彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「初めて耳にしました」
 彼は極彩をいくらか強い眼差しで見て、彼女はすぐさま目を逸らす。
「…と言っても色街には明るくはないですが。折りがありましたら、行ってみることにします」
「1人では絶対に…行くな。杏でもいいから…絶対に。杏は…小四喜ショウスーシー小路で惣菜屋を…やっているから、用があったら来ると良い。都合をつけてもらう。絶対…1人で行かない。約束、できるな?」
「はい」
 極彩は再び杏の強い視線から逃れた。彼はその後すぐに帰った。見送りを終えると紅を居間へ呼ぶ。空いた皿を持って紅は台所へそれを持っていこうとしたが極彩は預かった。皿を洗っている間彼は居間に戻らず彼女の背中を監視するように立っていた。
「ごめんね、紅。もしかしたらこれから家を空けるかも知れないんだ。食事は用意しておくから、ひとりで食べられる?」
 紅を振り返る。相手は身振りでさえ返答することなくただ大きな目を向けるだけだった。
「だめそう?」
 やはりそのことについての返答はなかった。彼は居間へ戻ってしまう。極彩は小さく肩を落としたがまた水場へ返った。それからほどなくして城の使いがやってきた。その者は平服だったが懐から官吏を証明する紋をみせた。体格からして武官で、最低限の礼儀はあったものの玄関扉の開閉や揖礼にどこか荒々しいところがあった。極彩は勝鬨桜花を愛でる会に関することかと警戒してしまったが、城の使いはただ一本手折られた白梅の枝を渡した。小振りな花が数個開いている。それはまるで薫る簪のようだった。使いは贈り主が三公子であることを告げて帰っていく。極彩は白梅の枝を持ったまま暫く玄関に突っ立っていた。そして白い花を見つめ、引っ張り出した便箋の前で取り留めのないことを考えた。小柄な芸妓が纏う匂いだった。ふと部屋の隅の紅を思い出し、彼にもこのかぐわしい外の物を見せようとしたがあまり興味を示さなかった。筆は宛名を記されることもなく止まり、書簡の内容よりも返礼の品に思考は傾いていた。相手は望めば大概のものは手に入ってしまう。食品はおそらく届かない。文でさえも検閲が入るだろう。菖蒲が来た時に相談することにして一度広げた便箋と筆をしまう。卓上に白梅が横たわった。至る所に分散されて置かれた薔薇そうびの香りに仄かな甘酸っぱい匂いが混ざる。
 菖蒲は枝を贈られた翌日の夜にやって来た。紅は慣れたのか敵意を見せることもなくなった。ただ部屋の角で縁側に座す同年代の男の背中を射抜くように眺めている。まだ春の温かさはなく夜は肌寒かったが、大窓は全開で室内に漂う花の香りを逃がしていた。菖蒲もまた玄関へ入って来た時に鼻を鳴らし、その正体に苦笑を浮かべていた。夕食に匂いにも埋まらず、大量の薔薇は強く存在を主張している。そこにさらに白梅の香りが極彩の周りを取り巻いていた。本題をどう切り出すか迷いながら、嗅覚の自由を求める後姿を凝視する。相手もまた寛いだ様子で用件を急くこともなかった。彼は煙草を吸うでもなく夜空を仰いでいたがやがて居間を振り向いた。頼りなく笑て、放置していたことを控えめに詫びた。
「それでどうですか。体調等々。何かありましたらどうぞご相談ください」
 菖蒲は大窓を閉めようとしたが結局は開いたまま極彩の傍にやって来た。
「えっと…あの、」
 言葉をまとめていたが、いざその時になると迷いが生まれ声は途切れた。季節の花の枝を贈られるということの意味が分からないわけではなかった。だが国による文化の違いや贈り主であるまだ幼いといえた公子との認識の違いを考慮すると、彼女自身の解釈を鵜呑みにしてそれを第三者に言えなくなってしまう。すでに半端に話を始めてしまったため菖蒲は続きを待っていた。
「これは、ひとつ、例え話で…」
「はい」
「今読んでいる本で、ある貴人が時季の花を枝を贈るのですが…返礼はどうするのか、気になっておりまして」
 菖蒲はすでに伸びている不精髭を撫で、天井を見回しながら低く唸った。
「こういう場合は貴人とやらが相当注意を払っているはずなんですよね。その贈られた相手…つまり受け取った人が未婚であって他に婚約があるわけでもなく、むしろ自分と親密な関係にあると確証を持っているわけです。受け取った時点で承諾です。ですからお付き合いの承諾の返事をすれば完了ですね、ええ」
 極彩は固まった。白梅の枝の贈り主にそのように思わせる素振りをとっただろうか。顔を伏せていく彼女を菖蒲は覗き込むように姿勢を低くする。
「承諾、できない場合は…?」
 声が震え、中年男の目を見られなかった。
「仲介人が入る場合がありますね。後妻うわなり打ちってご存知ですか。あれみたいに、まぁ、家に来られて一騎打ちというわけではありませんが、たこ殴りにされるんじゃないですかね。はい」
「え…」
「貴人の顔に泥を塗るのも同然ですからね。勘違いしフられた男という噂は恥辱以外にありませんよ、ええ。上流社会の中では特に。ボクみたいな平凡な男には分かりませんがね」
 彼は軽い調子で笑っていたが極彩の態度にその不所存な表情はゆっくりと引き攣っていく。
「それは極彩さんのお読みになっている書物のお話で間違いありませんよね?まさか今時花の枝を送るなんてそんな雅やかで高貴なことをする洒落た御仁が居るわけありませんもんね?」
「…そうかも知れません」
「本当のところは?」
 無分別な姿勢を整えて菖蒲は問うた。極彩は彼の顔をまだ見られず白梅の枝を差し出す。黒い目が点になり、それから眉を顰め、首を伸ばして涼しげな目を渋く眇める。
「候補が絞れましたよ。ある嫉妬深い御方がいらっしゃいましてね。城下中の白梅の木を切り倒してしまったんです。この白梅は城にしか咲きません。この付近で見られるものといえば紅梅くらいなもので。となると、そうですね。城下の者ではない華族か、資産家といったところですか」
 彼は額を押さえて捲し立てた。それは面倒なことになったとばかりで、極彩も穏やかでいられなくなる。
「三公子からです」
「ああ…三公子…三公子ですか。三公子なら、まぁ…」
「どうしていいか分からないのです」
「ボクからそれとなく返しておきます。おそらく意味も分かっていないでしょう。多感なお年頃ですからね、たまには気取ったことをしてみたくなるものですよ、ええ、あれくらいの男子は。少しだけ安心しましたよ、そういうところがあって。勿論、極彩さんは困惑されたことでしょうけれども。因みにお訊きしますが、三公子についてそのようなお気持ちは…?」
 極彩は萎れた花のついた枝を菖蒲へ渡す。返答はできなかった。それを分かったうえで彼も枝を受け取った。
「思わせぶりなことをしてお詫びの言葉もございませんとお伝えください」
「分かりました」
 外見には合わないほど几帳面に畳まれた手巾に枝は丁寧に包まれていく。
「義弟のことに対してもそうですが、わたしにとっては普通のことで、他意があったわけではなかったのです。義弟には義弟として、三公子には三公子としての対応をしてきたつもりですが、隙があったようです。何度も不始末を押し付けてしまい、申し訳ありません」
 床に両手を重ね、上体を倒す。中年男は間の抜けた声を出してそれを制した。
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