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城前広場は人集りができていた。老人が多い。それから車椅子や杖をついている姿については老若男女を問わなかった。新たに病院でも開かれたのだろうか。広場まで通じる階段が行列で埋まっている。
アルスはセルーティア氏に会うのに、その脇を通らなければならなかった。先頭に行くにつれ押し合い圧し合いが起こり、巻き込まれてしまう。そして新たな病院らしき施設は見えなかった。さらに進んでいくと、やがて看護師や王立学園の学徒が行列の崩れはじめている先頭の連中を宥めていた。
―いつまで待たせるんだ!
怒号が聞こえた。空気は殺伐としている。病人や怪我人とその付き添い人の集まりであったが、血気盛ん、一触即発という有様である。
王立学園の制服というのはここでは撒き餌に等しいらしかった。後ろから腕を引かれる。アルスは咄嗟に振り返った。腰の曲がった、背の低い老婆であった。
―セルーティア先生に診てもらえるんですか?
彼は戸惑う。
―いつになったら診てもらえるんだ!
―こっちは朝からずっと待ってるんだぞ!
少し離れたところから次々と怒号が飛んできている。セルーティア氏は確かに優秀なのであろう。だがその身はひとつであった。その腕は左右で2本であったし、口頭で指示を出すにも、その口は、笑いもせず愛想のひとつも言わないのがひとつついているのみである。天幕は患者たちで手一杯だ。急遽拵えた避難所であって、医療施設ではない。設備もろくに整ってはいなかった。今、王城は崩壊したけれども、王都自体が逼迫しているわけではなかった。他に手の空いている医者はあるはずだった。しかし彼等彼女等は氏に診てもらいたいらしい。
アルスは掴まれた腕を振りほどけなかった。老婆は縋るような目をくれている。
「セルーティア先生は……」
口にしかけた。天幕の有様を知っている。今すぐに治療の必要な者たちがいる。
―城のお偉いさんだからって、おれたち庶民はどうなったっていいってのか!
懇願は怨嗟へと変わっている。
「病院は他にもあります。セルーティア先生でなくとも、病気や怪我を診られる一流の医者が王都にはたくさんあります」
アルスから老婆を引き離し、周りに叫んだのはシールルトくんであった。だが善良な王都民は、医業で名高いセルーティア氏の診察を求めた。
シールルトくんは行列から飛んでくる罵声を気にするでもなく広場へ向かっていった。王立学園の制服が怒りに病んだ彼等彼女等を追い越すことを赦すのであった。アルスもそれに続いた。彼は気にしてしまった。冷ややかで、敵意にも似た、穏やかではない眼差しを。
診察用の天幕に入ると、シールルトくんは予防着を身に纏いながらアルスを顧みた。
「セルーティア助教授が来たと知れてから、ここを担当していた医者たちの殆どが敬遠しました。だから、診療所に行けば医者は他にもいるんです。あの患者たちのほとんどは魔凪負傷ではない。セルーティア助教授でなくとも、医者の名を冠していれば診られるものだ」
責めるような目だった。
「あの人は王都の人ではないけれど、王都が定めた人数を超えているんです。今は非常事態で、あの人は余所の医者ですけれど。医者1人が診ていい人数を……王都の魔科学医療の均衡を崩しました。王都連の医者の規則なんて患者には関係ないことですから、なおのこと」
思った瞬間、シールルトくんが口にした。同時に、外を忙しなく行き来していたセルーティア氏が膜手袋を嵌め、看護師の話を聞きながら、2人のいる天幕へ入ってきた。迷う様子もなく指示をとばしている。薬草の調合、量。1人に指示してる間に、また次から次へと看護師がやってきて、ここにも列が成されるのだった。
話を横で聞いてれば、それは城の襲撃や崩落によって負傷した者たちの治療についてではなかった。
「―仕方がありません。まだ若いので、微量なら耐えられるでしょう。軽度の治癒術を使います」
この城前広場は、天幕のなかで過ごしている者たちののみの診察と処置であるはずだった。だが違った。セルーティア氏は外で列を成している輩の診察と処置までするつもりらしい。
アルスは焦りを覚えた。
「セルーティア先生」
話している途中であるにもかかわらず、彼は口を挟んだ。氏は喋るのをやめた。指示を走り書きする看護師の眼差しは厳しかった。怒号や悪罵を直接浴びるのは彼女等、或いは彼等であった。
「はい。どうかされましたか」
氏は多忙であったし、看護師たちは険阻とし、天幕内外の空気は冷たいものだった。アルスにはその返事が呑気なもののように思えた。
「レーラのことなんですけど……」
彼は人目を憚った。王子の名を出しても氏には通じるだろう。王子の名に肖って、同名の人物が王都にはたくさんいるのだった。
「はい。承知しております」
しかしその返答は、安堵を与えてはくれない。
「昼過ぎに一度、予定を空けてはもらえませんか」
「患者を診終えたら行きます」
氏は呑気だ。周辺からかけられている圧力にアルスは気付くこともない。怒りでそれどころではなかった。外の行列の長さを目にしてはいないのだろうか。患者の診察が終わるのを待てば昼を過ぎて夜を越え、朝が来てしまう。
「患者を診終えたら?区切りのいいところで来てくださるんですよね」
何のためにロレンツァに来たのだろう……
セルーティア氏は当布のない片方の瞳で少々苛立っている新任助手を見ていた。観察しているようでもあれば、蔑んでいるようでもある。
「治せる患者はすべて治します」
「無理じゃないですか?」
シールルトくんが容喙した。アルスは彼を見遣った。
「現実問題、無理じゃないですか。中途半端なところまで診察の手を広げて、後ろの患者にまで希望を持たせる。残酷です。王都に医者は1人しかいないんですか。先生の患者は今、この広場の天幕の人たちであって、他に選択の余地のあるあの行列の人たちではないはずです。大体、王都にいらっしゃったのだって、他に用があるという話だったではありませんか。フラッドさんはそうおっしゃってました。セルーティア助教授……ご自分の評価を自覚してください。貴方は高名で優秀な医者なんです。本来もう少し、医者がいたはずなのに……」
冷えた空気がさらに冷えていくのだった。アルスはただ硬直していた。
「今まではどうにかできていたかもしれませんが、今回は桁が違います。ロレンツァではどうか分かりませんが、王都では過重労働です。夜勤の看護師まで駆り出しているではありませんか。緊急時にしたって……」
広場に至る緩やかな階段街道からはまだ診察を急かす怒声が聞こえる。
「凡人の器量をご理解ください。名医に1人診ると言われたら、そこに乗じたくなる病める市民の心理というやつも……」
シールルトくんは礼をして、天幕を去っていった。アルスは相変わらず反応の薄いセルーティア氏を一瞥した。そしてシールルトくんを追いかける。
「ありがとう、シールルトくん」
「勘違いはよしてくれ、セルくん」
予防着を脱ぎながらシールルトくんはぴしゃりと言った。
「患者を見捨てろと言ったんだ、ぼくは。医者を志す者として失格だよ。セルーティア助教授についた学生の7割は医者になるのを諦める。ぼくは違うと思っていた。けれども同じだった。ついていけなくなる、ああいう人だから。
凡人は、飯を食えば床にも就く。人工クリスタルに頼らなければ魔凪を使えないこともある。気に入らない患者もいれば、親身になって寄り添いたくなる患者もいる。けれど医者だと割り切る。あの人にはそれがない。看護師たちが身体をこわして患者に回ったとしても、セルーティア助教授が診てくれるわけじゃないのにな」
シールルトくんはゆるゆると首を振った。あとは捨てられるだけの予防着を腕に巻き付けている。
「辞めるの?」
「辞めるのが賢明なのだろうね。志から向いちゃいなかったのだろうよ」
振り向きもせず、シールルトくんは広場から去るようだった。
「医者だって人間だもんな、それは、分かるよ。城勤めも、建築作業員の人も……」
無理な頼みをする民たちをアルスも見たことがある。城にいたとき、副業に勤しんでいたとき……
「……多分、王子だって……」
王子の成り代わりになれば、それを一身に浴びせられる立場になるに違いなかった。
シールルトくんは特にどうという反応を示すこともなかった。項垂れて、天幕の雑木林を抜けていく。待ち構えている行列に集られることになるのだろう。だがアルスには見えなかった。セルーティア氏に向けていた苛立ちは霧消している。代わりに落胆がそこにあった。技量は信用に足る人物であるのかもしれない。だが融通の利かなさに、その技量というものの使い道が閉ざされては意味がなかった。
アルスはセルーティア氏に会うのに、その脇を通らなければならなかった。先頭に行くにつれ押し合い圧し合いが起こり、巻き込まれてしまう。そして新たな病院らしき施設は見えなかった。さらに進んでいくと、やがて看護師や王立学園の学徒が行列の崩れはじめている先頭の連中を宥めていた。
―いつまで待たせるんだ!
怒号が聞こえた。空気は殺伐としている。病人や怪我人とその付き添い人の集まりであったが、血気盛ん、一触即発という有様である。
王立学園の制服というのはここでは撒き餌に等しいらしかった。後ろから腕を引かれる。アルスは咄嗟に振り返った。腰の曲がった、背の低い老婆であった。
―セルーティア先生に診てもらえるんですか?
彼は戸惑う。
―いつになったら診てもらえるんだ!
―こっちは朝からずっと待ってるんだぞ!
少し離れたところから次々と怒号が飛んできている。セルーティア氏は確かに優秀なのであろう。だがその身はひとつであった。その腕は左右で2本であったし、口頭で指示を出すにも、その口は、笑いもせず愛想のひとつも言わないのがひとつついているのみである。天幕は患者たちで手一杯だ。急遽拵えた避難所であって、医療施設ではない。設備もろくに整ってはいなかった。今、王城は崩壊したけれども、王都自体が逼迫しているわけではなかった。他に手の空いている医者はあるはずだった。しかし彼等彼女等は氏に診てもらいたいらしい。
アルスは掴まれた腕を振りほどけなかった。老婆は縋るような目をくれている。
「セルーティア先生は……」
口にしかけた。天幕の有様を知っている。今すぐに治療の必要な者たちがいる。
―城のお偉いさんだからって、おれたち庶民はどうなったっていいってのか!
懇願は怨嗟へと変わっている。
「病院は他にもあります。セルーティア先生でなくとも、病気や怪我を診られる一流の医者が王都にはたくさんあります」
アルスから老婆を引き離し、周りに叫んだのはシールルトくんであった。だが善良な王都民は、医業で名高いセルーティア氏の診察を求めた。
シールルトくんは行列から飛んでくる罵声を気にするでもなく広場へ向かっていった。王立学園の制服が怒りに病んだ彼等彼女等を追い越すことを赦すのであった。アルスもそれに続いた。彼は気にしてしまった。冷ややかで、敵意にも似た、穏やかではない眼差しを。
診察用の天幕に入ると、シールルトくんは予防着を身に纏いながらアルスを顧みた。
「セルーティア助教授が来たと知れてから、ここを担当していた医者たちの殆どが敬遠しました。だから、診療所に行けば医者は他にもいるんです。あの患者たちのほとんどは魔凪負傷ではない。セルーティア助教授でなくとも、医者の名を冠していれば診られるものだ」
責めるような目だった。
「あの人は王都の人ではないけれど、王都が定めた人数を超えているんです。今は非常事態で、あの人は余所の医者ですけれど。医者1人が診ていい人数を……王都の魔科学医療の均衡を崩しました。王都連の医者の規則なんて患者には関係ないことですから、なおのこと」
思った瞬間、シールルトくんが口にした。同時に、外を忙しなく行き来していたセルーティア氏が膜手袋を嵌め、看護師の話を聞きながら、2人のいる天幕へ入ってきた。迷う様子もなく指示をとばしている。薬草の調合、量。1人に指示してる間に、また次から次へと看護師がやってきて、ここにも列が成されるのだった。
話を横で聞いてれば、それは城の襲撃や崩落によって負傷した者たちの治療についてではなかった。
「―仕方がありません。まだ若いので、微量なら耐えられるでしょう。軽度の治癒術を使います」
この城前広場は、天幕のなかで過ごしている者たちののみの診察と処置であるはずだった。だが違った。セルーティア氏は外で列を成している輩の診察と処置までするつもりらしい。
アルスは焦りを覚えた。
「セルーティア先生」
話している途中であるにもかかわらず、彼は口を挟んだ。氏は喋るのをやめた。指示を走り書きする看護師の眼差しは厳しかった。怒号や悪罵を直接浴びるのは彼女等、或いは彼等であった。
「はい。どうかされましたか」
氏は多忙であったし、看護師たちは険阻とし、天幕内外の空気は冷たいものだった。アルスにはその返事が呑気なもののように思えた。
「レーラのことなんですけど……」
彼は人目を憚った。王子の名を出しても氏には通じるだろう。王子の名に肖って、同名の人物が王都にはたくさんいるのだった。
「はい。承知しております」
しかしその返答は、安堵を与えてはくれない。
「昼過ぎに一度、予定を空けてはもらえませんか」
「患者を診終えたら行きます」
氏は呑気だ。周辺からかけられている圧力にアルスは気付くこともない。怒りでそれどころではなかった。外の行列の長さを目にしてはいないのだろうか。患者の診察が終わるのを待てば昼を過ぎて夜を越え、朝が来てしまう。
「患者を診終えたら?区切りのいいところで来てくださるんですよね」
何のためにロレンツァに来たのだろう……
セルーティア氏は当布のない片方の瞳で少々苛立っている新任助手を見ていた。観察しているようでもあれば、蔑んでいるようでもある。
「治せる患者はすべて治します」
「無理じゃないですか?」
シールルトくんが容喙した。アルスは彼を見遣った。
「現実問題、無理じゃないですか。中途半端なところまで診察の手を広げて、後ろの患者にまで希望を持たせる。残酷です。王都に医者は1人しかいないんですか。先生の患者は今、この広場の天幕の人たちであって、他に選択の余地のあるあの行列の人たちではないはずです。大体、王都にいらっしゃったのだって、他に用があるという話だったではありませんか。フラッドさんはそうおっしゃってました。セルーティア助教授……ご自分の評価を自覚してください。貴方は高名で優秀な医者なんです。本来もう少し、医者がいたはずなのに……」
冷えた空気がさらに冷えていくのだった。アルスはただ硬直していた。
「今まではどうにかできていたかもしれませんが、今回は桁が違います。ロレンツァではどうか分かりませんが、王都では過重労働です。夜勤の看護師まで駆り出しているではありませんか。緊急時にしたって……」
広場に至る緩やかな階段街道からはまだ診察を急かす怒声が聞こえる。
「凡人の器量をご理解ください。名医に1人診ると言われたら、そこに乗じたくなる病める市民の心理というやつも……」
シールルトくんは礼をして、天幕を去っていった。アルスは相変わらず反応の薄いセルーティア氏を一瞥した。そしてシールルトくんを追いかける。
「ありがとう、シールルトくん」
「勘違いはよしてくれ、セルくん」
予防着を脱ぎながらシールルトくんはぴしゃりと言った。
「患者を見捨てろと言ったんだ、ぼくは。医者を志す者として失格だよ。セルーティア助教授についた学生の7割は医者になるのを諦める。ぼくは違うと思っていた。けれども同じだった。ついていけなくなる、ああいう人だから。
凡人は、飯を食えば床にも就く。人工クリスタルに頼らなければ魔凪を使えないこともある。気に入らない患者もいれば、親身になって寄り添いたくなる患者もいる。けれど医者だと割り切る。あの人にはそれがない。看護師たちが身体をこわして患者に回ったとしても、セルーティア助教授が診てくれるわけじゃないのにな」
シールルトくんはゆるゆると首を振った。あとは捨てられるだけの予防着を腕に巻き付けている。
「辞めるの?」
「辞めるのが賢明なのだろうね。志から向いちゃいなかったのだろうよ」
振り向きもせず、シールルトくんは広場から去るようだった。
「医者だって人間だもんな、それは、分かるよ。城勤めも、建築作業員の人も……」
無理な頼みをする民たちをアルスも見たことがある。城にいたとき、副業に勤しんでいたとき……
「……多分、王子だって……」
王子の成り代わりになれば、それを一身に浴びせられる立場になるに違いなかった。
シールルトくんは特にどうという反応を示すこともなかった。項垂れて、天幕の雑木林を抜けていく。待ち構えている行列に集られることになるのだろう。だがアルスには見えなかった。セルーティア氏に向けていた苛立ちは霧消している。代わりに落胆がそこにあった。技量は信用に足る人物であるのかもしれない。だが融通の利かなさに、その技量というものの使い道が閉ざされては意味がなかった。
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