彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 早々に河教風に言うと“穢捨喜洗えしゃきせん”を求められた。金を渡せ、それは己の身を清める喜びでもあるのだぞ、ということである。銀灰のためになるならと彼女はいくらか握らせた。
 俗名・銀灰を申す者は確かにこちらで身柄を引き取っております―そこの者、明鏡めいきょうを呼びなさい…の者は浪号を明鏡ともうしまして、まずは断食の段に入っております。
 金属製の杖を持ったそれなりに位の高そうな笠をかぶった僧が極彩を案内した。寺院の敷地には粗末な身形の若者たちが列を成し、玉砂利に座している。同じ体勢、同じ服装がずらりと並び圧倒された。
「……断食ですか」
 眉を顰めずにはいられない。ここがこういった場所でなかったら今すぐにでも銀灰を連れ戻すところだった。しかし今後のことが決まっていない以上、弁えねばならない。
 断食に経験があるようで、脱落者が続出したにもかかわらず、弱音も吐かないなかなかの忍耐を持った有望な若者ですな。
「脱落するとどうなるんですか」
 こういう立場にありますと、誤解を受けることも多く、危機感を持って内情を喋らねばなりませぬ。先に申し上げておきますと、ここは虐待施設や更生施設、慈善団体ではございませぬ。やはり何かしらの代償もなく、お話いたすのは、どうにも我々には分が悪く……
 極彩はまたいくらか握らせた。
 理性で従えねば、次は肉体に訴えかけているわけです。肉の痛みは飢えを忘れます。
「わたしの弟は無事ですね?」
 彼女は念を押した。
「会わせてください」
 次は求められる前から倍額を握らせる。弟に会うための手続きに通される。内部は女人禁制であるが、特例として白い布を被せられて入場を許可される。面会もまた透過性の低い布を垂らすため、肝心の銀灰の顔が見られない。垂幕の奥に気配がある。
「銀灰くん……?」
「そうですよ」
 食い気味に返ってきた声を聞いて極彩は布を隔てた相手が義弟とは思えなかった。急激に声質が変わるということがあるのだろうか。
「本当に、銀灰くん?」
「そうですよ。疑ってるんですか、姉上」
 ぞわりと寒気がした。その理由が自分でも分からない。
「今日は大切な話があって来たのだけれど……何も食べてないんですってね。そういう状態で考えられるかなって少し心配なんだ」
「大丈夫ですよ、ちゃんと食べてますし」
「さっきは断食していると聞いたのだけれど……」
 垂幕の奥の義弟は黙った。
「その修業はもう終わってるんです」
「そう。急に来てごめんなさい。大切な話っていうのは後見人のことで。とっても大切なことなのだけれど、驚かないで聞いてくれる?」
「もちろん、もちろん」
 布の向こうにいるのは果たして本当に弟か。声や喋り方に疑いは強まるが、しかし断定に迷う。そういう己に彼女は腹が立った。
「縹さんが後見人に据えた人は、」
 腹を決めて口を開くと、面会終了の声が外から掛った。
「え……?」
 極彩は義弟を呼ぶ。何度も、面会終了を伝えられる。
「銀灰くん……食べられているならよかった。また来るから。身体には気を付けて」
 彼らしくない声が返事をして、極彩も外に出なければならなくなる。彼は今この施設に身を預けているのだ。無理を言うわけにはいかない。次に来るときは端的に話さねばならない。しくじってしまった。
 繊維からわずか透けた布を被せられた極彩は寺院の内部のごくわずかしか分からなかったが不穏な気配が四方八方から向けられている感じがあった。笠と杖が特徴的な僧に迎えられ、出口まで案内される。
 ここは女人に対する欲、血を繋ぎ栄える願いを捨て去る場所でございます。貴方のような女人が現れたなら、欲と穢れを自ら身に纏わんと内なる獣が騒ぎ立てるわけでございます。そしてそれを封じ込める輩がどれくらいいるのか……恥ずかしながら分かりませぬ。とすれば、内なる獣を排除せんと修行の日は延びます。修行が延びるということは、食い扶持が要るわけでございます。繕わねばならぬ道具もまた増えるというわけですな。
 極彩は銭を握らせた。虚しさが募る。銀灰とろくに話せないことも、銀灰がこのような場所に逃げ込まなければならなくなるまで追い詰めてしまったことも。
 彼女は寺を出て林道を戻った。長い階段の前で桃花褐とうぐいすが待っている。大男の膝に腰を下ろしていた男児が極彩と認めると駆けつけて飛びついた。適当に受け止める。桃花褐のほうはまだ座ったままで、彼女が近付くと腰を上げた。
「どうだったい」
 極彩は首を横に振ってからあったことを報告した。施設の存続には俗世の商売が必要だ。当然金が要る。そこまでは彼女も理解しているつもりだ。しかしどこか拝金的な匂いがしてならなかった。桃花褐は頑丈そうな顎を頻りに撫でている。
「ああいうところは、男に認められてェ男どもの集まりだからな。女に敬意のねェ奴が多い。敬意なんぞ払えば、胡麻擂り、俗物、不覚悟の軟派野郎と見做されるわけでさ。……当然、そうじゃねェところもあるけどよ、閉鎖的な社会だろ?残念だが、そういうところもある」
 極彩は俯いてしまった。銀灰の飯に回れば良いと考えたが、今になってみると、彼に回ることは無さそうだった。
「明日、俺が行く。どうでェ。話は、何か覚書でもあれば、それを読んで聞かしてくる……それじゃダメけ?」
「……恥ずかしい話なのだけれど、」
 彼女は面会が垂幕を介さねばならなかったこと、銀灰に対する不信感を覚えたことも付け足して説明する。姉として弟を見抜けなかった。その不甲斐なさを認め、他者に打ち明ける。これは彼女にとって苦しいものだった。
「そりゃ仕方ねェさ。その疑心も、一応頭の中に入れときまさ。以上を踏まえてどうするお嬢ちゃん。俺に任せるかい」
 極彩は急かされている気がして垂れた目から顔を背けた。弟のことを部外者に頼っていいものか。しかし弟にきっちり話を通すには、女の身では侮られ、金をせびられるばかりである。
「お姉ちゃん、この階段また登るのムリです!」
 うぐいすが手を引っ張った。桃花褐も宥めるように厚みのある唇で微笑を浮かべる。
「俺に任せてくれや。弟クンには悪ィことしちまったからな。役に立たせてくれ」
 すぐに返事ができなかった。拗ねたように彼等から目を逸らす。
「やれる人に頼むことも、それが今わたしにできることというのは分かっているけれど……まだ、意地があって…………」
 ぶつける矛先の見つからない怒りと悔しさを努めて抑えた彼女は、口調こそ棘を持っていたが、その態度は素直だった。
「真っ先に考えるのは銀灰くんのこと……桃花褐さん。よろしくお願いして、いい……?」
 震える拳を握り締め、彼女は垂れ目の大男を真正面に捉えるとゆっくり頭を下げた。固く目を閉じる。人の信仰心利用して金儲けか。頭上で彼の呟きが聞こえる。
「それは、俺から任せてくれって頼むところだわな。顔上げてくれや。帰ろうぜ。足は行けそうかい」
 徐ろに顔を上げて頷いた。桃花褐はそれを見てとると、懐から丁寧に折り畳まれた大判の手巾を取り出した。薄い生地であるのが広げられたときに分かった。
「嬢ちゃんはこの山との相性が悪ィ。被っとけ」
 布を頭から被せられる。香の匂いがふわりと漂った。小さな手が視界の制限された女の腕を誘導する。
 長い階段を降りていく。霊はもう現れなかった。それがどこか寂しくもある。
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