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 返答に狼狽うろたえ、アルスはセルーティア氏へ視線を戻した。
「即座に傷を塞ぐことのみを望まれているのでしたら承知しました。明日、連れてきてください」
 その口振りが引っ掛かる。
「あまり好くないことですか」
「傷が広く深いので、治癒術による回復はおすすめしません。ご本人の体力次第では魔凪中毒を起こさないとも限りません。傷跡が残るでしょう。おすすめはしませんが、ご本人が望まれているのでしたら、お断りもしません」
 看護師見習いの学生は冷ややかな眼差しを氏にくれていた。だがその本人は、鷹揚おうようとして膜手袋を屑籠に捨てているところだった。
「僕は次の患者のもとへ行きます。お二人はそろそろ帰宅してください。シールルトくん、そちらの方を学生寮の教授棟へ案内してください」
「まだ働くんですか」
 アルスは口を開いた。外はすでに真っ暗である。彼はもう昨日のことのように思えるが、つい数時間前、氏がこの広場でおかしなことを口走っていたのが気に掛かった。働きすぎなのではあるまいか。
 この問いを投げかけたとき、セルーティア氏に呼ばれた看護師見習いの学生が睨むような視線をくれた。
「はい。ではまたのちほど」
 「シールルトくん」と呼ばれた看護師見習いの学生は指示されたとおり、アルスを待つ姿勢をとりながら天幕を出ていった。アルスも彼を追う。
「セルーティア先生とは長いの?」
「講義をとっていましたから」
 語気は冷ややかだった。距離を埋める気のない、淡白な態度である。
「あ、自己紹介まだだった。オレはアルス・セル。今日付けでセルーティア先生の助手……」
「ホーチェ・シールルト。ところでセルさん」
 声がまたひとつ低くなる。友好を深めるような話が続くわけではなさそうだった。
「うん?」
「セルさんたちが、セルーティア助教授をロレンツァから呼び寄せたそうですね。フラッドさんから聞きました。あの人は、すごい人です。セルーティア助教授は。あらゆる分野に於いて卓越しています。魔科学医療に限らず、外科にしろ、内科にしろ、目にしろ、歯にしろ……今は数の少ない対魔外科として活動していますけれど……」
 音吐おんとからしてシールルトくんは、セルーティア氏が今、王都に来ていることを快く思っていないらしかった。
「あの人が王都にいる間、王都の魔科学医療は均衡を崩すでしょう」
 その発言の真意を図りかねた。その様子にシールルトくんは溜息を吐く。侮るような素振りであったが不快感を覚えないのは、アルスに鈍いところがあるからか。
「治癒術による魔熱傷を起こすかどうかについての見極めができるのはあの人だけですよ。あの人は消圧と呼んでいましたが、すでにかけられている術を相殺する絶妙な調整ができるのは。あれだけ薬草治療にこだわるのは王都の医者の水準にならおうとしているようですけれど」
 シールルトくんはそう言うと、また不意と愛想なく先に進んでいってしまった。セルーティア氏のようにそもそも愛想や愛嬌というものを知らないようではなかった。氏が疎ましければ、氏を連れてきたアルスのことも疎ましいのかもしれない。
「王都の魔科学医療が均衡を崩す……っていうのは、あれはどういうこと?」
「そのうち分かるんじゃないですか。セルーティア助教授が今回はどれほど滞在するかは分かりませんが。セルさんは、王都に来るのは初めてではないんですよね?」
 話しかけるなとばかりの素っ気無さである。
「初めてじゃないけど、セルーティア先生のことはよく知らない」
「百聞は一見に如かずといいますからね。ご自分の目と肌で感じるのがいいと思いますよ」
 アルスは気圧けおされてしまった。沈黙が訪れ、そのうち王立学園へ辿り着く。王立というだけあって、立派な学生寮の教授棟の前で、シールルトくんは冷淡に去っていこうとする。
「ありがとう、シールルトくん。色々と教えてくれて」
 ただ分からないのだった。優秀な人材のいることに、一体何の不満があるというのか。具体的な想像ができずにいる。
「……誰もが平等に上等な魔科学医療に繋がることができれば、きっとそれが最善なのでしょうね。けれども魔科医も人です。見解の相違も誤謬も技量の差も、経験の差だってあります。それは患者には言えないことですけれど。にもかかわらず、セルーティア助教授は1人しかいません」
 背を向けたまま彼は語った。そこにあの排他的な色はなかった。
「上には逆らわないことですね。助手というのも肩書きだけのようですから、僭越ながら忠告しておきます」
 アルスはやはり鈍い少年なのかもしれなかった。ただきょとんとしてシールルトくんが帰っていくのを見ていた。


 王立学園から配られた助教授助手の制服はあまり彼に似合っていなかった。だらりと垂れたガウンの裾にいつ蹴躓けつまずくともかぎらなかった。大きく開いたゆとりのある袖も重苦しく邪魔で、詰襟を支えている木製のチョーカーは認証番号が彫ってあるが首元を圧迫して苦しい。皮製のブーツはふちが脛に当たる。
 アルスは全身をきつく縛られた心地で、幼馴染の家へ向かった。植えられたきり手付かずの梨の木が彼女の家のしるしだった。自然公園の近くで、人工的な小さな滝の脇にある、赤い屋根が置物みたいに可愛らしかった。特に区切りのない庭には緑の絨毯が茂り、鮮やかな花も辺りを彩る。だが、とはいえ、自然は確かに溢れているけれども、かといって人の手の入っている不自然さも否めない、そういう家だった。
 アルスは呼鈴を鳴らした。すぐに幼馴染が顔を覗かせる。当たり障りのない表情が、一瞬にして親愛に満ちた柔らかさを持つ。
「アルス……おかえりなさい。聞いたの。少し遠くへ出てたって」
「誰から?」
「ガーゴン大臣。アルスの姿が見えないって訊きに言ったら」
 彼は幼馴染を前に口元を緩めていた。だがその目は彼女の顔色や頬を見ていた。そう悪いようには思えなかった。
「そう。ただいま、セレン。怪我の調子はどう?」
 赤い翼の正体について……彼は訊ねないことにした。あの事件がなければ、知らないでいたことならば、彼女は打ち明けないと決めた事柄に違いない。
「昨日、高名な先生に診ていただいて、今日は街の診療所に行こうと思っていたところなの。アルスが連れてきたって、看護師長が言ってたけれど……」
「うん、そう。あの人を迎えにいくのにちょっと出てた。何も言わなくてごめんね」
 セレンは首を振った。そしてアルスを部屋の中へ促すと茶を淹れるのであった。彼は自分に出されたカップと、彼女自身の持つカップの中身の違いに戸惑った。
「セレンは?」
「強めの薬が出てるから、あんまりこういうお茶は飲まないようにって。あの先生すごいね。なんでも、言い当てちゃうの」
 彼女の淹れる茶は、売っているものではなかった。自身で育て、摘んでいる。
「じゃあ傷は、今のところは痛んでない?」
「うん……本当。痛んだとしてもほんの少しだけ。アルスの心配するほどじゃないから」
 アルスはそのつもりもなく、彼女の双眸を凝らしていたらしかったのを、逸らされる仕草で理解した。
「ああ、ごめん……でも、それならよかった。でも無理はしないように。そのときは、セルーティア先生に頼んでみるけれど……」
 幼馴染の口元に朗らかな微笑が付け加えられる。
「他の人たちと比べたら、わたしなんて掠り傷みたいなものだから。薬を飲めば自力で歩き回れるのだし、いつもの生活に戻れてる。お湯がちょっとだけ沁みるけど、それくらいだから」
 洒落たカップを持ち上げる所作が美しかった。飲んでいるのが沸かしたての湯であることも忘れる。
「でもオレはセレンに無事でいてほしい」
 今ならばまだ言える、一個人的な意見であった。王子に助かる見込みがある今ならば。
「ありがとう、アルス。でもそれはわたしも一緒」
 澄んだ浅瀬のような色味の瞳が彼の手の甲を差す。咄嗟に隠してしまったがもう遅かった。
「肩を怪我したって、あの先生から聞いたよ」
 アルスはセルーティア氏が彼女にそのようなことまで話したことに驚いていた。事情は省かれているのだろう。否、詳しい経緯については氏に説明していなかったような覚えがある。
「いや、あの、それはオレが悪くて……それはオレが悪いから。オレのことは平気。セレンはこれから診療所だっけ。そろそろ帰るよ」
 出された茶を大きく飲む。
「紹介状を書いてもらったし、早く終わると思う。アルスはどうしてるの?おうち立ち入り禁止なんでしょう?」
「セルーティア先生のところで助手をするって名目で寮を借りてるよ。一緒に来た女の人がいてさ、紹介しておきたいんだ。お世話になったから。今は色々立て込んでるし、落ち着いてたら改めて」
「うん。分かった。楽しみにしてるね……あ、」
 セレンは喋りながらふと、目を見開いた。アルスはその反応にびっくりする。
「何?」
「昨日、チーズケーキを焼いたのだけれど出すのを忘れちゃったなって。座ってられないから……気紛れに。アルス、持って行ってくれる?」
「う、うん。もちろん。朝ごはんまだだったし」
 彼女は部屋を仕切る長台からくりやへ回り、冷蔵庫を探している。人工クリスタルの恩恵がここにもある。
「もう!先に言ってよ。食べていく?玉子ライスなら作れるけれど……」
「チーズケーキ食べるよ。ありがとう。また顔を出すから、そのときに」
 断ってしまった直後にふと惜しくなる。だが相手はこれから診療所に行くというような怪我人である。彼女の善意に甘えきることができなかった。アルスは茶を飲み干し、焼き菓子を受け取ると、幼馴染の家から今は天幕の占めている広場へ向かった。
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