彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

文字の大きさ
上 下
316 / 336

316

しおりを挟む
 極彩は桃花褐を振り返る。彼は部屋の隅で横になっている。弟はまた苦しみだし、空いた椀は一段高くなった窓辺に置いた。荷物から時雨塗りの短刀を取る。椀を前に、暗い室内の中、月の光を受けた刃物が閃く。
「やめとけって言ったろ」
 皮膚を裂くはずだった短刀が止められる。横たわっていたはずの桃花褐だ。
「痛がって苦しんでるの。お願い、やらせて。ただ見ていろだなんて、そんな……」
「そうやって誰かが切り売りするのを良しとするんかい」
「わたしはあの子の誰かじゃない。姉だ」
 大きな手に動きを封じられた刃物を彼女は引き抜こうと抗った。
「だめだって」
「縹さんはこんなこと望んでないって?縹さんに恥じてもいい、わたしは元から縹さんの遺志には反して多。今更じゃない。縹さんのことを裏切ります。わたしのやることはあの子を守ることだから」
「今アンタがすべきは、自分の肌切ることか?本当に?自然に彼を治してやることだ。自分を大切にしろ。誰がどう傷付いても、手前を傷付けるのなんてこたやめろいや」
 奪い取られそうな寸延短刀に極彩はしがみついた。
「違う」
「違う?どう違うんで?」
「臓器渡そうって話じゃないでしょう。血だもの。わたしの中で作られる。わたしにはあの子を助ける力があるのに、どうして見ているだなんてことができるの?」
 力加減をしていたらしい腕力で、結局短刀は捥(も)ぎ取られてしまった。銀灰のいる反対方向へ投げ捨てられる。
「あの短刀がそうさせんのかい?あれもおっかねェが、今の嬢ちゃんもおっかねェ」
「あなたからみておっかなくても、間違ってても、どうでもいい。あの子が悲しもうが、縹さんが呆れようが……銀灰くんが大事。縹さんの大切な子で、師匠の大切な息子だから。あの子から痛苦が取り除けるなら、縹さんのことはもうどうでもいい。だって縹さん、死んじゃったから。でもあの子は生きてる」
「アンタもな。アンタも叔父貴には大切な人だ。そのお師匠様の大切な教え子のはずだろうが」
「でも2人とも、わたしの所為で死んだ。じゃあ誰が銀灰くんを守るの。本当のお父さんも、次のお父さんも死んで、後見人は仇の父親……わたしが守らなきゃならないでしょう?ちょっと切ってすぐ治るから。そんな大きなことじゃない」
 彼女はいくらか桃花褐を警戒しながら、短刀の滑った位置を確認した。一歩目を出す。予想に反し彼は突っ立っているだけである。
「じゃあ、そういう嬢ちゃんを誰が守る?自分で自分をそんな軽視しちまってる嬢ちゃんを?叔父貴もそのお師匠様とやらも、嬢ちゃんの責任じゃねェだろうが。アンタになんでもかんでも背負わせるような人たちじゃねェだろう」
「桃花褐さんだって、自分のこと大切にできないでしょう。綺麗事は無しでいきましょう。桃花褐さん、邪魔をしないで。わたしを食べていいから」
 極彩は着ているものの衿を押さえ、首筋を晒す。彼は殴られたように立ち眩みを起こした。
「お互い悪い話じゃないじゃない?」
「綺麗事は無し……ね。嬢ちゃん、約束してくれ。自分を守れねェ嬢ちゃんを俺に守らせろ」
「それで、お人好し過ぎるあなたをわたしが満たせばいい?」
 大きな影絵を作る躊躇いがちな首肯を認めた。極彩は短刀を拾う。椀の前に戻り、すぱりと皮膚を裂いた。一瞬走る鋭い痛みに顔を顰める。真横で荒々しい息吹がまた聞こえた。
「待っていて。飲ませてから」
 椀から血を掬い、軟膏のようにして外傷に塗布する。それから残りを、弟の身体を起こして匙で飲ませた。しかし途中で首に吐息を感じた。刃物とは違う痛みが皮膚に刺さる。浮遊感に襲われ、椀を落としかけた。男の高すぎるくらいの体温に蒸されながら傷付いた少年を支え続ける。桃花褐は熱気だけでなく体重まで預けてきている。やがて枝切れみたいになってしまった弟の体内に椀の中身が消えると、重みと蒸し暑さに抗う理由もなくなった。畳に転がる。大男は寝そべった女に半歩、一歩進むとさらに深く牙を突き刺した。意識も吸われていく。暗い視界が霞んでいく。

目が覚めると彼女は布団の上にいた。顔を曲げると銀灰が隣に眠っている。記憶の最後にある痛みの走った箇所を撫でてみる。しかしこれという続きのような痛覚はなかった。室内を見渡す。日はすでに昇っていた。朝だろうか。昼前かも知れない。身体を起こすと、後頭部のほうから猛烈に吸われるような泥酔に似た不均衡な感覚に襲われる。
「目が覚めたけ」
 けろりとした顔の桃花褐が部屋に入ってきた。手には膳が抱えられている。
「ごめんなさい。いつのまに、わたし……寝てしまったみたいで……」
「貧血だろ。寝てたというか気絶だわな。もう少しゆっくりしてろいや。今、嬢ちゃんの食事持ってくるからよ」
 大男は銀灰の寝ている布団の脇に膳を置いた。溶き玉子の浮かぶ粥と具の無い味噌汁が並んでいる。
「別に平気……自分で……」
「いいって。すっ転んでも事だろうが。やらせてくれ」
 広い背中を晒し、部屋からまた消えていく。上半身は裸である。彼の丈に合う貸し衣裳がない。洗濯物を回収したら繕わなければならない。そうこう考えているうちに運ばれてきた朝餉は相変わらず豪華だった。飯を食らう極彩の前で桃花褐は銀灰に粥を啜らせていた。
「悪ィな、嬢ちゃん」
「何が」
 山菜の漬物がしゃきしゃき鳴っている。
「なんだかんだ、一番俺が……嬢ちゃんに負担かけたろ」
「だって昨晩の……そういうつもりだと思っていたのだけれど。そういうことだから、夕餉を摂れって…………別にいいんじゃない。あんなのお礼にもならない。桃花褐さんにしてもらったことを考えれば」
「そんなこたぁねェよ。朝飯前さぁね。気にしなさんな。ちゃんとお礼になってるし、礼される謂れも元々ねぇんだ」
 この朝餉の本来の献立は豆腐とわかめに手毬麩の味噌汁らしかった。軽く掻き混ぜて吸う。赤味噌だ。
「そうかしら。わたしならそんなふうに、誰かのために走り回れないから」
「え……ッ?」
「昨日はびっくりしてしまって、きちんとお礼言えてなかった。食事中でごめんなさい。けれど、ありがとう」
「よせやい、よせ、よせ。やらせてくれって言ったのは俺で、ごちそうにまでなっちまった。首突っ込ませてくれてありがとよ」
 喋っているうちに、桃花褐の剛健な腕に支えられた棒切れみたいな銀灰は匙を拒んだ。
「銀灰くん」
 極彩は箸を置いて朝餉の膳から離れた。彼の元に駆けつける。
「もう少しだけ食わせたいんだけどな」
 桃花褐は匙に乗せた粥を少し落してからまた啜らせた。弟は虚ろな目をしてそれに応じている。身体中の痛みからは解放されたようだが、痩せ細った肉体はすぐには戻らないだろう。
「明日には帰ろうと思うのだけれど……城下の医者様に診せて……」
「体調は」
「もちろん、銀灰くんの様子次第だけれど」
「違う。弟クンもそうだけどよ、嬢ちゃんの……」
 自分は平気だと言いかけたとき、銀灰は朧げな意識の中、またもや粥を拒否した。筋肉の枕を嫌がり、横になろうとする。桃花褐はそれに従った。指で彼の口元を拭ってから枕にゆっくりと頭を置いた。
「遠いだろ。この調子じゃきついんじゃねェか。牛車乗るんも体力使うからなぁ」
 大きな手が仰向けに寝ようとする少年の首を横に向かせた。そして布団を掛ける。
「あの坊主っくりはどうする」
「菖蒲殿に相談して、施設に預けることになると思う」
 噂をした途端、うぐいすがやって来た。
しおりを挟む

処理中です...