彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「ごめんなさい、極彩さま……」
「何が」
 無理矢理口腔に粥を注ぐ。群青は噎せ、口元を汚した。
「極彩さま……お慕いしております。お慕いしております、お慕いしております……」
「わたしはお慕いしてない」
 鎖が騒ぐ。
「お慕いしております、極彩さま。狗です、俺は貴方の狗です。お慕いしております、狗にしてください。貴方の襤褸雑巾に……」
「本当に気が違ったんですね。比喩ではなく」
 匙を近付けると粥が飛び散るのも厭わず彼は噛みついた。蕎麦切そばきり山で洗朱風邪をこじらせた彼の介護と同様、正気でないこの男は厄介だ。
「嘘で構いませんから、一言返してやってくださいませんか」
 見るにみかねたらしい菖蒲はいつもの媚びた笑みも忘れ、しかつめらしい眼差しをして口を挟む。
「ですが……」
「可哀想なほど弁えたお人ですから、大丈夫です。本気にはしません」
 極彩は眉を下げる。野犬のようになってしまったこの囚人が途端に哀れになってくる。鎖が悲鳴を上げている。
「群青殿……」
「お慕いしております、好き……極彩さま……」
 口を開きかけて、言えなくなった。若い妻の姿が脳裏を過る。
「極彩さん」
「この人は既婚者です。ごめんなさい。嘘でも言えそうにありません」
 噛まれている匙を歯から引き抜いた。
「……残念です」
 痩せ細ってさらに小さくなった顎を押さえ、極彩は野犬に粥を食わせた。肌が触れ合うと昏かった目が柔らかくなる。
「極彩さま……」
「群青殿は何かわたしに対して履き違えているんです。わたしを許してください。わたしも群青殿を許しますから。互いに楽になりましょう。お互いずっと、しがらみに囚われているのは面倒ですから」
 手枷が彼の皮膚を擦り、抉る。
「一緒に帰ります、俺も一緒に……」
 彼女はもう応えなかった。鎖のひとつひとつがぶつかり合って小さく音をたてる。それから菖蒲よりも先に懲罰を出た。通路で合流する。
「すみませんでした。でも助かりました。何かしら食べさせておきたかった」
「お役に立てたなら幸いです」
 牛車に乗るまで極彩は口を噤んでいた。城内はほとんど人がいない。時々下回りとすれ違うだけだ。
「本当に思っていた以上に気が狂っていました」
「非常に負荷のかかる仕事です。あれはまだ軽いほうですよ。口が動くんですから」
 菖蒲の態度は淡々としている。彼女は俯く。群青と会うと不安定になる。
「―だとしたら、あれは真に受けなくてもいいんですよね」
「真に受けていただけるなら本気にしてくださっても」
 極彩は群青贔屓の菖蒲をじとりと見つめた。彼はおどけて身を竦める。
「どうしました」
「群青殿のことを、菖蒲殿に訊ねても仕方のないことでした。前から……よく冷やかすようなことを言われていましたので、その類いでしょう」
「少しは気に掛けていただけたということでしょうか」
「たまに本気なのかと思って……けれど、大体いつも、冗談みたいです」
 極彩は首を捻って、彼女には似合わない苦笑を浮かべる。
「本気だと思います」
「本気だと本気で……少し困ります。そういうこと、慣れていませんから」
 菖蒲は何か見極めようとするような眼差しで彼女を捉えていた。照れ臭がり謙遜する若い女の相手をする年長者の男、というようなよう様子ではなかった。まるで天晴組の新規隊員を選出するかのような、若手官吏の採用試験を監督する者のような、そういう目の色である。

 群青に会った翌日に極彩は荷物をまとめて銀灰のいるという地方に向かった。紅のことは菖蒲に任せている。遠出に連れて行くのを躊躇っての判断だった。
「旅行だと思って楽しんできてください」
 姉弟2人で腹を割って話してこいとばかりに伴はいなかった。手配された牛車に揺られる。
 城の北に位置する椎鈍しいにび町の近くにある寺院に銀灰がいるらしい。町全体がせん教を信仰している。それというのも教祖の出身地だという。知らない土地をひとりで訪れるのは不安だった。風月国に流れ着いたときは紅や縹がいた。牛車の中で緊張している。
 朝早くに出て休み休み進みと夕暮れには目的地に着いた。極彩は車内で眠ったり、昼飯時には草を食う牛の横で弁当を食った。菖蒲から渡された案内書を頼りに宿を探した。綺麗に区画整理された町で、暖簾のれんや看板を目印にしなければどこも似たような景観が何列にも続く。何度か同じところを行きつ戻りつしながら宿を見つけて部屋をとった。菖蒲の添書きがあったためすんなりと借りられた。長時間牛車に乗っているだけで彼女は疲れていた。飯を食い、湯を浴びて早めに眠りに就く。冷静に、気分を鎮め、公平に話し合うためには体力が要る。そのためには休息は必須だ。
 弟と上手く話せるだろうか。昨日に聞いた懲罰房あなぐらの囚人の呪いみたいな囁きが耳の奥にこびりつき、やがて声音を変えて弟のものになる。極彩は布団の下で凍えた。弟に会う。認めたくないものと向き合わねばならず、向き合わせなければならない。2人きりになてしまえば逃げ場はない。菖蒲は同行していないのだ。紅もいない。急に孤独感と寂しさに襲われる。知った人はすでに傍には誰もいない。枕が濡れる。

 夕餉は特産物が多く使われていた。海が近いらしく刺身は瑞々しく旨かった。朝飯も豪華だった。しかし美味く食う気分にはなれなかった。ただ腹を満たすだけのものになってしまう。これから弟に会いにいくのだ。彼のことは大好きだ。しかし一方通行の意味で、異質の好意だ。まだ認められずにいる。花畑で暴露されたその告白を。息が詰まった。激しい不安に襲われる。明確な理由はない。弟のことを考えると胸が押し潰されそうになるのだ。物思いに耽りながら碗に盛られた分は平らげた。汁物も具だけは残さない。
 宿を出た。寺院のある山を見上げる。弟の無事を知りたい。安全で健康に暮らせているかを確かめたい。それは本心でありながら、それでいて足取りは重い。山のほうへむかって坂になっている大通りを進んでいく。ふもとに差し掛かった頃、怒声が聞こえた。閑静な区画にこだまする。ここのところ卑屈になっている極彩は自分のことかと立ち止まる。後ろにいたらしき歩荷ぼっかに追い越される。高く荷を積んだ背中は動じることなく進んでいる。その姿に感心し、怒声の原因が自分どころかここにはないと知ると彼女もまた歩き出した。この地に住まう老人の足腰を案じてしまうほど坂は長く徐々に勾配を強めていった。運動不足らしい。すぐに息が上がり、脹脛が張る。体力が落ちるには十分なほど引きこもりがちな生活をしていた。そう暑くはない季節だったが額には薄らと汗が滲んでいる。一息吐くとまたあの怒声が響いた。振り返る。まだ幼さの残る少年が曲がり角から現れた。頭頂部を付近を刈った中剃ちゅうぞりに前髪と髷がある。色街で見ない頭髪ではなかった。粗末な身形で裸足だ。泣いた面と目が合う。極彩は呆気にとられてしまった。たったその一回の目交ぜで少年は極彩のほうへやって来た。
「助けてください」
 顔面をくしゃくしゃにして少年は彼女に飛び付いた。少年の来た道を剛腕な男たちが特に焦った様子もみせず追ってきている。端折られた裾から伸びる太い脚から出される一歩は大きく、落ち着いていた。そしてあっという間に囲まれてしまう。弟に会うつもりが、訳も分からず謎の少年に縋りつかれ、屈強な男たちに四方を塞がれている。
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