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「仕事の話なら、オレっち…」
「いやいや、家族の団欒を壊すわけにはいきません。銀灰さんはどうぞお気遣いなく。お邪魔しているのはこちらなのですから」
極彩は眉を顰めた。石黄はふふっと笑ってから彼女に視線を戻す。
「それで、お聞かせ願いますか」
「銀灰くん。今渡したお金で珈琲牛乳買って来てくれる?ご飯代はまた渡す。東に少し歩けばまだやってるお店があるから」
「…うん、分かったっす」
銀灰が石黄の脇を通っていく。いくらか遠慮がちに、招いてもいない客に会釈をしていった。玄関扉の開閉が聞こえる。
「彼には知られたくないんですか」
「今のところ特に報告できる事柄はありません」
質問には答えず、帰路の間にまとめた報告を素気無く伝える。
「そうですか。ではこのまま続けてください。若様にもそう報告しておきます」
「以上です。お引き取り願いたい」
明らかな拒絶に彼は気を悪くした様子もなく朗らかに笑っている。
「まだ弟御の帰宅には少しあるでしょう」
「ですが石黄殿の用件は済んだはず」
澄んだ目とかち合う。炎症の痕がある片目を捉えてしまう。衝撃が横面を襲い、彼女は均衡を崩して側面から臀部を打ち付けた。立ち上がる前に紺色の袴が揺らめき、今日は天晴組の制服でないことを知る。羽織もなかった。足が極彩の肩口に乗った。数秒前の笑顔は失せていた。虚ろな目と力無く開いた小さな唇。さらさらした髪で爽やかさのある顔立ちに陰が落ちる。
「イイナ…カゾク…」
肩口に押し当てられている足に力が入り、彼女は床に寝かされる。天井の木目と照明器具だけの視界に不気味な若い組長が割り込んできた。
「ウバッタクセニ…アノコ、コロス…」
気味の悪い男の足を払って起き上がる。しかし前髪を鷲掴まれて、立つことを阻まれる。
「アノコ、コロス…コロス…コロス…ウレシイ」
髪を掴む腕を外そうとしたが石黄の力は強く、彼女の頬を再び拳が張った。
「顔はやめて。退職になる」
振りかぶられた拳が降り、代わりに回し蹴りが脇腹を打つ。前髪から毛が抜け、上体が床に叩き付けられる。怯んでいる間に腹を正面から蹴られ、嘔吐感に堪えねばならなかった。
「ウバッタクセニ…アノコ、コロス…ウバッタクセニ…」
踏み付けられ、体重を乗せられる。臓器を潰される苦しみが少しずつ増す。
「貴方、雄黄なの…?」
表情の消えた顔に弱く皺が寄ったのが逆光の中で分かった。腹に踏み込む足が退けられ、彼は屈んで女の太腿を撫ではじめる。形を確かめるようにゆっくりと摩り、腰部を辿ると上へ向かう。脇腹から胸部へ。前から胸の膨らみを支えるような手付きで止まった。濃い睫毛が伏せられる。
「アノコ…コロス…コロス…シアワセ…」
興奮の混じる掠れた声に極彩は胸にある手を叩き落とした。乱雑な手付きで毛束を掴まれ、唇に渇いた粘膜が当たった。弾力が押し付けられる。華奢な肉体に抵抗するが、そうするたびに軽やかな笑みばかり作っている唇がさらに勢いを強める。腕に力を込め、歯を食い縛った。柔らかな唇が動くのを同じ部位で感じた。ぬるりとした感触が下唇に伸びた。
「い、や…!」
がちん、と歯が鳴った。さらさらした男の前髪が頬を擽った。鉄錆びの風味が鼻を突き抜ける。しかし痛みはなかった。男の耳を引っ張る。甘味のある液体を注がれる口元が離れた。緊張とも安堵ともいえない溜息が漏れる。不気味な男は呼吸を乱し、徐に頭を上げた。唇から血が滴っている。
「若様にはナイショですよ。お互いのヒミツです。2人だけの」
けろりとした面で石黄は澄みきった大きな目で女を捉える。濡れた口を拭った。他人の血の味に吐きそうになった。
「でもあの弟御、“勝手に”特別管理区に入ってきてどういうつもりだろう?間者だったりしませんよね?いくら弟御とはいえ注意したほうがいいですよ」
「何が言いたいのか、もっと簡単に言ってくれる」
「そうですね…頻繁に出入りされたら、うっかり斬り殺してしまうかもしれないと言っているんですよ。間者と間違えてね。集中してください、今は。今の仕事に」
内容の物騒さとは裏腹に彼は穏和に笑って言った。
「出来ることなら一緒に暮らしたいそうですよ。叶うといいですね、彼が…留置所生活を送る前に」
「安心してください。誰に知られようと、止められようと辞めませんから」
「ありがたいことです。私が判断間違いを起こして手を滑らせないことを祈るばかりですね」
石黄は手を差し伸べた。しかしそれに応じず自力で立ち上がる。
「副組長が不在なら、3席でも4席でも構いませんので」
服装を正して組長を視界から外す。
「姫様の帰ってくる場所はここです。それだけはお忘れなく」
「そうですね。今のところは」
「ずっとですよ、死ぬまで。死んでもなお、若様の鳥籠に居るしかないんです」
石黄の無垢な笑い声が玄関扉の開閉に掻き消える。気を遣いながら居間を覗き、極彩の元へやって来る。
「買ってきたっすよ」
「ありがとう。ごめんなさい、我儘を言って。今、話が終わったところだから」
銀灰は義姉を近くで見た途端、訝しげに利発な眉を動かした。
「長居してしまってすみません。そろそろお暇します」
石黄はにこりと笑んで居間を出て行く。見送りに行こうとした少年を止めてしまう。廊下に吸い込まれていく紺色の袴の端を凝らしながら。闇夜に溶け込む色合いだった。
「白梅ちゃん…どうしたんすか。口、怪我してるんすか?」
「一緒に暮らす?」
話題を変えると不安と疑心を隠せない素直な少年は花が咲いたように笑った。
「いいんすか!」
「…じゃあちょっと来てくれる?」
「うん」
銀灰の腕を引き、家の奥へと連れていく。片付けられた小さな部屋にはさらに格子によって個室が設けられていた。引いていた腕が重くなる。少年の無邪気ながらもぎこちない眼差しに気付かない振りをする。
「やっぱり怒ってるんすか」
「とても」
彼は抵抗しなかった。座敷牢の中へ案内する。格子扉をゆっくり閉めた。愛らしい目が怯えた目で揺らいでいる。反省するっす、と彼はこぼした。不言通りで叱られて突き放される子供と同じ趣が秘められていた。
「桃花褐さんに対して」
「何かあったんすか?喧嘩っすか?なんで…?」
「あなたにこんな真似をさせて…」
夕餉を取ってくると告げて台所に向かう。石黄の加虐心に満ちて悦楽に染まった面が逆光と暴力の中で確かに見えた。銀灰を甚振る様を見せて反応を知りたくて堪らない。そういう意図が透けていた。そうとしか考えられなかった。形の崩れた焦げた玉子焼き。中途半端に皮を剥いた人参の浮く味噌汁。伸びきった強力粉紐麺と野菜の卵黄酢和え。占地茸と玉葱を添えた鱈の包み焼きだけは綺麗に出来ていた。食わすか食わせぬか迷ったが、他にあるのは即席麺だけで腹を空かした銀灰のことを考えると温め直していた。だが極彩は薄気味悪い男も手伝ったという料理を食べる気が起きず、一度は捨てようとも思ったが、食べられそうな物を捨てるという気が起きず、味噌汁の沸騰した音が選択を急かすようだった。盆に乗せて座敷牢に戻ると彼は隅で蹲っていた。
「こんなつもりじゃなかったんす。白梅ちゃんに迷惑かけるつもりなんてなかったんす。本当っすよ。この頃元気なかったから…」
「いやいや、家族の団欒を壊すわけにはいきません。銀灰さんはどうぞお気遣いなく。お邪魔しているのはこちらなのですから」
極彩は眉を顰めた。石黄はふふっと笑ってから彼女に視線を戻す。
「それで、お聞かせ願いますか」
「銀灰くん。今渡したお金で珈琲牛乳買って来てくれる?ご飯代はまた渡す。東に少し歩けばまだやってるお店があるから」
「…うん、分かったっす」
銀灰が石黄の脇を通っていく。いくらか遠慮がちに、招いてもいない客に会釈をしていった。玄関扉の開閉が聞こえる。
「彼には知られたくないんですか」
「今のところ特に報告できる事柄はありません」
質問には答えず、帰路の間にまとめた報告を素気無く伝える。
「そうですか。ではこのまま続けてください。若様にもそう報告しておきます」
「以上です。お引き取り願いたい」
明らかな拒絶に彼は気を悪くした様子もなく朗らかに笑っている。
「まだ弟御の帰宅には少しあるでしょう」
「ですが石黄殿の用件は済んだはず」
澄んだ目とかち合う。炎症の痕がある片目を捉えてしまう。衝撃が横面を襲い、彼女は均衡を崩して側面から臀部を打ち付けた。立ち上がる前に紺色の袴が揺らめき、今日は天晴組の制服でないことを知る。羽織もなかった。足が極彩の肩口に乗った。数秒前の笑顔は失せていた。虚ろな目と力無く開いた小さな唇。さらさらした髪で爽やかさのある顔立ちに陰が落ちる。
「イイナ…カゾク…」
肩口に押し当てられている足に力が入り、彼女は床に寝かされる。天井の木目と照明器具だけの視界に不気味な若い組長が割り込んできた。
「ウバッタクセニ…アノコ、コロス…」
気味の悪い男の足を払って起き上がる。しかし前髪を鷲掴まれて、立つことを阻まれる。
「アノコ、コロス…コロス…コロス…ウレシイ」
髪を掴む腕を外そうとしたが石黄の力は強く、彼女の頬を再び拳が張った。
「顔はやめて。退職になる」
振りかぶられた拳が降り、代わりに回し蹴りが脇腹を打つ。前髪から毛が抜け、上体が床に叩き付けられる。怯んでいる間に腹を正面から蹴られ、嘔吐感に堪えねばならなかった。
「ウバッタクセニ…アノコ、コロス…ウバッタクセニ…」
踏み付けられ、体重を乗せられる。臓器を潰される苦しみが少しずつ増す。
「貴方、雄黄なの…?」
表情の消えた顔に弱く皺が寄ったのが逆光の中で分かった。腹に踏み込む足が退けられ、彼は屈んで女の太腿を撫ではじめる。形を確かめるようにゆっくりと摩り、腰部を辿ると上へ向かう。脇腹から胸部へ。前から胸の膨らみを支えるような手付きで止まった。濃い睫毛が伏せられる。
「アノコ…コロス…コロス…シアワセ…」
興奮の混じる掠れた声に極彩は胸にある手を叩き落とした。乱雑な手付きで毛束を掴まれ、唇に渇いた粘膜が当たった。弾力が押し付けられる。華奢な肉体に抵抗するが、そうするたびに軽やかな笑みばかり作っている唇がさらに勢いを強める。腕に力を込め、歯を食い縛った。柔らかな唇が動くのを同じ部位で感じた。ぬるりとした感触が下唇に伸びた。
「い、や…!」
がちん、と歯が鳴った。さらさらした男の前髪が頬を擽った。鉄錆びの風味が鼻を突き抜ける。しかし痛みはなかった。男の耳を引っ張る。甘味のある液体を注がれる口元が離れた。緊張とも安堵ともいえない溜息が漏れる。不気味な男は呼吸を乱し、徐に頭を上げた。唇から血が滴っている。
「若様にはナイショですよ。お互いのヒミツです。2人だけの」
けろりとした面で石黄は澄みきった大きな目で女を捉える。濡れた口を拭った。他人の血の味に吐きそうになった。
「でもあの弟御、“勝手に”特別管理区に入ってきてどういうつもりだろう?間者だったりしませんよね?いくら弟御とはいえ注意したほうがいいですよ」
「何が言いたいのか、もっと簡単に言ってくれる」
「そうですね…頻繁に出入りされたら、うっかり斬り殺してしまうかもしれないと言っているんですよ。間者と間違えてね。集中してください、今は。今の仕事に」
内容の物騒さとは裏腹に彼は穏和に笑って言った。
「出来ることなら一緒に暮らしたいそうですよ。叶うといいですね、彼が…留置所生活を送る前に」
「安心してください。誰に知られようと、止められようと辞めませんから」
「ありがたいことです。私が判断間違いを起こして手を滑らせないことを祈るばかりですね」
石黄は手を差し伸べた。しかしそれに応じず自力で立ち上がる。
「副組長が不在なら、3席でも4席でも構いませんので」
服装を正して組長を視界から外す。
「姫様の帰ってくる場所はここです。それだけはお忘れなく」
「そうですね。今のところは」
「ずっとですよ、死ぬまで。死んでもなお、若様の鳥籠に居るしかないんです」
石黄の無垢な笑い声が玄関扉の開閉に掻き消える。気を遣いながら居間を覗き、極彩の元へやって来る。
「買ってきたっすよ」
「ありがとう。ごめんなさい、我儘を言って。今、話が終わったところだから」
銀灰は義姉を近くで見た途端、訝しげに利発な眉を動かした。
「長居してしまってすみません。そろそろお暇します」
石黄はにこりと笑んで居間を出て行く。見送りに行こうとした少年を止めてしまう。廊下に吸い込まれていく紺色の袴の端を凝らしながら。闇夜に溶け込む色合いだった。
「白梅ちゃん…どうしたんすか。口、怪我してるんすか?」
「一緒に暮らす?」
話題を変えると不安と疑心を隠せない素直な少年は花が咲いたように笑った。
「いいんすか!」
「…じゃあちょっと来てくれる?」
「うん」
銀灰の腕を引き、家の奥へと連れていく。片付けられた小さな部屋にはさらに格子によって個室が設けられていた。引いていた腕が重くなる。少年の無邪気ながらもぎこちない眼差しに気付かない振りをする。
「やっぱり怒ってるんすか」
「とても」
彼は抵抗しなかった。座敷牢の中へ案内する。格子扉をゆっくり閉めた。愛らしい目が怯えた目で揺らいでいる。反省するっす、と彼はこぼした。不言通りで叱られて突き放される子供と同じ趣が秘められていた。
「桃花褐さんに対して」
「何かあったんすか?喧嘩っすか?なんで…?」
「あなたにこんな真似をさせて…」
夕餉を取ってくると告げて台所に向かう。石黄の加虐心に満ちて悦楽に染まった面が逆光と暴力の中で確かに見えた。銀灰を甚振る様を見せて反応を知りたくて堪らない。そういう意図が透けていた。そうとしか考えられなかった。形の崩れた焦げた玉子焼き。中途半端に皮を剥いた人参の浮く味噌汁。伸びきった強力粉紐麺と野菜の卵黄酢和え。占地茸と玉葱を添えた鱈の包み焼きだけは綺麗に出来ていた。食わすか食わせぬか迷ったが、他にあるのは即席麺だけで腹を空かした銀灰のことを考えると温め直していた。だが極彩は薄気味悪い男も手伝ったという料理を食べる気が起きず、一度は捨てようとも思ったが、食べられそうな物を捨てるという気が起きず、味噌汁の沸騰した音が選択を急かすようだった。盆に乗せて座敷牢に戻ると彼は隅で蹲っていた。
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