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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 18

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 およそ3日間、茉世まつよは蓮のもとにいた。三途賽川さんずさいかわの家では、新たに家事代行のサービスとは別にアルバイトを雇ったらしい。部屋はたくさんある。住み込みだという。これには信用できる人間が必要だったらしく、永世えいせいの推挙だという。そのために一度、茉世は帰ることにした。蓮はまだ束の間の一人暮らしを堪能する気のようだった。そうだろう。田舎とはいえマンスリーマンションの家賃はそう安くはない。マンスリーなら尚更だ。
 タオルを一枚敷いただけの床で寝る生活をこれ以上させるわけにもいかない。
「気を付けろ」
 彼は今日は庭の先まで車を持ってきた。もうすぐで夏の盛りは過ぎる季節ではあるけれど、この国に秋はないのだ。花粉の鬱陶しい春が来て、すぐに危険な夏がやってきて長居をする。秋などは1週間保てばいいほうだろう。乾燥の冬がやってきて、また春へ巡るのだ。夏にばかり色濃い印象を残して。
 蒸れた空気がつらかった。
「ありがとうございました」
 蓮は降ろした窓を上げて、帰っていった。立ち寄る気はないらしい。だが彼らしくもあった。
 玄関へ向かう途中で禅が突っ立っていた。顔のほぼ傷は治り、痣は淡い黄色になっていたが、肘にはまだ包帯が巻かれている。
「こんにちは」
「……ちわ」
 猫目が上目遣いになりながら、小さく会釈する。
「どうかしたの?熱中症になっちゃうよ。おうちに入ろう」
「……っす」
 茉世も心の底からその少年を案じていたわけではなかった。ただ、身の上について同情心は持ち合わせていた。この子供は恵まれない学校生活で歪んでしまったのだろうか。それとも、過酷な学校生活などなくてもこうであったのか。いやいや、こうであるから過酷な学校生活を送らねばならなかったのか。茉世には分からないことだった。彼女にとって学校とは、そう悪いものではなかった。あらゆる格差がまざまざと存在し、また可視化される場所ではあったけれども、やはり悪くないものだといえた。学内排他というものもなかった。少なくとも茉世の周辺にはなかった。見ることはなかった。ゆえに分からないことだった。時代も違う。
 彼女は薄情者みたいに、一人で中へと入っていった。茶の間から蘭が顔を出す。
「やっほー、茉世ちゃん。お帰りなさい」
「ただいま帰りました」
 蘭はひょいと手を出して、妻の持つ旅行カバンを取った。
「蓮くんは?」
「お帰りになりました」
「そっか。まぁ、茉世ちゃん、座りなよ。アイス食べる?」
 茶の間に促されたところで、彼女は固まった。
「よっ!まっちゃん!」
 御園生みそのう瑠璃がそこにいた。小学時代の友人が、永世と親しげに喋っている。
「あれ?るりるり、なんで……」
 御園生瑠璃は悪戯っぽく笑った。
「お弁当屋さんのアルバイト、気になったから来ちまったよ」
「あっ、えっと……」
 蘭が横から軽く体当たりするのだった。
「もぉ!茉世ちゃん!おでと結婚してるって言いたくなかったのぉ?」
「ご、ごめんなさい……なんだか照れ臭くて……」
 何故、御園生瑠璃がここにいるのだろうか。彼は本当に、この家が弁当屋だと信じていたというのか。改めて、茉世は彼を見遣った。
「永世と高校で仲良くってさ。こういうバイトあるけど、どう?って具合。出戻り男に実家は肩身が狭いのよ。住み込みって話だからな。あ、でも……」
 御園生は蘭へ顔をやった。
「昼間のデイシアのバイトは続けさせてもらいたい」
「うん。お昼なら大体、おでもいるし、上手く調節するよ」
 茉世は後ろめたくなった。警戒すべきは中学生である。それを言えてしまえばよかった。だがそれには己の被害を打ち明け、夫の実の弟についてさらなる報告をしなければならなかった。夫は、弟が、同じく弟の禅を学内虐待したことのみならず、嫁を陵辱したことについても知らなければならないのだ。言えない。話したいと思えなかった。
「茉世ちゃん?」
 夫は彼女を抱き寄せるようにして肩を叩いた。彼女は我に帰る。話題を逸らそうとしたときに、これ幸いと点と点が繋がる閃きを得た。
「デイシアマーケットってことは、ばんくんが働いてるところだ」
「お~、絆のこと知ってんだ?」
 茉世は夫と御園生瑠璃を交互に見遣った。彼等はどこからどこまで知っているのか、見当がつかなかった。この話題は夫が引き取った。小学時代の友人は相変わらず人と打ち解けるのが得意だった。ちらちらと話を振る様は気遣いであろう。
「荷物を解いてきます」
 彼女は区切りのついたところで茶の間を出ていった。
 自室を開けた。鼻を突くような匂いがした。腐乱臭とは違う、鋭く劈くような異臭はアルコール消毒液に近かった。甘い匂いを帯びている。だがそれは砂糖や果物といった可食性のあるものを模しているわけでもなかった。室内は煙を撒いたように白かったがそれは煙でもないようだった。冬の風呂場……それは霧や霞の類に思われる。匂いはすぐに頭を鈍らせた。気分が悪くなる。彼女は蹲り、わずかに咳き込んだ。するとこの自室側の隣室の隅に羽虫が死んでいるのが見えた。羽虫の命は短い。だがふと、合点がいった。夏である。篠林も近い。部屋の主が不在のうちに殺虫処理をしておこうと思ったのかもしれない。タイミングが合わなかったのだ……おそらくは。彼女はそれで納得した。掃き出し窓を開けてはならない気がした。篠林の生態系を壊してしまいそうだった。彼女は殺虫剤についてあまり詳しくなかった。それは換気をするべきものなのだろうけれど、せずとも勝手に消えるものだと思っていた。隣室のほうを開き、風邪のひきはじめとはまた違った喉の痛みを覚えながら、彼女は荷物を解いた。わずかに頭も痛くなってくる。
「……換気したら」
 足音もなく珍しい人物がやってきた。裸足が見えた。禅である。愛想のない面は次男と似ている。ずかずかと踏み入って、掃き出し窓を網戸にする。
「ありがとう……」
 目で追っていると、睨まれる。どう対応していいものか分からなかった。怪我について労わる言葉を口にしていいものかも分からなかった。
「何か、用があったの?」
 この子供のあずかり知らないところでこの子供の話をした。後ろめたさとはまた別の後ろ暗さはあるのだった。
「ないけど」
 ぶっきらぼうな態度で、禅は帰っていった。
 暫くすると彼女はまた気持ちが悪くなって、隣室に避難した。吐気がする。急に不安に襲われた。それは殺虫剤の影響であろう。けれど妊娠について、生々しくなった。彼女は女の肉体についてまだ未知だった。経験したことしか知らなかった。妊娠や妊婦についての知識はなかったのだ。けれどまだ、悪阻つわりなどが起こるはずはないはずだ。しかし……
 実を結んでいれば、それは夫との子ではない。夫の血は入っているとしても。
 不安は色濃くなり、恐怖へと変わる。感情は肉体的変化へ移ろう。尼寺橋渡霑との子を、夫の弟の子を孕んでしまっているかも知れぬ。
「茉世ちゃん!茉世ちゃん……?どうしたの?」
 夫がやってきた。人好きのする笑みを浮かべていたが、涙を滲ませる茉世を認めた途端に、その情けない表情は一転した。
「なんでもないんです。ごめんなさい」
 色気もへったくれもない腕が彼女を包む。袖に囲まれる。夫は開け放たれた部屋を見遣った。
「臭……何これ。どうしたの?」
「殺虫剤みたいです」
 やったのは夫ではないらしかった。ならば家事代行サービスであろうか。しかし夫に許可を得ずにやるだろうか。
「蘭さんが、やってくださったんじゃ、ないんですか……?」
「おでじゃないよ。おでバカだけど、さすがにこんな量やらない……」
 燻されたような室内を見ながら彼は独り言ちているようだった。
「茉世ちゃん、まだ帰ってきちゃ、ダメかもね」
 しかし茉世は夫の柔らかな抱擁のなかで首を振った。蓮の世話になることを続けるわけにはいかなかった。彼は床で寝ている。
「大丈夫です。多分、虫でも出たんだと思います。だから……」
「茉世ちゃん、おでの部屋にいよ。お目々、痛いん?」
「平気です。ごめんなさい、帰ってきて早々……」
 三角形の耳は飛行機の羽根みたいになっている。
「ううん。家族なんだから。メロン食べよ。御園生くんが買ってきてくれたの」
 だが彼女は目元を気にした。夫は妻の肌が赤くなるのを厭った。
「ここで食べようか。テキトーに言っておくよ」
 彼はまた幼い弟たちにするみたいな慈悲深い両腕で茉世を包む。
「ごめんなさい」
「いいんだよ、茉世ちゃん。大丈夫だよ。御園生くん、おでから見てもいい人そうだし、それは茉世ちゃんのほうがよく知ってるんでしょ?」
 この家は異常であった。だが夫が恐ろしく、厳格で荒く、怕い人物でなかった点について、彼女は改めるべきなのかもしれなかった。



 茉世の一番の懸念はりんだった。しかし火傷痕を除いてはまったく同じ顔をしていたとしても、表情と雰囲気が違った。これは大きかった。杞憂であった。凛は邪悪に歪んだ中学生と同じ顔をしていたが、重ならなかった。このことが知れて、彼女の気はいくらか楽になった。霖は霖だった。またあの少年に弁当を作ると約束して、夫の隣に敷かれた布団に潜り込む。
 夫は布団の上に座っていた。彼は早朝に鳴り響く目覚まし時計について承知していたし、そのために早寝することについて嫌な顔も渋い態度はしなかった。しかしすぐに寝ようとはせず、気難しそうな目で先に横になった妻を見下ろしていた。
「どうかしましたか」
 蓮ならばこういうときに何を言うか分かっていた。嫁が旦那より先に寝るなと言うのだろう。しかし優しくおおらかな夫であったし、妻の事情も理解している。
 身を起こして、夫と対峙した。その表情がしかつめらしく強張っていることに彼女はぎくりとした。
「明日早いんだよね。それは分かってる。でもね、茉世ちゃん。げんくんはそれなりの覚悟を持って預けられてきたんだと思うんだよね。このままじゃ、いけないみたい。茉世ちゃん……」
 ふ、とその目が落ちていく。夫婦としての務めを果たすときが来たのだった。蓮が強要してくるのとは話が違った。蘭は当事者である。そして彼もまた茉世同様に強いられた立場なのだった。
「……承知しました。けれど、わたしは"初めて"ですから、何かとご不便があったら、申し訳ありません」
 布団から出て、彼女も夫と膝を向け合った。
「そんなすぐには……しないよ。ちょっとずつ……まずは、触れるだけでも………」
 夫はぎこちない。緊張しているようだった。互いに互いの深くまで踏み込まねばならない話をしているというのに視線は躱され合っているようだった。否、下のほうで交差していたかもしれない。
 硬そうな寝間着の衣擦れに茉世は身構えた。蓮は嫁を仕込むことに拘っていたけれども、こういう場は夫に任せるものなのだろう。
 茉世は目を閉じた。膝の上に組んだ手に、夫の手が重なる。
 そこで襖が開いた。
「にいに!にいにと一緒に寝る!」
 小さな人影は襖を閉めることも忘れ、弾丸の如く、夫婦の間に割り込んだ。諺である。茉世は徐ろに立ち上がり、襖を閉めた。
「諺くん、一人で寝るの怖くなっちゃったの?」
「うん。にいにと寝る!禅にいにもそうしなって」
 子供はべったり張りついて、抱き上げられるのを待っていた。そして蘭もそれに応えるのだった。
「そっかぁ。ごめん、茉世ちゃん」
「い、いいえ……いいんです」
 諺は救世主であったのだろうか。蘭は普段の貌と音吐に戻っていた。
「じゃあもう寝るよ、諺くん。茉世ちゃん、明日早いんだから」
 そこでまた襖が小さく軋んだ。徐々に開いて、布団を抱えた禅がやってくる。そして茉世は目が合った。しかし彼女に用はないらしかった。出入り口で布団を落とす。
「諺の布団」
「ありがと、禅ちゃん」
 蘭は子供を降ろして、布団を拾いにいく。禅は長兄よりも、茉世にまたもや一瞥くれた。何か用があるのだろうか。秘事がどこからか露見したのかもしれない。
 諺の布団は夫婦の間に敷かれた。そこに意図があったのか、無いのかは分からなかった。だが無さそうであった。ただ蘭の向きやすいほうに預かってきた子供を配置したにすぎないようだ。
 それが数日続いた。諺は蘭によく懐き、この子供が、子供といわずとも第三者が傍にいたのでは、とても夫婦の触れ合いなどできたものではなかった。他に変わったことといえば、蓮が帰ってきたことだった。彼はプレハブ小屋に囚人みたいに引きこもっているため、そう茉世の生活に関わってくることはなかった。
 この頃になると早朝から鳴り響く目覚まし時計はまったく夫や諺の眠りを邪魔するものではないと、茉世も遠慮しなくなってきた。だがすばやく止めて、台所へと向かった。あの子供に感謝していいのか否か、内心のことでも分からずにいる。
 台所には永世がいた。扇風機を背に眠そうに目元をしょぼつかせていた。
「おはようございます」
「おはようございます。お早いんですね」
 永世はコーヒーを呷る。
「ええ、まあ……」
 元次男みたいに台所を寝室に、キッチンテーブルを枕にしているわけではないだろう。何か用があるふうではなかった。
 彼は茉世が有り合わせの食材で弁当を作っているのを見ていた。冷凍食品が多くなってしまった。家庭菜園の夏野菜はたいへん役に立った。
「寝不足は、熱中症になってしまいますよ」
 茉世は眠ったげであるにもかかわらず部屋に戻ろうとしない永世を振り返った。弁当箱をバンダナで縛り、冷蔵庫にしまうついでに「いただきますね」と呟いて、彼の近くにある笊からきゅうりを手に取った。ぶつ切りにして漬物の素に浸す。朝飯を食う頃には程よく染み込んでいるだろう。献立に不満があったわけではないが、この夏野菜たちは次から次へとっていくため、毎日の消費を要する。
「そうですね……気を付けます」
 彼女が台所から立ち去るときに、永世もあくびを噛み殺しながら腰を上げた。それから数歩進んだときに知るのだった。彼は見張っていた。けれど遅かった。その背中は曲がり角で消えた。
 警戒すべき犯人を茉世は知っていた。無駄な労力を割かせる前に、それが誰であるのか言ってしまうべきだ。強姦被害のことを伏せて、言えるだろうか。信じてもらえるのだろうか。もらえなければ?肩身が狭くなるだけだ。弟をいじめている話とは訳が違う。嫁は他人である。
 茉世は夫の甘い言葉を信じていないわけではなかった。ただ真に受けているわけでもなかった。そう易々と、人は中身まで家族にはなれない。特に、長く深い交際期間を経て築かれた関係でもないのだ。
 言わないことにした。様々な理由をつけた。だが結局のところ、言葉にしたくなかった。探すことになる。相手に伝わるように説明したとき、己にも説明しなければならなくなるのだ。そして彼女はそのことに耐えられる自信がなかった。男に無理矢理犯されて気持ちが悪いのだ。中学生に手籠めにされて情けないのだ。何をするのも裏目に出る、何をしても搾り取られる。そういう生まれなのかもしれない。そしてこの最後の意地の砦によって、罪のない永世は巻き込まれるのだ。
「どうかしたのか」
 茉世は無防備だった。遅れて、玄関戸の開く音を認識した。入ってきた人物は、すでに近くまで来ていた。朝になるとシャワーを浴びにプレハブ小屋から母屋にやってくるのだ。
「蓮さん……おはようございます」
 日焼けしないのか、蝋のような白い顔に、色濃い隈が浮かんでいた。夜通し勉学に励んでいるらしい。昼夜逆転していることは夫から聞いていた。
「何かあったら言ってくれ。今はもう、ここはただの下宿先だ。身内の愚痴は厳しいか?」
 人の話など聞いていられる様子はない。まずは手前の養生について考えるべき、惨憺たる有様だった。それでも華やかな体格に美貌を持ち合わせるというのも罪が深い。この不健康が、彼の美を損ねたか?いいや、むしろ増長させた。退廃的で寂れた、危うげな色気を加えてしまっていた。
「そんなんじゃないんです。お風呂ですよね。お気を付けて」
「先輩」
 彼はすいと彼女の左手をとった。
「俺がこの傷痕をなおす。だがその前に、貴方の身に何かあったんじゃどうしようもない」
「……蓮さんは、皮膚科の先生になるんですか?」
 傷は塞がっていた。痕にはなっている。しかしコンプレックスにはなっていなかった。訊かれたとて特別な心地はしない。恐怖や痛みが甦りもしない。気付いた者の目がそこに留まるならば自ら話しもした。すっぱり忘れることはできないが、常に思い出しているほどのものではない。これは彼女のアイデンティティに含まれていなかった。
「それもやぶさかじゃない」
「このキズは、気にしなくて大丈夫です」
 まだ信じられずにいた。この傷が付く原因となった少年が蓮で、そして目の前に立っているという因果が。必然を疑いたくなる。仕組まれているのではあるまいか。三途賽川と六道月路ろくどうがつじが結託して。
「あと先輩って、なんだか変です……」
「俺にはこれが自然だ」
 寝不足らしいがまだ若く、華々しい躯体は萎むことも浮腫むこともなかった。そして、特別小柄というわけでもないが、平均的な男の体格と比べれば矮躯であるとしか言いようのない女を威圧していた。
「嫌なのか」
「嫌ってわけじゃ……ただ、わたし、呼ばれてもすぐにわたしのことだって、反応できないかもしれないです……言われ慣れてませんし……」
 特に異性からはそうだった。高校時代、手芸クラブの後輩たちから何度か呼ばれたことはある。だが活動日も少なく、関わり合いは希薄だった。
「別に構わない」
 彼はそう頻繁ではないようだけれども喫煙者だった。口元が寂しいのかもしれない。傷痕に唇が押し付けられる。肌理の質感と、薄いなりの弾力があった。あまり温度は高くなかった。不思議と汚らしく思わなかったのは、その幽霊みたいな冷たい美貌のせいか。活きた肉感も生気もない。
「れ、蓮さん……」
「口煩い次男坊はいなくなったんだ。何かあれば相談してくれ。力になりたい」
 その切り替えが、茉世は怖かった。信用ならなかった。猜疑ではなかった。この人物を理解できなかった。
「はい……」
 口から出任せのような肯定には慣れていた。面倒臭い、理解に足らない会話を手早く切り上げるには、それが最も有効なのだ。六道月路の家で学んだのだ。血の繋がりのない貰われ児に一体何の発言権があるのだろう。
「じゃあ、また」
 彼は左手を引き寄せた。傷痕に触れた唇が、今度は彼女の口元に迫った。反射的に顔を背けてしまう。口角に柔らかな反発があった。その表情を窺う間も与えずに蓮は風呂場のほうへ行ってしまった。
「どうして蓮兄とそんなことしてんの」
 次男と四男は音もなく、ぬっと現れる。ある種、気遣いがない。性格が捩じくれているのかもしれない。人を驚かせるのが生き甲斐なのだ。
 引きこもりの禅は身体の半分だけ見せていて茉世を見ていた。監視や観察していたような眼差しだった。偶々目の当たりにしたふうではなかった。
 茉世は禅を認識したことに戸惑い、言葉の意味合いに頭を真っ白くする。
「……別に、オレには関係ないけど」
 猫のような大きな吊り気味の三白眼が、侮蔑を隠さずに目瞬く。
「でも蘭兄ちゃんのこと、愛してないなら、それはちゃんと蘭兄ちゃんのために言っておいたら」
 用を果たしたか興味の失ったかした猫みたいなあっけなさで、そしてそれはこの少年の次兄にそっくりな所作で颯爽と去っていく。
 茉世はそこに突っ立っていた。ややあって我に帰る。
 男女の諍いは、すべて女が悪い。夫婦ならば尚のこと嫁が悪い。三途賽川はじめその分家の通念として有り得そうな話である。
 だが、禅は長兄によく懐いていた。尊敬もしているのだろう。接触を赦すのは飼っている白猫か長兄のみである。和らいだ貌を見せるのもそうだ。どちらに非があろうとも、感情は介在する。家族であり、懐いている兄の味方をするのは無理からぬことだった。そして確かに、蘭は悪くないのだ。嫁と弟が密通していたとして、彼に何の咎があるのだろう。

「元気ねぇな、まっちゃん。どした?」
 飯時に人が1人増えた。御園生瑠璃は、茉世が朝漬けたきゅうりを齧りながら訊ねた。事情を知る永世も、品の良い手付きで茶碗を持ち、探るような目を向けた。
「ううん。なんでもない。ちょっと寝冷えしちゃったかな?それより、きゅうりどう?味ついてる?薄切りだと味が濃くなっちゃうかなって、いつもより大きめにしたんだけど」
 御園生瑠璃は快活に笑っている。永世も安堵なのか微苦笑なのか分からぬつらをしていた。
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