彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 うぐいすは宿にまでついてきた。しかし桃花褐に引っ張られ、少年は垂れ目の大男のもとに泊まることになった。そこでもまた面倒な押し問答があった。
 彼が昼前に極彩のいる姿を現し、桃花褐が山に行ったことを無言のうちに報せた。彼女は書いていた菖蒲宛ての文を伏せる。
「恋文ですか」
「違う」
 首を伸ばして文机を気にしている童子を制する。
「あの大きなお兄ちゃん、やっぱり人狼ひとおおかみです」
 うぐいすは文机を守る極彩の背中に纏わりついた。
「そう」
「人狼はやっぱり、火を通したものは食べられないみたいですよ。朝は生魚しか食べてませんでした」
「……それは密告?」
 軽く膝を回して年端もいかない男児のほうに向いた。
「食べられちゃいますよ。聞いたことあります」
「善意ならありがとう」
 彼女は冷淡にそれだけ言うと、また文に直る。彼はまだべたべたと彼女の背にしがみついた。
「どうするですか」
「どうしようもしないけれど」
「一緒にいるの、怖いですよ」
「あなたは行きたいところへ行けばいい」
 うぐいすは駄々を捏ねはじめた。離れないという。
「わたしには弟がいて、あなたには構っていられない」
 抽斗ひきだしに書き途中の文をしまった。一個人的な感情によって彼を忌避している。
「ぼくもお姉ちゃんの弟にしてください」
「弟と自分のことで精一杯だから。他を当たって」 
「他にいないです」
「それなら孤児施設に入れるよう知り合いに頼んでみるけれど」
 彼女は一度も男児のほうを見なかった。しかし彼は極彩の姿を真っ直ぐ見つめている。
「城下のですか?」
「頼んでみるのは城下の人だけれど、どこに行くかはわたしも分からない」
 出来れば遠くに行けばよい。彼女はもう相手にもせず、文机の前に座っていた。うぐいすは無理矢理膝枕をしようとしたり、背中に凭れ掛かったりしたが取り合わずにいるとやがて部屋の隅に転がって寝てしまった。

 桃花褐が極彩のいる宿を訪れたのはもう少しで日が沈むという頃合いだった。1人ではなかった。逞しい腕に少年が抱き上げられている。粗末な身形で、髪は百舌鳥もずの巣である。普段から軽妙な面構えをしている大男の表情はどこか苦々しい。極彩は最初、その腕に支えられている者が誰だか分からなかった。まず、それを人ではなく、枯木か何かを持ち帰って来たものと思ったほどである。激しく痩せ細り、骨が浮き出て飢渇による亡骸のようだった。
「銀灰くん……?」
 極彩は大男に掬い上げられたような少年のその顔を見た。眉を顰めてしまった。虐待の限りを尽くされた有様は直視も憚られる。彼女は腫れ上がった顔におそるおそる触れた。目が窪み、頬骨が陰を作っている。
弟を両手で抱えている桃花褐は膝をつく。まるで崩れ落ちるようだった。いつの間にか起きていたうぐいすが口元を押さえて声を出した。桃花褐はいつかの叔父のように背中に幾本もの矢を受けている。
「抜いてくれるかい。さすがに手が届かねェや」
「医者を……」
「いんや、悪ィよ。無関係な医者様を巻き込んじまう。この土地は、せん教徒が随分、お偉いんだろ?」
 その口振りは寺院で襲撃されたことをほのめかしている。
「どうしたら……」
 触れようとしてしまいながら、触れることも躊躇われる。極彩に案がないわけではなかった。この皮膚を裂けば万事解決である。
「くだらねェこと考えんなよ、嬢ちゃん」
 荷物の中に紛れている時雨塗りの短刀を出そうとしたのを彼は看破していた。
「俺は矢を抜いてもらえばどうにかなる。弟クンも治らない傷じゃない。嬢ちゃんが肌切る必要はねェよ」
「すぐ治したい」
 息をするのもつらそうな弟みていられない。
「あんたの叔父貴はそんなことさせるために血を分けたんじゃねェだろうが。俺はあんたが自分を軽視するの、見てらんねぇよ」
 矢をいくつも受けているとは思えない軽快な態度だ。うぐいすは怖がってしまった。極彩は部屋の隅で縮こまる男子を一瞥する。
「そういうことだからあなた、関わりたくなかったら出て行きなさい」
 極彩はぴしゃりと言って帳場の主に厨房を借り、手拭いを濡らす。まず桃花褐の手当てをした。彼の厚くついた筋肉のせいか、そう深々とは刺さっていなかったが抜くのには力が要った。小さな呻きを聞きながら矢を引き抜くと衣類に血が染みていく。
「着ているもの、洗ったら縫うから貸しておいて」
「そこまで手厚く世話してくれんのかい」
「それはわたしの言うこと」
「嬢ちゃん」
 蹲るように寝ている銀灰を見ながら桃花褐は改めた調子で呼んだ。
「何」
「城に手紙を送って、この宿の見張りをしてもらったほうがいい。俺なりに気を遣って来たがいまいち自信がねェ」
「そうね」
 軟膏と血の付いた指を拭い、次は襤褸雑巾に包まれた枯木のような弟の手当にあたる。触れたら砕けそうなほど傷んだ衣を割り開く。肋骨の浮くほど羸痩るいそうした腹に点々と浮かぶ痣と虫に刺されたらしき発疹。極彩は呼吸も忘れてしまった。桃花褐もうぐいすも沈黙し、室内は異様な緊張感に包まれている。そのうちうぐいすはひょいと立ち上がり、湯を張った盥を運んできた。
「ごめんなさい」
「いいえ……」
 男児はおもねるような目をくれた。弟の身を清めていく。痛みに耐える呻きに彼女の眉から皺が消えることはない。彼の世話を終えても石になったようにその傍を離れなかった。日が落ちていったことにも気付かない。部屋に他に2人いることも忘れてしまった。
「坊主、帰っとけ。誰が来るか分からねェ。見つかりたくないんだろ」
 桃花褐の声が遠くで聞こえた。どれくらい時間が経ったのか、彼女はまるきり意識しなかった。
「誰かって……誰が来るですか……」
「それは知らん。寺の追手かも知れねェし、そことズブズブの特殊なお茶屋さんかも知れねェし、俺のこの様(ザマ)を見た駐在の連中かも知れねェ。大きな店が焼けたんだってな?町の動きには過敏になってるはずだぜ」
 うぐいすはそれで納得したらしかった。
「お姉ちゃん、ぼく行くです。また来るですから……」
 しかし子供の声は彼女に届いていなかった。極彩はただ寝苦しげな弟を凝らしている。またそれからどれくらいの時が経っただろう。
「嬢ちゃん、飯時だぜ」
 何度か語り掛けられ、やがて肩を揺すられる。彼女はやっと我に帰った。
「嬢ちゃん、飯。ちゃんと食えよ。嬢ちゃんが倒れちゃどうしようもないんだからな」
 彼女はすぐに喋れなかった。大きな手と力強い腕にもう一度揺さ振られる。
「気を確かに持て」
「……食べたくない」
 極彩はぼそりと呟いた。暗い部屋の中で垂れ目と見つめ合う。そこに無言の会話があった。
「分かった」
 何かを承知して立ち上がり、よろよろと夕餉を取りに行く。ついでに帳場で一杯の粥を乞うた。部屋に戻ると、今まで極彩が石のように座っていた場所に桃花褐が腰を下ろしていた。その大きな背中が死にかけの弟に牙を剥きはしないかと、目を離すことができなくなった。隅で夕餉を摂るが、飯の味がしない。腹に押し込で済ませた。膳と入れ替えるように椀一杯の粥を受け取り、部屋にいる桃花褐の隣を座る。大男の掠れた息遣いは尋常ではない。
「桃花褐さん」
「大丈夫だ。悪ィ。寝る」
 彼の苦しそうな息吹を感じた。弟の脇から退いたときに大男から放たれる熱気を浴びる。その異変に構うこともなく極彩は怪我人とも病人ともいえない少年に噎せぬように少量ずつ、何度も匙で掬って粥を啜らせた。朦朧としながらも意識はあるようだったが、ここがどこで周りに誰がいるのかを理解はできていないようだ。
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