239 / 336
239
しおりを挟む
刺すような視線に目を合わせられない。
「義兄さんに会ったって言ってたわ。旦那さんは帰ってきたの?アテクシの知っている人とは随分違うような気がしたけど」
含みのある言い方だった。夫という盾がもうない。客人の圧に耐えられるとは思えなかった。俯いてしまう。来訪者は小さく嘆息した。
「でもこれは、アテクシのお節介な願望だからね。悪かったわ。気にしないでちょうだい」
深紅の唇から紡がれるその響きはいくらか申し訳なさを持っていた。
「仮にもし、そうなったとしても、銀灰くんは杉染台に留まると思います。わたしが銀灰くんを解放できるとは、思えません。法的な誓約だけの関係ですから」
「みんなそうよ。結局は同胞だって双生児だって別個体じゃない。でも関係に名前を付けて騙し騙し中身を作っていくんだから。血と肉がどうにかしてくれるなんて嘘っぱち…肉体的な固執から離れるならね」
柘榴は宿に帰っていく。帰り際に負傷した杏の容態と桜のことを教えられる。客人は仲直りしてないのね、と少し残念そうに言った。それから菖蒲おじさんには気を付けて、と残しその意図を確かめることもさせず去っていった。天晴組の若者たちが柘榴へ会釈していた。
座敷牢の少年に飯を作って食わせている間に2人目の訪問があったが、彼は玄関で待たず、居間で缶珈琲を飲んでいた。不穏な忠告を受けて間もない人物その人だったが、彼は呑気に媚びた笑みを浮かべ、疑おうとしてみても疑心は消えてしまう。
「どうしたんです?そんなに見つめて?」
「いいえ、何でもありません。おはようございます」
「そうですか?おはようございます。昼餉は食べましたか。餃子を買って来たんです、一応2人前。びっくりしましたよ。保護といったって座敷牢じゃ監禁と変わらないじゃないですか」
そのことを打ち明けた時の返信にはただ了承した旨が書かれていた。
「紹介します」
「いいえ。そんな生活を送っているなら下手に刺激しちゃいけませんよ、ええ」
苦笑しながら菖蒲は珈琲を呷った。缶は空になったらしく、2度3度缶を咥えながら天を仰ぐ。
「まさか想い人を閉じ込めたりなんてしていませんよね?ここはそういう場所じゃありませんが」
冗談を言いながら彼は卓袱台に2箱重なった包みを置いた。不言通りの名店だ。別の者から焼売を土産にもらったことがある。
「部下がここの店で…そうですね、非常勤店員をやっていたことがあったらしくて。いわば、縁故です」
菖蒲は卓上の灰皿を取るとゆっくり縁側へ移動し衣嚢から煙草を取り出す。日の光を浴びながら中年男の濃い影が落ちた。伸びをして腰を下ろす。
「休みの日にすみませんね」
「いいえ」
必要書類を取りに来たんですよ。菖蒲はそう言って煙を吐く。
「1日くらい息抜きしたいですよね。休みに合わせて申請出しますか。城下というわけにはきませんけれど遠地に旅行というのも。しかし私か、天晴組の者が帯同することになります」
「ここにいるのが一番落ち着きますので」
溜息とともに煙が吐かれていった。呻きながら彼は言葉を探しているようだった。というよりも、言おうか言うまいか決めかねている様子だった。
「座敷牢の人が心配ですかね?」
「いいえ。ただ単にもとが出不精なんです」
「足忠実だった極彩さんが出不精になってしまうとは…蟄居生活とは恐ろしいですね、ええ…しかし、休日前の遅寝と翌日の遅起きは格別ですから…多少の惜しさもありながら、はい」
深く頷きながら灰皿へ短くなった煙草を潰す。ここだけ切り取れたなら長閑な生活だった。縁の下から餌付け人に期待を寄せた猫が現れたらしくにゃぁにゃぁ、あんあんと複数の鳴き声が消えた。菖蒲はごろりと、くれ縁に横たわり肘で枕を作った。暗い衣の曲線が光りに溶けている。
「菖蒲殿は天晴組とよく関わるんですか」
彼は首を曲げた。腰の辺りに野良猫が飛び乗り、極彩を侮蔑するように睨んだ後、目蓋を閉じた。
「全員は把握していません。末端までいくと何百人もいますから。各隊列2席くらいまでならまぁ、何となく覚えていますよ、はい」
「石黄殿は、どんな方ですか」
「ああ…というと組長さんですね。若サマお気に入りの。今の副組長引き摺り下ろしてまであの座に就けたんですから、相当な気の入れようなんでしょうね、ええ。若サマの私情で動かせるのなんて天晴組くらいですから。大体上のほうは贔屓なんじゃないですか。官吏となると話は変わりますけれども」
媚びに苦味の加わった笑みを浮かべ、彼は起き上がるともう1本煙草を摘まんですぐに離した。振り落された野良猫は男の胡坐に乗った。
「もともとの組長は淡藤さんだったということですか」
「そうですよ。人嫌いな群青さんも彼には妙に構いたがりましたね。若サマも今の副組長さんのことは気に入っているようでしたから、石黄さんがよっぽどだったんでしょう…でも、そうですね、新入りなんですよ。間もないです。ええ、まだ、入ってから」
それからまた菖蒲は続けた。
「ま、群青さんが組長を断っていなかったらどういう人事になっていたかは分かりませんけどね。淡藤さんの力量不足という話ではなくて、若サマのお気に入り順ということで……今の組長さんが組長の器であるかどうかは、ボク個人としては懐疑的ですけどね」
機嫌を取るような目を向けられる。
「…なんて、天晴組が警備している敷地でいうことじゃないですね、失礼」
「いいえ…その、暴力とかあったりするんですか。部下に対して」
「ボクはしませんよ。そんなこと」
「天晴組は」
ああ、と菖蒲は返事をした。そして突然小さな悲鳴を上げて後ろを向いた。背中で野良猫に爪を研がれているらしかった。
「無いとは思いますが、無いとは言い切れませんね。若サマと一応城の管理ですから…っと、これは批判じゃありませんよ」
菖蒲は背中を摩る。乱暴されたんですか、とわずかに深刻げな表情をされ、咄嗟に否定した。
「極彩さんに手を上げたなんてことになったら、五体満足で綺麗な死体じゃ済みませんからね。おそらく石黄さんも。特に彼は…」
菖蒲は話を止め、死体の埋まっている庭を見つめる。代わりがいっぱいいるんですよ。低い声で彼は呟く。だったら、寂しくありませんからね。動こうとして膝の上の猫が低く唸った。
「おやおや」
中年男は野良猫に手を伸ばすが柔らかな毛並みに触れる前に固まった。
「菖蒲さん…?」
極彩は振り返った。座敷牢にいたはずの少年が廊下から居間を覗き込んでいる。銀灰は驚いた目をしていた。
「ご、ごめんなさいっす…」
少年は血の露を付けた指を握っていた。ぎょっとして極彩は駆け寄った。酒蒸しにした蛤の殻で切ったのか。雑誌の紙で切ってしまったか。
「大丈夫?どうしたの。今手当するから」
大した傷ではなかった。しかし銀灰の指に滲む赤い玉に頭の中が明滅する。
「お茶碗割っちゃって…ごめんなさいっす…布団とかに血が付いちゃうのまずいと思って…」
「ううん。いいの、そんなこと。傷はそこだけ?」
銀灰は縁側にいる中年男を気にしたが、取り乱した極彩は居間の奥の部屋に連れ込み救急箱を荒々しく開いた。
「出てきちゃってごめんなさいっす…」
怯えた目は赦しを乞うていた。消毒液に濡れた綿を器具で摘まんで傷口に当てた。
「義兄さんに会ったって言ってたわ。旦那さんは帰ってきたの?アテクシの知っている人とは随分違うような気がしたけど」
含みのある言い方だった。夫という盾がもうない。客人の圧に耐えられるとは思えなかった。俯いてしまう。来訪者は小さく嘆息した。
「でもこれは、アテクシのお節介な願望だからね。悪かったわ。気にしないでちょうだい」
深紅の唇から紡がれるその響きはいくらか申し訳なさを持っていた。
「仮にもし、そうなったとしても、銀灰くんは杉染台に留まると思います。わたしが銀灰くんを解放できるとは、思えません。法的な誓約だけの関係ですから」
「みんなそうよ。結局は同胞だって双生児だって別個体じゃない。でも関係に名前を付けて騙し騙し中身を作っていくんだから。血と肉がどうにかしてくれるなんて嘘っぱち…肉体的な固執から離れるならね」
柘榴は宿に帰っていく。帰り際に負傷した杏の容態と桜のことを教えられる。客人は仲直りしてないのね、と少し残念そうに言った。それから菖蒲おじさんには気を付けて、と残しその意図を確かめることもさせず去っていった。天晴組の若者たちが柘榴へ会釈していた。
座敷牢の少年に飯を作って食わせている間に2人目の訪問があったが、彼は玄関で待たず、居間で缶珈琲を飲んでいた。不穏な忠告を受けて間もない人物その人だったが、彼は呑気に媚びた笑みを浮かべ、疑おうとしてみても疑心は消えてしまう。
「どうしたんです?そんなに見つめて?」
「いいえ、何でもありません。おはようございます」
「そうですか?おはようございます。昼餉は食べましたか。餃子を買って来たんです、一応2人前。びっくりしましたよ。保護といったって座敷牢じゃ監禁と変わらないじゃないですか」
そのことを打ち明けた時の返信にはただ了承した旨が書かれていた。
「紹介します」
「いいえ。そんな生活を送っているなら下手に刺激しちゃいけませんよ、ええ」
苦笑しながら菖蒲は珈琲を呷った。缶は空になったらしく、2度3度缶を咥えながら天を仰ぐ。
「まさか想い人を閉じ込めたりなんてしていませんよね?ここはそういう場所じゃありませんが」
冗談を言いながら彼は卓袱台に2箱重なった包みを置いた。不言通りの名店だ。別の者から焼売を土産にもらったことがある。
「部下がここの店で…そうですね、非常勤店員をやっていたことがあったらしくて。いわば、縁故です」
菖蒲は卓上の灰皿を取るとゆっくり縁側へ移動し衣嚢から煙草を取り出す。日の光を浴びながら中年男の濃い影が落ちた。伸びをして腰を下ろす。
「休みの日にすみませんね」
「いいえ」
必要書類を取りに来たんですよ。菖蒲はそう言って煙を吐く。
「1日くらい息抜きしたいですよね。休みに合わせて申請出しますか。城下というわけにはきませんけれど遠地に旅行というのも。しかし私か、天晴組の者が帯同することになります」
「ここにいるのが一番落ち着きますので」
溜息とともに煙が吐かれていった。呻きながら彼は言葉を探しているようだった。というよりも、言おうか言うまいか決めかねている様子だった。
「座敷牢の人が心配ですかね?」
「いいえ。ただ単にもとが出不精なんです」
「足忠実だった極彩さんが出不精になってしまうとは…蟄居生活とは恐ろしいですね、ええ…しかし、休日前の遅寝と翌日の遅起きは格別ですから…多少の惜しさもありながら、はい」
深く頷きながら灰皿へ短くなった煙草を潰す。ここだけ切り取れたなら長閑な生活だった。縁の下から餌付け人に期待を寄せた猫が現れたらしくにゃぁにゃぁ、あんあんと複数の鳴き声が消えた。菖蒲はごろりと、くれ縁に横たわり肘で枕を作った。暗い衣の曲線が光りに溶けている。
「菖蒲殿は天晴組とよく関わるんですか」
彼は首を曲げた。腰の辺りに野良猫が飛び乗り、極彩を侮蔑するように睨んだ後、目蓋を閉じた。
「全員は把握していません。末端までいくと何百人もいますから。各隊列2席くらいまでならまぁ、何となく覚えていますよ、はい」
「石黄殿は、どんな方ですか」
「ああ…というと組長さんですね。若サマお気に入りの。今の副組長引き摺り下ろしてまであの座に就けたんですから、相当な気の入れようなんでしょうね、ええ。若サマの私情で動かせるのなんて天晴組くらいですから。大体上のほうは贔屓なんじゃないですか。官吏となると話は変わりますけれども」
媚びに苦味の加わった笑みを浮かべ、彼は起き上がるともう1本煙草を摘まんですぐに離した。振り落された野良猫は男の胡坐に乗った。
「もともとの組長は淡藤さんだったということですか」
「そうですよ。人嫌いな群青さんも彼には妙に構いたがりましたね。若サマも今の副組長さんのことは気に入っているようでしたから、石黄さんがよっぽどだったんでしょう…でも、そうですね、新入りなんですよ。間もないです。ええ、まだ、入ってから」
それからまた菖蒲は続けた。
「ま、群青さんが組長を断っていなかったらどういう人事になっていたかは分かりませんけどね。淡藤さんの力量不足という話ではなくて、若サマのお気に入り順ということで……今の組長さんが組長の器であるかどうかは、ボク個人としては懐疑的ですけどね」
機嫌を取るような目を向けられる。
「…なんて、天晴組が警備している敷地でいうことじゃないですね、失礼」
「いいえ…その、暴力とかあったりするんですか。部下に対して」
「ボクはしませんよ。そんなこと」
「天晴組は」
ああ、と菖蒲は返事をした。そして突然小さな悲鳴を上げて後ろを向いた。背中で野良猫に爪を研がれているらしかった。
「無いとは思いますが、無いとは言い切れませんね。若サマと一応城の管理ですから…っと、これは批判じゃありませんよ」
菖蒲は背中を摩る。乱暴されたんですか、とわずかに深刻げな表情をされ、咄嗟に否定した。
「極彩さんに手を上げたなんてことになったら、五体満足で綺麗な死体じゃ済みませんからね。おそらく石黄さんも。特に彼は…」
菖蒲は話を止め、死体の埋まっている庭を見つめる。代わりがいっぱいいるんですよ。低い声で彼は呟く。だったら、寂しくありませんからね。動こうとして膝の上の猫が低く唸った。
「おやおや」
中年男は野良猫に手を伸ばすが柔らかな毛並みに触れる前に固まった。
「菖蒲さん…?」
極彩は振り返った。座敷牢にいたはずの少年が廊下から居間を覗き込んでいる。銀灰は驚いた目をしていた。
「ご、ごめんなさいっす…」
少年は血の露を付けた指を握っていた。ぎょっとして極彩は駆け寄った。酒蒸しにした蛤の殻で切ったのか。雑誌の紙で切ってしまったか。
「大丈夫?どうしたの。今手当するから」
大した傷ではなかった。しかし銀灰の指に滲む赤い玉に頭の中が明滅する。
「お茶碗割っちゃって…ごめんなさいっす…布団とかに血が付いちゃうのまずいと思って…」
「ううん。いいの、そんなこと。傷はそこだけ?」
銀灰は縁側にいる中年男を気にしたが、取り乱した極彩は居間の奥の部屋に連れ込み救急箱を荒々しく開いた。
「出てきちゃってごめんなさいっす…」
怯えた目は赦しを乞うていた。消毒液に濡れた綿を器具で摘まんで傷口に当てた。
0
お気に入りに追加
26
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる