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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/
ネイキッドと翼 20
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霖は品の良い顔で茉世の視線を捉えた。搗ち合うと、頬が綻ぶ。
「おはようございます」
「おはようございます。お弁当、冷蔵庫入ってるからね」
尼寺橋渡霑と酷似した顔立ちだが、雰囲気がまるで違った。表情も大きく異なる。あの中学生が人喰い妖怪ならば、この義弟は幼いゴールデンレトリバーみたいに可憐だった。
「ありがとうございます。美味しくいただきますね」
彼は会うたび頭を下げる。それをすまなく思い、茉世はこの義弟の登校まで彼とは顔を合わせたくなかった。
「うん。気に入ってくれるといいけれど」
柔らかな表情のやりとりをしながら霖とすれ違った。直後に彼女は立ち眩みを起こす。頭の中身をすべて消失したかのような軽さに襲われたのだった。足の裏は、廊下の床を見失ってしまったかのような。
彼女は大きく傾いていた。身体も視界もそうだった。壁に頭をぶつけ、やがては床に倒れるはずだった。しかしそこには張り直されて数年といった床板も、瑕や凹みのある土壁もなかった。身体ごと泥沼に沈んでいる。溺れているのだ。
ほんの1秒、2秒のことだったが、茉世は恐ろしくなった。爪先が水溜まりに触れたような気がしたのだ。裸足で水浸しの床を踏んだような。真っ暗な空間の中にいる。床も壁も天井もない。しかし足には、水を感じる。
「三途賽川のお嫁さん」
霖と尼寺橋渡霑の違いはケロイドの有無と年齢だけではない。茉世にとっては決定的な違いがあった。まずは表情だろう。だがこれは茉世と同胞、或いは近しい親族しか分からないだろう。だが茉世だけが分かってしまう、大きな違いがある。声だ。尼寺橋渡霑の声を初めて聞いたときには思わなかった。だが危機意識の本能が、微妙な差異を茉世の鼓膜に、脳髄に刻み込んだ。
尼寺橋渡霑がどこかにいる。茉世は全身が冷えていくのを感じた。
「三途賽川のお嫁さん……」
暗い視界が拓かれていく。白昼夢の中で何度も迷い込んだ竹林にいる。茉世は周囲を見回した。確かにそこには尼寺橋渡霑がいるはずだった。だが見つけられない。
「こっち……」
距離感のつかめない声が、途端に後ろから聞こえはじめた。振り返る。ケロイドに覆われた腕が伸びた。
「三途賽川のお嫁さん。また会いにきたよ」
双子の禅と同じ高さの目線は、茉世より少し高い程度だった。後頭部を掴まれ、引き寄せられる。鼻の頭がぶつかりそうだった。
「近い……」
茉世は中学生を相手に、嫌悪を隠さなかった。世間からみれば、若さに嫉妬した、母性のない、次世代を担う相手へ無配慮な、醜い女であっただろう。細い身体を突き飛ばす。
「三途賽川のお嫁さんにまた会いたくて来ちゃいました」
邪悪な中学生男子は嫌がる人妻の唇を奪った。
「いや……!子供がそういうこと、しないの……」
「何故ですか。人間は動物で、動物でいえば繁殖適齢期ですよ。特に男は。中学生男子と成人した女の人がたくさんセックスして赤ちゃんを作るべきなんですよ。選ばれなかった非モテ男やジジイどもがその子供を養えばいいんです。社会のために……そうでしょう?そうでしょうが!社会的生き物ですから、個の保存より種の保存であるべきです。男の子は正義のヒーローに憧れるよう育てられます。救世主コンプレックスを拗らせて。世界を救いたがるのに、目の前の赤ガキは助けたがらない。世界に巨大隕石が落ちてきたところで、一個人が跳ね返すことなんでできないし、悪を牛耳る大魔王なんて存在しないのに。桜舞い散る破滅の美学というのなら、自分という個の保存は諦めて、全体に帰すべきです。そう思いませんか。だから、中学生男子と成人した女が番うべきなんです」
薄ら笑いに茉世は寒くなる。
「子供を持つことだけが幸せじゃない……それに子供は育つの。その後の暮らしは……?」
「三途賽川の人たちは教育が足らないな。足らないですね。家畜に芸は仕込みませんもんね。三途賽川のお嫁さん。あそこは一般家庭じゃないんです。牧場です。どうして人生には幸せが付き物だなんて思っちゃったんです。違います。幸せという概念を捨ててください。要らないんですよ。赤ちゃんを産むんです。産みたくないとかは必要のない意思です。産めないならそのうち捨てられます。帰るところないなら浮浪者になるんですね。あらゆる宗教が終わった流行になりましたけど、ひとつだけ廃れないものがあるとすれば家族神話です。絶対誰かと繋がっていないと、社会的支援受けられないんですね。怖いですね。泣いちゃいますよ。三途賽川のお嫁さんは、六道月路さんがまた回収してくれるだなんて夢を持っているんですね。それは有り得ません。人は独りでは生きていけないなんて気の利いた風なフレーズがありますけど反吐が出ますね。独りの人間を生かしちゃおかないだけです。独りの人間ならもう死んでいるからです。三途賽川のお嫁さんも、赤ちゃん産めないならそうなるんです。社会的支援も受けられないで、ホームレスになるんです。女ならおまんこ稼業すればいい!立派な仕事だから差別をするなって、この前授業で先生が言ってました!そうだ!女の人にはおまんこ稼業という立派な仕事があるんですから!前言撤回します。三途賽川のお嫁さんは、赤ちゃん産めなくても、おまんこを貸し出す立派なお仕事があるんですから、野垂れ死ぬなんてことありませんね!女の人はいいなぁ!需要もありますからね!男にもありそうなものですが、狭き門ですよ」
霑は最初、淡々としていたが徐々に嬉々として語った。
「長男との第一子がもし障害児だったら、お嫁さんは折檻されるでしょうね。赤痣のボクのコピー元の霰のときそうだったらしいですよ。ボクのママ、片輪を産まないようにってそうとう"躾"されたらしいです。三途賽川のお嫁さん、生理のとき、ナプキンちゃんと自分で捨てたほうがいいですよ。ブライダルチェックされてますからね。尼寺橋渡家に来たお嫁さんのナプキンも、この嫁はちゃんも子供産めるのか、見られてるんですからね。女の人って大変ですね。お股からあんなに血が出るなんて。それはお腹痛がるわけです。ボクびっくりしちゃって、人生でおちんちんをおまんこに挿れることなんてないんだろうなって思ったくらいなんです。でも三途賽川のお嫁さんを見たら、おちんちん挿れたくなっちゃって。おまんこをおちんちんで突いたら、また血が出ちゃいそうだなって思ったんですけどね。片輪のボクで試しておくべきです。いきなり本番なんてそんなの大変ですよ。片輪のボクで、最初に片輪のガキ放り出せばいいんです」
茉世は耳を塞ぎたくなった。霑はそれを面白がっているらしい。
「お父さんお母さんに捨てられたら、本当に終わりなんだなって思っちゃいました。ボクも三途賽川のお嫁さんと同じです。でもボクには尼寺橋渡家がありますからね、まだ三途賽川のお嫁さんより救いがあります。ちゃんと元気な男の子の赤ちゃん産んで、居場所を作らないと。3年子無きは去れ、でしたっけ。いたずらに時間は過ぎてゆきますよ。妊娠に大体1年使うとして、女の子や障害児産んだらもうすぐに長男と子作りセックスしないと。女の子の障害児産んだら多分一発で捨てられますよ。三途賽川一族ってそういうところです。きっとどこの分家もどこも引き取ってくれません。間引けなかったら、居場所もないまま子供抱えてお外で寝るんですよ?三途賽川のお嫁さん!どうするんですか?ボクのところに来たらいいですよ。ボク、頑張っていい大学行っていい会社に勤めて、捨てられちゃった三途賽川のお嫁さんと結婚します!片輪の姪っ子も育て上げますよ。三途賽川なんてクソ喰らえです。三途賽川のお嫁さん、貴方とボクは同じなんです。そうでしょう?」
馴染んできていた三途賽川の家が、恐ろしい、悍ましい印象を付け加えはじめた。霑の言い分をすべて信じたわけではなかった。だが茉世は、信じるに足る言動を端々で浴び、裏付けと思える行動を目にした。
「無条件で身を置いておける家庭に生まれたのならきっとそれは幸せなことです。ボクもそれで言うと幸せなほうではあるんですけれど……ボクはいい成績を修め、難関高校に進学し、分家の名誉となって、高偏差値大学を卒業して一流企業に就職。お金持ちになることが、尼寺橋渡家の一員でいられる条件な気がしますね。三途賽川のお嫁さんはどうですか。何を目当てに三途賽川が社会の一部となってくれたんですか?見放されたら終わる世間で?」
霑は茉世の鼻先の真下からぬっと現れ、顎から唇を舐め上げた。
「あ……ああ…………」
茉世の双眸は虚ろである。
「ここは忌み地のくせに、そんなことも忘れて罪を重ねていくわけです。間引いた子供はどこへ行くと思いますか?ここに捨てていくんです。竹取の翁も天帝も、月よりの使者も存在しない竹取物語ですよ」
霑はまったく抵抗も身動きすらもしなくなった茉世を抱き締めた。彼女は金縛りに遭っているようだった。中学生男子の舌が蛭のごとく唇を破り開いて侵入しても、微動だにしない。
「ボクの赤ちゃん、産みましょう」
茉世は大蛇に食われたことはなかったが、大蛇に呑まれていく心地を味わった。下唇を吸われているが、動けないのだった。呼吸まで、制御されているようだった。
中学生男子の掌が人妻の頭を両側から支えた。桜色の憎たらしい唇がさらに奥まで彼女の口腔に迫る。
そのとき、茉世は額を押さえられるような後ろへ向かう力を感じた。
固い床に寝かされている。茉世はのっそりと起き上がった。真新しい枕にはタオルが巻いてある。同じく真新しいカーペットは、プレハブ小屋に敷いたものだった。夫と共に張って数日経つ。
「大丈夫か?」
ノートPCを前に、レジュメと思しき紙束を捲って胡座をかく蓮がいる。
「あれ……」
目元や眉間を揉み込む。夢にしては鮮明だった。尼寺橋渡霑の言動が明確に思い出せる。
「忌み地に誘われたな」
「忌み地って、あの竹林ですか。あの竹林って結局なんなんですか……」
首だけ向けていた蓮は、テーブル代わりにした台にレジュメを置いて身体ごと茉世を向いた。
「聞くか?」
彼女は一瞬躊躇ったが頷いた。
「昔、この地域で飢饉があった。大昔だ。で、ここから少しファンタジーな話になるが、先輩が信じるか信じないかは好きにしてくれていい。俺も信じていない。神狩りの家というのがあって……今はもうないんだが。今風に言うなら霊能者が一番近いのかもな」
忌み地というのがそもそも胡散臭いのである。神狩りという言葉が出てもすぐに受け入れることはできなかった。
「食うものはない。そこで村長は、提案する。この地の守神の獣を食う。お稲荷さんがキツネなら、その地の守り神にもイメージがあるんだろうな。俺はイノシシと聞いているが、タヌキか野良犬か、獣ですらないヘビかもしれない。で、村長の鶴の一声で……タヌキだのツルだの紛らわしいな。村長の一存で、神狩りの家は守神を討ったわけだ。勝者が歴史を書き換える。事実は知らん。神狩りの家が賛否どちらに傾いたのかも」
茉世も、イノシシだと思った。巨大なイノシシだと思った。
「守神の肉を食って村は大飢饉を凌ぐわけだが、今度は疫病が流行る。村にな。なかなか大きな村だったらしいが。で、村長はどこに責任の所在を求めたかといえば、神狩りの家だ。焼き討ちしたらしい。一家虐殺だ。生きたまま胸に杭を打ち込んだとか。この家を掘れば骨が出てくるさ。この街は広まった疫病の死者の墓場の上にある」
「神狩りの家が、この家なんですか?」
「いいや。村長の家系のほうだ。それから代々、三途賽川の長男には耳と尻尾が生える。俺の父親がそうだった。イノシシじゃなくてキツネみたいだが、飢饉を凌ぐのにキツネの肉なんて食うのか、という話になってくると、大きなイノシシかシカなんじゃないかと思う。神狩りの家がキツネをたいそう神聖視していたという話はあるから、つまり長男ていうのは、三途賽川にとっては呪いなんだ。神狩りの家の生き残りが紙に書いて遺したのが蔵にある」
蓮の暗い目が蔵のある方向へ転がった。
「あの竹林は、結界だな。先祖たちが食らった守神の居場所を作ったって話だ。一家断絶する神狩りの家がな。忌み地というのはそういうことだ。向こうからしたら俺たちが異物なんだろうが。この世は人間至上主義だ」
カサカサ……と室内で乾いた音がした。茉世は恐ろしくなった。湿気の多い夏場である。このプレハブ小屋には古い匂いを発しながらも冷房が効いているけれど、季節はそうではない。あの悍ましく忌まわしい虫が這い回っていてもおかしくはなかった。
「大丈夫だ」
蓮はテーブル代わりにしていた粗末な台の陰から大きな虫かごを引き寄せた。べったり叩きつけられたような餅みたいな小型の毛物が忙しなく動いている。何事かと鼻先を突き出して周りを探っている。
「飼ってるんですか?」
茉世は小さな生き物に驚いてしまった。
「実験用のハムスターを引き取ってきた。母家は猫がいたから今までは飼えなかったが、ここなら飼えるだろう」
「お名前は?」
ごまスムージーを染み込ませたフェイシャルコットンみたいな生き物は巣箱に引っ込んでしまった。
「どんぐり。これから道具を買いに行く。一緒に来るか」
蓮が問いかけたとき、プレハブ小屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
蓮は冷めた声で応じた。直後に勢いよくドアが開いた。御園生瑠璃が入ってくる。上体を起こしている茉世の傍に這って駆け寄り、肩を抱き寄せた。
「まっちゃん、大丈夫か?ありがとな、蓮サン」
「……別に」
彼はハムスターの入った虫かごを台の影に隠し、布で覆ってしまった。そしてノートPCを向き、茉世に背を向けた。
「熱中症か?大変だな。でもよかった。霖サンも心配してたぜ。蓮サンに聞いた?おれもバイトだったから、預けちまって。ありがとうな、蓮サン」
「いいや。部屋に戻ったらどうだ。埃臭いだろう」
蓮はそれから一切、茉世のほうを見なかった。
「戻るか。おっし、しがみついとけ。靴持ってきてないんだわ」
「え」
「任しとけ。ここ連れてきたのおれなんだから。いい筋トレになる」
有無を言わせず御園生瑠璃は茉世を抱き上げてしまった。まるで無人の部屋と貸したプレハブ小屋から茉世は運ばれた。庭へ出ると、永世が夏野菜たちに水を撒いていた。御園生瑠璃の足が菜園へ向かう。
「目が覚めたんですね。よかった」
永世はホースの水を止め、傍へと寄ってくる。
「旦那サマは?」
「今ちょっと出掛けているんです。瑠璃くん、この後ご予定は?」
物腰こそ丁寧だが、永世は親族の三途賽川の連中と喋るときよりも、御園生と話すときのほうが表情も語気も砕けていた。
「ねぇよ。じゃ、おれがいるわ」
「茉世さん、お出掛けの際はぼくか瑠璃くんに……買い出しがあるのでしょう?」
「はい……あ、でも、蓮さんにちょっと用があって」
蓮が何か言い掛けていたのを茉世は拾っていた。
「じゃあ玄関まで連れてくから、ちょっと待ってろ」
御園生瑠璃に玄関まで運ばれた。ワックスのよく塗られ、木の風情の残った式台へ彼女は腰を下ろす。
「ありがとう、るりるり」
「明日には筋肉痛かもな~」
彼は腕を曲げたり伸ばしたりしてにやついている。
「重かった?」
「重かったら運んでねぇよ」
日焼けをした逞しい腕の割りに、背中に添わる手は優しかった。
「ちゃんと食えよ。バテるぜ」
「うん」
茉世はサンダルを履いて、再度プレハブ小屋を訪れる。
「ごめんなさい、蓮さん。さっき、何か言い掛けていましたか」
蓮はノートPCのキーボード部分に紙束を置き、一口大のチョコレートを齧っていた。茉世の再訪を認めると、彼女のほうへ袋を押し出した。フルーツの味が数種類包まれた、個包装だった。甘たるいいちごの香料が薫る。
「別に、何も……いいのか、幼馴染なんだろう。放っておいて……」
「幼馴染っていっても、小学時代ですから……特に用がなかったのなら、わたしの勘違いですね。お勉強の邪魔をしてすみません。また……」
茉世は愛想笑いを浮かべた。そして踵を返した。自身の勘違いだと分かると、途端に気恥ずかしくなってきた。一体蓮が自分に何の用があるというのか……考えれば分かるものだった。
「……ハムスターの道具を買いに行く。先輩も一緒に来て、ほしい…………買い出しがあるなら、それも……」
語尾が消えていく。長めの前髪の奥で、昏い目が小刻みに揺らぐ。俯き気味なために、背が高くとも上目遣いに見えた。
「買い出しは大丈夫ですよ。でもわたしも見てみたいです、ハムスター用品。すぐに着替えてきますね」
「待っ………てる。焦らなくていい。母家に、幼馴染がいるんだろう?」
茉世は頷いて母家に帰った。だが玄関近くのアプローチに禅が立っていた。吊り気味の三白眼はプレハブ小屋から出てくる兄嫁を目で追っていたらしかった。視線が搗ち合った気がして、彼女は小さく会釈をした。茉世は己の迂闊さをこの瞬間に思い出してしまった。
「白昼堂々と、恥ずかしくないの…………不登校の引きこもりのほうが恥ずかしいか」
禅は自嘲するでもなく、終始睨んでいるとも無表情ともいえぬ貌をしていた。茉世はその人好きするとはいえない性格の悪そうな目を見つめていた。八つ当たりではなかった。この子供の非難は真っ当だ。彼女はハムスターに気を取られていた。無愛想で底意地の悪勝手かった小舅と可愛らしい小さなネズミの組み合わせに絆されていた。だがあの男は恐ろしい血筋の、悍ましい家訓のもとに育ったなかでもとりわけ冷酷な振る舞いのできる人物だった。騙されてしまうところだった。所詮は古臭い、時代遅れの価値観に囚われた差別主義者の変わりの者集団の家の生まれである。
「不登校には理由があるもの。恥ずかしいのはわたしです」
それは嫌味ではなかった。正直な告白であった。だが禅は顔面に苦渋を浮かべた。怪我が痛むのかもしれない。
「大丈夫ですか」
「蘭兄ちゃんに近付かないで。穢れた手で蘭兄ちゃんに、触るな!」
禅が叫ぶ。庭に谺する。この子供は情緒不安定なのだ。時期がそうさせるのだろうか。それとも癇癪持ちなのか。
茉世はそこに佇む。茶の間のレースカーテンが開き、御園生瑠璃がふざけたように顔だけ出した。おどけたつらをして2人を見下ろした。
「どうかしたんですか」
庭には永世もいる。農作業を中断してやってきた。禅は顔を背けた。そして身体ごと茉世を拒絶した。人差し指だけが乱雑に彼女を示す。
「何か揉めごとですか」
永世はレースカーテンの化け物みたいなことをやっている御園生瑠璃を一瞥した。御園生は引っ込んでいく。
「……別に」
「ぼくは部外者ですし、仲良くしろとは申せません。けれど、蘭さんの悲しむようなことは、」
「悲しませたくないのなら、どんな極悪も隠せばいい?」
永世は禅の顔を覗き込み、それから茉世を見遣った。純朴な眼差しが痛かった。
「極悪とは?茉世さんに何か後ろめたいがあると、おっしゃりたいんですか」
「永兄は女を知らないんだから、黙ってろよ。こんなふうに言ったら、また叔父さんが出てきて、一族会議になる?」
そのときの永世の表情に、茉世は居た堪れなくなった。この中学生男子は、いとこを傷付ける言葉をよく心得ていた。人の罪悪感を突く言葉を。それとも、仲の悪そうな次兄が追い出される結果になったのが気に入らなかったというのか。
「禅さん。永世さんに八つ当たりしないでください。言いたいのはわたしのことですね」
反抗的な目が禅を捉えた。
「騙されてるんだ。永兄も、蘭兄ちゃんも。霖だって……」
小生意気な中学生は唇の端の瘡蓋を舐める。
「永世さんに失礼なことを言ったのは謝ってください。巻き込んでしまってすみません……」
永世は中学生の脳天を凝らし硬直していたが、やがて両手を振って茉世の詫びを否定した。
「いいんですよ。いいんです……女性を知らないのは事実ですし、巻き込んでしまったなんて……あ、……その……」
「事実かどうかは関係ありません。傷付ける意思があったことに対して言っているんです」
禅の眉が険しく立ち上がる。
「偉そうに説教できる立場じゃないだろ、あんたは」
学生は胸ぐらを掴まれ、砂利の上に張り倒された。ほんのわずかな時間の出来事だった。
「おはようございます」
「おはようございます。お弁当、冷蔵庫入ってるからね」
尼寺橋渡霑と酷似した顔立ちだが、雰囲気がまるで違った。表情も大きく異なる。あの中学生が人喰い妖怪ならば、この義弟は幼いゴールデンレトリバーみたいに可憐だった。
「ありがとうございます。美味しくいただきますね」
彼は会うたび頭を下げる。それをすまなく思い、茉世はこの義弟の登校まで彼とは顔を合わせたくなかった。
「うん。気に入ってくれるといいけれど」
柔らかな表情のやりとりをしながら霖とすれ違った。直後に彼女は立ち眩みを起こす。頭の中身をすべて消失したかのような軽さに襲われたのだった。足の裏は、廊下の床を見失ってしまったかのような。
彼女は大きく傾いていた。身体も視界もそうだった。壁に頭をぶつけ、やがては床に倒れるはずだった。しかしそこには張り直されて数年といった床板も、瑕や凹みのある土壁もなかった。身体ごと泥沼に沈んでいる。溺れているのだ。
ほんの1秒、2秒のことだったが、茉世は恐ろしくなった。爪先が水溜まりに触れたような気がしたのだ。裸足で水浸しの床を踏んだような。真っ暗な空間の中にいる。床も壁も天井もない。しかし足には、水を感じる。
「三途賽川のお嫁さん」
霖と尼寺橋渡霑の違いはケロイドの有無と年齢だけではない。茉世にとっては決定的な違いがあった。まずは表情だろう。だがこれは茉世と同胞、或いは近しい親族しか分からないだろう。だが茉世だけが分かってしまう、大きな違いがある。声だ。尼寺橋渡霑の声を初めて聞いたときには思わなかった。だが危機意識の本能が、微妙な差異を茉世の鼓膜に、脳髄に刻み込んだ。
尼寺橋渡霑がどこかにいる。茉世は全身が冷えていくのを感じた。
「三途賽川のお嫁さん……」
暗い視界が拓かれていく。白昼夢の中で何度も迷い込んだ竹林にいる。茉世は周囲を見回した。確かにそこには尼寺橋渡霑がいるはずだった。だが見つけられない。
「こっち……」
距離感のつかめない声が、途端に後ろから聞こえはじめた。振り返る。ケロイドに覆われた腕が伸びた。
「三途賽川のお嫁さん。また会いにきたよ」
双子の禅と同じ高さの目線は、茉世より少し高い程度だった。後頭部を掴まれ、引き寄せられる。鼻の頭がぶつかりそうだった。
「近い……」
茉世は中学生を相手に、嫌悪を隠さなかった。世間からみれば、若さに嫉妬した、母性のない、次世代を担う相手へ無配慮な、醜い女であっただろう。細い身体を突き飛ばす。
「三途賽川のお嫁さんにまた会いたくて来ちゃいました」
邪悪な中学生男子は嫌がる人妻の唇を奪った。
「いや……!子供がそういうこと、しないの……」
「何故ですか。人間は動物で、動物でいえば繁殖適齢期ですよ。特に男は。中学生男子と成人した女の人がたくさんセックスして赤ちゃんを作るべきなんですよ。選ばれなかった非モテ男やジジイどもがその子供を養えばいいんです。社会のために……そうでしょう?そうでしょうが!社会的生き物ですから、個の保存より種の保存であるべきです。男の子は正義のヒーローに憧れるよう育てられます。救世主コンプレックスを拗らせて。世界を救いたがるのに、目の前の赤ガキは助けたがらない。世界に巨大隕石が落ちてきたところで、一個人が跳ね返すことなんでできないし、悪を牛耳る大魔王なんて存在しないのに。桜舞い散る破滅の美学というのなら、自分という個の保存は諦めて、全体に帰すべきです。そう思いませんか。だから、中学生男子と成人した女が番うべきなんです」
薄ら笑いに茉世は寒くなる。
「子供を持つことだけが幸せじゃない……それに子供は育つの。その後の暮らしは……?」
「三途賽川の人たちは教育が足らないな。足らないですね。家畜に芸は仕込みませんもんね。三途賽川のお嫁さん。あそこは一般家庭じゃないんです。牧場です。どうして人生には幸せが付き物だなんて思っちゃったんです。違います。幸せという概念を捨ててください。要らないんですよ。赤ちゃんを産むんです。産みたくないとかは必要のない意思です。産めないならそのうち捨てられます。帰るところないなら浮浪者になるんですね。あらゆる宗教が終わった流行になりましたけど、ひとつだけ廃れないものがあるとすれば家族神話です。絶対誰かと繋がっていないと、社会的支援受けられないんですね。怖いですね。泣いちゃいますよ。三途賽川のお嫁さんは、六道月路さんがまた回収してくれるだなんて夢を持っているんですね。それは有り得ません。人は独りでは生きていけないなんて気の利いた風なフレーズがありますけど反吐が出ますね。独りの人間を生かしちゃおかないだけです。独りの人間ならもう死んでいるからです。三途賽川のお嫁さんも、赤ちゃん産めないならそうなるんです。社会的支援も受けられないで、ホームレスになるんです。女ならおまんこ稼業すればいい!立派な仕事だから差別をするなって、この前授業で先生が言ってました!そうだ!女の人にはおまんこ稼業という立派な仕事があるんですから!前言撤回します。三途賽川のお嫁さんは、赤ちゃん産めなくても、おまんこを貸し出す立派なお仕事があるんですから、野垂れ死ぬなんてことありませんね!女の人はいいなぁ!需要もありますからね!男にもありそうなものですが、狭き門ですよ」
霑は最初、淡々としていたが徐々に嬉々として語った。
「長男との第一子がもし障害児だったら、お嫁さんは折檻されるでしょうね。赤痣のボクのコピー元の霰のときそうだったらしいですよ。ボクのママ、片輪を産まないようにってそうとう"躾"されたらしいです。三途賽川のお嫁さん、生理のとき、ナプキンちゃんと自分で捨てたほうがいいですよ。ブライダルチェックされてますからね。尼寺橋渡家に来たお嫁さんのナプキンも、この嫁はちゃんも子供産めるのか、見られてるんですからね。女の人って大変ですね。お股からあんなに血が出るなんて。それはお腹痛がるわけです。ボクびっくりしちゃって、人生でおちんちんをおまんこに挿れることなんてないんだろうなって思ったくらいなんです。でも三途賽川のお嫁さんを見たら、おちんちん挿れたくなっちゃって。おまんこをおちんちんで突いたら、また血が出ちゃいそうだなって思ったんですけどね。片輪のボクで試しておくべきです。いきなり本番なんてそんなの大変ですよ。片輪のボクで、最初に片輪のガキ放り出せばいいんです」
茉世は耳を塞ぎたくなった。霑はそれを面白がっているらしい。
「お父さんお母さんに捨てられたら、本当に終わりなんだなって思っちゃいました。ボクも三途賽川のお嫁さんと同じです。でもボクには尼寺橋渡家がありますからね、まだ三途賽川のお嫁さんより救いがあります。ちゃんと元気な男の子の赤ちゃん産んで、居場所を作らないと。3年子無きは去れ、でしたっけ。いたずらに時間は過ぎてゆきますよ。妊娠に大体1年使うとして、女の子や障害児産んだらもうすぐに長男と子作りセックスしないと。女の子の障害児産んだら多分一発で捨てられますよ。三途賽川一族ってそういうところです。きっとどこの分家もどこも引き取ってくれません。間引けなかったら、居場所もないまま子供抱えてお外で寝るんですよ?三途賽川のお嫁さん!どうするんですか?ボクのところに来たらいいですよ。ボク、頑張っていい大学行っていい会社に勤めて、捨てられちゃった三途賽川のお嫁さんと結婚します!片輪の姪っ子も育て上げますよ。三途賽川なんてクソ喰らえです。三途賽川のお嫁さん、貴方とボクは同じなんです。そうでしょう?」
馴染んできていた三途賽川の家が、恐ろしい、悍ましい印象を付け加えはじめた。霑の言い分をすべて信じたわけではなかった。だが茉世は、信じるに足る言動を端々で浴び、裏付けと思える行動を目にした。
「無条件で身を置いておける家庭に生まれたのならきっとそれは幸せなことです。ボクもそれで言うと幸せなほうではあるんですけれど……ボクはいい成績を修め、難関高校に進学し、分家の名誉となって、高偏差値大学を卒業して一流企業に就職。お金持ちになることが、尼寺橋渡家の一員でいられる条件な気がしますね。三途賽川のお嫁さんはどうですか。何を目当てに三途賽川が社会の一部となってくれたんですか?見放されたら終わる世間で?」
霑は茉世の鼻先の真下からぬっと現れ、顎から唇を舐め上げた。
「あ……ああ…………」
茉世の双眸は虚ろである。
「ここは忌み地のくせに、そんなことも忘れて罪を重ねていくわけです。間引いた子供はどこへ行くと思いますか?ここに捨てていくんです。竹取の翁も天帝も、月よりの使者も存在しない竹取物語ですよ」
霑はまったく抵抗も身動きすらもしなくなった茉世を抱き締めた。彼女は金縛りに遭っているようだった。中学生男子の舌が蛭のごとく唇を破り開いて侵入しても、微動だにしない。
「ボクの赤ちゃん、産みましょう」
茉世は大蛇に食われたことはなかったが、大蛇に呑まれていく心地を味わった。下唇を吸われているが、動けないのだった。呼吸まで、制御されているようだった。
中学生男子の掌が人妻の頭を両側から支えた。桜色の憎たらしい唇がさらに奥まで彼女の口腔に迫る。
そのとき、茉世は額を押さえられるような後ろへ向かう力を感じた。
固い床に寝かされている。茉世はのっそりと起き上がった。真新しい枕にはタオルが巻いてある。同じく真新しいカーペットは、プレハブ小屋に敷いたものだった。夫と共に張って数日経つ。
「大丈夫か?」
ノートPCを前に、レジュメと思しき紙束を捲って胡座をかく蓮がいる。
「あれ……」
目元や眉間を揉み込む。夢にしては鮮明だった。尼寺橋渡霑の言動が明確に思い出せる。
「忌み地に誘われたな」
「忌み地って、あの竹林ですか。あの竹林って結局なんなんですか……」
首だけ向けていた蓮は、テーブル代わりにした台にレジュメを置いて身体ごと茉世を向いた。
「聞くか?」
彼女は一瞬躊躇ったが頷いた。
「昔、この地域で飢饉があった。大昔だ。で、ここから少しファンタジーな話になるが、先輩が信じるか信じないかは好きにしてくれていい。俺も信じていない。神狩りの家というのがあって……今はもうないんだが。今風に言うなら霊能者が一番近いのかもな」
忌み地というのがそもそも胡散臭いのである。神狩りという言葉が出てもすぐに受け入れることはできなかった。
「食うものはない。そこで村長は、提案する。この地の守神の獣を食う。お稲荷さんがキツネなら、その地の守り神にもイメージがあるんだろうな。俺はイノシシと聞いているが、タヌキか野良犬か、獣ですらないヘビかもしれない。で、村長の鶴の一声で……タヌキだのツルだの紛らわしいな。村長の一存で、神狩りの家は守神を討ったわけだ。勝者が歴史を書き換える。事実は知らん。神狩りの家が賛否どちらに傾いたのかも」
茉世も、イノシシだと思った。巨大なイノシシだと思った。
「守神の肉を食って村は大飢饉を凌ぐわけだが、今度は疫病が流行る。村にな。なかなか大きな村だったらしいが。で、村長はどこに責任の所在を求めたかといえば、神狩りの家だ。焼き討ちしたらしい。一家虐殺だ。生きたまま胸に杭を打ち込んだとか。この家を掘れば骨が出てくるさ。この街は広まった疫病の死者の墓場の上にある」
「神狩りの家が、この家なんですか?」
「いいや。村長の家系のほうだ。それから代々、三途賽川の長男には耳と尻尾が生える。俺の父親がそうだった。イノシシじゃなくてキツネみたいだが、飢饉を凌ぐのにキツネの肉なんて食うのか、という話になってくると、大きなイノシシかシカなんじゃないかと思う。神狩りの家がキツネをたいそう神聖視していたという話はあるから、つまり長男ていうのは、三途賽川にとっては呪いなんだ。神狩りの家の生き残りが紙に書いて遺したのが蔵にある」
蓮の暗い目が蔵のある方向へ転がった。
「あの竹林は、結界だな。先祖たちが食らった守神の居場所を作ったって話だ。一家断絶する神狩りの家がな。忌み地というのはそういうことだ。向こうからしたら俺たちが異物なんだろうが。この世は人間至上主義だ」
カサカサ……と室内で乾いた音がした。茉世は恐ろしくなった。湿気の多い夏場である。このプレハブ小屋には古い匂いを発しながらも冷房が効いているけれど、季節はそうではない。あの悍ましく忌まわしい虫が這い回っていてもおかしくはなかった。
「大丈夫だ」
蓮はテーブル代わりにしていた粗末な台の陰から大きな虫かごを引き寄せた。べったり叩きつけられたような餅みたいな小型の毛物が忙しなく動いている。何事かと鼻先を突き出して周りを探っている。
「飼ってるんですか?」
茉世は小さな生き物に驚いてしまった。
「実験用のハムスターを引き取ってきた。母家は猫がいたから今までは飼えなかったが、ここなら飼えるだろう」
「お名前は?」
ごまスムージーを染み込ませたフェイシャルコットンみたいな生き物は巣箱に引っ込んでしまった。
「どんぐり。これから道具を買いに行く。一緒に来るか」
蓮が問いかけたとき、プレハブ小屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
蓮は冷めた声で応じた。直後に勢いよくドアが開いた。御園生瑠璃が入ってくる。上体を起こしている茉世の傍に這って駆け寄り、肩を抱き寄せた。
「まっちゃん、大丈夫か?ありがとな、蓮サン」
「……別に」
彼はハムスターの入った虫かごを台の影に隠し、布で覆ってしまった。そしてノートPCを向き、茉世に背を向けた。
「熱中症か?大変だな。でもよかった。霖サンも心配してたぜ。蓮サンに聞いた?おれもバイトだったから、預けちまって。ありがとうな、蓮サン」
「いいや。部屋に戻ったらどうだ。埃臭いだろう」
蓮はそれから一切、茉世のほうを見なかった。
「戻るか。おっし、しがみついとけ。靴持ってきてないんだわ」
「え」
「任しとけ。ここ連れてきたのおれなんだから。いい筋トレになる」
有無を言わせず御園生瑠璃は茉世を抱き上げてしまった。まるで無人の部屋と貸したプレハブ小屋から茉世は運ばれた。庭へ出ると、永世が夏野菜たちに水を撒いていた。御園生瑠璃の足が菜園へ向かう。
「目が覚めたんですね。よかった」
永世はホースの水を止め、傍へと寄ってくる。
「旦那サマは?」
「今ちょっと出掛けているんです。瑠璃くん、この後ご予定は?」
物腰こそ丁寧だが、永世は親族の三途賽川の連中と喋るときよりも、御園生と話すときのほうが表情も語気も砕けていた。
「ねぇよ。じゃ、おれがいるわ」
「茉世さん、お出掛けの際はぼくか瑠璃くんに……買い出しがあるのでしょう?」
「はい……あ、でも、蓮さんにちょっと用があって」
蓮が何か言い掛けていたのを茉世は拾っていた。
「じゃあ玄関まで連れてくから、ちょっと待ってろ」
御園生瑠璃に玄関まで運ばれた。ワックスのよく塗られ、木の風情の残った式台へ彼女は腰を下ろす。
「ありがとう、るりるり」
「明日には筋肉痛かもな~」
彼は腕を曲げたり伸ばしたりしてにやついている。
「重かった?」
「重かったら運んでねぇよ」
日焼けをした逞しい腕の割りに、背中に添わる手は優しかった。
「ちゃんと食えよ。バテるぜ」
「うん」
茉世はサンダルを履いて、再度プレハブ小屋を訪れる。
「ごめんなさい、蓮さん。さっき、何か言い掛けていましたか」
蓮はノートPCのキーボード部分に紙束を置き、一口大のチョコレートを齧っていた。茉世の再訪を認めると、彼女のほうへ袋を押し出した。フルーツの味が数種類包まれた、個包装だった。甘たるいいちごの香料が薫る。
「別に、何も……いいのか、幼馴染なんだろう。放っておいて……」
「幼馴染っていっても、小学時代ですから……特に用がなかったのなら、わたしの勘違いですね。お勉強の邪魔をしてすみません。また……」
茉世は愛想笑いを浮かべた。そして踵を返した。自身の勘違いだと分かると、途端に気恥ずかしくなってきた。一体蓮が自分に何の用があるというのか……考えれば分かるものだった。
「……ハムスターの道具を買いに行く。先輩も一緒に来て、ほしい…………買い出しがあるなら、それも……」
語尾が消えていく。長めの前髪の奥で、昏い目が小刻みに揺らぐ。俯き気味なために、背が高くとも上目遣いに見えた。
「買い出しは大丈夫ですよ。でもわたしも見てみたいです、ハムスター用品。すぐに着替えてきますね」
「待っ………てる。焦らなくていい。母家に、幼馴染がいるんだろう?」
茉世は頷いて母家に帰った。だが玄関近くのアプローチに禅が立っていた。吊り気味の三白眼はプレハブ小屋から出てくる兄嫁を目で追っていたらしかった。視線が搗ち合った気がして、彼女は小さく会釈をした。茉世は己の迂闊さをこの瞬間に思い出してしまった。
「白昼堂々と、恥ずかしくないの…………不登校の引きこもりのほうが恥ずかしいか」
禅は自嘲するでもなく、終始睨んでいるとも無表情ともいえぬ貌をしていた。茉世はその人好きするとはいえない性格の悪そうな目を見つめていた。八つ当たりではなかった。この子供の非難は真っ当だ。彼女はハムスターに気を取られていた。無愛想で底意地の悪勝手かった小舅と可愛らしい小さなネズミの組み合わせに絆されていた。だがあの男は恐ろしい血筋の、悍ましい家訓のもとに育ったなかでもとりわけ冷酷な振る舞いのできる人物だった。騙されてしまうところだった。所詮は古臭い、時代遅れの価値観に囚われた差別主義者の変わりの者集団の家の生まれである。
「不登校には理由があるもの。恥ずかしいのはわたしです」
それは嫌味ではなかった。正直な告白であった。だが禅は顔面に苦渋を浮かべた。怪我が痛むのかもしれない。
「大丈夫ですか」
「蘭兄ちゃんに近付かないで。穢れた手で蘭兄ちゃんに、触るな!」
禅が叫ぶ。庭に谺する。この子供は情緒不安定なのだ。時期がそうさせるのだろうか。それとも癇癪持ちなのか。
茉世はそこに佇む。茶の間のレースカーテンが開き、御園生瑠璃がふざけたように顔だけ出した。おどけたつらをして2人を見下ろした。
「どうかしたんですか」
庭には永世もいる。農作業を中断してやってきた。禅は顔を背けた。そして身体ごと茉世を拒絶した。人差し指だけが乱雑に彼女を示す。
「何か揉めごとですか」
永世はレースカーテンの化け物みたいなことをやっている御園生瑠璃を一瞥した。御園生は引っ込んでいく。
「……別に」
「ぼくは部外者ですし、仲良くしろとは申せません。けれど、蘭さんの悲しむようなことは、」
「悲しませたくないのなら、どんな極悪も隠せばいい?」
永世は禅の顔を覗き込み、それから茉世を見遣った。純朴な眼差しが痛かった。
「極悪とは?茉世さんに何か後ろめたいがあると、おっしゃりたいんですか」
「永兄は女を知らないんだから、黙ってろよ。こんなふうに言ったら、また叔父さんが出てきて、一族会議になる?」
そのときの永世の表情に、茉世は居た堪れなくなった。この中学生男子は、いとこを傷付ける言葉をよく心得ていた。人の罪悪感を突く言葉を。それとも、仲の悪そうな次兄が追い出される結果になったのが気に入らなかったというのか。
「禅さん。永世さんに八つ当たりしないでください。言いたいのはわたしのことですね」
反抗的な目が禅を捉えた。
「騙されてるんだ。永兄も、蘭兄ちゃんも。霖だって……」
小生意気な中学生は唇の端の瘡蓋を舐める。
「永世さんに失礼なことを言ったのは謝ってください。巻き込んでしまってすみません……」
永世は中学生の脳天を凝らし硬直していたが、やがて両手を振って茉世の詫びを否定した。
「いいんですよ。いいんです……女性を知らないのは事実ですし、巻き込んでしまったなんて……あ、……その……」
「事実かどうかは関係ありません。傷付ける意思があったことに対して言っているんです」
禅の眉が険しく立ち上がる。
「偉そうに説教できる立場じゃないだろ、あんたは」
学生は胸ぐらを掴まれ、砂利の上に張り倒された。ほんのわずかな時間の出来事だった。
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