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「でも今日のあの男!あの男はね、アテクシが何も訴え出られない世話係なのをいいことに、毎日毎日、毎夜、毎晩、アテクシを辱めたの!あの兄弟の父親なんだから、たとえ当時のアテクシが何を言っても、どうにもならないわ。結婚しよう、駆け落ちしようと言って、アテクシを嬲った。当時のアテクシは……こんなことはおかしいと思ってたの。どうすればあの男がアテクシを諦めてくれるのか……あの男は野獣よ。自分の好みじゃないなら、殴れるし蹴れるの。そういう男。だからアテクシ、女になりたかった。あの糞尿みたいな男が嫌う女になれば、あの糞尿男はアテクシを手放すと思った。アテクシ、毎回女子部に通ったの。最初は色々言われたわ。女漁りをしているだとか、男の身を捨てる気かとか、正気じゃない色狂いだとか、そういうこと。アテクシ、女の身の窮屈さもいっぱい聞いたわ。女の生きる道の苦しさも、やりづらさも………でもね、アテクシ、あの男だけはどうしても許せなかった。どうしても…………女になるってものは逃げ道にするってものじゃなくても………」
話している始めのほうは淡々としていたが、その語り口は少しずつ熱を帯びてきていた。杏や菖蒲に驚きはない。深く聞き入っているような、自ら空気に溶けていくような態度だった。
「あの男はアテクシの企みどおり離れていったわ。アテクシ、やっと自分らしく生きられると思ったの。あの男がもういないなら、アテクシ、男って性別に戻ってもいいし、周りの扱いはやっぱり女になりたがってる色情魔ってやつで、アテクシも身体に刃物を入れたけれど、やっぱり男なんだなって思うの。でもね、女でも男でもなんでも、今の季節は何色の口紅が出てるだとか、どういうドレスが着たいだとか、それに合う髪を決めたり、楽しくなっちゃったのね。アテクシ、みんなとお風呂入るのは諦めるし、生まれながらの女に怖い思いさせないわ。だから好きにやるの。女を逃げ道にしてまた男に戻るとか、本当は自分は男なのに女の道に惹かれるだとか、こういうところが本当にあの男みたいに都合のいい加害者みたいだってことも、葛藤するのはやめたの」
柘榴は声を震わせた。黒ずんだ涙が落ちていく。この者の悲痛な記憶が極彩も自身に置き換わって生々しく内部で腫れていくのを感じた。
「そういう男だから、アテクシ、さすがに銀灰ちゃんに手を出したりなんてしないと信じたいケド、信用なんかできるワケない。あの男はサイテーのクズよ。確かにアナタと二公子がどうにかならないためにするにはこれが一番かもしれない。でもね、それならどうしてアナタと銀灰ちゃんを姉弟なんかにしたの………縹くんは何を考えていたの……銀灰ちゃんは親父さんを殺した輩の義兄弟になるのよ。信じられる?白磁くんの墓石を踏み倒して小水をかけてるのと一緒じゃないの…………」
柘榴はドレスと同じ色の手巾で目元を拭き、千切れるほど握り締めた。
「だからだと思いますよ。銀灰さんの身の保障のためです。白磁さんは反逆の徒ですから、銀灰さんの今後の身の上を考えると、これもまたひとつ、彼のためでも……」
柘榴は菖蒲をきつく睨んだ。それから極彩に噛み付きそうな顔を向けた。
「すみません、ちょっと待ってください。あの人は二公子の父親ということは、風月王ということではないのですか」
頭の中は雑音にまみれ、柘榴の昔話は聞けていたが、その前提の話となると途端に分からなくなる。何かまったく別の話をしているような。彼女は自分の解釈に疑問だけが残っている。酒気を帯びているのも原因のひとつに違いない。
柘榴は美しく描かれた眉を顰め、菖蒲は口をぽかんと開けていた。杏は静かに目動ぎ、傷のある唇が動いた。
「風月王は……公子の、母親にあたる………」
極彩の目が見開かれる。
「そうです。それで、あのろくでなしは世間的に言えば内縁の夫ということです。種が得られればもう用済みということです」
「法律があのクソ男を浮浪者にしたってね、認識と後世に遺る家系図じゃ、あのクソ男と銀灰ちゃんに線が結ばれるのよ。穢らしい!」
縦巻の金髪を揺らし訪問者は声を荒げた。茶に波紋が描かれる。極彩は卓袱台に目を這わせ、呆然としている。まずは酒飲野郎だの、ろくでなしのクソ男だの呼ばれている男の顔を思い出そうとした。
「銀灰さんは縹さんの遺言書に従うと思いますよ」
「義姉弟をやめなさい。あの子に相談したら、笑ってガマンするに決まってるんだから。後見人は死んだことにでもして伏せて、義姉弟をやめればいいの。異議申し立てをして。まだお役所は開いてるでしょう?」
「柘榴……これは白梅と銀灰の………問題だと、思う…………」
杏は柘榴に視線だけくれた。
「縹くんはもう少し頭がいいと思ってた。亡くなった人を悪く言うのは気が引けるケド、縹くんは第一公子の面影を追ってだけ。生きてる銀灰ちゃんのコトなんてどうでもよかったのよ。どうでも………」
「それを極彩さんの前で言うのは酷ですよ、柘榴姐さん」
極彩は困惑気味に眉根を寄せた。不快感と得心が鬩ぎ合っている。
「何が柘榴姐さんよ、年増扱いして。菖蒲じじいのクセに。年齢詐称やめないよ」
菖蒲の注意によって派手な身形の客人は一気に悄らしい態度へ変わった。
「………すまない、白梅。柘榴が、偏ったことを……言っているのは、杏から…………謝る。でも………柘榴のつらかった日々…………感情的になってしまうのが……杏も…………分かるから」
極彩が杏の申し訳なさそうな表情を目にし、俯きかけたとき空が鳴った。手叩きの音に似ていた。
「花火は中止にならなかったんですね」
菖蒲が呟き、彼は杏とともに縁側に並んだ。夜空に花火が咲いた。次々と打ち上げられていく。
「朱華煙火のおっさん、跡取りいたのね」
室内は静かになった。まだ夏は遠い。
「なんだかどっと疲れた。難しい話はまた後にしましょ。アテクシは言いたいコト言えたケド、アナタからは?」
花火の音の影で柘榴が極彩を見遣った。杏がこの真紅のドレスの連れの肩に腕を回し寄り添った。極彩は横に首を振り、夜空から目を離すと瞬花に紛れ帰ろうとする客人たちを見送ろうとした。
「いいわ。アナタは花火、楽しんで。明日から忙しくなるんでしょう?」
気の強すぎる来訪者は消沈しているようなところがあったが、杏の鋭くも優しい眼差しが極彩の憂慮を無言のまま一手に引き受けた。廊下に出ていくまでを見届ける。菖蒲は彼等が帰ったことにも気付かないのかぼんやりと空を仰いでいた。
「翻弄することは、あの方も分かっていたはずなんですがね」
鯉が息をするように中年男はぼそりと喋った。
「誇りとか矜持とか自尊心で、人は生きていけないし、誰かを守れないのも確かです。頭を下げて、持論を曲げて、恨まれる道を選ばなきゃ背負えないこともある。あの方は極彩さんと銀灰さんを守っているつもりだったんです。ボクも多少の疑問は否めませんが、おそらくこれが最善の道だったとも思っています」
涼しげな目は花火から一度も目を離さなかった。
「仇と親戚になるのは酷です」
極彩は他人事のように口にした。
「ボクもそう思います。柘榴さんもそう思っていながら、他の道が難しいことを知っているから故人に怒るしかないんです」
「銀灰をくんときっちり話すしかありませんね……この問題は」
またもや極彩の言葉は他人事のようだった。
話している始めのほうは淡々としていたが、その語り口は少しずつ熱を帯びてきていた。杏や菖蒲に驚きはない。深く聞き入っているような、自ら空気に溶けていくような態度だった。
「あの男はアテクシの企みどおり離れていったわ。アテクシ、やっと自分らしく生きられると思ったの。あの男がもういないなら、アテクシ、男って性別に戻ってもいいし、周りの扱いはやっぱり女になりたがってる色情魔ってやつで、アテクシも身体に刃物を入れたけれど、やっぱり男なんだなって思うの。でもね、女でも男でもなんでも、今の季節は何色の口紅が出てるだとか、どういうドレスが着たいだとか、それに合う髪を決めたり、楽しくなっちゃったのね。アテクシ、みんなとお風呂入るのは諦めるし、生まれながらの女に怖い思いさせないわ。だから好きにやるの。女を逃げ道にしてまた男に戻るとか、本当は自分は男なのに女の道に惹かれるだとか、こういうところが本当にあの男みたいに都合のいい加害者みたいだってことも、葛藤するのはやめたの」
柘榴は声を震わせた。黒ずんだ涙が落ちていく。この者の悲痛な記憶が極彩も自身に置き換わって生々しく内部で腫れていくのを感じた。
「そういう男だから、アテクシ、さすがに銀灰ちゃんに手を出したりなんてしないと信じたいケド、信用なんかできるワケない。あの男はサイテーのクズよ。確かにアナタと二公子がどうにかならないためにするにはこれが一番かもしれない。でもね、それならどうしてアナタと銀灰ちゃんを姉弟なんかにしたの………縹くんは何を考えていたの……銀灰ちゃんは親父さんを殺した輩の義兄弟になるのよ。信じられる?白磁くんの墓石を踏み倒して小水をかけてるのと一緒じゃないの…………」
柘榴はドレスと同じ色の手巾で目元を拭き、千切れるほど握り締めた。
「だからだと思いますよ。銀灰さんの身の保障のためです。白磁さんは反逆の徒ですから、銀灰さんの今後の身の上を考えると、これもまたひとつ、彼のためでも……」
柘榴は菖蒲をきつく睨んだ。それから極彩に噛み付きそうな顔を向けた。
「すみません、ちょっと待ってください。あの人は二公子の父親ということは、風月王ということではないのですか」
頭の中は雑音にまみれ、柘榴の昔話は聞けていたが、その前提の話となると途端に分からなくなる。何かまったく別の話をしているような。彼女は自分の解釈に疑問だけが残っている。酒気を帯びているのも原因のひとつに違いない。
柘榴は美しく描かれた眉を顰め、菖蒲は口をぽかんと開けていた。杏は静かに目動ぎ、傷のある唇が動いた。
「風月王は……公子の、母親にあたる………」
極彩の目が見開かれる。
「そうです。それで、あのろくでなしは世間的に言えば内縁の夫ということです。種が得られればもう用済みということです」
「法律があのクソ男を浮浪者にしたってね、認識と後世に遺る家系図じゃ、あのクソ男と銀灰ちゃんに線が結ばれるのよ。穢らしい!」
縦巻の金髪を揺らし訪問者は声を荒げた。茶に波紋が描かれる。極彩は卓袱台に目を這わせ、呆然としている。まずは酒飲野郎だの、ろくでなしのクソ男だの呼ばれている男の顔を思い出そうとした。
「銀灰さんは縹さんの遺言書に従うと思いますよ」
「義姉弟をやめなさい。あの子に相談したら、笑ってガマンするに決まってるんだから。後見人は死んだことにでもして伏せて、義姉弟をやめればいいの。異議申し立てをして。まだお役所は開いてるでしょう?」
「柘榴……これは白梅と銀灰の………問題だと、思う…………」
杏は柘榴に視線だけくれた。
「縹くんはもう少し頭がいいと思ってた。亡くなった人を悪く言うのは気が引けるケド、縹くんは第一公子の面影を追ってだけ。生きてる銀灰ちゃんのコトなんてどうでもよかったのよ。どうでも………」
「それを極彩さんの前で言うのは酷ですよ、柘榴姐さん」
極彩は困惑気味に眉根を寄せた。不快感と得心が鬩ぎ合っている。
「何が柘榴姐さんよ、年増扱いして。菖蒲じじいのクセに。年齢詐称やめないよ」
菖蒲の注意によって派手な身形の客人は一気に悄らしい態度へ変わった。
「………すまない、白梅。柘榴が、偏ったことを……言っているのは、杏から…………謝る。でも………柘榴のつらかった日々…………感情的になってしまうのが……杏も…………分かるから」
極彩が杏の申し訳なさそうな表情を目にし、俯きかけたとき空が鳴った。手叩きの音に似ていた。
「花火は中止にならなかったんですね」
菖蒲が呟き、彼は杏とともに縁側に並んだ。夜空に花火が咲いた。次々と打ち上げられていく。
「朱華煙火のおっさん、跡取りいたのね」
室内は静かになった。まだ夏は遠い。
「なんだかどっと疲れた。難しい話はまた後にしましょ。アテクシは言いたいコト言えたケド、アナタからは?」
花火の音の影で柘榴が極彩を見遣った。杏がこの真紅のドレスの連れの肩に腕を回し寄り添った。極彩は横に首を振り、夜空から目を離すと瞬花に紛れ帰ろうとする客人たちを見送ろうとした。
「いいわ。アナタは花火、楽しんで。明日から忙しくなるんでしょう?」
気の強すぎる来訪者は消沈しているようなところがあったが、杏の鋭くも優しい眼差しが極彩の憂慮を無言のまま一手に引き受けた。廊下に出ていくまでを見届ける。菖蒲は彼等が帰ったことにも気付かないのかぼんやりと空を仰いでいた。
「翻弄することは、あの方も分かっていたはずなんですがね」
鯉が息をするように中年男はぼそりと喋った。
「誇りとか矜持とか自尊心で、人は生きていけないし、誰かを守れないのも確かです。頭を下げて、持論を曲げて、恨まれる道を選ばなきゃ背負えないこともある。あの方は極彩さんと銀灰さんを守っているつもりだったんです。ボクも多少の疑問は否めませんが、おそらくこれが最善の道だったとも思っています」
涼しげな目は花火から一度も目を離さなかった。
「仇と親戚になるのは酷です」
極彩は他人事のように口にした。
「ボクもそう思います。柘榴さんもそう思っていながら、他の道が難しいことを知っているから故人に怒るしかないんです」
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