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三話 アドニスの仮面
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「ふん、舞踏会での婚約破棄とはな」
ネスラン侯爵は書斎に呼んだアドニスを鼻で笑ってそう言った。
それに対してアドニスは何も言わずに、ただ父親の前に据えられたマホガニーの大きな机の上を見つめている。
綺麗に整頓されたその卓上を見ていると気持ちが悪くなってくるのは、アドニスにとってはいつもの事だった。
その整頓された机のどこがと言う訳ではないが、なんとなく父親の神経質さを見ている様な気がして吐き気がしてくるのだ。
「まあお前にしては良くやったなアドニス。ネスラン侯爵家の嫡男としてお前は出来が悪すぎると思っていたが、今回だけは褒めてやろう」
「ありがとうございます父上」
アドニスが深く低頭して感謝を述べた態度からは、二人の間に親子の情愛の欠片も見えてはこない。
厳格な貴族の家庭というものも珍しくはないが、もはや二人の関係は主従にたとえる方が近いだろう。
「だが勘違いするなよ。お前が儂からの許しも得ずにレイモンド家の地味でつまらん女に求婚した件は、決して帳消しにはならぬ大罪であるッ!」
「はい、承知しております」
ネスラン侯爵が言った大罪とは言うまでもないが、アドニスとサブリナの婚約の事を指している。
ではなぜ父親の許しのなかった婚約が成立したかと言えば、その理由は偶然とも国王の気紛れともいえよう。
アドニスはある舞踏会でサブリナへ求婚をしたのだが、その舞踏会にたまたま国王が臨席していたのだ。
おそらく国王は退屈していたのだろう。そこへ退屈しのぎには丁度よさそうな、他人の求婚話で会場がざわめき立ったのである。
しかもそれが国王も耳にした事のある社交界きっての遊び人の求婚なのだ、余興としてはまさに申し分ないものだろう。
いつになく悪のりをした国王は、挙げ句には自らが婚約の証人になろうとまで言い出した。
国王にとってはその場だけの気紛れだったとしても、臣下である貴族にとってはその言葉の重みは計り知れない。
結果的にネスラン侯爵は国王の気紛れを飲み込まざるを得なかったのだ。
「申し訳ありませんでした父上。私もようやく目が覚めた思いです」
「つまらん女に目が眩んだ馬鹿め! まあ今回派手にやった事でお前の話題は社交界で持ちきりだ。遊び人としての格が上がったとも噂されておる。ネスランの男はつねに社交界の花形であり、その中心にいなければならぬ。その事を肝に銘じておけッ!」
アドニスの内心はこの父親の態度に酷い嫌悪感を持っている。しかしむろんそれを表に出したりはしない。
「それで父上、レイモンド伯爵は素直に承諾するでしょうか? あの場で言った事はすべて私の狂言なのですが」
「問題ない。儂の子飼いの貴族たちに言い含めてある。奴らの娘にレイモンドの娘から嫌がらせを受けたと偽証させれば済むことだ。複数の証言があればレイモンドも否とは言えまいて」
「しかし国王陛下は認めて下さいますでしょうか? その場の気紛れであったとしても、陛下が婚約の証人であらせられる以上は」
「まったく気の小さい男だな。お前はその為に騎士道精神を持ち出したのであろう? 陛下とて大義と己の気紛れとを秤にかけるほど愚かではないわ!」
「それを聞いて安心致しました」
するとネスラン侯爵は息子をジロリと睨んで、刺すような言葉を吐く。
「貴様、次またネスラン家に泥を塗るような真似をしたら、再教育を施して地獄を味わわせてやるからな。我らが何の為に社交界で花形であらねばならぬか、その意味を噛み締めろ。よいなっ!」
無言で深く頭を下げたアドニスを一瞥したネスラン侯爵は、舌打ちを残して部屋を出て行った。
アドニスは下げた頭を戻すことなく俯き続けている。噛み締めた歯からギリギリという音が止んだ時、アドニスはぽつりと呟いた。
「サブリナ、僕は負けないからね」と──
◇*◇*◇*◇*◇
サブリナは小走りに王都の裏通りを急ぎ、アドニスとの待ち合わせの場所へと向かっていた。
すっかり約束の時間に遅れてしまっており気持ちは焦っているのだが、スカートが邪魔して上手く走れない。
(ああもう、お父様の分からず屋!)
父親のレイモンド伯爵にサブリナが悪態をついたのは、今日こうして遅刻してしまった原因が彼にあったからだ。
というのも、今回の婚約破棄の件でサブリナは父親から謹慎を言い渡されていて、家を内緒で脱け出す事に苦労する羽目となっている。
むろんレイモンド伯爵にしてみれば娘のした他家の令嬢への虐待の数々を、見逃すわけにはいかなかったのであろう。
それなのに当の本人であるサブリナは、証拠の訴状を見せても事実無根だと言い訳をする有り様なのだ。
婚約者があの遊び人で有名なアドニスであった事を鑑みれば、サブリナへの同情の余地は少なくないと思ってもいた。
しかしサブリナからの謝罪は婚約破棄によってレイモンド家に迷惑をかけた事へのみで、被害にあった令嬢たちへは一切ない。
温厚と言われるレイモンド伯爵とてまったく反省の色の見えない娘に、『儂は育て方を間違えたのか? サブリナの奴め、自分のする事を今は黙って信じて欲しいの一点張りでは話にならん!』と、酷くおかんむりなのである。
(お父様のお気持ちは分かるけど……)
サブリナは盛大に溜め息を吐いて、とにかく今は急ごうと小走りをつづけた。
やがて待ち合わせ場所にアドニスの後ろ姿が見えてくる。
(アドニス様っ! あっ……え?)
だがそこに居たアドニスは、一人で待ってはいなかった。それに気付くのが一瞬遅れたサブリナは、アドニスと一緒にいた数名の男女がすでに自分に気付いている事に顔色を悪くする。
「あら? あなたサブリナ様じゃない。急いでどちらへ行かれるの?」
「おやおや、アドニス様の元婚約者殿だ。影が薄いものだから危うく無視してしまうところだった」
彼らは明らかにサブリナを嘲弄する態度で待っていた。
(これはどういう事かしら……。まさかアドニス様が連れてきた? それともただの偶然なの?……)
しかしアドニスは無言であり、遊び人風の笑顔を浮かべたその表情からは何も読み取れない。
ともあれ自分は偶然を装うしかないと思ったサブリナは、卒のない返事だけをして今日の逢瀬は諦めることにした。
「ご機嫌ようみなさま。お揃いでお楽しみのところ不躾にお邪魔して申し訳ありませんでした。私も先を急ぎますのでこれにて失礼させて頂きますわ」
「はて? お急ぎとは不可解ですな。貴女の目的地はここではないのですか?」
「!!」
その男の一言でこれが偶然ではなく、アドニスが故意に彼らを連れてきたことをサブリナは知る。
それでもアドニスの心変わりを疑うような事は一切なかった。というか考えもしていない。しかし当のアドニスにとっては、そういうワケにはいかなかった様である。
(あっ!)
アドニスが歯を食い縛りながら自分の長くて美しい金髪を、いやそのズラを、強く握りしめて引き剥がそうとしているのをサブリナは見た。
(そ、それはまだ駄目っ!)
「ア、アドニス様っ! 貴方様のお覚悟は伝わりましてよ。ですからおやめになって!」
アドニスは自分に二心がない事をサブリナに伝えるには、禿げ頭を晒すしかないと思った。全てを捨てる覚悟を示せば、サブリナにその気持ちが通じるはずだと。
そしてまさにサブリナにはアドニスのその意図がすぐに分かったようである。
「なんだ覚悟って?」
「おやめになってっだなんて、もしかして修羅場?」
ニヤニヤと笑いながらこの事態を楽しんでいる男女の後ろで、アドニスはサブリナを見つめてコクりと頷いたのであった。
ネスラン侯爵は書斎に呼んだアドニスを鼻で笑ってそう言った。
それに対してアドニスは何も言わずに、ただ父親の前に据えられたマホガニーの大きな机の上を見つめている。
綺麗に整頓されたその卓上を見ていると気持ちが悪くなってくるのは、アドニスにとってはいつもの事だった。
その整頓された机のどこがと言う訳ではないが、なんとなく父親の神経質さを見ている様な気がして吐き気がしてくるのだ。
「まあお前にしては良くやったなアドニス。ネスラン侯爵家の嫡男としてお前は出来が悪すぎると思っていたが、今回だけは褒めてやろう」
「ありがとうございます父上」
アドニスが深く低頭して感謝を述べた態度からは、二人の間に親子の情愛の欠片も見えてはこない。
厳格な貴族の家庭というものも珍しくはないが、もはや二人の関係は主従にたとえる方が近いだろう。
「だが勘違いするなよ。お前が儂からの許しも得ずにレイモンド家の地味でつまらん女に求婚した件は、決して帳消しにはならぬ大罪であるッ!」
「はい、承知しております」
ネスラン侯爵が言った大罪とは言うまでもないが、アドニスとサブリナの婚約の事を指している。
ではなぜ父親の許しのなかった婚約が成立したかと言えば、その理由は偶然とも国王の気紛れともいえよう。
アドニスはある舞踏会でサブリナへ求婚をしたのだが、その舞踏会にたまたま国王が臨席していたのだ。
おそらく国王は退屈していたのだろう。そこへ退屈しのぎには丁度よさそうな、他人の求婚話で会場がざわめき立ったのである。
しかもそれが国王も耳にした事のある社交界きっての遊び人の求婚なのだ、余興としてはまさに申し分ないものだろう。
いつになく悪のりをした国王は、挙げ句には自らが婚約の証人になろうとまで言い出した。
国王にとってはその場だけの気紛れだったとしても、臣下である貴族にとってはその言葉の重みは計り知れない。
結果的にネスラン侯爵は国王の気紛れを飲み込まざるを得なかったのだ。
「申し訳ありませんでした父上。私もようやく目が覚めた思いです」
「つまらん女に目が眩んだ馬鹿め! まあ今回派手にやった事でお前の話題は社交界で持ちきりだ。遊び人としての格が上がったとも噂されておる。ネスランの男はつねに社交界の花形であり、その中心にいなければならぬ。その事を肝に銘じておけッ!」
アドニスの内心はこの父親の態度に酷い嫌悪感を持っている。しかしむろんそれを表に出したりはしない。
「それで父上、レイモンド伯爵は素直に承諾するでしょうか? あの場で言った事はすべて私の狂言なのですが」
「問題ない。儂の子飼いの貴族たちに言い含めてある。奴らの娘にレイモンドの娘から嫌がらせを受けたと偽証させれば済むことだ。複数の証言があればレイモンドも否とは言えまいて」
「しかし国王陛下は認めて下さいますでしょうか? その場の気紛れであったとしても、陛下が婚約の証人であらせられる以上は」
「まったく気の小さい男だな。お前はその為に騎士道精神を持ち出したのであろう? 陛下とて大義と己の気紛れとを秤にかけるほど愚かではないわ!」
「それを聞いて安心致しました」
するとネスラン侯爵は息子をジロリと睨んで、刺すような言葉を吐く。
「貴様、次またネスラン家に泥を塗るような真似をしたら、再教育を施して地獄を味わわせてやるからな。我らが何の為に社交界で花形であらねばならぬか、その意味を噛み締めろ。よいなっ!」
無言で深く頭を下げたアドニスを一瞥したネスラン侯爵は、舌打ちを残して部屋を出て行った。
アドニスは下げた頭を戻すことなく俯き続けている。噛み締めた歯からギリギリという音が止んだ時、アドニスはぽつりと呟いた。
「サブリナ、僕は負けないからね」と──
◇*◇*◇*◇*◇
サブリナは小走りに王都の裏通りを急ぎ、アドニスとの待ち合わせの場所へと向かっていた。
すっかり約束の時間に遅れてしまっており気持ちは焦っているのだが、スカートが邪魔して上手く走れない。
(ああもう、お父様の分からず屋!)
父親のレイモンド伯爵にサブリナが悪態をついたのは、今日こうして遅刻してしまった原因が彼にあったからだ。
というのも、今回の婚約破棄の件でサブリナは父親から謹慎を言い渡されていて、家を内緒で脱け出す事に苦労する羽目となっている。
むろんレイモンド伯爵にしてみれば娘のした他家の令嬢への虐待の数々を、見逃すわけにはいかなかったのであろう。
それなのに当の本人であるサブリナは、証拠の訴状を見せても事実無根だと言い訳をする有り様なのだ。
婚約者があの遊び人で有名なアドニスであった事を鑑みれば、サブリナへの同情の余地は少なくないと思ってもいた。
しかしサブリナからの謝罪は婚約破棄によってレイモンド家に迷惑をかけた事へのみで、被害にあった令嬢たちへは一切ない。
温厚と言われるレイモンド伯爵とてまったく反省の色の見えない娘に、『儂は育て方を間違えたのか? サブリナの奴め、自分のする事を今は黙って信じて欲しいの一点張りでは話にならん!』と、酷くおかんむりなのである。
(お父様のお気持ちは分かるけど……)
サブリナは盛大に溜め息を吐いて、とにかく今は急ごうと小走りをつづけた。
やがて待ち合わせ場所にアドニスの後ろ姿が見えてくる。
(アドニス様っ! あっ……え?)
だがそこに居たアドニスは、一人で待ってはいなかった。それに気付くのが一瞬遅れたサブリナは、アドニスと一緒にいた数名の男女がすでに自分に気付いている事に顔色を悪くする。
「あら? あなたサブリナ様じゃない。急いでどちらへ行かれるの?」
「おやおや、アドニス様の元婚約者殿だ。影が薄いものだから危うく無視してしまうところだった」
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しかしアドニスは無言であり、遊び人風の笑顔を浮かべたその表情からは何も読み取れない。
ともあれ自分は偶然を装うしかないと思ったサブリナは、卒のない返事だけをして今日の逢瀬は諦めることにした。
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「!!」
その男の一言でこれが偶然ではなく、アドニスが故意に彼らを連れてきたことをサブリナは知る。
それでもアドニスの心変わりを疑うような事は一切なかった。というか考えもしていない。しかし当のアドニスにとっては、そういうワケにはいかなかった様である。
(あっ!)
アドニスが歯を食い縛りながら自分の長くて美しい金髪を、いやそのズラを、強く握りしめて引き剥がそうとしているのをサブリナは見た。
(そ、それはまだ駄目っ!)
「ア、アドニス様っ! 貴方様のお覚悟は伝わりましてよ。ですからおやめになって!」
アドニスは自分に二心がない事をサブリナに伝えるには、禿げ頭を晒すしかないと思った。全てを捨てる覚悟を示せば、サブリナにその気持ちが通じるはずだと。
そしてまさにサブリナにはアドニスのその意図がすぐに分かったようである。
「なんだ覚悟って?」
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