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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 27

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 |青山《あおやま >あいの動きに合わせて、茉世まつよは波間に流離さすらう浮遊物のようであった。
 美味そうに肌を吸っていた青山藍は急に身体を起こす。
「あ」
 薄手の、まともに腕を通さず羽織っているMA-1コートの裾がはためき、ベルガモットと思しき香水が香りたつ。この強姦魔はそのポケットに手をやった。取り出したのは安全ピンである。ぐったりとした獲物の前に翳す。
 気付薬代わりとばかりの一打を入れられ、茉世は見るものを不安にさせる震え方をした。虚ろな目をして、天井を凝らしている。青山藍は、それが退屈らしかった。
「あ、ッ!ううぅ……」
 ラメの入り、ブルーを帯びた黒いネイルの乗った指は、留め具から針を抜いた。
「オネエサン、ワタシのオンナにならない?」
 躊躇いなどなかった。共感能力や感情移入という現象を持ち合わせていないようだった。小振りな耳朶を引っ張ると、そこにぷす、と針を突き刺さした。
 虚空を望んでいた瞳に正気の色が戻る。
「ア………ぁ、」
「痛い?」
 血の付いた安全ピンの針をしまいもせずに放り投げ、青山藍は指を舐めると唾を患部に塗りつけ、自身の耳に両手をやった。鍵束のミニチュアみたいな小うるさい耳飾りを外し、まだ血の止まらない傷に挿し込む。
「あ、ぅぅ……!」
「これでオネエサン、ワタシの」
 惰性のままに膨らんでいたような凶器が脈を打った。彼女の隘路に爛れたような膨満感を与える。
「は……あ、ああ……」
「まだ痛いの?」
 ネイルのされた指は牝牡の結合部の上にある突起を弄った。
 恐怖、痛み、厭な快楽、無視できない触覚に彼女は焦った。
「は………はっ、は………っ、」
 早贄が変な呼吸をする。汗まみれの顔を拭い、強姦魔は口を塞いでしまった。
 畳には透明人間がいたに違いない。そしてそこに刃物を突き立てたに違いない。微細に編まれた藺草が毳立けばだった。羆の爪が振り下ろされたかのように。



 紙の擦れる音で茉世は我に帰り、ゆっくりと脇を見遣った。過激な前後に運動に、平衡感覚を失いつつあった。
「よかったよ、オネエサン。また来るね。これでエッチな下着とかオシャレなピアスを買うといい」
 1万円札が7枚、丸みを持って置かれていた。
ばんによろしくね。ゲロ、美味しかったよ。不味かったけど」
 青山藍は管理人室のドアに巻き付いた髪の毛をぶちぶちと毟り、しまいにはキーホルダー式の小型ナイフで断ち切っていった。やがて、表から車の去っていく音がした。
 茉世は気怠るい身体を起こした。鍵束のようなピアスを外し、それから吐物を片付けた。私室は開くようになっていた。風呂場へ吸い込まれていく。反芻しないことにした。振り返らないことにした。何も考えないことにした。意識的にそうするのは非常に厄介で、難しいことであった。
 また、管理人室のドアがノックされた。彼女はびくりと身体を震わせた。寒さに震える。
 絆たちが帰ってきて可能性もある。
『先輩』
 蓮である。蓮が来ている。窓口のガラス戸が割れているため、鮮明に聞こえた。
『茉世義姉さん』
 彼は呼び方を変えた。だが茉世は出られなかった。このシャンソン荘に来たのは、蓮との不倫関係のためである。そのシャンソン荘で、不倫相手と会うわけにはいかない。彼女は居ないふりをした。
『先輩……?』
 管理人室のドアは勝手に開かれてしまった。ガラスが飛び散り、畳は羆が引っ掻いたようである。そして乱雑に切られて散らかる黒い髪も落ちたままだった。茉世は吐物を片付けるので精一杯だった。
「誰かいるのか?」
 声が近付く。蓮を一人で喋らせておくのが心苦しかった。だが茉世は顔を合わせないことにしたのだ。皆、出払っている。潔白なやり取りについて証人はいないのである。不義を証明する者もいないけれど。
 知らないふりをした。聞かないふりをするために、彼女は私室の奥にいた。手荷物の中から絆創膏を取り出して、安全ピンで刺された耳朶に貼る。以前、ヘアアイロンで誤って耳を巻き込み、火傷を創ったことがあった。その時と同様であった。
「先輩!」
 無遠慮に私室が開かれる。蓮は驚いた顔をして、茉世を一直線に捉えた。
「何があったんだ。大丈夫なのか!」
 迫ってくる男体と叱責するような語気が恐怖を煽る。尊厳を蹂躙される時間の再来である。己の身体を抱いて縮こめ、彼女は震えた。
「何かされたのか?」
 管理人室を示し、吠えるように問われる。茉世はただ萎縮し、硬直していた。言葉は聞こえ、それが通じる言語なのは理解できたが、内容が上手く処理できなかった。複雑な数字を読み上げられて今すぐ暗算しろとばかりに漠然としている。
「先輩、どうした?」
 彼女は目瞬きすることしかできなかった。しかしそれも睫毛に霜が降りたようにぎこちなく引き攣っている。
「ど……どうして、ここに………」
 やっと言葉を絞り出せたが、どこか間が抜けていた。
「何があったのか聞いた。悪かった……俺のせいだ」
 相変わらずの黒いシャツから柔軟剤が薫った。伸ばされた手に掴まれ、引き寄せられる。気付けば蓮の腕の中にいる。ところが茉世は強烈な寒気を覚え、凍えてしまう。
「か、帰ってください……こんなところ、誰かに見られたら…………わたし、は、蘭さんの妻、です………」
 あの強姦魔は彼女に指輪のひとつでも呑ませたのだろうか。喉がつかえていた。
 蓮はただ愛しそうに目元を眇めて彼女を見下ろしていた。話を聞いていないようだった。
「先輩……」
「こんなところを誰かに見られて、もうここに居られなくなったら、わたしにはモウイクトコロがありません……」
 ここに留まるしかないのである。強姦魔の住居がある下の下の階で、いつまた陵辱されるとも分からないながらに、ここで暮らすほかない。屋根も壁もない外で暮らすより、随分と豊かな環境である。
「俺が先輩の居場所になればいい」
 だがそれは三途賽川さんずさいかわあっての話である。彼には婚約者もいる。だが結局は三途賽川である。三途賽川を裏切った嫁を囲えるはずはない。
「帰ってください。お願い、帰って……」
 勘繰りさえしたくなる。嫁の嫌がらせのために、末弟と結託して、一芝居うっているのではないか。大掛かりな話である。
「すまなかった。三途賽川には俺から謝る。貴方は何も悪くない」
「蓮さん。蓮さんがわたしに後ろめたさを感じるのは間違っています。わたしじゃありません……わたしじゃないのです。ですから、帰ってください。三途賽川には何も言わなくて結構です。貴方が傷付けたのはわたしではありません。お願いですから帰って!」
 喋っているうちに、凪いでいた感情が荒れはじめた。波浪を起こす。水膜が張っていく。声音が安定しなくなる。
「う………ううう…………」
 彼女は、わっと涙を溢れさせ、蹲った。蓮の前で繕うべき体裁を忘れてしまった。構っていられなかった。彼女自身が、内外の乖離に驚いていた。外面を、違う人間に乗っ取られているような気がする。
「悪かった。先輩……俺が貴方の居場所になる。もう少しだけ待っていてほしい。三途賽川からは、離れよう……」
 あり得ない話だ。宥めるのに必死なのだろう。茉世は表に顕わした感情に戸惑っていた。そして内心では冷ややかであった。同時にこの場に出会でくわさなければならない部外者の蓮に同情的であった。頷いてやる。表面的に、建前として、上っ面のみ、その甘辞を受け入れてみせた。
「帰ってください……」
 そしてふと、冷静になった。声は嗄れていた。蓮の蕩けた目が、ゆったりと目瞬きし、懐ききって寛ぐ猫みたいだった。ところが、それは一瞬で切り替わる。
「先輩……首、どうしたんだ。虫刺されか」
 茉世は自身の首に手を這わせた。痒みも痛みも腫れもない。
「え……?」
 下瞼を捲られる。額や頬や首筋に手の甲が当てられた。そして神経質げな眉間に皺が寄る。だがその皺は定位置に戻っただけだった。彼は出会った日から常に顔をしかめ、眉をひそめていたではないか。
 顎が震えた。歯がカスタネットのごとくかちかち鳴る様は滑稽であった。
「何か、あったんだな」
「蓮さんには関係のないことです……」
「ある」
 頭ごなしに拒絶したが、そうである。義絶されていようが、されていなかろうが、彼は義弟であった。嫁いだ先の家訓に染まりきった人間であった。無関係ではいられない。
 ぽろぽろと小雨のような涙が落ちていく。
「部屋が荒れているのはどうした」
 食器棚の戸が開き、湯呑やグラスの破片が散乱している。
「少し粗相をしてしまって……」
 強姦被害だと認めてくれるのであろうか。それは浮気であり不倫であると断じられたとき、弁解する気力を持ち合わせることはできるのであろうか。三途賽川にとって、肉体の交わりに合意も不合意もないのかも知れなかった。交わったか否か。論点がその物的事実のみであるのなら、彼女は隠し通す以外に道はない。青山藍に犯されてしまった。屋根と壁があり、家具も揃っているこの居場所を、追われてしまう。絆までをも裏切ることになる。
「耳、怪我しているな」
「ヘアアイロンで、巻き込んでしまっただけです」
 昏い双眸が真偽を問い詰めようとしていた。茉世は恐ろしくなって目を逸らした。抱いた罪悪感について、そっくりそのまま受け止める器量はなかった。
「先輩」
「帰ってください。蓮さんは、わたしと2人きりで会うべきではありません。蘭さんをこれ以上裏切りたくないんです。それに、蓮さんが後ろめたく思う相手はわたしではないんです。ですから帰ってください!」
 茉世は蓮の腕を掴んだ。彼は容赦していた。彼女の力に合わせて歩を進めた。自ら、簡単に追放される。だが私室を出て、管理人室に追いやられると、彼は茉世の腕を取った。
「禅の撮った写真を、ぜんぶ見たよ。俺だけだから、まだ他の奴等は知らないと思う。禅も俺だと思い込んでいる」
 彼女は目を見開いた。あの義末弟のカメラには、青山藍にレイプされた直後の有様が記録されているはずだ。暗にそのことを言っているのだろう。
「俺は本気だ。先輩の居場所になる。迎えに来るから……俺が貴方と結婚する」
 乾いたところから一気に湿気を吸ったみたいに喉の辺りが痒くなる。
「違うんです!」
 咳嗽がいそうの反射のごとき、彼女は叫んだ。
「帰ってください!何もかも違うんです。蓮さんには関係ない!」
 恐ろしくなった。蓮の本心が分からない。ただ、掌を返されたときの哀しみの深さ、惨めさだけは予感できる。
「先輩」
 力尽くの抱擁だった。意識が爆ぜる。黒いシャツの下にある筋肉の反発と質量を手に感じた。だが一瞬のことだった。静電気が両者の間に走ったみたいだった。視線がち合う。茉世には、それが驚きよりも傷付いている眼差しに見えた。もう隠せないと彼女は思った。同時に、隠そうとする労力を払うのが厭になった。面倒臭くなってしまった。疲れたのだ。
「禅さんの写真を見たなら分かりますよね……?怖いんです。男の人、怖いんです。三途賽川の人も……」
「誰に………された?」
 2人いるのだと打ち明けたら、どのように驚くのだろうか。驚かないのであろうか。すでに知っているのか。彼女は意地の悪い好奇心を抱いた。自棄とも等しく、心持ちとしては自傷とも等しかった。場にそぐわない笑みが浮かんでしまう。
「言わせようとするの、残酷ですよ」
 彼女は努めて柔和に、自虐的に言った。そして一転して表情に険しさが込められた。
「放っておいてください。いいんです、言いたくないんです。お願いです……蘭さんたちには言わないでください。三途賽川から見放されたら、わたしに行くところはありません………もうここしか、寄るがないんです。六道月路ろくどうがつじには帰れないんです。お願いします………秘密にしてください。わたしの浮気相手は、蓮さんです。ご迷惑かもしれませんが、表向きはそういうことにしておいてください……」
 蓮はおそらく、この部屋の惨状からして、ここで起こったこともある程度察しがついているのだろう。そういう口振りであった。
「…………分かった。けれど忘れないでくれ。俺は先輩の味方だから」
 嘘寒い言葉であった。高校時代、自分が誰を傷付けたのか分かったとき、撤回されるのである。すべての気遣いとともに。果ては恨まれる可能性もある。利用されていた、騙されていたと。
 真に受けないようにした。そしてその努力は不要であった。自発的に、彼女はそれをまったく真に受けていなかった。
「はい」
 空返事である。蓮は茉世を気にしたが帰っていった。
 あらゆるものが気に入らない。受け入れがたい。その場に蹲って暫時。身体の軋みを覚えつつも、書置を残してスーパーマーケットを探しに外へと出ていった。


 立ち眩みを起こした。身体が重く、呼吸が苦しい。茉世は義母のもとを訪れていたが、予定よりも早く切り上げて管理人室に戻った。
 昨日の恐ろしい出来事を思い出したためか頭痛を覚えた。胃酸で灼けたらしき喉が痛む。今日こそ本屋へ行ってみる気でいたが、やる気が起きなかった。横になっていたい。
 管理人室の呼び鈴が鳴って、伺い見ると永世えいせいである。深い安堵が訪れる。青山藍でも蓮でもなければ、見ず知らずの男でもない。
「永世さん」
 茉世は管理人室の扉を開けた。永世は旅行カバンを持っていた。
「すみません、遅くなってしまって。茉世さんのお荷物です。カバンはぼくのですが、もう使っていないので好きにお使いください」
 眩しいほどの白いシャツが相変わらずであった。あまり日焼けの似合わない雰囲気に、日焼けした腕が逞しい。
「ありがとうございます。遠いところを、何度も……」
「いいえ。夏休みの小旅行という感じで……」
「上がっていってください。長時間の運転は、疲れますでしょう」
 管理人室へと永世を通す。隅に押しやっていた卓袱台を引っ張り出す。羆の襲撃に遭ったかのような畳の跡は、いずれ張り替えるほかやりようがなかった。
「昨日、粗相をしてしまって、グラス類がなくって。ペットボトルそのままでごめんなさい」
 昨日、スーパーマーケットを諦めて寄ったコンビニエンスストアの茶を冷蔵庫から取り出した。
「ありがとうございます。いただきます7
 永世には恐怖心を抱かなかった。だが、緊張感を伴う。三途賽川の話をされるのだろう。
 永世が茶を飲み終えるのを待っていた。
「ニンジンを育ててみることにしました。それからラディッシュも……」
「そうなんですね。なんだか、永世さんの野菜が恋しいです。ラディッシュ、好きなので……」
「もう少ししたら、柿が生りますから、干柿にしようと思います。一緒に食べましょう。その頃には、ぼくは実家に帰っていますけれど……またお邪魔します。茉世さんのいるところに」
 敢えて三途賽川の話には触れないらしかった。茉世も自ら切り出そうとは思わなかった。だがそれは不自然であった。沈黙が流れてしまう。永世は器用な性質ではないのだろう。アルパカやリャマ、ビクーニャみたいな睫毛を伏せた。
「るりるりは……御園生みそのうくんはどうしていますか」
 茉世から静寂を破った。まずは共通の友人の話ならば、然程、重苦しくはならないだろう。
「元気でやっていますよ。今日も一緒に来るはずだったのですが、デイシアからヘルプがあったみたいで。暫くはデイシアマーケットのヘルプに出るつもりみたいです。御園生くんなりに、思うところがあったみたいですから」
「そうですか……ご迷惑をおかけしました。本当に……」
「茉世さん……茉世さんをここへ送るように頼んだのは、蘭さんです。蘭さんは怒っていません。ただ、他の家族がいる手前、あのような態度をとるしかなかったのだと思うのです。だから……」
 永世はまた長くふっさりとした睫毛を落とす。
「妻の不貞です。夫として怒るのが当然です。わたしが蘭さんの対応についてあれこれと物申すのは逆恨みです」
 茉世な苦々しく笑った。
「……こちらの生活は、どうですか」
「素敵な場所をご用意していただけたと思います。建物も綺麗ですし、少し行くと商店街があるんですね」
 昨日は、そこまでは行けなかった。人混みに入っていく気力がなかったのだ。
「商店街が近いなら、とりあえず食べるのには困りませんね。よかったです。ぼくはまだ、この辺のこと知らなくて……」
 茉世は永世の様子を窺っていた。
じんさんのことなのですけれど……」
「尽さんが、どうかされましたか」
 睫毛の奥の瞳がすとんと卓袱台の上に転がった。
「あの方は、生きているのですか」
 どこかの部屋で水道を使っているらしかった。こぽぽ……とくぐもった音が微かに聞こえる。
「……いいえ」
「けれど会いました」
「異界で、生きています」
「尽さんをお義母様に会わせてあげたくて……」
 永世の雰囲気からして、それは難しいことなのだと知れる。
「……もしお二人が会うことがあれば、そのときは………そのときは、きっとぼくたちも尽さんを見ることはなくなるでしょう。絆さんにとっては、六供園正城ろっこんせいじょうという家族はありますが、養家です。生家の三途賽川では柳子さんと尽さんだけが家族だったのだと思います。六供園正城家で上手くやっていたとしても、三途賽川家の蟠りは消えないのでしょう。ぼくは絆さんを孤独にしたくありません」
 茉世は顔を伏せた。
「出過ぎたことを言いました」
「いいえ。どちらの側に立つかのお話ですから……ところで、茉世さん。お耳、怪我されたんですか」
 彼女は絆創膏の貼ってある耳朶に触れた。
「ヘアアイロンで巻き込んでしまって」
「高校時代、御園生くんもそんなふうに耳に絆創膏を貼っていたんですよ。安全ピンでピアスを空けたら、腫れてしまったと。お大事にしてください」
 そうして永世は帰るらしかった。茉世は見送ろうと立ち上がった。だが身体が重かった。頭は軽く感じられる。均衡を崩す。卓袱台に手を付くと、ペットボトルの中の茶が揺れた。
「大丈夫ですか?」
「すみません……あ、お茶、持っていってくださいな」
 誤魔化すように茉世はそこにあるペットボトルを手渡した。
「いただきます」
 永世は受け取りながら彼女の顔を窺っていた。
「茉世さん、体調が悪いんですか。顔色が優れないようですが……」
「すみません。ちょっと躓いただけです。大丈夫ですよ」
「長居をしてしまいました。お大事にしてください。お耳も」
 エントランスまで茉世は出ていった。腕ごと身体を大縄で締め上げられたような窮屈な気怠るさを覚えた。足の底がついた場所が抜けたようである。だが、何の変哲もない床がそこに伸びている。多少の瑕は光の具合で見えるけれども、凹みや穴は特に見当たらない。
「茉世さん?」
 立っているのが厄介であった。床が誘惑的である。横になりたくなってしまう。それが土足のエントランスであろうとも。
 気付くと彼女は永世の腕に凭れかかっていた。そしてその腕は、受け止めるように構えられていた。
「すみません……」
「あまり本調子ではなかったようですね」
 永世は穏和な笑みを浮かべた。
「見送りは大丈夫です。茉世さん、おやすみなさってください。夕食に食べられるものを買ってきますから」
「悪いです、それじゃ……」
「着替えて寝ていてください。すぐに帰ってきます」
 彼は茉世の背中に腕を添えたまま管理人室へ彼女を戻した。
「永世さん……」
「風邪を拗らせると大変ですから、ゆっくり休んでください」
 長い距離を運転してきて、帰るつもりだったところが、急遽買い出しになってしまったのだ。だが茉世は甘えることにした。このシャンソン荘にはアイドルが住んでいる。感染させるわけにはいかない。永世の危懼はそこにもあるのかもしれない。
「すみません」
「では、行ってきます」
 永世が出ていくと、彼女は言われたとおり、寝間着に着替えて布団へ入った。眠気はすぐにやって来る。心地良い泥沼に沈んでいくようだった。マシュマロの布団に沸騰直前のホットチョコレートを注いでしまったかのような、粘こい睡魔である。彼女は徐々に落ちていくようで、意識は急降下していた。
 寝汗の気持ち悪さによって一度目覚めたとき、すでに永世は戻ってきていたらしかった。ただ書置きがあり、コンビニエンスストアの弁当やサンドイッチ、カップラーメンが入っていた。彼は帰ったようだ。茉世はビニール袋に入っていたオレンジジュースを飲んだ。喉に痛みがある。食欲はなかった。同じビニール袋に入っていた個包装のチョコレート菓子をつまみ、またベッドへと戻る。
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