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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 21

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「見苦しいぞ」
 蓮である。茉世まつよは驚いてしまった。
「何故彼女に言う?俺に言わない。家を出ていった人間だからか?俺が怖くて言えず、言いやすい兄嫁を責めたてるのなら負犬のすることだ」
 まだ黄色の痣だの瘡蓋だのがある顔を、禅は押さえていた。どこでもない玉砂利だらけの庭を呆然と眺めている。
 永世えいせいがまだ成長期にも差し掛かっていない身体を支えようとした。
「触るなっ」
 優しい手が弾かれる。された側よりも、した側が吊り目を瞠っている。
「失礼しました」
 永世は平筆めいた睫毛を伏せる。
「穏やかな奴等に当たり散らして、自分から離れていって、お前はいずれ住み家を失うだろう。勘違いするな。優しい兄貴も結局は三途賽川を最優先にしなければならない人間だ。兄弟の情でどうにかできる立場じゃない。俺には偶々、学があった。お前はどうする。どう利用される価値を作る?兄貴がどう思っているかは知らないが、少なくとも俺はお前を待っていたわけじゃなかった。呆れていた。それで茉世さんに何か責めたてるところがあるのなら、まずは俺のところに真偽を問いにこい」
 大人3人が尻餅をつく子供を囲う、異様な光景であった。彼等の後ろで引戸がからから転がった。
「ンな思春期のガキに落ち着いた大人の都合で講釈垂れても分かんねーよな。3人で取り囲んじまって怖ぇえよ」
 御園生瑠璃はへらへら笑って現れる。
「いいぜ、禅チャン。おれは支持する。家族の不平不満はぶつけとくもんだ。落ち着いた大人になるためにはガキのうちにはっちゃけておかねぇと。ジジイになってからのが人生は長いんでね。鬱屈してたら老害の出来上がりってワケだ。どんなに綺麗なチョウチョでもサナギの中でクリーム状になるらしいからな。なっとけ、なっとけ」
 彼は傍まで来ず、野次馬みたいだった。永世は咎めるような、けれど咎めきれない困り顔を高校時代の友人に向けていた。
はじけるところまで爆けちまおうぜ。自分見つけるってのはそういうこった」
 大人の男の手が三白眼を前にして屈み込む。
「放っておけよ」
 禅の爪先が玉砂利を蹴った。土埃が舞う。
「いい加減に……ッ」
 蓮の腕が伸びたのを、御園生瑠璃が制した。
「それでいい」
 茉世は口の端を釣り上げる小学時代の同級生を見ていた。
「大人ってのは見透かしてきて嫌だな。井の中の蛙大海を知らず。されど月の高さを知り、水の冷涼たるを知るってな」
 御園生瑠璃は爽やかに立ち上がり、中学生を寄ってたかって睥睨へいげいする大人たちに緩んだ笑顔を向けた。
「こいつはそんなんじゃない。こいつはそんな無邪気な思春期のなかにあるやつじゃない」
 蓮はぼそぼそと喋った。独り言だったのだろうか。
「裏切り者!蘭兄ちゃんを苦しめるな!」
 禅は玉砂利を一掴みして義絶した次男へ投げた。そして立ち上がる。茉世でも永世でもなく、御園生瑠璃の前に構えた。
「別に擁護とか要らない。オレが間違ってても悪くても、そんなんどうでもいい。ただ守りたいものがある。逆張りしてると立場悪くするよ」
 中学生男子は無愛想に言い放って家へと入っていった。阿保面の大人4人が虚空を取り囲んでそこに残される。
「お節介だった?」
 御園生瑠璃は親しい永世に意見を求めた。アルパカに似た目が追及から逃げる。
「わたしに責任があるのは本当だから……るりるりが禅さんの味方をしてくれて助かった。ありがとう。でも、永世さんには、どうもすみません」
 茉世は御園生瑠璃と永世に頭を下げる。
「まっちゃんに責任あんだ?」
 御園生は無邪気である。無知は罪だ。茉世は永世の眼差しを恐れた。
「……煽るようなことを、言っちゃったから……………」
「ま、あれくらいの年頃じゃ何言っても煽りに聞こえるからな。気を付けろよ。まっちゃん側に言うのも変な話だけど、いくらちっこいって言っても成長期の男だからな。力加減もできないだろうし」
 茉世は小学生の頃の御園生を思い出していた。彼は茉世よりも背が低かった。それが今では大差をつけて追い抜かれている。
「禅のことは気にしなくていい」
「お騒がせしました」
 彼女は3人をすまなげに見遣った。それから蓮で留まる。
「ごめんなさい、蓮さん。やっぱり、一緒に行けません。どんぐりちゃんによろしくどうぞ」
 禅の言い分は間違ってはいなかった。あの目が夜な夜な見ていた光景も、誤解とは言い切れない。物理的な問題であるとするのなら、一口にいって嫁の気持ちを度外視すれば不貞行為としか言いようがない。ただ茉世は、禅の永世に対する態度を諌めただけだ。けれど自己嫌悪に陥るのである。話題を逸らし正当化に努めてしまった気がした。その結果、4人で子供を取り囲んでしまった……
「……そうか」
 蓮はわずかに俯き、前髪は簾の如く目元を覆った。
「なんで?まっちゃん、何か用事?」
 やはり無知は罪だ。そして無知者は恐ろしい。御園生が容喙ようかいする。
「う~ん、ちょっとお部屋の掃除とかしたいしさ。冷蔵庫の物も見てみないと」
 小学時代の温かな思い出の中から出てきた御園生瑠璃には、何も知らないでいてほしかった。どういう経緯で三途賽川に嫁ぎ、この家がどういう価値観にあるのか。御園生瑠璃には世間一般的な、愚かな善民でいてほしかったのだ。穢れてほしくない。迂愚で無知、俗物に追い縋る世間の有象無象、善男善女であってほしかった。
 辛気臭く、カビや苔が生えそうな雰囲気の蓮とは反対に、茉世は愛想を振り撒いた。
「どんぐりちゃんって何」
「実験用ハムスター。用が済んだところを引き取ってきた」
「ハムスター男子か。確かに蓮サン、ハムスターっぽいもんな」
 軽々と、さも皆々がそう思っているかのような口振りだが、茉世はまったくそうは思わなかった。永世と目が合ってしまった。互いに唖然とした。
「先輩。じゃあ……」
 蓮は明らかな落胆を示していた。無愛想な人物だと思っていたが、顔に出ている。彼は肩を落としているのか猫背なのか分からなかった。新しい住処となったプレハブ小屋へ引き返していく。
「先輩?」
「高校が同じだったみたい。2コ下だって」
「だったみたいって?」
「よく覚えてないの」
 茉世は蓮の身を引き摺るように帰っていく後姿を一瞥する。
「なんだそりゃ」
「2人も同じ高校だったんでしょ?」
 話題を切り替え、永世と御園生を見比べる。現在の面差しでいうのならば物静かな優等生と、クラスの小うるさいムードメーカーといった印象を受ける。数年前は違ったのだろうか。
「そうそう。2年と3年で同じクラスだった。いいんちょさんだよな」
「いじめられていたところを助けてくれたんです、このヤンキーが」
 血縁関係のあるはずのいとこたちにはしないような親しげな様子を永世は見せていた。
「ヤンキーじゃねぇって。ちょっとイキってただけ」
 茉世から見て、御園生は小学時代とあまり変わらないようだった。安堵する。けれど透明ながら分厚い壁を感じもするのだった。同じ地面に足をつけ、同じ空の下にいながら、違う世界にいるみたいだった。
「それじゃあ、ぼくは戻りますね。おうちの中のことは御園生くんに任せます」
 永世は窺うような眼差しを2人に向ける。茉世と視線が一直線になる。
「ごめんなさい、引き留めちゃって。駆けつけててくださって、ありがとうございました」
「いいえ。何かあれば、いつでも」
 彼は小さく頭を下げて家庭菜園へ戻っていく。
「いじめられてたって、なんだか意外」
 離れていく背中を見ながら彼女は口にしていた。
「おれの代わりに反感ヘイト買ったようなもんさな。中入ろうぜ。暑ぃよ」
 茉世は何も考えず御園生についていった。玄関へと入る。前にあった背中が急に振り返り、額に指を差し向けられる。その手は銃を模していた。
「ばぁん」
 ふざけているのかと思った。だが銃口をぼやけさせた奥にある昔馴染みの顔にふざけた色はない。
「……」
 茉世はしかつめらしい双眸を捉え、固まってしまった。御園生瑠璃は知らされているのか。彼にならば言ってしまってもいいのではないか。彼は尼寺橋渡にじのはしわたりてんしがらみはないだろう。
「どした?怒っちまった?ふざけたから」
 だが決断できず、機を逃した。まだ迷いがあったのだ。言おうか迷った、、しかし残り滓みたいな躊躇、直感を無視できなかった。
「ううん。明日のお弁当の献立考えてた」
「なんだそりゃ」
「やること、それくらいだからさ。お嫁さんとして来たのに、やること、それくらいなんだ。ハウスキーパーさん、いるでしょ」
「退屈してんだ?」
 茶の間で別れるかと思いきや、彼は通過した。廊下を進んでいく。台所に用があるのだろうか。
「そういうわけじゃないけど……」
「まだ慣れてない……とか」
 台所のほうへも彼は向かわなかった。話の流れで振り返り、答えに窮して俯く知己を目にする。
「マジ?」
 その響きに茉世は焦りを覚えた。
「古めかしいおうちだからさ。ちょっと窮屈なときもあるよ。わたしは結局他人だから仕方ないけど、いとこの永世さんもみんなとは一緒にごはん食べられないってときはびっくりしちゃったしさ。るりるりが来てくれて嬉しかったよ。なんだか懐かしいもの」
 慌ててまくしたてる。そして御園生の顔色を窺った。嘘も吐いた。御園生瑠璃の登場について、安堵もあるのは本当だが、すべてではない。この旧友に三途賽川茉世としての恥部も晒さねばならないこともあるのだとすれば、素直に喜べないところもあるのだった。
「いんや、慣れてないな、打ち解けてないなってのは、まっちゃんがここんのこと弁当屋って言ってたの思い出せばなんとなく分かる」
「他の人には言わないで。蘭さんも霖くんも好くしてくれるの。蓮さんや禅くんとは上手くいかなかったけど……でもそれは、わたしに鈍臭とろいからで……」
「別に言わねぇよ。言う相手もいないしな。でも、蓮サンと仲悪ぃんだ?」
「少し丸くなったと思う。色々あったから……おうちの人じゃなくなったし」
 御園生は俯く茉世を見下ろしていた。いくらか気難しそうな翳りがある。だが、すぐにその貌を振り払った。
「大変だった。家で落ち着けないってきちぃだろ」
「ありがとう、るりるり。変な話聞かせちゃってごめんね」
「ンなことで謝んなよ。おら、部屋戻るんだろ?シャキッとしろ。キャベツみたいに」
 犯人は尼寺橋渡霑だと言ってしまっていたなら、御園生が部屋までついてくることはなかっただろう。けれど彼女は言わなかった。そのために御園生は務めを果たそうと部屋まで来たのだった。
「掃除する必要あるか?」
 襖を開けた途端の一言は、茉世を困らせた。私物は少なかった。物を極力持たない主義の人の部屋みたいだった。
「ほ、埃とか……さ」
「ほぉん」
 問い詰められているかのような沈黙が流れた。問い詰められているように感じたのは茉世だけだったのかもしれない。果たして御園生瑠璃に問い詰めているつもりがあっただろうか。あったとして、何を問い詰めるつもりだというのだろう。一介の住み込みアルバイトの新人に。
「ごめん、るりるり。嘘吐いた」
「ほぉ?」
 おどけた調子の返答は、彼なりに気を遣っているのかもしれない。
「蓮さんと一緒にいるところ、禅くんに何度か見られてて……わたしは蘭さんのお嫁さんだから…………蓮さんと一緒にお出掛けまでしちゃうのは………悪いでしょ。ちょっと浮かれてた。蓮さんが丸くなったのが新鮮だったし……これから打ち解けられたりするのかなって思ったんだけれど。考えが甘かったね」
 御園生は遠慮してか部屋には入らず、鉄棒みたいに長押なげしに捕まるようにして遊んでいる。
「面倒臭いな、人間関係」
「結婚って、多分そういうものなんだろうね。2人だけのお話じゃなくなるの。2人の関係を社会に認めてもらうって、そういうことなんだよね」
「お見合い結婚?」
 返事の頃合いを見誤る。
「みたいな感じ」
「じゃ、ちょっとお堅そうだな。でもしょうがないっちゃしょうがないよな。ほぼ男所帯だし。旦那サマは面白くないだろうが、仕方ないだろうよ。おれもあんまり近付かないほうがいいか?」
「るりるりは幼馴染でしょ。永世さんのお友達なんだし、大丈夫だと思うな」
 御園生は悪戯っ子みたいな笑みを見せつける。
「そういうのが一番、たちが悪いんだって」
 彼に注意するつもりはなかったのだろう。けれど茉世は夫のことを考え、すまなく思ったのだった。
「じゃあ、気を付ける。蘭さんは悪い人じゃないし……、他に行くところ、ないから」
 口にしてから、否、言い終わるよりも早く彼女は後悔した。御園生がどのような事情を知っているのだろう。さらには、結婚生活の中でさえ、夫に情慕を募ることはなかったのだと打ち明けているも同然だった。咄嗟に旧友の顔を見遣った。彼は特に訝っている様子もない。
「ま、マジでどこにも行くところないなら、小学生時代のよしみってやつだ。極論、おれンとこがあるぜ。空けとくわ。へへ。おれの友達ってだけでなく、まっちゃんは久遠きゅんのお友達でもあるわけだから、二重の鎖で繋がってんだ」
「ありがと、るりるり」
 冗談でも彼女は嬉しかった。小学時代の楽しかった思い出が、眼交いにちらついた。恐ろしい三途賽川とは無縁の世界がまだそこに残されている気になった。



 夜のことだった。手に触れたものがある。冷やされた布団の狭間でわずかに温もりがある。人の手だった。
 げんではない。子供の手ではなかったし、奴が接触を試みるにはこの家の当主を越えてこなければならない。
「蘭さん……?」
「ごめんね、茉世ちゃん。手、握ってもいい?」
「はい」
 用意していた返事だった。寝る前に緊張感を伴うようになった。夫から諺へ、諺から夫へその意識が戻ってきた。拒否できなかった。蘭が嫌な人物であれば拒めたかもしれない。だが気遣いが感じられた。板挟みの人間なのだ。蓮もそう言っていた。結局は三途賽川の人間で、事によれば弟を切り捨てる。そういう立場にある。
 絡めた指には何の情欲も感じられなかった。幼い弟たちを制するために手を繋いでおくような温かさはあれども乾いていた。彼は妻を番いの雌とは見ていないのかもしれない。茉世は時折、"番いの雌"として見ていられないことを嘆く女の姿を目にし、耳にしたことがある。テレビや雑誌、直に持ちかけられた相談などで。しかしこの状況に実際、自身が立ってみたところで共感できるところはなかった。
「手、熱くなってきちゃったね。今日はここまで……ごめんね、茉世ちゃん」
 外敵を蒸し殺す蜂球でも握っているみたいだった。
「いいえ……」
 茉世は痛みはないが、爛れたように脈打つ手を抱き、夫へ背を向けた。
「おやすみなさい」
「蘭にいに、何してるの?」
 可憐ぶった子供が小賢しく舌足らずに喋った。寝たふりをしていたのだろう。寝ていたふうを装っている。狡猾な子供だった。茉世に驚きはもうなかった。
「よく寝れるおまじない。諺ちゃんにもしてあげるね」
 彼女は急に気拙くなってしまった。諺に話を振られはしまいか。
「お手洗いに行ってきます」
「うん。足元気を付けて」
 茉世は夫の部屋を出て、少し離れるとまだ疼いている手をもう片方の手で握り込んだ。触覚で誤魔化す。
「蓮兄、待ってんの」
 暗闇から人影がぬぅ、と現れた。手に銀色のカメラが握られている。
「待ってれば。でも次はちゃんと写真撮ろうかな」
 禅だった。廊下に備えつけてある明暗センサー付きの小さなライトが、不機嫌そうな顔をぼんやりと照らす。
「蓮さんとはそんなんじゃない」
「"そんなんじゃない"のにキスするの」
 フラッシュが焚かれた。顔の前に腕を構えてしまう。
「蓮兄と付き合えばいいじゃん」
 誰それと付き合うなどという選択権が、果たして茉世にあるだろうか。この少年はあると思っているのだろうか。
「蓮兄と永世と、付き合ってんの?あの新しく来た人とも?そのうち霖にも手を出すわけ。でも、コドモでもいいんだろ、あんた」
 耳まで口の端が裂けていくように、少年は不気味に笑った。
「オレは知ってる。あんたが中学生にまで手、出してるってコト。だから霖に餌付けしてるの?」
 ひっ、と茉世は吃逆に似た大きな引き攣りを起こした。しかしそこまで大きな声は漏れていないらしかった。
 それは錐のように鋭く尖り、心臓を突き刺すようだった。視界はまだ不便なほど暗いが、頭の中は白くなった。
「蘭兄ちゃんと別れて。その気がないなら出ていって。蘭兄ちゃんをよごさないで。それで全部、秘密にしとく。黙っとく……あとはどうでもいいことだから」
 靴下を好まない素足が、茉世のほうへにじり寄る。目元には小型のデジタルカメラが構えられている。
「禅さん?」
 玄関のほうから永世の声がした。
「大丈夫ですか。どうかしました?」
 白いシャツは暗闇から浮き上がってくるのが早かった。
「なんでもない」
 カメラを下げ、禅は踵を返した。永世とすれ違う。腕と肩がぶつかるのも構いはせず、夜の暗がりへ紛れていく。
「茉世さん?」
 近付いてくる永世は、そこに茉世がいることに気付いていないらしかった。彼は彼女の姿を認めた途端に、目を見張った。
「ごめんなさい……」
 涙に濡れた顔が、アルパカだのラマだのに似た目に映ったことだろう。
「禅さんに、何か……言われましたか」
「いいえ……何も。すみません。何でもないんです」
 滂沱として溢れる涙を次と拭っていく。
「禅さんに何か言われたんですね」
 普段、物腰も雰囲気も穏やかで清楚な彼の語気が強まる。茉世はどうすれば上手く誤魔化せるのか分からなかった。
「ごめんなさい……」
 誰に向けての何に対する詫びなのか分からなかった。ただ謝っておけばやり過ごせるような気がした。他に言葉が出てこない。
「お部屋に戻られますか」
「もう少しだけ……ここにいます」
「よろしければ、ぼくの使っている部屋へどうぞ。まだ夜でも蒸し暑いですから」
 ここで頷けば、禅の言っているとおりになってしまうのだろう。
「いいえ、平気です。ちょっと、お手洗いに行きたかっただけですから。けれど、ありがとうございます」
「何かあれば、ご相談ください」
 永世は睫毛を伏せ、そして頭を下げた。
 茉世は風呂場へ入っていった。脱衣所前の洗面台に用があった。いつの間にか冷え切っていた手を洗う。片手の痛みも痺れもない火傷のような感覚は失せていたが、冷えたくせ不愉快な汗が両手に滲んでいる。
 禅の鋭い言葉が、洗面台に叩きつけられる水流の中に潜んでいる。彼女は水資源の無駄、水道代の浪費をしていた。すでに汗は落ちたはずだった。だが些末な瀑布に手を曝していた。
 ぱちん、と軽快な音と共に視界は色を失う。蛇口を捻る。停電か、はたまた人為的なものなのか。けれど内心で誰何すいかするのも忘れていた。思い出したところでその猶予はなかった。直後に同じ音がして、窮屈な世界は色を取り戻す。小さな磨りガラスを嵌めた扉が開く。
「すみません。今、出ていきます」
 入ってくる人物をろくに確かめもしなかった。霖や禅ではない。諺でもない。背が高く、大人である。
 茉世は顔を見上げた。同時に伸びてきた手が頬に添わる。
「泣いていたのか」
 静かに甘く耳へと染み込んでいく声音は1人しかいない。蓮である。
「ちょ、ちょっと……それより、」
 茉世はこの男を恐れていた。どこで禅が見ているか分からない。
「誰かに何か言われたのか?禅?」
「い、いいえ……少し、怖い夢を………」
 禅は正しい。誤解と突っ撥ねることこそ愚の骨頂だ。厳しい正論であった。真っ当な批判であった。そのためにあの少年が不当な扱いを受けてはならなかった。同時に自己保身でもあった。間違ったことを糾弾する子供が反感を抱かれるようなことを言ってはならない。やはり彼女はそれと共に恐れていた。正直に打ち明けたとして、禅以外からも糾弾されることを。
「先輩」
 頬にあった手が、茉世を抱き寄せた。次の瞬間には蓮の抱擁の中にある。恐ろしくなった。禅の言葉と眼差しが目蓋の裏に灼きついているのだ。あの少年は知っているに違いない。中学生男子に手籠めにされたことを。否、手籠めにされたとは思っていないだろう。誘惑した側として認識しているのだろう。弁解したかった。だが確定的ではない。誤解が解けることはないようだ。悔しさが込み上げる。涙もふたたび溢れていた。
「味方でいるから。先輩が間違っていたとしても……間違っていないのなら、尚更」
 茉世は首を振った。左手の傷について、彼がそこまで気負うことはない。後遺症は今はまったくない。傷は塞がり、痕になっていることについてコンプレックスも不便もない。
「大丈夫です………大丈夫ですから……」
 相変わらず黒いシャツを突き返す。だがびくともしなかった。その下の逞しい筋肉の質感と圧迫感を知るばかりであった。
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