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「遅くにすみませんでしたね。すぐ帰ります。座って眠るのではなく布団で寝ることです。どこかの誰かさんの真似はやめてくださいよ。ボクが敷きますからね」
極彩は菖蒲を見上げた。相手も不思議そうに極彩を覗く。
「布団は、敷いてあります」
菖蒲は苦笑し、襖が足で開けられる。滑車の軽やかな音がした。
「敷く必要はなかったわけですね」
敷かれたままというだけでなく布団が散乱した部屋を見てさらに中年男は頬を引き攣らせた。足に引っ掛けたまま出歩いてそのままにしていたのだった。
「夏場ではありませんけれど万年床はよくありませんよ。運気が下がりそうです、なんとなく。あまり続けると肺病になりますよ」
「…すみません。気を付けます」
鈍く頭が痛んだ。喉に触れてみるが傷はない。菖蒲は彼女を部屋の隅に下ろすと、乱れたままの掛け布団を一度すべて押入れへ片付け、大きく傾いた敷布団を直した。
「寝てください。掛けますから」
重く気怠い身体を引き摺り敷布団へ倒れ込む。その上から彼は布団を掛けていく。
「家事役を就けますか。下回りの人たちから派遣しますよ」
「いいえ…ひとりのほうが楽ですから」
菖蒲は最後の分厚い布団を掛け終えると脇に座った。滑車がずっと鳴っている。
「今の極彩さんをひとりにしていられないんですよ」
「ちょっと疲れただけです。季節の変わり目ですから」
渋い面を作られ半目で睨まれる。極彩は菖蒲に背を向けた。
「紅のこと、ありがとうございました」
「そこまでは聞いていたんですね?礼には及びませんから、しっかり休んでください」
「そのネズミ、飼いますか」
「うちにはアッシュちゃんがいますから」
かたかたと滑車の音が止んでは少しの間を置いて再開する。
「石黄殿に押し付けられたんです」
「それは、それは。盗聴器なんて付いてませんよね。やぁやぁ石黄さんご機嫌麗しゅう」
菖蒲は膝立ちで書院窓に置かれた籠を観察する。中に棲む絹毛鼠は滑車から降りて鼻先を忙しなく宙に向けると巣箱に身を隠した。
「わたし、あの人、嫌いです」
彼は籠から振り向いた。無言が話を促しているような気がした。
「なんだか怖くて」
「珍しいですね。極彩さんからそんなはっきりした拒絶が聞けるとは思いませんでした」
「そろそろ寝ます。布団を敷いてくださってありがとうございました」
「もともと敷いてありましたよ」
菖蒲は静かに立ち上がり照明を落とした。極彩は一度布団に潜ったが顔を出した。
「菖蒲殿に我儘を言ったのに、結局わたしが一番、彼を曇らせていたんですね…」
襖が少しずつ焦らすように閉められていく。菖蒲は手だけ動かし、どこでもないどこかを見下ろしていた。
「それでも少なくとも、彼の明るさの裏側に貴方はいたと思いますよ」
居間の光が小さくなっていく。襖によって男の後姿が見えなくなり、布団は暗く染まる。
相変わらず加虐娘・女豹倶楽部で怪しいことは何ひとつ起こらなかった。紅玉が妊娠したと騒いでいたのを聞いた程度で、相手はあの客に違いないとまで断言し吹聴していたが、帰りに店長は日数からして有り得ないと否定した。以前の職でもそういうことは頻発し、知識だけは蓄えたのだと豪語する。そして前職のことを思い出話をすると突然彼は改まり、極彩の前に回った。おれと付き合おう。いつになる真剣な眼差しだった。店の規則に反している。だがすぐに否定の意思が出てこなかった。自重する。身を固めなかったために彼等は歳が近く、接する機会の多い女に血迷ったのだと。内心の伴わない承認が滲んで選択として弱いものではなくなっていた。唇が乾いてひりついた。店長から目を伏せ、すぐには返答ができなかった。
「ダメだヨ。旦那亡くして弱気になってるトコロに付け入っちゃ男の名が廃るってもんだヨ」
背後から腕が伸び、カラカラした声が聞こえた。店長が極彩から意識を逸らす。誰だお前、と、その口調は威嚇している。
「この人の、元恋人」
突き飛ばすように振り向いた。炎上した繁華街にいた若者だった。浮浪者のような服装をしているが、それは変装だと容易に判断がつく。目が合った途端に彼の方が驚きをみせた。爆破犯だ。若店長の腕を掴んで走った。
「ごめんなさい、びっくりしちゃって…」
あんなんと付き合ってたのかよ。店長は呑気に言った。訂正する間もなかった。辺りを見回すと不言通りの酒場区画で焼鳥を炙っているらしき煙が目に染みた。誘惑し誑かしてしまった少年も焼鳥が好きだった。美味そうに串から肉を食べる姿を見たときは、一生鶏肉と青葱を串に刺す生活をしてもいいと思っていた。真珠?店長に覗き込まれ心配された。煙が沁みるのだと弁明する。飲もうぜ、奢るよ。店長は言った。流されてみる気になった。
「でも自分の分は、自分で持つから」
近場の居酒屋に入る。思考の彼方で天晴組やどこかで見ているという紫煙に迫られた時の言い訳を探していた。赤みの強い暗い照明で、内装や卓や柱は材木をほぼそのまま使用し、研磨や上塗り溶剤は最低限といった具合でよくある居酒屋とは異なる風情があった。結ばれ、編まれた縄や古めかしさのある樽が装飾品だというのに実用的な雰囲気を醸している。立ち飲みの形式らしく硝子杯を手に卓を移動している客が見えた。店長に腕を引かれる。彼はたまにこういった場所で飲むのだと語った。慣れた様子で店主に酒を注文しに行く。一度訊いただけでは覚えられない複雑な羅列と発音が飛び交う。店長は毒々しい色味の液体に柑橘類の輪切りが飾られた酒を運んできた。薬用酒よりも外観が重視され、飯匙倩酒よりも果物的な甘さの香りがある。筆を洗った後の筆洗器の中のような色合いにいくらかの躊躇いがあった。目の前で店長が同じ物を飲んだ。極彩は硝子杯を持ちながらもなかなか飲めず、様子をみていた。2人の傍を何者かが通り、極彩の手の中から硝子杯を奪う。店長はびっくりしてその硝子製容器の行方をおそるおそる辿った。
それ飲んで、相手しろよ。
雑な話し方だったが低く上品な声で、極彩が飲むはずだった硝子杯はその者の手によって店長の手の中に物に傾けられ、減っていた液体が元の量に戻っていく。極彩は声の主を見上げた。黒すぎない黒髪の髭面の男で精悍な顔立ちが天井からの光によって濃く陰を落としていた。やはりどこかで見覚えがあった。
随分いい男引っ掛けたじゃねぇ。俺が相手してやるから、ちょっと付き合えよ。
鋭利な目が極彩を見下ろしたかと思うと男は店長の肩に腕を回した。
この店、潰す気か?さっき変なクスリ盛っただろ。訴えられでもしたらさぁ…俺がお前の―、潰しちゃうかもな。
髭面の男は店長の耳元に息を吹きかけ、野卑な言葉を口にした。それでもその喋り方は育ちの良さが窺えた。店長は身を強張らせる。
俺にもくれよ、そのクスリ。いい値で買ってやる。うっかり…お前に使っちまうかもな?そうすれば俺が満たしてやるよ。楽しもうぜ…?
男の指が店長の顎を思わせぶりに擽った。店長に視線で助けを求められるが、彼女はその意図が汲めなかった。
「わたしにもください。それですべて無かったことにします。店長さんとはいい仲でいたいので」
酒の匂いに中てられたのか口が回った。手を出せば、観念しように店長は黒い薬包紙を取り出した。それは畳み方からして薬包紙と分かったが 、見た目は小さな規格の折紙にみえた。柄も入っている。
極彩は菖蒲を見上げた。相手も不思議そうに極彩を覗く。
「布団は、敷いてあります」
菖蒲は苦笑し、襖が足で開けられる。滑車の軽やかな音がした。
「敷く必要はなかったわけですね」
敷かれたままというだけでなく布団が散乱した部屋を見てさらに中年男は頬を引き攣らせた。足に引っ掛けたまま出歩いてそのままにしていたのだった。
「夏場ではありませんけれど万年床はよくありませんよ。運気が下がりそうです、なんとなく。あまり続けると肺病になりますよ」
「…すみません。気を付けます」
鈍く頭が痛んだ。喉に触れてみるが傷はない。菖蒲は彼女を部屋の隅に下ろすと、乱れたままの掛け布団を一度すべて押入れへ片付け、大きく傾いた敷布団を直した。
「寝てください。掛けますから」
重く気怠い身体を引き摺り敷布団へ倒れ込む。その上から彼は布団を掛けていく。
「家事役を就けますか。下回りの人たちから派遣しますよ」
「いいえ…ひとりのほうが楽ですから」
菖蒲は最後の分厚い布団を掛け終えると脇に座った。滑車がずっと鳴っている。
「今の極彩さんをひとりにしていられないんですよ」
「ちょっと疲れただけです。季節の変わり目ですから」
渋い面を作られ半目で睨まれる。極彩は菖蒲に背を向けた。
「紅のこと、ありがとうございました」
「そこまでは聞いていたんですね?礼には及びませんから、しっかり休んでください」
「そのネズミ、飼いますか」
「うちにはアッシュちゃんがいますから」
かたかたと滑車の音が止んでは少しの間を置いて再開する。
「石黄殿に押し付けられたんです」
「それは、それは。盗聴器なんて付いてませんよね。やぁやぁ石黄さんご機嫌麗しゅう」
菖蒲は膝立ちで書院窓に置かれた籠を観察する。中に棲む絹毛鼠は滑車から降りて鼻先を忙しなく宙に向けると巣箱に身を隠した。
「わたし、あの人、嫌いです」
彼は籠から振り向いた。無言が話を促しているような気がした。
「なんだか怖くて」
「珍しいですね。極彩さんからそんなはっきりした拒絶が聞けるとは思いませんでした」
「そろそろ寝ます。布団を敷いてくださってありがとうございました」
「もともと敷いてありましたよ」
菖蒲は静かに立ち上がり照明を落とした。極彩は一度布団に潜ったが顔を出した。
「菖蒲殿に我儘を言ったのに、結局わたしが一番、彼を曇らせていたんですね…」
襖が少しずつ焦らすように閉められていく。菖蒲は手だけ動かし、どこでもないどこかを見下ろしていた。
「それでも少なくとも、彼の明るさの裏側に貴方はいたと思いますよ」
居間の光が小さくなっていく。襖によって男の後姿が見えなくなり、布団は暗く染まる。
相変わらず加虐娘・女豹倶楽部で怪しいことは何ひとつ起こらなかった。紅玉が妊娠したと騒いでいたのを聞いた程度で、相手はあの客に違いないとまで断言し吹聴していたが、帰りに店長は日数からして有り得ないと否定した。以前の職でもそういうことは頻発し、知識だけは蓄えたのだと豪語する。そして前職のことを思い出話をすると突然彼は改まり、極彩の前に回った。おれと付き合おう。いつになる真剣な眼差しだった。店の規則に反している。だがすぐに否定の意思が出てこなかった。自重する。身を固めなかったために彼等は歳が近く、接する機会の多い女に血迷ったのだと。内心の伴わない承認が滲んで選択として弱いものではなくなっていた。唇が乾いてひりついた。店長から目を伏せ、すぐには返答ができなかった。
「ダメだヨ。旦那亡くして弱気になってるトコロに付け入っちゃ男の名が廃るってもんだヨ」
背後から腕が伸び、カラカラした声が聞こえた。店長が極彩から意識を逸らす。誰だお前、と、その口調は威嚇している。
「この人の、元恋人」
突き飛ばすように振り向いた。炎上した繁華街にいた若者だった。浮浪者のような服装をしているが、それは変装だと容易に判断がつく。目が合った途端に彼の方が驚きをみせた。爆破犯だ。若店長の腕を掴んで走った。
「ごめんなさい、びっくりしちゃって…」
あんなんと付き合ってたのかよ。店長は呑気に言った。訂正する間もなかった。辺りを見回すと不言通りの酒場区画で焼鳥を炙っているらしき煙が目に染みた。誘惑し誑かしてしまった少年も焼鳥が好きだった。美味そうに串から肉を食べる姿を見たときは、一生鶏肉と青葱を串に刺す生活をしてもいいと思っていた。真珠?店長に覗き込まれ心配された。煙が沁みるのだと弁明する。飲もうぜ、奢るよ。店長は言った。流されてみる気になった。
「でも自分の分は、自分で持つから」
近場の居酒屋に入る。思考の彼方で天晴組やどこかで見ているという紫煙に迫られた時の言い訳を探していた。赤みの強い暗い照明で、内装や卓や柱は材木をほぼそのまま使用し、研磨や上塗り溶剤は最低限といった具合でよくある居酒屋とは異なる風情があった。結ばれ、編まれた縄や古めかしさのある樽が装飾品だというのに実用的な雰囲気を醸している。立ち飲みの形式らしく硝子杯を手に卓を移動している客が見えた。店長に腕を引かれる。彼はたまにこういった場所で飲むのだと語った。慣れた様子で店主に酒を注文しに行く。一度訊いただけでは覚えられない複雑な羅列と発音が飛び交う。店長は毒々しい色味の液体に柑橘類の輪切りが飾られた酒を運んできた。薬用酒よりも外観が重視され、飯匙倩酒よりも果物的な甘さの香りがある。筆を洗った後の筆洗器の中のような色合いにいくらかの躊躇いがあった。目の前で店長が同じ物を飲んだ。極彩は硝子杯を持ちながらもなかなか飲めず、様子をみていた。2人の傍を何者かが通り、極彩の手の中から硝子杯を奪う。店長はびっくりしてその硝子製容器の行方をおそるおそる辿った。
それ飲んで、相手しろよ。
雑な話し方だったが低く上品な声で、極彩が飲むはずだった硝子杯はその者の手によって店長の手の中に物に傾けられ、減っていた液体が元の量に戻っていく。極彩は声の主を見上げた。黒すぎない黒髪の髭面の男で精悍な顔立ちが天井からの光によって濃く陰を落としていた。やはりどこかで見覚えがあった。
随分いい男引っ掛けたじゃねぇ。俺が相手してやるから、ちょっと付き合えよ。
鋭利な目が極彩を見下ろしたかと思うと男は店長の肩に腕を回した。
この店、潰す気か?さっき変なクスリ盛っただろ。訴えられでもしたらさぁ…俺がお前の―、潰しちゃうかもな。
髭面の男は店長の耳元に息を吹きかけ、野卑な言葉を口にした。それでもその喋り方は育ちの良さが窺えた。店長は身を強張らせる。
俺にもくれよ、そのクスリ。いい値で買ってやる。うっかり…お前に使っちまうかもな?そうすれば俺が満たしてやるよ。楽しもうぜ…?
男の指が店長の顎を思わせぶりに擽った。店長に視線で助けを求められるが、彼女はその意図が汲めなかった。
「わたしにもください。それですべて無かったことにします。店長さんとはいい仲でいたいので」
酒の匂いに中てられたのか口が回った。手を出せば、観念しように店長は黒い薬包紙を取り出した。それは畳み方からして薬包紙と分かったが 、見た目は小さな規格の折紙にみえた。柄も入っている。
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