彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 それから打ち合わせがあった。新居の地図を見下ろす。淡藤の説明は右から左、左から右に流れ、中心部で留まったもののほうが少なかった。
「姫様」
 途中で上の空であることを見抜かれていたことにも気付かずにいた。
「姫様?」
眼前で、胼胝だらけの掌が蝶みたいだった。淡藤が前のめりになっている。
「あ、ああ、すみません」
「いいえ。緊張されていますか。生活環境も変わるわけですから……それとも、それとはまた別に、悩みごとが?先日話してくださった……」
「ち、違います。すみません。朝餉を抜いてしまったものですから、頭が……回らなくて」
「そうですか。いいえ、そういうことなら安心しました」
 近かった顔が遠退く。
「では、紅のことは頼みました。わたしは大丈夫ですから」
「かしこまりました。くれぐれも。新居の件について、お色好い返事を期待していますよ」
 淡藤は帰っていった。彼なりにどこか浮ついている極彩を慮ったらしい。玄関から見送り、彼女は銀灰と紅のいる部屋の襖を開けた。
「もう帰ったから平気よ」
 銀灰は紅の隣に同じように座って極彩を見上げた。彼等2人の会話らしい会話はまったく耳にしていなかったが、いつの間にか、仲良くなったとまではいわずとも、それなりに打ち解けたらしい。
「白梅ちゃん。お外に誰かいたんすケド……ね、紅さん」
 2人が小さくなって座っているのは、外にいるという者を気にしてのものだったらしい。平生から部屋の隅にばかりいる紅は別として、銀灰は隠れていたのかもしれない。
「誰か?」
 紅も頷いたが、これといって自ら動く気配もなく、警戒している様子もなかった。極彩は書院甲板の分、前のめりになって窓を開けようとすると、銀灰が立ち上がって彼女に代わり窓を開いた。まず目につくのは庭木である。その奥にも隣家が見えた。
「いない……」
 彼が呟く。
「近所の子供かも」
「なんだ!そっか。びっくりしちゃった。ごめん、白梅ちゃん。驚かしちゃって」
「ううん。何かあったらいつでも言って」
 極彩はもう一度窓から首を突き出して庭を見渡した。やはり人の影はない。
「白梅ちゃん」
 そっと胸を撫で下ろした銀灰は改まった態度で彼女を呼んだ。
「何?」
「まだすぐに答えは出せないケド……オレっち、日常に帰るっす。その中で、決める。オレっちの帰る日常は、これからどうなっても、今は杉染台にあると思うっすから……いいっすか?」
「うん。銀灰くんは平気?わたしのことは大丈夫ですから、お元気で。お腹が減ったら食べに来て」
 庭先まで出て彼を見送ることにした。紅もついてくる。門の前に置かれた平服の天晴組は気を揉んだようだが、彼女は紅の手を繋いでいた。銀灰は縹の養子として紹介されている。菖蒲の口添えも相俟って、そこまで場内の事情に精通しているわけではない若者だらけの二公子の指摘組織の天晴組ならば怪しまれることもなかった。
 門を潜り、小さくなっていく後姿が見えなくなるまでそこに立っていた。紅は手を繋がれながら辺りを頻りに気にしていた。しかし極彩はそれと知らずに一点を凝らしている。
 数日間かけて奪還し、意識の大半を占めていた人物が離れていく。達成感に似ているようでしかし清々しさのない、寒々とした感慨が残る。だが淡藤の持ってきた話を合わせてみれば、よい機であったのかもしれない。
 彼女は眉を下げ、目を伏せる。物思いに耽りかけたところで、ふと視界の端を掠めた紅の存在を思い出した。淡藤の話を呑めば、この者ともまた別れて暮らすことになる。
 迷いが生まれた。同時に腕を引かれる。
「どうしたの?」
 彼は隣家のある方へと庭を進んだ。倉庫と、寝室の前の遮光用の木々の狭間には裏庭への通路がある。そこでくれないは身を屈めた。縁の下を覗き込んでいる。
「何?紅……何かあるの?」
 極彩も同じように縁の下を覗き込む。そこにはトラ柄の大きなネコを抱いた子供がいる。隠れていた。視線が搗ち合う。
「あなた……」
 子供はネコを手放すと這い出てくる。
「あのお兄さん、誰?」
 この子供は銀灰を知っているはずだ。忘れてしまったのか。否、今日はもうひとり、出入りがあった。
「あなたには関係のないこと」
「あのお兄さん、怖い人」
「よして」
 彼女はこの子供に好い感情を抱けなかった。語気には自然と刺が宿る。紅に対して出す、媚びて上擦った声とはまるきり正反対だ。
「あの人、人殺しなのに?」
 無邪気な男児を冷たく見下ろす。後ろめたい面影と重なるからか、はたまた、この子供の哀れな境遇が、彼女にとって羞悪に染められた日のことを連想させるからか。
「わたしだって人殺しかもしれないのに?」
 うぐいすは自分を睨み蔑む相手を澄んだ目で見上げると、その返事には答えないで彼女の傍らにいる片腕のない小柄な人物を気にした。そして柔らかそうな眉を寄せた。桃花褐に対してほどではないが、怯えをみせている。
「ごめんね、紅。お部屋に戻れる?」
 この子供は失礼なことばかり言うことを彼女は知っていた。紅にまでおかしなことを言い出しそうな空気を察すると、まろい語調で促した。彼はうぐいすを相変わらず無表情に眺めていたが、首肯するとひとり縁側から部屋へ戻った。男児はその背中を目で追っている。
「お姉ちゃんて、」
「帰りなさい」
「どこにですか?」
 極彩は厳しい眼差しを解かない。
「どこに戻れって言うんですか?ぼくには帰るところなんてないですよ?」
「施設に入れるんですっけね」
「お姉ちゃんと暮らすです」
「無理」
 極彩は幼いだけに細いうぐいすの腕を鷲掴みにして門のほうへ引っ張ろうとする。私服の天晴組に預けておけば、然る場所へ送られるだろう。残忍極まりない二公子の私兵だからといって、理由も聞かず斬り捨てたりはしないであろう。しかしこれは彼女の希望的観測にすぎない。実際、天藍という男は長幼構わず処断する。それに彼の側近の紫煙については情というものがないのである。
「どうしてですか?」
「あなたに構っていられる余裕はないの。あなたを保護してくれる機関を探してもらえるよう、わたしからも頼みます」
 うぐいすは引き摺られても踏み留まる。黙ったために了承と見做したのが誤りであった。この子供は息を思い切り吸い込むと大声を上げる。
「助けてください!誰か助けてください!誰か!」
 この児童は自由なほうの手を口元に添えて叫んだ。完成な住宅地に谺する。
「変な人に誘拐されそうなのです!助けて!」
 門前に人気ひとけがあるのをいいことに、その方向へ発声するのである。
「どういうつもり」
「お姉さんが悪いんです」
 うぐいすは自分は無辜むこだとばかりの面構えで即答した。そして若い男が1人、彼女の後ろからやってくるのを認め、この悪童は口角を吊り上げた。
 駆けつけてきた若い男は天晴組である。このことが二公子に知れたなら、持ち場を離れるなと譴責が待っているかもしれない。あるいは断頭である。極彩からしてみれば、二公子はそうしかねないのだ。たとえ目の前で子供が攫われようとも。
「摘み出してくれる」
 努めて冷静に対処した。若い組員は彼女の言葉に従おうとするけれど、うぐいすは酷い扱いをされたのだ、この女は悪者であるとばかりの貌と態度を崩さない。自ら組員のほうに走り寄ってその背中に隠れてしまった。
「このお姉さんは変態さんです。ぼくの胸を触ったんです」
 極彩は眉を顰めた。
「その子供を施設に送るよう手配していただける?」
 若い組員は男児を一瞥すると屋敷を見遣った。縁側からこちらを見ている小さな人影を捉えたことだろう。付き合いがなければどこか不気味な印象すら漂っている。
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