、迷いながらもその言葉に甘えることにした。
こうして始まったユーチの異世界生活は、愛用の腕時計から、なぜか地球の道具が取り出せたり、彼の使う魔法が他人とちょっと違っていたりと、出会った人たちを驚かせつつ、ゆっくり動き出す――
※2月25日、書籍部分がレンタルになりました。
25歳のオタク女子は、異世界でスローライフを送りたい
こばやん2号
ファンタジー
とある会社に勤める25歳のOL重御寺姫(じゅうおんじひめ)は、漫画やアニメが大好きなオタク女子である。
社員旅行の最中謎の光を発見した姫は、気付けば異世界に来てしまっていた。
頭の中で妄想していたことが現実に起こってしまったことに最初は戸惑う姫だったが、自身の知識と持ち前の性格でなんとか異世界を生きていこうと奮闘する。
オタク女子による異世界生活が今ここに始まる。
※この小説は【アルファポリス】及び【小説家になろう】の同時配信で投稿しています。
死霊王は異世界を蹂躙する~転移したあと処刑された俺、アンデッドとなり全てに復讐する~
未来人A
ファンタジー
主人公、田宮シンジは妹のアカネ、弟のアオバと共に異世界に転移した。
待っていたのは皇帝の命令で即刻処刑されるという、理不尽な仕打ち。
シンジはアンデッドを自分の配下にし、従わせることの出来る『死霊王』というスキルを死後開花させる。
アンデッドとなったシンジは自分とアカネ、アオバを殺した帝国へ復讐を誓う。
死霊王のスキルを駆使して徐々に配下を増やし、アンデッドの軍団を作り上げていく。
30年待たされた異世界転移
明之 想
ファンタジー
気づけば異世界にいた10歳のぼく。
「こちらの手違いかぁ。申し訳ないけど、さっさと帰ってもらわないといけないね」
こうして、ぼくの最初の異世界転移はあっけなく終わってしまった。
右も左も分からず、何かを成し遂げるわけでもなく……。
でも、2度目があると確信していたぼくは、日本でひたすら努力を続けた。
あの日見た夢の続きを信じて。
ただ、ただ、異世界での冒険を夢見て!!
くじけそうになっても努力を続け。
そうして、30年が経過。
ついに2度目の異世界冒険の機会がやってきた。
しかも、20歳も若返った姿で。
異世界と日本の2つの世界で、
20年前に戻った俺の新たな冒険が始まる。
勇者召喚に巻き込まれた俺はのんびりと生活したいがいろいろと巻き込まれていった
九曜
ファンタジー
俺は勇者召喚に巻き込まれた
勇者ではなかった俺は王国からお金だけを貰って他の国に行った
だが、俺には特別なスキルを授かったがそのお陰かいろいろな事件に巻き込まれといった
この物語は主人公がほのぼのと生活するがいろいろと巻き込まれていく物語
田舎暮らしと思ったら、異世界暮らしだった。
けむし
ファンタジー
突然の異世界転移とともに魔法が使えるようになった青年の、ほぼ手に汗握らない物語。
日本と異世界を行き来する転移魔法、物を複製する魔法。
あらゆる魔法を使えるようになった主人公は異世界で、そして日本でチート能力を発揮・・・するの?
ゆる~くのんびり進む物語です。読者の皆様ものんびりお付き合いください。
感想などお待ちしております。
完結【進】ご都合主義で生きてます。-通販サイトで異世界スローライフのはずが?!-
ジェルミ
ファンタジー
32歳でこの世を去った相川涼香は、異世界の女神ゼクシーにより転移を誘われる。
断ると今度生まれ変わる時は、虫やダニかもしれないと脅され転移を選んだ。
彼女は女神に不便を感じない様に通販サイトの能力と、しばらく暮らせるだけのお金が欲しい、と願った。
通販サイトなんて知らない女神は、知っている振りをして安易に了承する。そして授かったのは、町のスーパーレベルの能力だった。
お惣菜お安いですよ?いかがです?
物語はまったり、のんびりと進みます。
※本作はカクヨム様にも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる