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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/
ネイキッドと翼 72
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茉世が起き上がったため、黒猫は布団から転がり落ちた。
目覚まし時計を叩いて音を消す。
厭な夢をみた。だが所詮は夢である。しかし肝に銘じておくべきことなのだろう。夢だと割り切ることもできなかった。
寝間着のまま部屋を出る。顔を洗って着替え、その後に朝食だ。
廊下で、炎と鉢合わせた。今日、鱗獣院家に帰るという。
「おはようございます」
「おはよ」
大きな掌が頭に乗った。見た目は大柄で、とてもそうは思えないが年下の高校生である。しかし庇護的な役割りを担う年長者のような温かさに、茉世は眉尻を下げた。夢のなかでされた指摘が胸を打つ。恥ずべきことだ。覆い隠すべき性質だ。あれが夢でよかったとさえ彼女は思い直した。
「辜礫築の倅がゴホゴホやってたぜ。風邪かもな」
「……るりるりに……永世さんのお友達に様子を見にいってもらいます……」
「先に言っておくが、分家の看病はよっぽどの事情がないかぎり本家はやらない。穢れが伝染るからな。やるのは分家か、本家の嫁か、部外者だけだ」
「わたしと御園生くんで、どうにか……」
だが御園生瑠璃はここのところ、スーパーマーケットのアルバイトで忙しいようだった。
「辜礫築の倅と何があったか知らねーが、深く考えることじゃねーや。相手は病人。あんたはやることをやりゃいい」
肩に置かれた手から体温が伝わる。皮膚は硬いが、身体に密着するようだった。
「ありがとうございます」
「あんたはあんたらしくしてりゃいい。多少何かしら、誰かとぶつかったり、失敗することもあるだろうよ。傷付けちまうこともな。ンでも、あんたのこだわりで助かる人間もいる」
背中を叩いて炎は茶の間へ向かっていく。茉世は永世のことが気になった。風邪というのは本当だろうか。揶揄われているだけではなかろうか。
顔を洗い、着替えてから永世の寝泊まりしている部屋の襖をノックする。
「茉世です」
返事と咳が聞こえた。開けると砂色ともセピアともいえない色味の遮光カーテンが太陽を透かしていた。微かな赤味を帯びた黄色の暗がりのなかに布団が敷かれている。
「……すみません。今、起きます」
鼓膜を鑢で擦られるような咳をして、永世は身体を起こした。
「体調が悪いのではありませんか。体温計とお水を持ってきます。まだ寝ていてください」
夢のなかでの会話が甦った。否定したくなった。無かったことにしたかった。彼女は努めて、作為的に、冷たい声音で接した。
茶の間ではすでに朝飯の時間が始まっていた。部屋の隅に置かれた猫用キャリーケースで、猫が騒いでいる。
「辜礫築の倅はなんだって?」
茶の間に咲いていた会話が途切れる。炎の一言によって、茉世は一斉に視線を浴びた。目を合わせた炎は、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。様子を見にいったことを見抜かれている。
「永ちゃん何かあったの?」
「体調が優れないようです」
「えっ! 熱はあるんですか?」
霖が訊ねた。
「今、測りにいくところです。でも怠そうでしたから……もしかしたら……」
「蘭兄ちゃん、いいの?」
眉を顰めて義姉を睨んでいた禅は蘭を見遣る。だが蘭よりも先に炎が反応を示した。
「基本的に本家は分家の看病はできねー仕来りだ。オレ様はこのあと帰っちまう。諺坊もそうだし、看病なんざできる歳でもねーだろ。となれば残るは嫁の茉世か家事代行。そこは話し合って決めてくれ」
炎は誰を見ることもなかった。
「茉世ちゃんにお願いしてもいいかな」
「承知しました」
こうして話は落ち着くはずであったが、禅はそれを赦すだろうか。
「待ってよ、蘭兄! いいの……? そんなの……」
禅が声を荒げた。けれど本人たちを前に躊躇もあるらしい。徐々に語気が弱まっていく。
「じゃあ、家事代行さんに頼むの?」
「それがいいでしょ」
蘭は末弟に微苦笑を浮かべ、そのまま茉世を向いた。
「じゃあ、ゴメン。茉世ちゃん、大丈夫」
「承知しました。体温計とお水だけ運んでおきます」
最も丸く収まる采配だ。異論があるはずはない。
襖を叩く。返事も待たずに開くと、永世は上体を重げに立たせた。
「家事代行の方が様子を見に来てくれるそうです。勝手に出入りするよう伝えておきますから、安静にしていてくださいな」
まるで昨晩、拒まれた当て付け、逆恨みのように彼女の言葉は吐き捨てるようだった。だが彼女にも言い分はある。夢のなかでの指摘に狼狽えているのだ。周りを欺けても、己だけは欺けない。そしてそれはやがて欺くはずの周りの眼差しを借りていく。
「ぼくは何ともないです……大丈夫ですよ。今、起きます」
「まずは体温を測ることですね。水も飲んでください。それでは失礼します」
茉世は後ろ手に襖を閉めた。永世を傷付けたであろうか。否、傷付く理由はない。何とも思っていない女が多少よそよそしい態度をとったとて、気付きもしないだろう。何故ならば、何とも思っていないからだ。
やがて朝飯の時間になって御園生と合流する。いつもならば永世の部屋で食っていたが、今日は茉世の部屋に集まった。
「粥とかうどんとか買ってきたほうがいいか~?」
芋の味噌汁を掻き回しながら御園生が言った。
「台所の家事代行の方が、献立は考えてくださると思うし……分からないけど!」
「じゃあ、それはおれから訊いてみとくわ」
家事代行といえば、御園生瑠璃も建前上は家事代行業として三途賽川に身を寄せていた。
「うん。ごめんね、忙しいのに」
「何言ってんだよ。久遠きゅんはおれのマブダチでもあるから。まっちゃんが気にすることじゃねぇって」
茉世はとうとう、三途賽川の閉鎖的で前時代的な仕来りについて御園生瑠璃に打ち明けなければならなかった。末弟の猛反対についても説明した。しかし言及していないこともある。
「男同士で世話したほうが互いにやりやすいだろ」
御園生瑠璃は朗らかだ。その快活さに後ろめたさが募っていく。目の前にいる女の罪深さなど、考える由もない。
飯を食い終わると、炎と諺を見送るために外へ出た。黒塗りの艷やかな車が、本家より高い鱗獣院家の格を窺わせる。車に乗り込んだ炎は窓越しに茉世を見詰めていた。手を振る。厚みのある唇に微笑が浮かんだ。窓硝子が下へと滑っていく。
「茉世」
「はあ」
何の用かと耳を寄せる。
「ひとつ、嘘を吐いていたことがある」
「なんですか?」
その笑みからして、深刻な内容ではないようだ。高校生男子らしい、揶揄の笑みだ。
「オレがイイって思った相手だけだ。オレ様に近付いてムラつかせちまうの」
茉世は顔を赤くした。炎は顔を逸らし、まだ笑っていた。ウインドーが上昇していく。
「なんだかんだで寂しくなりますね」
鱗獣院家の車が去っていくと、霖が口を開く。
「それなんだけど……今度は月くんが来ます」
蘭が答えた。茉世は振り返る。目が合った。
「月さんって、鏡花辺津の?」
霖が訊き返す。
「うん」
また何か、身に迫る危険があるのかと茉世は問おうとした。だがそこには霖がいる。脅かしたくはなかった。大した心的傷害は受けていないように思えたが、実際の内心は分からない。およそ高校生の味わう経験としては奇特でなかろうか。
「だから茉世ちゃん、気が休まらないと思うケド、よろしくね」
「い……いいえ……」
「月くんなら永ちゃんのことも任せられるし。すぐ治ればいいケド、夜中はほら、家事代行さん帰っちゃうから」
3人は家の中へと入っていった。茉世はその足で永世の部屋の前に近付いた。無音。踵を返すのと同時に咳が聞こえた。ペットボトルのキャップを外しているらしい。
『あっ……』
その後、微かに鈍い音があった。ペットボトルを落としたらしい。
身体が動いていた。茉世は襖を開く。
「入ります」
永世に拒否権はなかった。彼は落ち窪んだ感じのある目を茉世に向けた。ペットボトルのキャップを閉めようとしているところだったらしい。畳には小さな水溜りができて、彼の寝間着は濡れている。
「すみません……水を溢してしまって……今、拭きますので……」
平生とは違う掠れた声が茉世の神経を尖らせる。起き上がろうとする病人を制して、彼女は部屋の隅に積まれたタオルを取った。
「脱いでください。冷えますから」
「大丈夫ですよ、すぐ乾きますし……」
「汗もかいているでしょう」
手渡しても揉まれるだけのタオルを奪い取り、茉世は勝手に病人の汗ばんだ身体を拭きはじめた。
この男の素顔を知ろうとするのは傲慢だ。傲慢ではいけない。素顔を知ってはならない。素顔を見せられるのは傲慢だ!
「茉世さん……?」
彼女は応えもしない。寝間着の濡れた部分をタオルで叩く。
「身体も拭いてしまいます。」
タオルを畳み直して構える。永世がボタンを外すのを待ったが、彼は戸惑っているようだった。
「自分でやります。さすがに悪いです……」
「大丈夫ですよ。永世さんのことは、何とも思っていませんから」
彼女は目元を引き攣らせた。傲慢ではいけないのだ。彼の素顔を知ってはいけない。知ろうとするのは傲慢だ。自分はそのような人間ではないのだ。そういう人間になってはならない。
「……っ、」
日光の遮られた薄暗い部屋のなかの空気が粗くなる。
「―ですがやはり、本家のお嫁さんにこんなこと、させられませんよ」
「………永世さんのことは友人と思っていますから……………」
傲慢ではいけない。謙虚な人間であるべきだ。蓮の指摘は魚の小骨に思われた釘だ。喉に引っ掛かったまま抜けない。そのうちに錆びて膿んでいく。
「ですがぼくにとっては、そうではありません」
あくまでも本家の嫁。そういうことなのだろう。そして本家の嫁として、本家の末男がこの病人に近付くことを嫌がっている。
友人というのは御園生瑠璃との間柄のことをいうのだ。御園生瑠璃はこの者の隣に立ち、助け合える関係だ。一体自分はこの者に何をしてやれたのか。茉世は思い返した。友人などと口にするのもまた思い上がりだった。何もない。空虚な関係だ。人付き合いの少なさによって勘違いした。彼女が1人の人と分かち合いたいと思ったときに、世間の連中は5人10人と関係を深めている。本当に友人関係にあるならば、家の命で異性として肉体を交わしはしないのだ。
「そうですか。承知しました。よく身体を拭いて、着替えてくださいね。そのうち家事代行の方がいらっしゃるかと思います」
タオルを布団の上に置いた。立ち上がろうとしたときに、汗ばんだ手に掴まれる。茉世の頬に緊張が走った。
「何か?」
だが声を低め、努めて平静を装った。
返事はない。普段よりも荒く深い吐息が目立つのみ。熱気の籠もる目から視線を逸らせない。重力も縦横左右上下の位置関係も無に帰して、その目のなかに吸い込まれ、墜落していきそうである。パラシュートのないスカイダイビングだ。紐のないバンジージャンプだ。
ねっとりとした沈黙が、彼女に着地の恐怖を想像させる。しかし甘美だった。沈黙が粘こいように、鼻を包む噎せ返るような蒸れに蒸れた爽やかな花の香りで頭がおかしくなりそうだった。
汗が吹き出て、額を滴る。他人の汗を気にしている場合ではない。
「な、なんですか……」
声をかけると永世は顔を背けた。小さな咳を二度三度繰り返す。
「ごめんなさい。うつしてしまうと悪いと思って……」
しかし彼の手は茉世を放さない。
「あの……?」
「上半身だけ……拭いてもらってもいいですか。一転二転させてしまって申し訳ないのですが……」
茉世は嫌になった。またもや彼に自己を磨り減らす真似をさせている。断られて機嫌を悪くした女に彼は譲歩している。阿り、忖度したのだ。彼女は理解した。
「いいえ。家事代行の方に拭いてもらってください。では」
汗ばむ手を振り払い、彼女は部屋を出た。一体何をしに来たのか。
もう関わらないほうがいい。あの男とは関わらないほうがいいのだ。自室に戻ると、黒い猫の長鳴きに出迎えられる。
自分は傲慢な人間ではない。彼を知ろうとはしていない。茉世は毛尨に構いもせず、ぼんやりしていた。
昼を過ぎると、来訪者があった。蘭たちは出掛けていたために茉世が玄関へと出る。話に挙がっていた鏡花辺津月かと思われたが、違っていた。スーツ姿で社員証を下げている。三途賽川には需要のない営業をしにきた者かと断る文言を探っていた。
「三途賽川様のご自宅でお間違いないでしょうか……?」
来訪者は適当な挨拶を述べると名刺を渡した。タレント事務所のマネージャーだという。蓮と連絡が取れないという内容であった。だが当の三途賽川もまた蓮との連絡が取れていない。捜索願を出すと蘭は言っていたが、本当に出したのであろうか疑わしい様子であった。誰一人として蓮の安否を心配している様子もない。家が家なだけに大事にしたくないのであろうか。
「蓮さんとはモデル契約をしておりまして、家族にはご内密にという話ではありましたが、こうなってしまったからには弊社といたしましても……」
無責任な次男はハンドメイドの女性向けアクセサリーで名の売れた作家で、自身で着用モデルも務めているのだという。来訪者はそのマネージャーらしい。
「主人が帰宅しましたらご連絡差し上げます。遠路遥々お越しいただいたところ申し訳ないのですが、わたしでは何も……」
茉世は以前渡された耳飾りのことを思い出した。混乱しながら、用意したフレーズを口にする。
世間では大学生として、社会とはアクセサリー作家として、個人的には恩師と関わりがありながら、何故姿を晦ましたのか。
「大変言いづらいことではあるのですけれども、何か事件に巻き込まれたということは……」
「義弟は財布もスマートフォンも自ら置いて出ていったように思われます。ですから事件に巻き込まれたというのは……断定はできませんが……主人が捜索願を出したので……」
だが本当に捜索願は出されているのか。
「左様でございますか……」
来訪者がふと顔を上げた。茉世はその視線の先につられて後ろを振り向く。紺色の寝間着に着替えた永世が台所に入っていくところだった。来訪者は不躾に玄関の奥に視線をやっている。見惚れている。
「あ……あの者は親戚で……家の者ではなくて……」
女では話にならない、父兄を出せと言いたいのだろう。三途賽川の家訓を経れば、そう思うのも無理からぬことだ。
「どこかモデル契約をされていたりは……?」
「え! いいえ……していないと思いますが……訊いてみたほうがいいですか」
聞いたことがない。しかし聞かされていないだけなのかもしれない。彼の何を知っているのか。
「ぜひともよろしくお願いいたします」
マネージャーだという来訪者はふたたび名刺入れを出し、慌てた作法でもう一枚名刺を差し出す。
「体調不良で伏せっておりますから、冷静な判断もできないでしょうし、すぐにお返事をするというわけにはいかないでしょうが……」
「ええ、もちろん、もちろん。今日は蓮さんのことを伺いに参った次第ですので」
「はあ。では、何か分かったらまた……」
蓮の来訪者は帰っていく。茉世は台所を覗いた。永世はいない。彼の部屋に向かう。
「わたしです」
襖を叩くと、気怠げな返事があった。
「汗を拭いて、着替えましたよ」
永世は布団に座りながら両腕を広げると、気の強そうな含みのある微笑を見せた。ばつが悪い。
「脱いだものはどうしましたか」
脱ぎ捨ててあるものかと思ったが、使用したタオルも消えていた。
「お風呂場に運びました」
「そうですか」
「茉世さんが遊びにきてくださって嬉しいです」
それは嫌味ではないようだった。室内に籠もる温気に中てられた。茉世は顔面が蒸されてしまった。
「用があって来たんです」
彼は首を傾げた。その所作がどこかあざとい。茉世は名刺を一枚、作法もへったくれもなく手渡した。
「モデル事務所の方が、永世さんをスカウトしたいようです」
「一体どうして……? いつ、ぼくを……」
炎や蓮、青山愛と並んでしまえば紛れるが、彼も世間一般でいえば背は高いほうである。手脚は長く、胴は短く、腰の位置は高い。頭も顔も小さいために、さらに背丈があるように見えた。
茉世は渦を呑んだ。胸の辺りに留まって、逆巻いている。
「ついさっきです。モデル事務所の方がいらっしゃったので。絆さんのことじゃないですか」
あの来訪者の口振りからして、蓮の活動は家族であろうと公にすべきことではないのだろう。
永世は名刺をまた読んでいた。ぎこちない。嘘だと悟られているのが分かった。だが彼は言及しない。
「どうしましょうか」
「永世さんの好きにすればいいのでは」
努めて冷静に、努めて冷淡に、努めて淡泊に答えた。
「迷いますね」
「綺麗な女優さんと、付き合えたりするんじゃないですか……いいですね、何かしら取柄があると」
彼女はわざと嫌味を言った。海外美女と出会う前に、垢抜けた国内美女と遊び歩くこともできる。夢のある話だ。ゆえに遠い。
「妄想している間が華ですね、こういうのは。お断りします。魅力的な話ですが、性に合いませんから」
「様になりそうですけれど……」
それは本音だった。麦藁帽子に白いシャツ、薄汚れたアームカバー、土まみれの長靴を履いて菜園に立つ。それだけで強く惹かれる。目を逸らせない。網膜を灼かれるようだ。
「あっはっは……それなら、もうモデル活動をする必要はありませんね」
持たざる者には分からない精神性だ。
「伝えることは伝えました」
畳に手をつく。腰を上げて、立とうとする。
『ごめんくださーい』
玄関から聞こえた声に焦った。足首を捻り、よろめく。
「茉世さん」
布団から紺色の物体が這い出てきた。前へ倒れるはずの身体は、なんとか腕をついて持ち堪える。肩に熱気を帯びた手が当たっている。
「大丈夫ですか」
顔を上げると、鼻先の触れそうなところに永世がいた。人工的な花の香りが濃くなった。情緒に作用するという点で、悪臭と大差がない。視線が絡み合い、身動きがとれなくなった。ただそこにある瞳を眺めていることしかできない。
彼女は静止していたのかもしれないが、この引力と遠心力が程よく働いている星で、彼女の身体は浮遊しているようでもあった。
そしてそれは彼女だけではなかった。引かれ合っていく。惹かれていた。
『ごめんくださーい』
玄関から、また大きな声があった。我に返る。茉世は玄関へと急いでいった。今度こそ鏡花辺津月であった。磨り硝子に映る姿は喪服のようで、実際彼はダークスーツで、逆光しているとブラックスーツ同然であった。
「お久し振りです、奥様」
「お久し振りです……主人は出払っておりまして、何のおもてなしもできませんが……」
茶の間へ通し、飲み物を用意する。鏡花辺津月は室内を見回していた。髪が黒く、色は白く、一見すると蓮に似ているが、柔和に細められた目元や、終始緩やかな口元など顔立ちは正反対である。肉付きも鏡花辺津月のほうは華奢な印象がある。
「お気遣いなく」
茶を出したときに構えられた手の指の感じも蓮とは違って骨張って節榑立っている。
「鱗獣院さんに呼ばれましてね。これは"行かな"思いまして。遅れてしまってすみません。久遠くんが寝込んでるとも聞いていますから、まずは挨拶でも。寝てはりますかね?」
「様子をみてまいります」
「いえいえ、それには及びません」
「多分起きていると思いますよ」
茉世は永世の寝泊まりしている部屋へ案内した。襖を叩く。応答の後、鏡花辺津月が来ていることを告げて中へと入る。
「お久し振りです」
「この前会ったような気もしますがね」
永世は水を飲んでいるところだった。
「こんな状態ですみません」
「久遠くんの看病に来たんですから、気にせんといてください」
辜礫築家と鏡花辺津家は同じ分家の鱗獣院家ほど格差がないのか、永世と月は砕けた態度で接している。
「いや、思ったより元気そうでよかった。炎の坊っちゃんが言うところじゃ、明日が山だ、くらい言ってはりましたからねぇ」
「それは誇張表現ですよ。ぴんぴんしてます」
「でもあんまりヤンチャしてると、茉世奥様が困るでしょう。いけませんわ、本家のお嫁さん困らしたら」
熱の籠った目が茉世を向いている。鏡花辺津月の言葉に笑みで応えながら、その眼差しは笑っていない。
「積もる話もあるでしょうから、わたしはこれで……玄関入ってすぐの部屋におりますので、何かありましたら……」
茉世は逃げた。永世の目が怖い。何も興味がないのだと、婉曲的に口にしておきながら、獲って食いたがっているような眼差しを遠慮なく注がれている。
胸が疼いた。戸惑っている。悲しみと落胆と残酷な悦びが混ざり合って、汚泥と化している。
目覚まし時計を叩いて音を消す。
厭な夢をみた。だが所詮は夢である。しかし肝に銘じておくべきことなのだろう。夢だと割り切ることもできなかった。
寝間着のまま部屋を出る。顔を洗って着替え、その後に朝食だ。
廊下で、炎と鉢合わせた。今日、鱗獣院家に帰るという。
「おはようございます」
「おはよ」
大きな掌が頭に乗った。見た目は大柄で、とてもそうは思えないが年下の高校生である。しかし庇護的な役割りを担う年長者のような温かさに、茉世は眉尻を下げた。夢のなかでされた指摘が胸を打つ。恥ずべきことだ。覆い隠すべき性質だ。あれが夢でよかったとさえ彼女は思い直した。
「辜礫築の倅がゴホゴホやってたぜ。風邪かもな」
「……るりるりに……永世さんのお友達に様子を見にいってもらいます……」
「先に言っておくが、分家の看病はよっぽどの事情がないかぎり本家はやらない。穢れが伝染るからな。やるのは分家か、本家の嫁か、部外者だけだ」
「わたしと御園生くんで、どうにか……」
だが御園生瑠璃はここのところ、スーパーマーケットのアルバイトで忙しいようだった。
「辜礫築の倅と何があったか知らねーが、深く考えることじゃねーや。相手は病人。あんたはやることをやりゃいい」
肩に置かれた手から体温が伝わる。皮膚は硬いが、身体に密着するようだった。
「ありがとうございます」
「あんたはあんたらしくしてりゃいい。多少何かしら、誰かとぶつかったり、失敗することもあるだろうよ。傷付けちまうこともな。ンでも、あんたのこだわりで助かる人間もいる」
背中を叩いて炎は茶の間へ向かっていく。茉世は永世のことが気になった。風邪というのは本当だろうか。揶揄われているだけではなかろうか。
顔を洗い、着替えてから永世の寝泊まりしている部屋の襖をノックする。
「茉世です」
返事と咳が聞こえた。開けると砂色ともセピアともいえない色味の遮光カーテンが太陽を透かしていた。微かな赤味を帯びた黄色の暗がりのなかに布団が敷かれている。
「……すみません。今、起きます」
鼓膜を鑢で擦られるような咳をして、永世は身体を起こした。
「体調が悪いのではありませんか。体温計とお水を持ってきます。まだ寝ていてください」
夢のなかでの会話が甦った。否定したくなった。無かったことにしたかった。彼女は努めて、作為的に、冷たい声音で接した。
茶の間ではすでに朝飯の時間が始まっていた。部屋の隅に置かれた猫用キャリーケースで、猫が騒いでいる。
「辜礫築の倅はなんだって?」
茶の間に咲いていた会話が途切れる。炎の一言によって、茉世は一斉に視線を浴びた。目を合わせた炎は、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。様子を見にいったことを見抜かれている。
「永ちゃん何かあったの?」
「体調が優れないようです」
「えっ! 熱はあるんですか?」
霖が訊ねた。
「今、測りにいくところです。でも怠そうでしたから……もしかしたら……」
「蘭兄ちゃん、いいの?」
眉を顰めて義姉を睨んでいた禅は蘭を見遣る。だが蘭よりも先に炎が反応を示した。
「基本的に本家は分家の看病はできねー仕来りだ。オレ様はこのあと帰っちまう。諺坊もそうだし、看病なんざできる歳でもねーだろ。となれば残るは嫁の茉世か家事代行。そこは話し合って決めてくれ」
炎は誰を見ることもなかった。
「茉世ちゃんにお願いしてもいいかな」
「承知しました」
こうして話は落ち着くはずであったが、禅はそれを赦すだろうか。
「待ってよ、蘭兄! いいの……? そんなの……」
禅が声を荒げた。けれど本人たちを前に躊躇もあるらしい。徐々に語気が弱まっていく。
「じゃあ、家事代行さんに頼むの?」
「それがいいでしょ」
蘭は末弟に微苦笑を浮かべ、そのまま茉世を向いた。
「じゃあ、ゴメン。茉世ちゃん、大丈夫」
「承知しました。体温計とお水だけ運んでおきます」
最も丸く収まる采配だ。異論があるはずはない。
襖を叩く。返事も待たずに開くと、永世は上体を重げに立たせた。
「家事代行の方が様子を見に来てくれるそうです。勝手に出入りするよう伝えておきますから、安静にしていてくださいな」
まるで昨晩、拒まれた当て付け、逆恨みのように彼女の言葉は吐き捨てるようだった。だが彼女にも言い分はある。夢のなかでの指摘に狼狽えているのだ。周りを欺けても、己だけは欺けない。そしてそれはやがて欺くはずの周りの眼差しを借りていく。
「ぼくは何ともないです……大丈夫ですよ。今、起きます」
「まずは体温を測ることですね。水も飲んでください。それでは失礼します」
茉世は後ろ手に襖を閉めた。永世を傷付けたであろうか。否、傷付く理由はない。何とも思っていない女が多少よそよそしい態度をとったとて、気付きもしないだろう。何故ならば、何とも思っていないからだ。
やがて朝飯の時間になって御園生と合流する。いつもならば永世の部屋で食っていたが、今日は茉世の部屋に集まった。
「粥とかうどんとか買ってきたほうがいいか~?」
芋の味噌汁を掻き回しながら御園生が言った。
「台所の家事代行の方が、献立は考えてくださると思うし……分からないけど!」
「じゃあ、それはおれから訊いてみとくわ」
家事代行といえば、御園生瑠璃も建前上は家事代行業として三途賽川に身を寄せていた。
「うん。ごめんね、忙しいのに」
「何言ってんだよ。久遠きゅんはおれのマブダチでもあるから。まっちゃんが気にすることじゃねぇって」
茉世はとうとう、三途賽川の閉鎖的で前時代的な仕来りについて御園生瑠璃に打ち明けなければならなかった。末弟の猛反対についても説明した。しかし言及していないこともある。
「男同士で世話したほうが互いにやりやすいだろ」
御園生瑠璃は朗らかだ。その快活さに後ろめたさが募っていく。目の前にいる女の罪深さなど、考える由もない。
飯を食い終わると、炎と諺を見送るために外へ出た。黒塗りの艷やかな車が、本家より高い鱗獣院家の格を窺わせる。車に乗り込んだ炎は窓越しに茉世を見詰めていた。手を振る。厚みのある唇に微笑が浮かんだ。窓硝子が下へと滑っていく。
「茉世」
「はあ」
何の用かと耳を寄せる。
「ひとつ、嘘を吐いていたことがある」
「なんですか?」
その笑みからして、深刻な内容ではないようだ。高校生男子らしい、揶揄の笑みだ。
「オレがイイって思った相手だけだ。オレ様に近付いてムラつかせちまうの」
茉世は顔を赤くした。炎は顔を逸らし、まだ笑っていた。ウインドーが上昇していく。
「なんだかんだで寂しくなりますね」
鱗獣院家の車が去っていくと、霖が口を開く。
「それなんだけど……今度は月くんが来ます」
蘭が答えた。茉世は振り返る。目が合った。
「月さんって、鏡花辺津の?」
霖が訊き返す。
「うん」
また何か、身に迫る危険があるのかと茉世は問おうとした。だがそこには霖がいる。脅かしたくはなかった。大した心的傷害は受けていないように思えたが、実際の内心は分からない。およそ高校生の味わう経験としては奇特でなかろうか。
「だから茉世ちゃん、気が休まらないと思うケド、よろしくね」
「い……いいえ……」
「月くんなら永ちゃんのことも任せられるし。すぐ治ればいいケド、夜中はほら、家事代行さん帰っちゃうから」
3人は家の中へと入っていった。茉世はその足で永世の部屋の前に近付いた。無音。踵を返すのと同時に咳が聞こえた。ペットボトルのキャップを外しているらしい。
『あっ……』
その後、微かに鈍い音があった。ペットボトルを落としたらしい。
身体が動いていた。茉世は襖を開く。
「入ります」
永世に拒否権はなかった。彼は落ち窪んだ感じのある目を茉世に向けた。ペットボトルのキャップを閉めようとしているところだったらしい。畳には小さな水溜りができて、彼の寝間着は濡れている。
「すみません……水を溢してしまって……今、拭きますので……」
平生とは違う掠れた声が茉世の神経を尖らせる。起き上がろうとする病人を制して、彼女は部屋の隅に積まれたタオルを取った。
「脱いでください。冷えますから」
「大丈夫ですよ、すぐ乾きますし……」
「汗もかいているでしょう」
手渡しても揉まれるだけのタオルを奪い取り、茉世は勝手に病人の汗ばんだ身体を拭きはじめた。
この男の素顔を知ろうとするのは傲慢だ。傲慢ではいけない。素顔を知ってはならない。素顔を見せられるのは傲慢だ!
「茉世さん……?」
彼女は応えもしない。寝間着の濡れた部分をタオルで叩く。
「身体も拭いてしまいます。」
タオルを畳み直して構える。永世がボタンを外すのを待ったが、彼は戸惑っているようだった。
「自分でやります。さすがに悪いです……」
「大丈夫ですよ。永世さんのことは、何とも思っていませんから」
彼女は目元を引き攣らせた。傲慢ではいけないのだ。彼の素顔を知ってはいけない。知ろうとするのは傲慢だ。自分はそのような人間ではないのだ。そういう人間になってはならない。
「……っ、」
日光の遮られた薄暗い部屋のなかの空気が粗くなる。
「―ですがやはり、本家のお嫁さんにこんなこと、させられませんよ」
「………永世さんのことは友人と思っていますから……………」
傲慢ではいけない。謙虚な人間であるべきだ。蓮の指摘は魚の小骨に思われた釘だ。喉に引っ掛かったまま抜けない。そのうちに錆びて膿んでいく。
「ですがぼくにとっては、そうではありません」
あくまでも本家の嫁。そういうことなのだろう。そして本家の嫁として、本家の末男がこの病人に近付くことを嫌がっている。
友人というのは御園生瑠璃との間柄のことをいうのだ。御園生瑠璃はこの者の隣に立ち、助け合える関係だ。一体自分はこの者に何をしてやれたのか。茉世は思い返した。友人などと口にするのもまた思い上がりだった。何もない。空虚な関係だ。人付き合いの少なさによって勘違いした。彼女が1人の人と分かち合いたいと思ったときに、世間の連中は5人10人と関係を深めている。本当に友人関係にあるならば、家の命で異性として肉体を交わしはしないのだ。
「そうですか。承知しました。よく身体を拭いて、着替えてくださいね。そのうち家事代行の方がいらっしゃるかと思います」
タオルを布団の上に置いた。立ち上がろうとしたときに、汗ばんだ手に掴まれる。茉世の頬に緊張が走った。
「何か?」
だが声を低め、努めて平静を装った。
返事はない。普段よりも荒く深い吐息が目立つのみ。熱気の籠もる目から視線を逸らせない。重力も縦横左右上下の位置関係も無に帰して、その目のなかに吸い込まれ、墜落していきそうである。パラシュートのないスカイダイビングだ。紐のないバンジージャンプだ。
ねっとりとした沈黙が、彼女に着地の恐怖を想像させる。しかし甘美だった。沈黙が粘こいように、鼻を包む噎せ返るような蒸れに蒸れた爽やかな花の香りで頭がおかしくなりそうだった。
汗が吹き出て、額を滴る。他人の汗を気にしている場合ではない。
「な、なんですか……」
声をかけると永世は顔を背けた。小さな咳を二度三度繰り返す。
「ごめんなさい。うつしてしまうと悪いと思って……」
しかし彼の手は茉世を放さない。
「あの……?」
「上半身だけ……拭いてもらってもいいですか。一転二転させてしまって申し訳ないのですが……」
茉世は嫌になった。またもや彼に自己を磨り減らす真似をさせている。断られて機嫌を悪くした女に彼は譲歩している。阿り、忖度したのだ。彼女は理解した。
「いいえ。家事代行の方に拭いてもらってください。では」
汗ばむ手を振り払い、彼女は部屋を出た。一体何をしに来たのか。
もう関わらないほうがいい。あの男とは関わらないほうがいいのだ。自室に戻ると、黒い猫の長鳴きに出迎えられる。
自分は傲慢な人間ではない。彼を知ろうとはしていない。茉世は毛尨に構いもせず、ぼんやりしていた。
昼を過ぎると、来訪者があった。蘭たちは出掛けていたために茉世が玄関へと出る。話に挙がっていた鏡花辺津月かと思われたが、違っていた。スーツ姿で社員証を下げている。三途賽川には需要のない営業をしにきた者かと断る文言を探っていた。
「三途賽川様のご自宅でお間違いないでしょうか……?」
来訪者は適当な挨拶を述べると名刺を渡した。タレント事務所のマネージャーだという。蓮と連絡が取れないという内容であった。だが当の三途賽川もまた蓮との連絡が取れていない。捜索願を出すと蘭は言っていたが、本当に出したのであろうか疑わしい様子であった。誰一人として蓮の安否を心配している様子もない。家が家なだけに大事にしたくないのであろうか。
「蓮さんとはモデル契約をしておりまして、家族にはご内密にという話ではありましたが、こうなってしまったからには弊社といたしましても……」
無責任な次男はハンドメイドの女性向けアクセサリーで名の売れた作家で、自身で着用モデルも務めているのだという。来訪者はそのマネージャーらしい。
「主人が帰宅しましたらご連絡差し上げます。遠路遥々お越しいただいたところ申し訳ないのですが、わたしでは何も……」
茉世は以前渡された耳飾りのことを思い出した。混乱しながら、用意したフレーズを口にする。
世間では大学生として、社会とはアクセサリー作家として、個人的には恩師と関わりがありながら、何故姿を晦ましたのか。
「大変言いづらいことではあるのですけれども、何か事件に巻き込まれたということは……」
「義弟は財布もスマートフォンも自ら置いて出ていったように思われます。ですから事件に巻き込まれたというのは……断定はできませんが……主人が捜索願を出したので……」
だが本当に捜索願は出されているのか。
「左様でございますか……」
来訪者がふと顔を上げた。茉世はその視線の先につられて後ろを振り向く。紺色の寝間着に着替えた永世が台所に入っていくところだった。来訪者は不躾に玄関の奥に視線をやっている。見惚れている。
「あ……あの者は親戚で……家の者ではなくて……」
女では話にならない、父兄を出せと言いたいのだろう。三途賽川の家訓を経れば、そう思うのも無理からぬことだ。
「どこかモデル契約をされていたりは……?」
「え! いいえ……していないと思いますが……訊いてみたほうがいいですか」
聞いたことがない。しかし聞かされていないだけなのかもしれない。彼の何を知っているのか。
「ぜひともよろしくお願いいたします」
マネージャーだという来訪者はふたたび名刺入れを出し、慌てた作法でもう一枚名刺を差し出す。
「体調不良で伏せっておりますから、冷静な判断もできないでしょうし、すぐにお返事をするというわけにはいかないでしょうが……」
「ええ、もちろん、もちろん。今日は蓮さんのことを伺いに参った次第ですので」
「はあ。では、何か分かったらまた……」
蓮の来訪者は帰っていく。茉世は台所を覗いた。永世はいない。彼の部屋に向かう。
「わたしです」
襖を叩くと、気怠げな返事があった。
「汗を拭いて、着替えましたよ」
永世は布団に座りながら両腕を広げると、気の強そうな含みのある微笑を見せた。ばつが悪い。
「脱いだものはどうしましたか」
脱ぎ捨ててあるものかと思ったが、使用したタオルも消えていた。
「お風呂場に運びました」
「そうですか」
「茉世さんが遊びにきてくださって嬉しいです」
それは嫌味ではないようだった。室内に籠もる温気に中てられた。茉世は顔面が蒸されてしまった。
「用があって来たんです」
彼は首を傾げた。その所作がどこかあざとい。茉世は名刺を一枚、作法もへったくれもなく手渡した。
「モデル事務所の方が、永世さんをスカウトしたいようです」
「一体どうして……? いつ、ぼくを……」
炎や蓮、青山愛と並んでしまえば紛れるが、彼も世間一般でいえば背は高いほうである。手脚は長く、胴は短く、腰の位置は高い。頭も顔も小さいために、さらに背丈があるように見えた。
茉世は渦を呑んだ。胸の辺りに留まって、逆巻いている。
「ついさっきです。モデル事務所の方がいらっしゃったので。絆さんのことじゃないですか」
あの来訪者の口振りからして、蓮の活動は家族であろうと公にすべきことではないのだろう。
永世は名刺をまた読んでいた。ぎこちない。嘘だと悟られているのが分かった。だが彼は言及しない。
「どうしましょうか」
「永世さんの好きにすればいいのでは」
努めて冷静に、努めて冷淡に、努めて淡泊に答えた。
「迷いますね」
「綺麗な女優さんと、付き合えたりするんじゃないですか……いいですね、何かしら取柄があると」
彼女はわざと嫌味を言った。海外美女と出会う前に、垢抜けた国内美女と遊び歩くこともできる。夢のある話だ。ゆえに遠い。
「妄想している間が華ですね、こういうのは。お断りします。魅力的な話ですが、性に合いませんから」
「様になりそうですけれど……」
それは本音だった。麦藁帽子に白いシャツ、薄汚れたアームカバー、土まみれの長靴を履いて菜園に立つ。それだけで強く惹かれる。目を逸らせない。網膜を灼かれるようだ。
「あっはっは……それなら、もうモデル活動をする必要はありませんね」
持たざる者には分からない精神性だ。
「伝えることは伝えました」
畳に手をつく。腰を上げて、立とうとする。
『ごめんくださーい』
玄関から聞こえた声に焦った。足首を捻り、よろめく。
「茉世さん」
布団から紺色の物体が這い出てきた。前へ倒れるはずの身体は、なんとか腕をついて持ち堪える。肩に熱気を帯びた手が当たっている。
「大丈夫ですか」
顔を上げると、鼻先の触れそうなところに永世がいた。人工的な花の香りが濃くなった。情緒に作用するという点で、悪臭と大差がない。視線が絡み合い、身動きがとれなくなった。ただそこにある瞳を眺めていることしかできない。
彼女は静止していたのかもしれないが、この引力と遠心力が程よく働いている星で、彼女の身体は浮遊しているようでもあった。
そしてそれは彼女だけではなかった。引かれ合っていく。惹かれていた。
『ごめんくださーい』
玄関から、また大きな声があった。我に返る。茉世は玄関へと急いでいった。今度こそ鏡花辺津月であった。磨り硝子に映る姿は喪服のようで、実際彼はダークスーツで、逆光しているとブラックスーツ同然であった。
「お久し振りです、奥様」
「お久し振りです……主人は出払っておりまして、何のおもてなしもできませんが……」
茶の間へ通し、飲み物を用意する。鏡花辺津月は室内を見回していた。髪が黒く、色は白く、一見すると蓮に似ているが、柔和に細められた目元や、終始緩やかな口元など顔立ちは正反対である。肉付きも鏡花辺津月のほうは華奢な印象がある。
「お気遣いなく」
茶を出したときに構えられた手の指の感じも蓮とは違って骨張って節榑立っている。
「鱗獣院さんに呼ばれましてね。これは"行かな"思いまして。遅れてしまってすみません。久遠くんが寝込んでるとも聞いていますから、まずは挨拶でも。寝てはりますかね?」
「様子をみてまいります」
「いえいえ、それには及びません」
「多分起きていると思いますよ」
茉世は永世の寝泊まりしている部屋へ案内した。襖を叩く。応答の後、鏡花辺津月が来ていることを告げて中へと入る。
「お久し振りです」
「この前会ったような気もしますがね」
永世は水を飲んでいるところだった。
「こんな状態ですみません」
「久遠くんの看病に来たんですから、気にせんといてください」
辜礫築家と鏡花辺津家は同じ分家の鱗獣院家ほど格差がないのか、永世と月は砕けた態度で接している。
「いや、思ったより元気そうでよかった。炎の坊っちゃんが言うところじゃ、明日が山だ、くらい言ってはりましたからねぇ」
「それは誇張表現ですよ。ぴんぴんしてます」
「でもあんまりヤンチャしてると、茉世奥様が困るでしょう。いけませんわ、本家のお嫁さん困らしたら」
熱の籠った目が茉世を向いている。鏡花辺津月の言葉に笑みで応えながら、その眼差しは笑っていない。
「積もる話もあるでしょうから、わたしはこれで……玄関入ってすぐの部屋におりますので、何かありましたら……」
茉世は逃げた。永世の目が怖い。何も興味がないのだと、婉曲的に口にしておきながら、獲って食いたがっているような眼差しを遠慮なく注がれている。
胸が疼いた。戸惑っている。悲しみと落胆と残酷な悦びが混ざり合って、汚泥と化している。
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