彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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痛みが唇の狭間から漏れ出る。腕に現れた一筋から血が溢れる。深く入ったため、赤い雫が次々と少年の皮膚を汚した。花の芳烈が鼻腔を通り抜ける。今日口に入れる物はすべて微かな苦味を帯びた甘い草の風味を伴うだろう。彼女の傷は徐々に塞がり、少年の傷も沁み込むように消えていく。入った時から寄っていた苦しげな眉間の皺も消えていく。極彩は口元を覆う器具や管を外して投げ捨てた。少年は陸に打ち上げられた魚のように荒々しい呼吸に身をのたうたせたが、段々と落ち着いた。女の引き攣って漏れた声が機械の音に掻き消され、白い首に刃物を置いた手が添えられる。女の目が眇められる。寝台に乗り上げ、もう片方の手も重なる。綿紗を当てられた手が女の両腕を掴む。少し伸びた爪に引っ掻かれる。少年の首が仰け反り、女は男体が持つ隆起を押し沈める。器具のない口角から唾液が滴り、入院患者の顔面は真っ赤に染まった。扉越しに人の気配を感じ意識が逸れる。
「よせ!2人きりにして悪かった」
 病室の扉が開いた瞬間、買物袋が落ちた。大きな手に肩を押さえられ寝台から勢いよく振り落とされる。血に染まった寸延短刀も転がり、桃花褐の喉が喘息のように鳴った。乱暴に閉められた扉はわずかな隙間を空け、買物袋の中身が潰されている。床に叩き付けられた極彩は寝台の脇で三公子を看ている桃花褐を見上げた。
「あの落ちこぼれと和解しろ、分かり合え、仲直りしろ?馬鹿言わないでよ、放っておいて。二公子はね!あの人の死体を腑分けして切り刻んで天日干しにして磨り潰して粉末にして…病人怪我人に飲ませるんだって!あの人は肉牛?あの人は鯵の開き?たとえあたしやあんた、そいつや人間どもがそういう末路がふさわしくたってね、あの人はそんな風になっていい存在じゃないんだよ。なのに!あの落ちこぼれは!あの人をそんな風にすることも厭わないんだ!あたしは!あの人が安らかにあの人のままもくもく空を汚す黒煙になるならそでいいんだよ。他の人たちなんて知らない。肺でも腎臓でも肝臓でも病んで死んじまえばいいんだ…あの人の犠牲を望むなら…あの人の死体が切り刻まれて、天日干しになって磨り潰されて粉薬になる必要があるなら…使った人間全員殺したっていいんだから。1人1人殺してやる。あの人の犠牲の上に生きるなんてそんな生き物、許せるわけない。でもあの落ちこぼれはね…、それを良しとしたんだよ」
 二公子の罵倒が一語一語蘇った。事あるごとに“あの人”を持ち出して、反応を楽しんでいた。脅されながら、流された。笑いながら、“あの人”が何も言えず棺で眠っていることをいいことに時折刃物を持ち出して。指を切断するから食べてみろと迫られた。身体に障害を負った幼児のような囚人を実験台にすると提案された。片目が腫瘍で潰された少年がまだ生きていたら助かっていたかもしれないと嘆かれた。腹が治るかも知れないと撫でられて、それは困るねと嘲られた。
「あの人はね、あの人だけは、そんな死に方させたくなかった。ねぇ、後悔するどころか、あたしはね、誇ってる。何も誇れるものなんてなかったし、なけなしの矜持もあの暗愚極まりない為政者に襤褸布同然にされたし、葬儀も出られなかったし、あの人があの人のまま焼かれたところは見せてもらえなかったけど、あの人が空に広がっていってさ、あの人のまま終わったなら、こんな誇れることはないね。ずっと暗い所にいて、日にも当たらないで、苦しかっただろうな。傷なんて塞がらないから膿んじゃって拭いても拭いても糸くずがついちゃって汚れるだけでさ…結局獄中でひとりっきり、寒い中さ…あの人がそんななのにどうして他人なんか救わなきゃなんないの?でもあの落ちこぼれは許さないって言った。あたしの誇りなんてまぁ関係ないからいいけど…じゃああの人が肉塊になっても細切れ肉にも厚切り肉にも挽肉になってもいいってわけ?あの一言は最高だったね。あんな裏切りはなかったよ。あんな裏切りはない!それがあの人のがわぶって…」
 “あの人”の亡骸を包んだ炎の如く熱いものに包まれる。嗅ぎ慣れた匂いを突き飛ばす。彼は耐えることもできはずだったが癇癪を起したらしい女に従った。
「やめてよ。他人の体温って気持ち悪い」
「つらかったな」
「つらくないよ、あたしはね。あの人の恐怖と悔しさと死後に馳せた恥辱ほどじゃない」
 目の前の巨躯にもう一度捕まる。今度は簡単に放しはしなかった。暴れる女を両腕の中に収め、背や頭を撫でられる。男の腕力は強く、抗う意思を奪った。学んだ無気力は怒りも悲しみも呼び起こさない。ただ動かずに流れる。しかし分厚い手は脚にも腹にも腰や胸にすら伸びない。
「男って無理矢理女を手籠めにするの好きだよね。力尽くで。弱者をいたぶるのって快感だよ。優越感って何より気持ちいいな」
 爪を剥く。隙を見せる浅黒い男の頬に3本線が入った。だが彼は避けることもしなかった。ただ切なそうに女を見下ろす。
「あんさんの義弟おとうとを慮ってほしい。読む物読んで、あんさんはそのままあんさんの誇りを守れや」
 簪を渡される。へし折られた部分が膜状接着剤で巻かれて繋がっていた。華奢な金属部分がしゃらしゃらと美しい音を奏でる。
「絹鼠町には行けない。やることあるから」
 簪を強く指で結んで、桃花褐から身を離す。彼の暑い手は名残惜しそうだった。
「嬢ちゃん…槿むくげちゃんのことはもう少し冷静に考えてやってほしい。あんさんとは違う道を選んじまっても、考えてたことは同じで“あの人”を想ってたことは本当なはずでさ。そうするだけの立場にいられなかっただけで。好きな人の意を汲むってのが大変なのは、あんさんなら分かるんじゃないか」
 返事はしなかった。扉に挟まれた買物袋を室内側に寄せて若苗診療所を出ていく。すでに塞がっているはずの腕の一筋が沁みた。はっきりとした痛覚はない。鼻の奥の芳香がむず痒くなる。ごめんなさい。ごめんなさい、叔父上。家族の名で呼べた者が溶けていった空は春を迎えているような気がした。
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