彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 小憎らしい男児が城から帰ってくる。極彩はこの子供を喜んで迎え入れることができなかった。
 彼女は二公子の狂った寵愛によって飯が食えなくなっていたが、紅のために炊事は欠かさなかった。すべては身体に障害を負った紅のためだ。少なくともうぐいすなどという小賢しく不気味な子畜生のためではなかった。
 紅とはまた少しの間、離れて暮らさなければならない。それまでは美味しいものを食わせてやりたかったのだ。紅は舌は失っている。しかし彼女は信じていた。わずかでも紅に食の愉しみがあることを。
 極彩は痩せ細っていったが、先人に学んだのだ。彼女は酒で養生することにした。
 酒を飲み、紅を枕元に置いて眠りに就く。すると広い居間で寝かせていた子供が寒がって彼女の布団に潜り込む。これが常となった。けれども布団を並べることはしなかった。
 極彩はこの子供が嫌いだった。飯は食わせた。湯浴みをさせた。新しい服を着せ、布団も貸した。それでもまだ無邪気に乞う。怒りが湧いた。そして抑え込んだ。紅に不愉快な思いをさせてはならない。

 ある日、彼女は不言通りへ出掛ける用事があった。帰ってくると、紅が怪我をしている。その手には文旦ぶんたんが握られていた。庭に確かに文旦の木があった。彼は片腕を失いながら、持ち前の運動神経で木に登ったのだ。
「危ないことしないで、紅」
 余程、この柑橘類が食いたかったのだろう。極彩は皮を剥いてやり、薄皮も取り除いた。食わせてから怪我の手当てをするつもりでいた。
「欲しいものがあるなら教えて。できるだけ叶えるから。危ないことはよして」
_頬にできた痣が痛々しい。木から落ちたのだろう。片腕ではろくに着地もできなかったに違いない。負傷していてもおかしくない腕を手に取った。だが拒まれる。
「痛かった? ごめんね、紅」
 反応はない。より細心の注意を払ってまた腕を取ろうとする。しかし振り払われてしまう。今更になって紅からそのような態度をとられるとは思わなかった。心変わりがあったというのか。紅に捨てられては、極彩は平静ではいられない。だがそれよりも、今は……
「赦して、紅。赦して……手当てはさせて。痛くなっちゃうから……」
 寝室の襖が開いた。うぐいすが覗いている。
「どうしたですか」
「紅が少し怪我をしただけ。下がっていなさい」
 一瞬にして彼女の声色は変わった。しかし意識してのことではないのだろう。
「怪我したですか? 大丈夫ですか?」
 極彩は児童を睨んだ。
「紅に触らないで!」
 怒鳴る。静寂。紅はこの様を目の当たりにして侮蔑の念を抱きはじめたのではあるまいか。
「う、うう。ぼく、ただ心配してあげただけです……」
 男児の大きな双眸が潤んだ。極彩は冷ややかに見下ろし続ける。
「ぼく、悪くない!」
「あなたは関係ないから、出ていって!」
 またもや大声をあげてうぐいすを部屋の外へ押し出す。そしてその行動は後悔と抱き合わせなのだ。
「ごめんなさい、紅。お願い、腕を診せて。折れていたら大変でしょう」
 嫌われてしまったのなら、この際仕方がない。だが紅がさらに窮屈な生活を強いられるのは我慢ならない。どれだけ嫌がられたとしても、今度こそ手当てすることにした。
「紅……」
 だが今度は紅自ら腕を差し出した。袖を捲り、極彩は絶句する。木から落ちたはずである。擦り傷や肘周辺の痣ならば納得できた。しかし晒された肌には点々と赤紫色が散っている。内側の柔らかなところだ。
 激しい焦りが彼女を襲う。
「紅、咳、出る?」
 病臥していた者の夥しい内出血の姿が甦った。紅も花労咳を患ってしまったのではあるまいか。
 しかし紅は否定する。実際、痣は叔父のような花の形はしていなかった。だが彼女の意識がそれで済むはずはない。
「お医者様に診てもらいましょう」
 ところが紅はそれを聞いた途端、口を使って袖を直してしまった。
「紅」
 剥いた文旦に手をつけもせず、極彩のほうへ押し付ける。食べる気が失せたとでもいうのか……
 城の命に従うよりも先にやることがあるのかもしれない。歓楽街に潜入などという使命に集中している場合ではない。
 だが空回りのようだ。紅はうんざりしている。そのように見える。立ち上がって寝室を出て行ってしまう。隣室の広間の隅に小さく座っていた。うぐいるもまだ追い出された場所にいる。
「お姉ちゃん」
「何か用」
 話しかけるなとばかりの、低く厳しい語気であった。子供は泣きそうなつらをして大いに被害者の立場を気取る。
「紅。もう口煩いことは言わないから、お布団で寝て。きっと具合いだって好くないんじゃない? ゆっくり身体を休めないと。栄養のあるものを作るから待っていて」
 紅の前に立つと、もう診せないとでもいうように、腕を背中へ隠されてしまった。
「お兄ちゃん、病気ですか」
 心配しているかのように見せかけたうぐいすのその音吐が、極彩には願いのように聞こえる。
「もしそうだったら、あなたのことは施設に預けるから」
 言い捨てて、布団を敷きに寝室へ戻る。子供は後ろをついて来る。
「そんなのいやです」
「けれど仕方がないでしょう。わたしは紅の看病があるの。あなたの面倒まで看きれない」
 児童は縋りつく。腰に抱きつかれ、小さな体躯を突き飛ばした。その身体は軽く離れ、尻餅をつく。
「お姉ちゃんと一緒がいいです」
「嫌」
「紅お兄ちゃん、どこが悪いですか」
「痣があるの。あれが花の形に変わって、そのうち咳が出ると思う」
 忌々しい子供の目元がわずかに引き攣った。極彩は楽しくなった。同時に喉がつかえる。脳裏を過る光景に胸に鉛を詰め込まれた心地がした。
「花柳病じゃないですか」
「紅が? 紅が花柳病ですって?」
 まだ立ち上がってもいない子供の襟首を掴む。うぐいすは紅がどういう人物か知らないのだ。片腕や舌を失った経緯も知らなかろう。飽くまで可能性の話をしているのだ。それは彼女にも分かっている。しかし腹の虫が治まらない。
「花柳病ですって? 花柳病が何か分かって言っているの? 紅がどうして花柳病になるって言うの。花柳病? 紅が? 何も知らないくせに口を出してこないで!」
 記憶を失い、身体を欠損させられた無防備で小柄なこの者に手酷い罰を与えた人物がいたというのか。考えただけで、彼女の吐気を催した。陵辱された可能性を見出し、紅に嫌悪を覚えたからではない。爆ぜた感情を処理できなかったためだ。
 言葉が出てこない。腹の中で膨らんだ情動は声帯を震わせることも阻む。
「どうしてお姉ちゃんは、ぼくのことすぐ怒るですか」
 彼女は子供から目を逸らした。
「ぼく、いい子にしますから……」
 幼さゆえにまだ小さい身体を放り投げる。
「いい子にするって言うなら、首突っ込んでこないで」
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