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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 46

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 茉世まつよは自室に敷かれた布団に戸惑った。風呂上がりのとき、そこに敷かれていたのは1組だけだった。永世が敷いてくれたのだ。だが夕食を終え、少し休み、歯を磨いていざ寝ようというときに、狭い部屋には2組の布団が置かれている。正方形の狭い空間だ。布団は端と端がぶつかっている。
 襖が開く。後ろから抱き竦められる。湿気に包まれた。温かい。風呂上がりだ。
「先輩の隣で寝ていいのか」
 まだ暑さの残る晩夏ではあるが、だからこそクーラーに冷やされた身体が風呂場のたびに温まるのは心地良い。湯で温まり、クーラーで冷えながら、また飯を食ってまた温まる。その身体がまた冷えていくようだった。背中は蒸し風呂のようではあるけれど。
「蓮さん……」
「嬉しい」
「蘭さんはご存知なのですか」
「兄が家政婦に敷かせた」
 夫との間に恋愛関係はない。だが夫婦だ。険悪な仲ではなかった。しかし裏切りが露呈した。茉世にしてみれば今更であるが不本意だった。拒絶されたのだ。けれども夫が悪いとも思えない。
「……そうですか。でも、鱗獣院りんじゅういんさんは……?」
 禅が入院するに至ったのだ。鱗獣院 だんが許すとは思えない。
「兄がそれでいいのなら、好きにしろと……」
 ところがそこに茉世の意思はない。三途賽川さんずさいかわに女の意思は不要なのである。女の意思は女が持つものではない。三途賽川の男が決めるものなのである。
「すみません。少しやり残したことがありますので……」
 彼女は後ろから回る腕をすり抜け、自室を立ち去った。
 夫と恋愛関係にはない。夫婦の営みも避けてしまった。だが夫から捨てられたのは衝撃であった。同時に、夫を強く傷付けたことを認識した。裏切るつもりはなかったのだ。罪悪感と自己弁護がせめぎ合う。
 寝るつもりであったが、義弟の隣で寝られるはずもない。とぼとぼと廊下を歩いた。茶の間には夫がいるのだろう。顔を合わせられない。
「茉世義姉さん、どうかされましたか」
 玄関が開いた。りんである。まだ風呂には入っていないようだった。
「い、いいえ。何も……そういえば、お洋服を借りていたみたいで。ごめんなさい。ありがとう」
「いいんですよ、そんなこと。似合ってましたよ。うちにいる間はどうぞ、好きに借りていってください。茉世義姉さんが僕の服を着ているの、なんだか燃え上がりますし」
「恥ずかしいです……」
 揶揄われている。茉世は顔を赤くした。
「明日も学校ですよね」
「そうです」
「霖さんが嫌でなければ、明日もお弁当作ります」
 言ったはいいが、返事が怖かった。霖は変わらず接してくれるけれども、内心は分からない。兄に不義を働いた兄嫁を疎んでいてもおかしくはない。霖から罵られる夢を何度かみた。
「本当ですか? お願いしてもいいですか。茉世義姉さんの玉子焼き、好きなんです」
「分かりました。玉子焼き作りますね」
 弁当を作るのならば尚のこと、もう寝る時間である。しかし蓮の隣で寝ろというのか。彼が獣物けだものになるとは思わなかった。そうではない。彼女の躊躇いはそうではなかった。形式的なものだ。ここですべて承諾し、義弟の隣で一夜を過ごし、そこに肉体的な接触のひとつもなかったとして。何もなくとも、何もないでは済まされない。義弟の隣で寝た。そこに意味があるのだ。文字どおり以外の意味が。
 茉世は三途賽川邸を徘徊していた。広い家だが行き場がないとなると途端に狭く感じられる。適当な空き部屋に住み着いてしまおうか。彼女は考えながら、永世の部屋の前を通った。まだ談笑が聞こえる。男2人で語りたいこともあるだろう。早々抜けてきたがまた戻ってきてしまった。彼女は襖を叩く。
「茉世です」
「どうぞ」
 開けば、正座の永世とほのかに酔っている気配のある御園生みそのう瑠璃が愉快げにしていた。御園生はげらげらと笑い、足を伸ばしている。一体どちらの部屋なのか。
「どしたん、まっちゃん。一緒に飲む?」
 缶ビールを渡されるが、茉世はビールは飲めなかった。
「ううん……飲まない。ちょっと、寝られなくて」
「悩みごと?」
 彼女は首を振った。言えば困らせる。永世が主家の次男に逆らえるはずはないし、御園生も雇われの身である。そしてこのこだわりとも我儘ともいえない拒否感を、彼等が理解することはないだろう。
「ビールじゃないのもあるから、飲めよ」
 御園生は焼酎ハイボールの缶を小さなテーブルに並べた。
「明日早いから」
「どこか行かれるのですか」
 永世が訊ねた。御園生がいることによって、茉世は永世に対する緊張感をこの場では持たずに済んだ。
「どこかに行く予定はないのですが、霖くんにお弁当を作るので……」
「ああ、そういうことでしたか」
「いいなぁ、まっちゃんの手作り弁当」
「ほとんど冷凍食品だよ? 玉子焼きしか作らないし」
「そんなもんじゃね? なぁ?」
 御園生が永世を肘で小突く。この昔馴染みは少しいじめっ子を思わせる雰囲気を纏っている。
「解凍して詰めるのも大変ですからね」
 楽しい時間は過ぎていくのが早い。茉世はうとうとしていた。ふと目を覚ますと、点いていたテレビの音量が下がっている。
「そろそろ布団入って寝たほうがいーぞー」
 小さなテーブルの空き缶やつまみが片付いている。そろそろ御園生も離れへ帰っていく時間らしい。
「ん、ごめんなさい……」
「部屋まで送りますよ」
 永世が隣に立つ。部屋に帰りたくなかった。並べられた布団が嫌だった。侮辱された気分だった。だが夫の傷を思えば、大したことはなく、真っ当な処遇なのだろう。
「まっちゃん」
 眠い目をしょぼつかせながら振り返る。眠いのもあった。だが悲しみがドライアイや花粉症のように目の粘膜をちりちり灼くのだった。
「おやすみ」
「おやすみ、るりるり……」
 襖が閉まる。部屋の明かりが細くなる。心細くなる。しかし傍には永世もいる。
「足元、気を付けてくださいね」
 頷いた。だが暗さといい立ち位置といい彼には見えまい。
「ごめんなさい。男子トークを邪魔してしまって……」
「いいえ、いいえ。楽しかったですよ、ぼくは。御園生くんもきっと……ぼくが言ってもあの人、飲み過ぎますからね。茉世さんから言ってもらえてよかったです。どうせ二日酔いで苦しむんですし」
 本人不在の共通の友人の話になると、永世の態度がわずかに砕ける。
「そう言ってもらえると助かります……」
 永世とは部屋の前で別れるつもりでいた。だが先に襖が開いてしまった。蓮が中から現れる。茉世は俯いた。自室から義弟が出てくるところを、永世に見られてしまった。だが永世でよかったのかもしれない。御園生瑠璃に見られてしまうよりは。
「どこに行っていたんだ」
 当主から譲られたのなら、すでに茉世は自分の女だとばかりであった。蓮は永世から彼女を引き離す。
「少し散歩を……」
「そうか」
 彼は柔らかな表情で茉世を見下ろし、一瞬ではその面を引き締めて永世を見遣る。
「茉世は俺がもらう。諦めてくれ」
 激しい焦燥が彼女を襲った。蓮は何か誤解している。
「別に永世さんとは、そんなんじゃないです……!」
 永世も笑っている。自嘲的な口元と目元に、茉世の胸は、キッと鋭い痛みを覚えた。
「ご安心ください。決して蓮さんの思うようなことは、ぼくにはありません」
 茉世も自らの口で否定したことを、永世も否定した。同じことを言ったのだ。しかし彼女は苦しくなった。不確かな鈍痛が腹から迫り上がってくるようである。
「……本当だな?」
「はい」
 無言の睨み合いがあった。だが睨んでいるのは蓮のみで、永世にただひたすらに平生(へいぜい)の温容を見せている。蓮はやっと、彼から視線を放した。そして傷付いたような、同情を乞うような眼差しを茉世のほうに向ける。ところが彼女は取り合わなかった。
「わたしはもう寝ます。ありがとう、永世さん。おやすみなさい」
 誰の顔も見やしない。蓮の横をすり抜ける。
「ですが……ですが蓮さん、茉世さん。ぼくは三途賽川の人間です。茉世さんは蘭さんの嫁のはず。他の男性と枕を並べるのは許せません」
「兄が許してもか」
 永世はただ穏やかに微笑み、頭を横に振った。
「白昼のお二人のご関係について、ぼくがとやかく言うつもりはございません。ですが、夜の話になるなら別です。これは分家としてのプライドの問題です。見てしまった以上は」
 茉世は永世の顔を凝らしていた。
「蘭さんがそれを良しとしても、ぼくは許せません。こんなことのためにぼくは"キボク"になるのではありませんよ」
 茉世はその"キボク"が何なのか分からなかった。だが蓮に対しては効果のある単語らしかった。
「三途賽川だからぼくなりに尽くしてきたのではなく、ぼくなりに尽くさねばならなかった三途賽川だから、ぼくなりに尽くそうとしてきたのです。お忘れなく。本当の意味での三途賽川ではなくなった蓮さんに、ぼくが尽くす義理ももうないのです。見過ごせない」
 その音吐おんとはあくまでも優しい。
「蓮さん。三途賽川のおぞましい家訓から解放されたなら……まずは茉世さんの意思をおもんばかってやってください。三途賽川ではなくなった貴方になら目を見て言えます。女性も人間です。道具でも手段でもないんです。意思のあるひとりの人間です。夫の所有物ではないはずです……蘭さんを前には言えないことですけれど」
 茉世は永世をひたすらに見ていた。見惚れるには、見出してしまう悲哀が邪魔であった。
 蓮は茉世をかえりみる。それから永世に戻った。
「あとは茉世さんの決めることです。おやすみなさいませ」
「つまらないことを言わせたな」
 まるで主従、あるいは店と客のようなうやうやしさで永世は戻っていった。
「焦りすぎた。焦りすぎて、貴女の意思を無視していた。すまない。俺はまだ幼稚こどもだな」
 彼は部屋を振り返り、目を泳がせた。
「貴方の意見を聞く。先走らない。焦らない……もうこれ以上嫌われたくない」
 茉世は、蓮が逆上するものと思っていた。以前のように永世を殴って黙らせるものだと思っていた。彼の言う女の人格というものを否定するものだと。しかし素直に聞いている。
「わたしは蘭さんを裏切りましたが、それでも蘭さんの妻としてここにいます。だからごめんなさい。こんなにすぐ傍で寝ることはできません」
 怠惰に溺れ、凝り固まった顎が今は滑らかに動く。このわずかな労力を割くことに意義が見えた。
 蓮は布団をすっすっと丸めて持ち上げる。隣の部屋へと落とした。
「隣の部屋で寝る」
「ありがとうございます。目覚まし時計の音がうるさかったらごめんなさい」
 彼は茉世を眺めていた。それこそ見惚れていた。美貌が間抜け面に変わる。だが一瞬のこと。
「茉世さん」
「……はい」
「貴女は兄を裏切ってなんていない。俺がそうさせた。茉世さんは悪くない」
 納得したかった。けれどもそうはいくまい。過失という1つのつぶてを押し付け合うものではない。
 彼女は無言を選んだ。否定は寒々しい。肯定もまた己の矜持に反した。相手は年下なのだ。
「おやすみなさい」
「おやすみ」





 茉世は弁当を作り終えると、永世の部屋に寄った。彼がすでに起きていることは知っていた。
「おはようございます、永世さん」
 小さなテレビの音量に落ち着く。
「おはようございます。どうかされましたか」
 顔を覗き込むような所作をされ、茉世は息が詰まった。
「昨晩のこと、お礼を言いたくて……ありがとうございました。嬉しかったです」
 永世は自ら目交ぜを求めたというのに、感謝を述べるやいなや、顔を背けられてしまった。
「あ……あれは、出過ぎた真似を。余計なことだったら、どうしようかと思いました」
 彼女は首を振った。
「ただ、蓮さんは本気のようですね」
 同情するかのような一言だった。永世は朗らかな面構えをしているが、彼女からしてみれば心臓を掴まれているようであった。
「そう、思いますか」
 同性がそう言うと現実味を覚える。時代錯誤の異様な主従関係があるが、糅(かて)て加えていとこである。茉世よりは蓮の気質を知っているはずだ。
「だって、素直に聞くとは思いませんでしたから。一度殴られるくらいは覚悟していたんです」
「そんな……昨日は禅さんが大変だったんですから………大切にしてください、永世さん。ご自身のこと。嬉しかったですけど……」
 嬉しかった。布団のなかで彼女は泣いたのだ。声を殺して涙を啜った。嬉しさに。永世の思い遣りに耐えきれず。
「殴られなくてよかったです」
 しかしそれが、永世の身の安全と引き換えのものだったのなら。男同士であっても殴られたなら怪我を負う。鱗獣院炎と禅がいい例ではないか。
「怪我がなくて……」
「ぼくは、分家として言うべきことを言っただけです。いつでも、為すべきことに遅れをとるのがぼくですから……」
「それでも、ありがとうございました」
 茉世は頭を下げた。思い遣りの心に触れるのは、悲しみに似ていた。悲しくはないはずだが、その肉体反応は悲しみを覚えたときに近かった。
 彼女は改めて頭を下げ、部屋へ戻っていく。蓮が、畳んだ布団の脇で待っていた。壁に背を預け、長い手足を小さくして座っている。
「おはよう、先輩」
 拗ねたような眼差しを向けられる。
「おはようございます」
 弁当を作りに起きたときはまだ寝ていたはずだ。カブトムシの幼虫みたいに身を丸めて、掛布団のなかに潜っていた。その様を思い出す。
「寒かったですか、寝ている間……」
 昨晩、一旦襖を閉めて眠りについたが、ふと蓮のことが心配になった。晩夏といえどもまだ暑い。結局、冷気を送るために襖を開け放った。隣に人がいるような気のしない静けさであったが、果たしてあの時間帯に本当に彼は布団に入っていたのだろうか。
「俺のことは気にしなくていい」
「そうは言っても……風邪を引いてしまいますから」
「先輩が熱中症になるよりいい。先輩の隣の部屋で寝られて嬉しかった。先輩……俺の夢、みてくれたか」
「夢のことは、よく覚えていません」
 彼は膝を抱いて、その間からじとりと茉世を見詰める。隠れているつもりのようだが、目が合っている。三途賽川の次男の責務を離れた蓮は子供っぽい。極端な気性をしている。
「俺のこと、夢でみて」
「夢は自分ではどうしようもできません」
 彼女は嘘を言った。夢のことを覚えている。そして望んだような夢をみた。淫らな夢を。不義理で浅ましい夢をみた。既婚者の身を抜け出して、自由気まま、身軽に、男の手を握り、どこか穏やかな場所を寄り添って歩く夢。幸せの感覚を知ったのだ。擬似体験でしかなかったけれど。幸せを感じさせられた。虚構によって。錯覚した。
「俺は夢でも先輩に会った」
「そう……ですか……」
 だが認識の問題である。別人だ。同一の人格ではない。
「先輩といちご狩り、した」
「案外ファンシーな夢を見るのですね」
「へへ」
 茉世はそこに兄弟を見た。蘭もばんも、顔立ちこそ蓮とは似つかないが、そのときの笑い方だけは似ていた。
「俺は今、多分人生で一番、幸せだ」
 言った直後、言葉とは裏腹に眉を下げた。はたから見れば情緒不安定な移ろいであった。
「先輩」
「はい……」
 蓮は芋虫がカラスアゲハに変わるように、三途賽川の次男であったときとはもう違う人間なのだ。その肉体を構成するものは変わらないが、彼は威厳も意地ももはや固く守り切る必要がなくなった。しかし茉世にとってはあの意地の悪い偏屈な蓮こそが連であった。それ以外を知らない。知ろうとは思わない。知る必要がない。知りたくない。彼女は甘い人間だ。剥き出しで無防備なその姿にほだされることは避けようとした。
「先輩と出会えてよかった」
 茉世には答えようがない。
「こっちにはいつまでいるんだ?」
「性病検査を受けたら帰ります」
 恥を知らないわけではない。恥を知っているからこそ彼女は口にした。三途賽川の次男としての侮蔑を求める。掌を返せ! 三途賽川蓮!
 霞漂う緑豊かなせせらぎを彷彿とさせる目蓋を戴いた切れ長の目が、今は真ん丸く瞠られる。昏かった瞳は、晴れ渡る日の湖面のようである。飛び跳ねるがごとく立ち上がり、茉世をひしと掴む。彼女は肩に食い込む指に眉根を寄せた。
「俺も行く」
「永世さんと行きますから……」
 表情の乏しかった面に、色濃い逡巡があった。
 彼女も迂愚だ。意地が悪いのかもしれない。そうでなければやはり愚かだ。蓮を弄んでいる。
「帰ってきてくれ。この家に」
 夫の言動からしても、すでにこの家に戻ってくることは許しているようだった。それどころか、妻を弟にくれてしまおうとしている。家のなかで顔を合わせはするが、合わせるだけである。共にはいない。
「向こうにお義母さまがいらっしゃるんです。傍にいたいですから」
 茉世にとっての義母、蓮にとっての実母の話は彼には弱みだったらしい。ふと見せた表情が、彼女の癪に障った。
「蓮さんが家のことを精一杯やっているのはなんとなく分かります。すべて理解しているだなんて烏滸がましくて言えません。でもわたしも女なんです。お義母さまやじんさんのことが気になってしまうんです。夫のことは夫で、嫌な人ではなかったし、一人の大人として裏切るつもりはなかったし、一対一の人として接していたかった。今でも叶うなら……でも、だからといって、三途賽川のお家が女の人たちにやってきたことを許容するつもりはありません。ただ女だったから、お義父さまや周りの人たちがそうだったからという理由でお義母さまを疎むつもりなら、わたしは蓮さんと分かり合えることはないのでしょう。何故ならわたしも女だからです」
 蓮からしてみれば、知った口をきいているふうに聞こえるのだろう。だが茉世は、あの姑の娘を想う嘆きを耳にしているのだ。
 蓮はたいそう心無いことを言われたとばかりの傷付いた顔をする。
「後悔していないわけじゃない……」
「差し出がましいことを言いました。ごめんなさい。家族の形は、様々ですものね。申し訳ありません」
 家族の形はそれぞれだ。様々で、色々ある。そして子供はそれを選べない。あたかも子供側に選択権があるかのように見せかけ、巻き込んで悪怯わるびれない大人もいる。茉世には両親がいなかった。それが負い目だった。しかし親が健在ならばそれはそれで幸せなこととは限らないのだ。厄介ですらあることもあろう。彼女にもそれが分からないわけではなかった。冷静になってしまった。突っ走れていればよかった。
「先輩が謝ることでもない。貴女が怒るのは当然だ」
「いいえ。嫁の口を出すことではありませんでした」
 八つ当たりだった。すぐ隣の部屋へと戻り、シャンソン荘のことを思い出す。黒光り板状携帯電話はすでにバッテリー切れを起こし、不便な鏡にしか使えない。充電する。焦った。絆には何も告げずに来てしまった。
「俺は待つ」
 隣の部屋でまだ蓮は茉世のほうを向いて立っていた。
「三途賽川の苗字を捨てて、茉世と幸せになる」
「多分……そう言ってくれる男性がいることがわたしにとっては幸せなことだったのでしょうね」
 母親からも父親からも捨てられた。親戚も同胞もいない。同性間の友情など高が知れている。もはや恋愛感情でなければ何者かの一番にはなれないのだ。同性の友人たちも結局は異性と交際し、結婚し、子を産んで育てるのだ。そのなかで現れた。だが義弟だった。
「ありがとう、蓮さん」
 否定はしなかった。しかし蓮は火玉の落ちた線香花火みたいな顔をしていた。
「何回でも言ってやる。何回でも……」
「いいんです。1回で十分、嬉しかったですから」
 そして若気の至りによるこの必死ぶりを茉世は信用していなかった。いずれは厭な思い出に変わるのだ。渋い思いをするに決まっている。もう少し歳の近い未婚者に出会い、改めて恋に堕ちるに決まっているのだ。それが約束で、よくありがちなことなのだ。そして親に捨てられたことを悲観する資格はなかった。親に捨てられたように自分は夫を裏切り、捨てたも同然の仕打ちをしたのだ。
「わたしは朝ごはんの支度がありますので」
 過ぎ去った蓮の威厳が、茉世に強いたことだった。
「俺も行く」
 あひるの子みたいに蓮は茉世の後ろをついてくる。兄弟の目も気にしない。茉世を足で追い回し、目で追い回し、しまいには手伝いはじめた。霖も気を遣って手伝いに加わろうとする。
「じゃあ、自分のことは自分でやろうか」
 上座にいた蘭も立ち上がる。着流しの開いた裾から脚が見えた。女のような滑らかさと穏やかさのない、健康的な若い男の肉置ししおきだった。茉世は咄嗟に目を逸らす。
「ああ、ごめんね」
 裾を直し、夫は彼女の前を通過する。
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