彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「ごめんなさい、会えそうにないです」
「いいえ。軽率でした。貴方にも大きな負担だったことでしょう、あの一件は」
 まだ体温よりはいくらか温かい茶を飲んでみても底から凍えそうだった。握った湯呑も震えている。
「会えば、また誑かします。きっとしとねに…わたしは淫らに誘っていましたか」
「…はい?」
 菖蒲はぎょっとして彼女をみた。
「わたしは女である以上、ずっと誘惑し、淫乱に誑かし、男性を堕とし続けるんですか」
「若サマが好きそうな言い方ですね。若サマに言われたんですか」
「はい」
「信じたらいけませんよ。若サマは色を好みますが、同時に女性が大嫌いなんですから。幼いうちから色々ありましたからね」
 両肩を叩きそのまま肘までを慰撫いぶする手は、知ることはないくせ思い描いてばかりいた父親のものと重なった。
「菖蒲殿」
「はい」
「どうしてわたしは姉になれなかったのでしょう」
 口の中はからからで湯呑の中の色の付いた水を呷った。
「そういうこともありますよ。貴方の人格の問題とは切り離して考えるべきです。或いは貴方の中の姉の定義と相談するべきです。拡大解釈をして、意地でもその立場に固執することはできますよ。これは個人の問題に成り得ますが」
 鼻腔の奥がむず痒くなる。鼻を啜った。
「母親とのことは気になりますが、せめてこれだけでも。せめて…食べ物や着る物は…」
 布に包んだ封を菖蒲に差し出す。
「取り上げられてしまいます。何度か菓子や土産を持っていったことがあるのですが、おそらく受け取っていません」
 菖蒲の表情も極彩が眉を顰めるにつれ同じように険しくなった。
「縹殿の遺産のことも、もしかすると…」
「そんな…」
「書類上、銀灰さんは縹殿の息子です。訴えを起こすことは可能ですが、しかし…銀灰さんは母親に強く依存しているようですから…」
 弟だった存在が腹を空かせて死んでしまう。しかし会えるのかと問われたら、別れ際に放たれた告白が考えることを終了させてしまう。一字一句も思い出したくなかった。
「明日、連れ出してみます。それで何か食べさせますよ」
「…ごめんなさい」
「貴方が謝ることはないです、ええ」
 姉になれない。家族になれない。弟にとって雌でしかなかった。考えたくない。抉じ開けてしまった記憶には再び黒い靄がかかる。
「人の気持ちとは、自分の意思でさえどうにもならないものですね。自己嫌悪に陥るのは分かります。ですが割り切れないものにかかずらっているのは大変、腹が減り、喉が渇き、力を使います。自我という自由は人間にとって重すぎるのかも知れません」
「菖蒲殿」
「なんですか」
 呼んでしまったが躊躇する。彼は言葉を待って首を傾げた。
「明日…お忙しいのは分かっています。泊まっていってくださいませんか」
「なんだ、そんなことですか。いいですよ。着替え、置いてありましたもんね」
 予想より早く、予想とは反対の答えに思わず聞き返してしまう。菖蒲はへらへらと頼りない笑みを浮かべてまた同じことを答えた。
「お酒飲まれるよりずっといいです。それでボクが煙草を吹かすより」
 彼は風呂に入ると言って極彩は寝室に布団を敷いた。

 先に布団に入っていると髪を掻き乱し、水飛沫を散らす菖蒲が極彩を見下ろした。
「飲んでいませんよね?」
「はい。菖蒲殿、飲みますか」
「いいえ。明日起きられなくなってしまいますからね、ええ。こう見えて、酒癖悪いんですよ」
 腰に巻いた布から下半身が見えそうで極彩は寝返りをうつ。
「あ、失敬」
 菖蒲は彼女の態度で気付いたらしく布の上から下腹部を押さえた。
「わたしが起きます。泊まるようお願いしたのはこちらですから。風呂上りの裸は心地良いものですし」
 掛け布団を捲り上体を起こす。
「風邪引きますよ。できたらすぐに身体を拭いて服を着てほしいものです。今のボクが言っても説得力に欠けますけれども。寝ていると思ったんですよ、酒でも入れてから」
「できるだけもうお酒は飲まないようにします。できるだけ」
「どうせなら断言してくださいよ。ところでどういう心境の変化でしょうね。今晩泊まってほしいだなんて」
 極彩は下から菖蒲を捉えた。
「菖蒲殿は既婚者だから…一緒に居て安心するんです。わたしが無意識に誘って誑かしても、大丈夫だと」
「極彩さんはある一部分では幼子同然に純真ですね!」
 濡れた髪を拭きながら彼は布団を離れ、居間で着替えはじめる。極彩はどさりと枕へ倒れた。隣の部屋から大丈夫かと問われる。返事をしないでいると暗い色味の寝間着を身に纏う中年男が寝室に戻ってきた。視線がぶつかる。彼は困惑気味にへらへら笑っている。
「まだ起きていたんですか」
「もうすぐ眠れそうです」
 菖蒲は極彩の隣の布団に腰を下ろすと枕元に古めかしい刀を置いた。艶やか光沢のある鞘を目で撫でた。時雨塗りの短刀とは違い喋らない。
「おやすみなさいの前にひとつ忠告がありますよ」
「なんですか」
「既婚者であるということは安心の判断基準にはなりませんよ。寧ろもっと厄介なことだってある。貴方にそのつもりがなくても、です。注意することですよ」
 結婚したばかりだというのに勢いが余り抱擁してきた腕の感触が蘇る。熱や酔いに浮かされて娼館の勤め人にまったく関係のない女を重ね、想いを吐露するほどに好いているくせその者と結ばれた途端に勢いを持て余して別の女を口説こうとしている。人格破綻をした苛烈で残忍な二公子も珍しく情をみせ懸念していた。
「ご尤もです。肝に銘じておきます。おやすみなさい」
 真面目でつまらない静かな男だと思っていたがその内実は軟派な好艶こうえん家への落胆が恨み言に変わる前に打ち切る。人をみる目がなかっただけだ。若夫婦の関係に罅を入れるつもりはない。布団を被り、眠気に呑まれる。
「どうして結婚まで仕事に奪われねばならないんでしょうね…あれ、もう寝てしまいました?」
 かろうじて声は聞こえ、起きている、と意識の中で返しただけだった。

 起きましょう!という元気な声とともに温もりを剥がされ、訪れた寒気に意識が浮上した。膝を曲げ、背を丸めて体温を守る。朝ごはんですよ!ほら!無遠慮に肩を揺すられる。目蓋を上げると菖蒲に覗かれた。
「…元気ですね」
「おはようございます」
「……おはようございます」
 後頭部から枕を強奪され、彼はそれを縁側の縁側のほうへ運んでいってしまった。身体を起こすと隣の布団はいつの間にかすべて片付けられて押入れには先程まで掛けていた毛布が積まれていた。
「ほら、布団を干します。起きてください」
「すみません」
「酒無しでよく眠れましたか」
 敷布団は自ら外に干した。居間の卓袱台には立派な料理が並べられていた。
「かなりよく眠れました」
 ぼんやりした頭は数十秒も遅れた返事をする。
「それは良かった。さ、さ、朝餉にしましょう。腕に縒りをかけましたよ」
 卓に着く。菖蒲は逆さまにした茶碗を取って櫃から雑穀米をよそう。副菜には焼鮭に赤茄子の玉子とじ、保存食の鹿尾菜ひじきと大豆の煮物、豆腐とワカメの味噌汁があった。焼鮭は身まで味が沁み込んでいた。
「夜に浸けておいたんです」
 美味しい、と呟いた極彩に菖蒲はそう説明した。味醂がほんのり甘く、醤油の味で締められている。
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