彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 淡藤はじとりと極彩の横顔を見つめていた。用を促す。彼は慌てて目を逸らした。
「ひとつお訊きしてもいいですか」
「本当に1つなんですか」
「2つか3つなってしまうかも知れません」
「必ず答えるとは約束しませんけれど、それでも構わないというのなら」
 極彩は冷やかすように言った。淡藤は暫くの間湯呑を見下ろし、その様は兄の可能性のある昨晩の来訪者とわずかに重なった。
「群青殿のことです」
 個人的な話らしかった。脳裏を過ぎった者の名を言い当てられぎくりと震える。
「大丈夫ですか」
 彼もびっくりしたようだった。切れの長い目を円くしている。
「少し茶が熱かっただけです」
「驚きましたよ。群青殿と何かあったのかと思ってしまいました…もしかして、こちらは群青殿から…?」
 貝紅をしまった懐を淡藤の節くれだった指が撫でた。
「いいえ。まったく違います」
 不機嫌が顔に現れてしまう。しかし淡藤は不気味に小さく笑う。
「違いましたか。詮索するつもりはないのでご安心を」
 極彩はそば茶を啜って醤油煎餅を勧めた。彼は醤油煎餅を取って袋の上で割った。黙ったきり煎餅を小さく砕く。
「群青殿ことで何か質問があったのでは」
 まるで話題を忘れているらしき目の前の恍けた若者に訊ね返す。ぼりぼりと顎が動いた。
「一体何を訊きたかったんです。あまり仲が良いほうではないので、問われて答えられるかどうか。左官さかんの垣根というものです」
「何を言っているんですか」
「何も言っていません」
 極彩もばりばりと煎餅を噛み砕く。
「つまり険悪な御関係の姫様にお訊きするのは相手が違うということですか」
「そうです」
 彼は小さく、よかったと呟いた。何が良かったのか、ひとつも分からなかった。風変りな若者のことはやはり読めない。互いにぼりぼりと煎餅を齧る。
「これからどうなさるんですか」
「先程の質問はいいんですか」
「はい。もっと深い仲の方に訊くことにします」
 まだ淡藤は何か期待しているような色を帯びていたが掘り返し方も浮かばなかった。
「それがいいですね。わたしはまだ城に帰れないみたいです。ただ紅と一緒に住むことを許されました。紅のことはご存知ですか」
「存知ています。何度か見張りの当番になったことがあります。姫様のお知り合いだと聞いております」
 意外そうな感じもなく事情まで知らされているようだった。
「安心しました。それではもう大丈夫ですね」
「何がですか」
「姫様の気の病です。また腹に刃物を刺したり、酒を大量に摂取したりするのではないかと少々心配しておりました。少々」
 彼は気遣わしげに、しかしどこか無遠慮に言った。
「気を回していたんですか」
「それなりに」
「わたしはまだ安心していません。淡藤殿のことについて」
 極彩が口にした途端、彼の放っていた捉えどころのない不思議な空気感が消える。しかし不気味な笑みだけは残っていた。
「私がまた自決するのではないかと?」
「玻璃数珠が完成しないのではないか、桜桃さくらんぼの砂糖煮作りの約束を反故にされるのではないか、なんてことは特に気にしていませんから、残るとすれば、そうですね」
 ばりばりと醤油煎餅が威嚇するような音を立てる。そば茶を啜る対面で淡藤は卓袱台を凝らしていた。
「ご安心ください。春も深まりますから。花粉症が…気を紛れさせてくれるでしょう。ご迷惑とご心配をおかけして申し訳なく思います」
「わたしには特に迷惑はかかっていません…ですが、やめることです―と言うのは簡単ですね。わたしのお酒も同じようなものですから、わたしの口から『やれ』とは言わずとも『やめろ』とも言えません」
 彼は手首の包帯に触れた。極彩も我ながら綺麗に巻けた帯布を見つめる。
「なんだかんだ、確実な方法を選ばないのは、今の生活が心地良いのだと思います。それは退屈の、裏返しなのかも知れません。効率と規律と秩序、良識を守って生きるている今の…暮らしが。終わらせてしまっても構わないけれどそのまま続いてもどうということはない…手首を切る、手首の傷が痛む、ここに包帯が巻かれていて…たったそれだけで何か、違ってみえるんです、自分は怪我人なのだと。怪我人どころか死体を増やす側の自分が」
 淡藤は温くなった茶を何度かに分けて飲み、煎餅を小さく割った。
「賭け狂いですか」
「…歓楽街を取り締まる任にありながら、私は博打狂いなのかも知れません」
「賭けているものが命ですからね。違えば失うのは四肢の自由や、臓器の健康ですよ。とすれば労働と金を大量に費やします。ただの賭け事とは大分趣旨が異なります。自ら不自由を手に入れる、性質の悪さも跳ね上がりです」
 極彩は相手を見もせずに煎餅を喰らう。彼の口元には弱い笑みがまだあった。
「莫迦なことをしているとは思っているんです」
「かなぐり捨てて、すべてに背を向けて嘲笑した時、もしかしたら望んだ世に生きられるのかも分かりません」
「姫様もお考えになったことがあるんですか」
 ぼりぼり!と煎餅が一際大きく響いた。
「ないです」
「私が病人だとしたら…然るべき治療はここにあるのかも知れません」
「互いに神経症の癲狂てんきょう病みでは気違いに磨きがかかるだけです」
 淡藤は上品ながらも薄気味悪く笑って湯呑を傾ける。帰る旨を口にして残りの煎餅を食す。
「また来てください。土筆つくしも菜の花も桜桃さくらんぼ麦餅ぱんもあの数珠飾りも本気にしています」
「菜の花の約束はしていません。おひたしにしましょう。鰹節と醤油で」
 悪くない味付けだ。春の味覚。故郷でも楽しんだ。
「今度は土産を持ってきます」
「わたしの家ではありませんので、お気遣いなく」
 淡藤を玄関で見送った。これから任務に行くという。彼は穏やかに微笑んで、石畳に沿い曲がり路に消えていく。居間に戻ると寸延短刀をしまった棚の前にぼやけた霧のような人影が見えた。目を擦る。春が来て気候が落ち着けば神経症も快方に向かうだろう。ぺのん、ぺのん、んつんつんつ。聞き取れない言語で幻聴は耳の裏からやってくる。棚から短刀を出す。夏の夜に見たことのある流星群にも似た塗りを観賞する。ぺのん、ぺのん、んつんつんんつんつ?
「うるさい!」
 極彩は怒鳴った。静寂。短刀から声が消える。背後をとった気配も失せた。ぺのん、ぺのん。脱衣所にある厚手の乾布で短刀を巻き、荷造り用の紐で女豹倶楽部の中に飾られた置物と同様に六角形を作りながら縛ると座敷牢の脇にはる机に放置する。音も声も居間から消えた。
深夜に菖蒲が現れ、特に自覚も達成感もない手柄について形式的な挨拶を述べた。彼は片付いた室内を見回して安堵の溜息を吐く。
「神経症はいくらか改善されましたか」
肉体からだのほうは随分と…ですが、」
 冗談混じりだった中年男の表情が引き締まる。
「何かあったんです?その…こう、破壊衝動が抑えられないとか、内面的に」
 食い気味に反応を示し、言葉をかなり選んでいるようでもあった。
「そういった願望はありません。ただ…」
「ただ?」
 飄々とした態度はがらりと変わり、否定してもまだ深刻そうだった。
「幻聴が酷くて。今は治りました。気の所為だったのかも知れません。春に向かって鳥も戻ってきましたから」
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