彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

文字の大きさ
上 下
304 / 336

304

しおりを挟む
「そうですね、話せそうですか」
 返事はすぐにできなかった。花畑の悪夢に眩暈がする。しかし家族のことだ。
「話します」
「では段取りをします」
「お願いします」
 彼はやっと花火から視線を外す。極彩は本音を言うと義弟に会いたくなかった。苦しめるに決まっている。互いに苦しめ合う。上手く躱せないことでさらに苦しめる。
「ろくな生き方をしてきませんでしたが、銀灰くんの前ではいい義姉でいたいんです」
「姉でないと、いけませんか」
 静かに、花火の破裂音に消えそうな声で中年男は言った。普段の媚びへつらった情けないものとは違った。含む意味が分からずに黙る。柘榴と同じ意図があるのなら簡単に返事はできない。
「どうしてもというのなら、弟の妻になることも辞しません」
―畜生のご関係でいるだなんて、背徳の味がしましたでしょう?
―禽獣の契りになっちまう。
 極彩は顔面に大きく皺を寄せて俯いた。嘲笑と侮蔑の声、顔を思い出す。
「はい?いいや……そういうつもりではなくて……」
 菖蒲は目を丸くした。
「わたしは一度間違いましたが、気持ちのない結婚は多分、互いに良くないと思います。……こんなお為倒ためごかしはやめて、わたしは良くありませんでした」
「良くありませんでしたか」
 元・夫に扮していた青年を贔屓しているこの男と顔を見合わせる。
「わたしは…―」
 花火が空に散った。返答が重なる。
「でも、ボクの言いたいのはそういうことではありません。半分はそうですが……極彩さん」
 菖蒲はまた雰囲気に似合わないしかつめらしい顔をした。極彩も態度を改めてしまう。
「銀灰さんのために犠牲になれますか」
 あっさりした目が鋭くなる。
「なれません」
 彼女は即答した。紅には介護が必要だ。菖蒲は気が緩んだように仰け反った。
「そうですよ。そうでなくては。ではこの提案は無しにします」
 いつものこの男に戻ったように見えた。無精髭に挟まれた唇がだらしなく弧を描いている。



 催事の翌日、桃花褐が屋敷を訪問した。あけぼの弁当を土産にしていたが、彼は極度の偏食家らしく、極彩と紅が食べているのを愉快げに眺めていた。主催陣が会を中断したことなど知らないようで夜の部の話や花火の話をした。市井の者たちは市井の者たちで楽しんだらしかった。
「さすがに主催者さんたちがいきなり帰っちまったのは驚いたケドな~」
 我が家のように脚を崩し、極彩も気を張らずにいられた。彼女は舌を失った紅が喉に物を詰まらせないかばかりに意識をとられ、桃花褐のほうも特に不満を示すふうでもない。
「酔っ払って暴れた参加者がいたんですって」
 紅を監視しながら極彩は言った。男の垂れ目が悪戯っぽく眇められる。
「嬢ちゃんじゃねェよな?」
「わたしかもね」
「おお、おっかねェね」
 桃花褐に本気にした様子はなかった。肩を竦めておどけている。しかし半分は事実だった。
「ま、ほどほどにするこったな。飲み過ぎていいことなんざ、何もねェもんよ」
「分かってはいるのだけれど…………分かってはいるのだけれど、つい」
 曙弁当に入っている甘いたれのついた魚のすり身を齧る。臭みを消す生姜の風味が強い。
「話して楽になるのなら、酒に頼る前に俺に頼りなさいや。気狂い水に頼らねェとやっぱ話せねェもんかね」
 呆れたような物言いでも口調は優しい。
他人ひとに話す前に、まず自分で聞くことになるのはつらいことだから」
「違ぇねェ」
 桃花褐は姿勢を変えた。
「でも、溜めなさんな。そのつらさごとぶつけてこいや。俺ァ嬢ちゃんのぼでぃがーどだかんな」
「わたしの話をしていたの?」
「……嬢ちゃん含めて、だな」
 彼は小首を捻った。その時ばかりは紅を看ていられなかった。
「桃花褐さん……」
 義弟とのことをもう独りで留めておけない。菖蒲相手では言葉にできない感情がある。同時にまだ黙っておかねばならない気がした。不甲斐なさを晒すだけでなく、義弟のことまで辱めてしまいそうだ。桃花褐の軟派な顔が真面目なものに変わる。
「嬢ちゃん?どした」
「あ……、また、日を改めて話す。上手くまとまらなくて。ごめんなさい」
「いんや、謝りなさんな。いつまでも待ってるぜ。ただ、話す相手くらいはここにちゃんと居るって覚えておきやっせ」
 極彩は頷いた。紅は黙々と喉に詰まらせることもなく器用に弁当を食った。食欲旺盛だ。
「ありがとう」
「節介が趣味なんでさ。気にすんな」
 玄関まで見送ると桃花褐は三和土に降りてそれでも身長がやっと同じになるか、まだ彼のほうが大きいくらいだった。厚く大きな手が極彩の両腕を軽く掴んだ。元気付けるようでいてその空気感には弱っているようなところがある。
「例の店のあの……子供、堕ろすそうなんでさ」
 癖毛が俯くと同時に簾のように落ちた。
「俺の子として育てるつもりだった。手を出したのは本当だったかんな。父親ももう分かってる。それが良くなかった。正直に言ってくれや。こんな俺をどう思う?」
「ろくでなしだとおもうけれど……」
 ゆっくり手を外させる。しかし剥がれなかった。
「でもろくでなしでない真っ当な相手なら、わたしの愚かな話は相談できない」
 布越しの体温が少しずつ離れる。
「変な話して悪かった。恩着せがましいこと言って、結局は俺が嬢ちゃんと話したかっただけかも知れねェわ」
「わたしばかりいつも話を聞いてもらっているのだし」
「嬢ちゃんの前ではかっこつけてたかったんだけどな」
「たまにはそういうこともあるでしょう?」
 桃花褐は疲れたように笑った。背負われようとするかのように彼は筋肉質な両腕を極彩へ差し出した。そこに下心や艶めいたものは感じられなかった。彼女も同じようにして一歩近付く。互いに吸着するような安堵感と安定感がある。高い体温とぎっちりとした肉質が伝わる。
「弱味晒して付け入って、悪ィね」
「万事常に明るく前向きだなんて、それも病気だから。桃花褐さんが帰り道に反省してひとりまた抱え込むなんてことがないといいけれど」
「そこまで心配されちゃ俺ァ立場がねェよ」
 大きな掌が彼女の背中を叩いた。
「銀灰くんのことで少しだけ……少しだけ悩んでいるの。でもまだ上手く話せないから。また機会があれば、聞いてくれる?」
「おっしゃ。俺ァいつでも機会ってやつは作れるからよ。ありがとな」
 広い肩に顎を載せるとすべて話せてしまいそうな気がした。
「うん」
 離れていく大男がわずかに惜しかった。彼は照れたような仕草で帰っていく。気配もなく極彩の手と乾いた指が絡む。
「紅?」
 燃え滾るような炎のような目が訪問者を消した玄関扉を凝らしていた。
「お弁当美味しかった?」
 彼に目線を合わせ、特に汚れてもいない口元を拭った。紅は素気無く彼女の手から逃れる。

 銀灰の居場所は母親の実家ではなかったがすぐに特定された。せん教の寺院にいるという。彼は俗世に背を向けてしまった。
 報告に訪れた菖蒲は淡々としていた。反対に極彩は息を呑む。
「どうして……」
 疑問を口にしてみても滲むようにゆっくりと理由が分かっていく。それを諾とできないでいるのだ。
「想定外ではありましたが、冷静に考えてみれば、そうおかしなことでもありません」
 極彩は呆然と、取り澄ました中年男の姿を見つめていた。しかし本当におかしなことではなくよくある話なのだ。すべてを衝動的に捨てたくなった若者が宗教の道に安寧の魂を求めるのは。
しおりを挟む

処理中です...