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1章
(10)無知
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息が苦しい。
手足がふわふわと浮き上がっていて、前髪が額に触れたり揺れたりと不規則に動いている。
沈んでいた意識が水面から顔を出していく。そうして息継ぎをしようと肺を動かすが、口と鼻からは何も入ってこなかった。空気がなくなっているのなら、宇宙に放り出されているのだろうな、という寝ぼけた思考が結論を出すが、肌を撫でる物質の感触ですぐに違うと分かった。
目を開けると緑がかった世界があった。ガラスの表面に張り付いた小さな泡と、向こう側の実験施設のような薄暗い空間があり、人体実験場のような巨大な試験管がずらりと並んでいる。壁際には謎の機械が鎮座して、薄暗い明かりの下で赤いボタンを点滅させていた。
俺は試験管の中に閉じ込められているらしい。身体の穴という穴がすべて水で満たされており、理科室にあるホルマリン漬けを連想させた。
そうと気づいた瞬間、肋骨の下で激しく肺が痙攣し、反射的に酸素を求めて顎が上向いた。だが辛うじて冷静だった思考が窒息していないから大丈夫だと言い聞かせて、意識して喉から力を抜くと少しだけ楽になった。
水の中にいるのに死んでいない理由はすぐに分かった。天井から伸びた複数のチューブが、俺の口と鼻、耳の中に入って何らかの方法で俺を生かしているらしい。明らかに鼓膜を突き破っているチューブの深さに一瞬ぞっとしたが、上手く身体も動かせないのでどうにもできない。痛みを感じないのは幸いだった。
──ここはどこなのだろう。
最後の記憶は、訓練場で見知らぬ女性と会話をして、急に眠気に襲われたところで途切れている。あのままベートという女性の腕の中で眠ってしまったのだろう。
今思い返してみると、いくら疲れていたとはいえ立ったまま赤子のように寝入ってしまうなんて不自然すぎる。おそらくベートが俺に催眠術のような何かを掛けたのだろう。シンビオワールドでも、ドラゴンの動きを鈍化する菌糸能力『催眠』があった。人間に菌糸能力を使うという発想がなかったから油断してしまった。
しかし、俺のような弱い人間を眠らせたところで意味はないはずだ。しいて言うなら、菌糸を飼っていないように見える地球産のこの肉体だけ……。
今更自分の特異性に気づいた俺は絶句するしかない。ドミラスに診察を受けるときは散々警戒していたくせに、本気でヤバい人間を前にしてそれを発揮できないなんてどうかしている。ベートの『催眠』の効果があったとはいえ、間抜けすぎる事態に今すぐ自分をぶん殴りたくなった。
「──え、ねえってば、もう目が覚めてるんでしょ?」
分厚い壁越しのような、くぐもった女性の声が聞こえてくる。
視線を上げると、緑がかった水とガラスの向こうにベートの顔が見えた。
「──!?」
「あはは! 驚いてる! やっぱりこれまでの子と違うね? 博士直々に送ったからかな?」
「……っ、………!」
「あ、ごめんね。それじゃあ喋れないもんね。でももう少し我慢しててほしいな、試したいことがあるから」
ベートは大人びた顔立ちで子供のようにはしゃぐと、俺の前にある四角い機械へと近づいた。地面からせりだすように置かれていたその機械は俺に背を向けていて、足元から試験管に繋がるようにいくつもの管が伸びている。あれがどのような用途のために存在するのか知らないが、少なくとも試験管の中の生物に優しいわけがない。
実験体。
ドミラスの診察なんて生ぬるい、人権を根こそぎ奪う本物の非人道な実験が俺に課されようとしている。
「────っ!」
必死に暴れて声を出そうとするが、肺胞の隅々まで空気を抜かれていては何できない。腕を振り回そうとしても、まるで神経を切断されてしまったかのように脳からの命令が四肢に伝わらなかった。今動かせるのは首から上だけだ。水中でなぜ呼吸ができているのか疑問に思う暇もないほど、俺はただただ混乱して声もなく叫びまわるしかなかった。
「ねぇねぇ、貴方の身体ってどうなってるの? ドラゴンの毒素でぜんぜん汚れないけれど、菌糸能力の影響は普通に受けてるわよね。全部の菌糸に免疫があるわけじゃないの? どうしてわざわざ弱点なんてつけてあるんだろうね?」
無垢に瞳を輝かせながらベートが問いかけてくる。その両手は淀みなく機械装置を操り続けて、着々と実験の準備を終わらせていく。
止めなければ、でもどうやってここから出ればいいのだ。全力で首を動かして打開できそうな道具を探すが、そんな都合の良いものは何もない。試験管には罅一つ入っておらず、上にも下にも頑丈な蓋がくっついているだけで、内側から取り外せそうなスイッチもない。チューブを首で引っ張っても何も起きない。
「それにしても博士に本当にそっくりね。若いころの博士のままでびっくり。あ、当たり前だよね! だってあなた博士の子だから。いいなぁ、あたしを呼んでくれれば手伝ってあげたのに。博士ったらひどいのよ、あたしがこんなに愛してるのに全然見向きもしてくれないの。貴方は違うわよね。だって博士の子供だもんね。博士と私は恋人同士だもん。子供って愛するのが当然でしょ。母親のこと無条件で大好きだよね? やっぱり親子だと初対面でも警戒しないものなのかな? あたしが貴方を抱きしめた時もすぐに寝ちゃって、リョーホくんったら本当にかわいいね。そうだ! これが終わったら一緒に暮らそっか! リデルゴアの中央都市に家を買ったの! 本当は博士と一緒に住みたいんだけど、あなたは博士の子供だから特別に入れてあげる! これからずっとずぅーっと一緒だからね!」
狂ってる。
何を言っているのか全く理解できない。唯一聞き取れた博士や母親という単語も、全く俺には関係のなさそうなものばかりだ。博士をドミラスに当てはめてみても整合性が取れない。母親だって、俺にはもっと別の、日本に残していった人が……。
…………。
母親の顔が、思い出せない。
「ありゃりゃ、喋りすぎちゃった」
ベートはうっかりしたとばかりに上唇を舐めると、最後に大きなレバーを動かして、点滅が止まった赤いボタンに人差し指を置いた。
「えいっと」
プラスチックが沈む音が部屋に響いた瞬間、俺の耳に入れられていたチューブが細かく振動した。くすぐったさに肩をすくめるが、当然それで止まってくれるわけがない。やがてチューブの中を謎の液体が通ってきて、俺の体内に直接注がれ始めた。冷たい。真冬の水道で手を洗った時と同じ感覚が耳の奥を満たして、脳みその血管がどのように頭蓋に張り巡らされているかをまざまざと教え込まれる。
「どう? 何が見える? どんな感覚?」
頭の中に棒を入れられて、ぐちゃぐちゃにかき回されている感覚がする。頭痛と吐き気で気が狂いそうだ。しばらくすると、視界に映る景色に全く別の光景が投影フィルムのように重なりだした。
濃密な血の匂いが鼻の奥を満たして、ついに出血したかと思った。だが水中は全く濁っておらず、代わりにもう一つの重なった景色が血の海に沈んでいるのが見える。
やがて視界が別世界へと塗りつぶされて──いつしか俺は砂漠の上に佇んでいた。
砂漠の砂でも吸いきれないほどの大量の血があちこちに水たまりを作り、真っ青な空と強い日差しの下で、じりじりと赤黒く乾いていく。
「は……」
呼吸ができたがそんなことはどうでもよかった。
俺は人生で一度も砂漠に来たことはない。だが砂漠のところどころにそそり立つ白い岩塔に見覚えがある。目を凝らせば蜃気楼に歪む地平線に、巨大なドラゴンの頭蓋が転がっていた。
思い出した。シンビオワールドの砂漠ステージだ。しかしなぜこの光景が俺の視界を覆いつくしているのか意味不明だった。視界どころか、すべての五感が丸ごと砂漠に放り込まれている。喉が渇き、砂にしみ込んだ血の匂いが痛いぐらい主張している。足裏にも砂浜に素足で降り立った時と同じ、きめ細やかな感触が伝わっている。
本当に俺の身体がここにあるのか。
不安になって見下ろして、すぐに後悔した。
腹が裂かれている。佇んでいる俺の身体以外に、見知らぬ裸の人間の死体が周りに転がっている。
「な、ん……」
絞り出した声は、元の俺の声よりも幾分か低かった。驚いて喉仏を押さえると、ミイラのようにかさついた皮膚があった。
「博士」
誰かに呼びかけられた。
ほとんど反射的に振り返ると、真っ白な人が立っていた。衣服を着用していないようにも見えるが、どれだけ目を凝らしても詳細がわからない。見ている側から輪郭や立ち姿が切り替わる。
実体の怪しい白い人影を見ているうちに、俺は強い郷愁で目が熱くなった。もう二度と会えないと思っていた人たちと、ようやく巡り会えたような喜びが押し寄せてきた。
そしてその数秒後、途轍もない徒労と絶望に打ちひしがれた。
勝手に動き回る感情は俺の者ではない。別人に意識を乗っ取られている。俺が別人の中に入り込んでいる。気持ち悪い。自覚しているのに切り離せない。両側から圧縮されるように二つの人格が重なっていく。
やがて彼我の境界があいまいになり、たった一つの懺悔の言葉が思いを満たした。
俺は、いったいどれだけ──。
スッと白い人影が人差し指を向けてきた。
「後ろ」
肩越しに目を向ける。
凡庸そうな顔と、正気のない瞳が赤く濡れていた。学ラン越してもわかる貧弱な身体には無数の切り傷があり、肉の端っこの方は何かに食いちぎられてきたように削れていた。
『俺』の死体が立っていた。
「あ、あああああああああ!?」
ばちん! とブレーカーが落ちるような音と共に全身の神経がはじけ飛び、俺の視界が砂漠から切り離される。
水が赤い。試験管の中に戻ってきたようだ。耳の辺りから煙のように血が立ち上る。頭が重い。眼球が押し出されて鼻の奥が裂けそうだ。
朦朧とした意識で試験管の外を見ると、ベートは俺の苦しむ姿を見て涙を流していた。憐れんでいるのではない、感激のあまり泣いているらしかった。
「他の子たちじゃ脳みそが真っ黒に焼けちゃったんだけど、やっぱり大丈夫なんだね! どうして博士が貴方を選んだのかよーっく分かったよ!」
もう暴れる気力もない。俺は呆然としたまま、ベートの指先が再び赤いボタンに伸びるのを眺めていた。
「次も貴方は耐えられるよね。だってあたしと博士の子供だもんね!」
白い指先がボタンをへこませ、一番奥へ押し込まれる、その寸前。
施設全体が揺らぐほどの大きな衝撃が走った。ベートはその場でぐらついて大きくしりもちをつくと、心底がっかりしたように嘆息した。
「ありゃりゃ……邪魔が入っちゃった」
刹那、ベートの頭上に瓦礫が落ちて彼女の姿を覆い隠した。さらにそこを狙い撃つかの如く、上階にあったであろう棚や机が立て続けに落下してきた。重々しい瓦礫の山がベートのいた場所を中心に崩れていき、俺を縛り付けていた試験管と、謎の機械を破壊した。
運よく当たり所が良かったお陰で、俺は瓦礫に押しつぶされる前に水で後ろに流された。
床に手をついて起き上がると、自分の血で汚れた赤い水が指の隙間を抜けて床に広がっていく。間もなく、脳内を満たしていた液体が耳から噴き出して気持ち悪くなった。吐き気に押されるまま口を開けば、緑色の液体が勢いよく流れ出ていく。いくら吐いても後からこみ上げてきて、さらに水に浸った肺が呼吸をせがむので何度も息が止まった。
数分ほど拷問じみた生理現象に苦しんでいると、ようやくまともに呼吸ができるようになった。寒さと痛みで震える身体を持ち上げて、破壊された試験管の向こう側を恐る恐る覗き込む。
ベートの立っていた場所は土砂崩れにあったかのようにひどい惨状だった。これで生きていられるわけがないと思いはするが、あの女は普通じゃない。瓦礫で潰れた手足を切り落としてでも脱出していそうだと想像して、俺は深く息を吐き出した。
「……帰りたい」
まだ頭の中が混乱している。自分の周りにある高度な機械や棚は、地球の科学文明とよく似ていた。それを当然のように操っていたベートはいったい何者なのだろう。どうして俺が実験体に選ばれたのだ。ここはなんのための施設なんだ。
疑問が溢れすぎて、鼻の穴から温かい筋が垂れる。ほたりと床に落ちたそれを追いかけると、赤い水滴があった。
俺は手の甲で鼻血を拭うと、大きな穴の開いた天井を見上げた。
誰かが立っている。
「誰、だ……?」
謎の機械で魅せられた、白い人影に似ている。だが今回は輪郭もはっきりしており、同い年ぐらいの少女だと分かる。耳の上に二つの黒いリボンをつけ、白い戦闘スーツに身を包んだアルビノの少女だ。胸元には黒いバーコードと、大きく『99』の文字が刻まれており、色素が抜けた赤い双眸からは人間味を感じられなかった。
「もう少しだけ、待っていてください」
誰の声か、一瞬分からなかった。それぐらいに、少女の声は温かく優しいもので、俺の右目から音もなく涙が出た。砂漠で白い影と対面した時と似たような郷愁で、心臓が痛いぐらい震える。同時に、ずたずたに切り裂かれた心がゆっくりと再生を始めて、とっくに限界を迎えていた俺の肉体が正常に疲労を認識した。
ベートに眠らされた時とは違う、絶対的な安心感の中で俺は崩れ落ちた。額が床に打ち付けられる寸前、固いスーツ越しに少女に受け止められる。
「大丈夫です。アナタならきっとうまくできます」
柔らかく抱きしめてくれるアルビノの少女の体温に後押しされて、俺はついに意識を手放した。
手足がふわふわと浮き上がっていて、前髪が額に触れたり揺れたりと不規則に動いている。
沈んでいた意識が水面から顔を出していく。そうして息継ぎをしようと肺を動かすが、口と鼻からは何も入ってこなかった。空気がなくなっているのなら、宇宙に放り出されているのだろうな、という寝ぼけた思考が結論を出すが、肌を撫でる物質の感触ですぐに違うと分かった。
目を開けると緑がかった世界があった。ガラスの表面に張り付いた小さな泡と、向こう側の実験施設のような薄暗い空間があり、人体実験場のような巨大な試験管がずらりと並んでいる。壁際には謎の機械が鎮座して、薄暗い明かりの下で赤いボタンを点滅させていた。
俺は試験管の中に閉じ込められているらしい。身体の穴という穴がすべて水で満たされており、理科室にあるホルマリン漬けを連想させた。
そうと気づいた瞬間、肋骨の下で激しく肺が痙攣し、反射的に酸素を求めて顎が上向いた。だが辛うじて冷静だった思考が窒息していないから大丈夫だと言い聞かせて、意識して喉から力を抜くと少しだけ楽になった。
水の中にいるのに死んでいない理由はすぐに分かった。天井から伸びた複数のチューブが、俺の口と鼻、耳の中に入って何らかの方法で俺を生かしているらしい。明らかに鼓膜を突き破っているチューブの深さに一瞬ぞっとしたが、上手く身体も動かせないのでどうにもできない。痛みを感じないのは幸いだった。
──ここはどこなのだろう。
最後の記憶は、訓練場で見知らぬ女性と会話をして、急に眠気に襲われたところで途切れている。あのままベートという女性の腕の中で眠ってしまったのだろう。
今思い返してみると、いくら疲れていたとはいえ立ったまま赤子のように寝入ってしまうなんて不自然すぎる。おそらくベートが俺に催眠術のような何かを掛けたのだろう。シンビオワールドでも、ドラゴンの動きを鈍化する菌糸能力『催眠』があった。人間に菌糸能力を使うという発想がなかったから油断してしまった。
しかし、俺のような弱い人間を眠らせたところで意味はないはずだ。しいて言うなら、菌糸を飼っていないように見える地球産のこの肉体だけ……。
今更自分の特異性に気づいた俺は絶句するしかない。ドミラスに診察を受けるときは散々警戒していたくせに、本気でヤバい人間を前にしてそれを発揮できないなんてどうかしている。ベートの『催眠』の効果があったとはいえ、間抜けすぎる事態に今すぐ自分をぶん殴りたくなった。
「──え、ねえってば、もう目が覚めてるんでしょ?」
分厚い壁越しのような、くぐもった女性の声が聞こえてくる。
視線を上げると、緑がかった水とガラスの向こうにベートの顔が見えた。
「──!?」
「あはは! 驚いてる! やっぱりこれまでの子と違うね? 博士直々に送ったからかな?」
「……っ、………!」
「あ、ごめんね。それじゃあ喋れないもんね。でももう少し我慢しててほしいな、試したいことがあるから」
ベートは大人びた顔立ちで子供のようにはしゃぐと、俺の前にある四角い機械へと近づいた。地面からせりだすように置かれていたその機械は俺に背を向けていて、足元から試験管に繋がるようにいくつもの管が伸びている。あれがどのような用途のために存在するのか知らないが、少なくとも試験管の中の生物に優しいわけがない。
実験体。
ドミラスの診察なんて生ぬるい、人権を根こそぎ奪う本物の非人道な実験が俺に課されようとしている。
「────っ!」
必死に暴れて声を出そうとするが、肺胞の隅々まで空気を抜かれていては何できない。腕を振り回そうとしても、まるで神経を切断されてしまったかのように脳からの命令が四肢に伝わらなかった。今動かせるのは首から上だけだ。水中でなぜ呼吸ができているのか疑問に思う暇もないほど、俺はただただ混乱して声もなく叫びまわるしかなかった。
「ねぇねぇ、貴方の身体ってどうなってるの? ドラゴンの毒素でぜんぜん汚れないけれど、菌糸能力の影響は普通に受けてるわよね。全部の菌糸に免疫があるわけじゃないの? どうしてわざわざ弱点なんてつけてあるんだろうね?」
無垢に瞳を輝かせながらベートが問いかけてくる。その両手は淀みなく機械装置を操り続けて、着々と実験の準備を終わらせていく。
止めなければ、でもどうやってここから出ればいいのだ。全力で首を動かして打開できそうな道具を探すが、そんな都合の良いものは何もない。試験管には罅一つ入っておらず、上にも下にも頑丈な蓋がくっついているだけで、内側から取り外せそうなスイッチもない。チューブを首で引っ張っても何も起きない。
「それにしても博士に本当にそっくりね。若いころの博士のままでびっくり。あ、当たり前だよね! だってあなた博士の子だから。いいなぁ、あたしを呼んでくれれば手伝ってあげたのに。博士ったらひどいのよ、あたしがこんなに愛してるのに全然見向きもしてくれないの。貴方は違うわよね。だって博士の子供だもんね。博士と私は恋人同士だもん。子供って愛するのが当然でしょ。母親のこと無条件で大好きだよね? やっぱり親子だと初対面でも警戒しないものなのかな? あたしが貴方を抱きしめた時もすぐに寝ちゃって、リョーホくんったら本当にかわいいね。そうだ! これが終わったら一緒に暮らそっか! リデルゴアの中央都市に家を買ったの! 本当は博士と一緒に住みたいんだけど、あなたは博士の子供だから特別に入れてあげる! これからずっとずぅーっと一緒だからね!」
狂ってる。
何を言っているのか全く理解できない。唯一聞き取れた博士や母親という単語も、全く俺には関係のなさそうなものばかりだ。博士をドミラスに当てはめてみても整合性が取れない。母親だって、俺にはもっと別の、日本に残していった人が……。
…………。
母親の顔が、思い出せない。
「ありゃりゃ、喋りすぎちゃった」
ベートはうっかりしたとばかりに上唇を舐めると、最後に大きなレバーを動かして、点滅が止まった赤いボタンに人差し指を置いた。
「えいっと」
プラスチックが沈む音が部屋に響いた瞬間、俺の耳に入れられていたチューブが細かく振動した。くすぐったさに肩をすくめるが、当然それで止まってくれるわけがない。やがてチューブの中を謎の液体が通ってきて、俺の体内に直接注がれ始めた。冷たい。真冬の水道で手を洗った時と同じ感覚が耳の奥を満たして、脳みその血管がどのように頭蓋に張り巡らされているかをまざまざと教え込まれる。
「どう? 何が見える? どんな感覚?」
頭の中に棒を入れられて、ぐちゃぐちゃにかき回されている感覚がする。頭痛と吐き気で気が狂いそうだ。しばらくすると、視界に映る景色に全く別の光景が投影フィルムのように重なりだした。
濃密な血の匂いが鼻の奥を満たして、ついに出血したかと思った。だが水中は全く濁っておらず、代わりにもう一つの重なった景色が血の海に沈んでいるのが見える。
やがて視界が別世界へと塗りつぶされて──いつしか俺は砂漠の上に佇んでいた。
砂漠の砂でも吸いきれないほどの大量の血があちこちに水たまりを作り、真っ青な空と強い日差しの下で、じりじりと赤黒く乾いていく。
「は……」
呼吸ができたがそんなことはどうでもよかった。
俺は人生で一度も砂漠に来たことはない。だが砂漠のところどころにそそり立つ白い岩塔に見覚えがある。目を凝らせば蜃気楼に歪む地平線に、巨大なドラゴンの頭蓋が転がっていた。
思い出した。シンビオワールドの砂漠ステージだ。しかしなぜこの光景が俺の視界を覆いつくしているのか意味不明だった。視界どころか、すべての五感が丸ごと砂漠に放り込まれている。喉が渇き、砂にしみ込んだ血の匂いが痛いぐらい主張している。足裏にも砂浜に素足で降り立った時と同じ、きめ細やかな感触が伝わっている。
本当に俺の身体がここにあるのか。
不安になって見下ろして、すぐに後悔した。
腹が裂かれている。佇んでいる俺の身体以外に、見知らぬ裸の人間の死体が周りに転がっている。
「な、ん……」
絞り出した声は、元の俺の声よりも幾分か低かった。驚いて喉仏を押さえると、ミイラのようにかさついた皮膚があった。
「博士」
誰かに呼びかけられた。
ほとんど反射的に振り返ると、真っ白な人が立っていた。衣服を着用していないようにも見えるが、どれだけ目を凝らしても詳細がわからない。見ている側から輪郭や立ち姿が切り替わる。
実体の怪しい白い人影を見ているうちに、俺は強い郷愁で目が熱くなった。もう二度と会えないと思っていた人たちと、ようやく巡り会えたような喜びが押し寄せてきた。
そしてその数秒後、途轍もない徒労と絶望に打ちひしがれた。
勝手に動き回る感情は俺の者ではない。別人に意識を乗っ取られている。俺が別人の中に入り込んでいる。気持ち悪い。自覚しているのに切り離せない。両側から圧縮されるように二つの人格が重なっていく。
やがて彼我の境界があいまいになり、たった一つの懺悔の言葉が思いを満たした。
俺は、いったいどれだけ──。
スッと白い人影が人差し指を向けてきた。
「後ろ」
肩越しに目を向ける。
凡庸そうな顔と、正気のない瞳が赤く濡れていた。学ラン越してもわかる貧弱な身体には無数の切り傷があり、肉の端っこの方は何かに食いちぎられてきたように削れていた。
『俺』の死体が立っていた。
「あ、あああああああああ!?」
ばちん! とブレーカーが落ちるような音と共に全身の神経がはじけ飛び、俺の視界が砂漠から切り離される。
水が赤い。試験管の中に戻ってきたようだ。耳の辺りから煙のように血が立ち上る。頭が重い。眼球が押し出されて鼻の奥が裂けそうだ。
朦朧とした意識で試験管の外を見ると、ベートは俺の苦しむ姿を見て涙を流していた。憐れんでいるのではない、感激のあまり泣いているらしかった。
「他の子たちじゃ脳みそが真っ黒に焼けちゃったんだけど、やっぱり大丈夫なんだね! どうして博士が貴方を選んだのかよーっく分かったよ!」
もう暴れる気力もない。俺は呆然としたまま、ベートの指先が再び赤いボタンに伸びるのを眺めていた。
「次も貴方は耐えられるよね。だってあたしと博士の子供だもんね!」
白い指先がボタンをへこませ、一番奥へ押し込まれる、その寸前。
施設全体が揺らぐほどの大きな衝撃が走った。ベートはその場でぐらついて大きくしりもちをつくと、心底がっかりしたように嘆息した。
「ありゃりゃ……邪魔が入っちゃった」
刹那、ベートの頭上に瓦礫が落ちて彼女の姿を覆い隠した。さらにそこを狙い撃つかの如く、上階にあったであろう棚や机が立て続けに落下してきた。重々しい瓦礫の山がベートのいた場所を中心に崩れていき、俺を縛り付けていた試験管と、謎の機械を破壊した。
運よく当たり所が良かったお陰で、俺は瓦礫に押しつぶされる前に水で後ろに流された。
床に手をついて起き上がると、自分の血で汚れた赤い水が指の隙間を抜けて床に広がっていく。間もなく、脳内を満たしていた液体が耳から噴き出して気持ち悪くなった。吐き気に押されるまま口を開けば、緑色の液体が勢いよく流れ出ていく。いくら吐いても後からこみ上げてきて、さらに水に浸った肺が呼吸をせがむので何度も息が止まった。
数分ほど拷問じみた生理現象に苦しんでいると、ようやくまともに呼吸ができるようになった。寒さと痛みで震える身体を持ち上げて、破壊された試験管の向こう側を恐る恐る覗き込む。
ベートの立っていた場所は土砂崩れにあったかのようにひどい惨状だった。これで生きていられるわけがないと思いはするが、あの女は普通じゃない。瓦礫で潰れた手足を切り落としてでも脱出していそうだと想像して、俺は深く息を吐き出した。
「……帰りたい」
まだ頭の中が混乱している。自分の周りにある高度な機械や棚は、地球の科学文明とよく似ていた。それを当然のように操っていたベートはいったい何者なのだろう。どうして俺が実験体に選ばれたのだ。ここはなんのための施設なんだ。
疑問が溢れすぎて、鼻の穴から温かい筋が垂れる。ほたりと床に落ちたそれを追いかけると、赤い水滴があった。
俺は手の甲で鼻血を拭うと、大きな穴の開いた天井を見上げた。
誰かが立っている。
「誰、だ……?」
謎の機械で魅せられた、白い人影に似ている。だが今回は輪郭もはっきりしており、同い年ぐらいの少女だと分かる。耳の上に二つの黒いリボンをつけ、白い戦闘スーツに身を包んだアルビノの少女だ。胸元には黒いバーコードと、大きく『99』の文字が刻まれており、色素が抜けた赤い双眸からは人間味を感じられなかった。
「もう少しだけ、待っていてください」
誰の声か、一瞬分からなかった。それぐらいに、少女の声は温かく優しいもので、俺の右目から音もなく涙が出た。砂漠で白い影と対面した時と似たような郷愁で、心臓が痛いぐらい震える。同時に、ずたずたに切り裂かれた心がゆっくりと再生を始めて、とっくに限界を迎えていた俺の肉体が正常に疲労を認識した。
ベートに眠らされた時とは違う、絶対的な安心感の中で俺は崩れ落ちた。額が床に打ち付けられる寸前、固いスーツ越しに少女に受け止められる。
「大丈夫です。アナタならきっとうまくできます」
柔らかく抱きしめてくれるアルビノの少女の体温に後押しされて、俺はついに意識を手放した。
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