彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 近付いただけ彼は横へ退いた。革張りの長い寝椅子ソファが軋んだ。注文が届けられ、無愛想に「食え」と一言促される。目箒めぼうきの添えられた白乾酪と黒々とした魚卵の乗せられた薄乾麺麭くらっかーを手に取る。彼は酒を一口飲んでいた。何を話すでもなく極彩へ興味を示し、観賞しはじめた。
「新人か」
「はい。今日付けで」
 今日付けで入り、今日付けで辞める。しかし説明を省いた。
「その傷でよくもこの業界に認められたな」
 紅い身をした葡萄柑橘を優雅な仕草で口に放りながら男は言った。刺々しい言い方にどう返していいのか分からず狼狽える。黙ってしまった従業員に男はまた鼻で嗤った。
「お前らしくしていればいい…―が通用する業界ばしょでもない」
 男はまたどこかへ視線をやってしまった。その先を辿ると、どうやら彼は鏡の貼ってある柱を凝視しているらしかった。
「今日は顔を見に来ただけだ。同じく顔面に傷を持つ者として。上手くやっていきたい」
 客は仮面に手を掛ける。好奇心が仮面の下を期待していた。だが男はまだ仮面を外さない。
「顔が命とはよく言う。この商売なら話術で頂点うえを目指せるというが、飽くまで目を背けたくなるほどの醜さではないことが前提だ。お前はそうじゃない。私もだ」
 酒に弱いのか、彼は上機嫌によく喋りはじめる。まだ仮面は外されない。
「見たいか」
 返事に困るが、首は勝手に縦に動いた。男はまた侮蔑的に鼻で嗤った。仮面が外れる。墨を流したような黒い髪が嫌味なほど扇情的に揺蕩たゆたった。素顔が露わになった。他の卓にいた女性従業員の悲鳴が聞こえた。極彩は口を半開きにして彼の顔面から目を離せなくなっていた。激しく組織を損傷した顔があった。鼻も口も渦に巻き込まれるように引き攣り、元に戻らなかった肌は薄膜に照っている。眉もなく、目元も腫瘍のようになって歪んでいた。極彩は唾を呑む。世辞にも美しいとは言い難い醜悪な外観だったが、その半分の舐めたくなるようなほどの美しい顔立ちの強烈な差に加虐的な熱と凄絶な感動が灯り、齧り付きたくなるような衝動に襲われた。だがそれはどこか他人のもののようにも感じられた。
「美しいと褒めてみろ。嘘八千を並べてみろ」
 損傷した側の口角がいやらしく上がる。清廉な美しさの真横にある退廃的な美しさは嘘ではなかった。捉えどころのない要求よりも周囲の緊張感に潰されそうだった。
「とてもお美しいです。その黒髪も果物ひとつ口に運ぶ仕草も、そのお声も。ただ隠しておられたお顔に比べたら些細な感動でございました」
「酔っ払いが」
 男は鼻を鳴らすと仮面を直した。気難しい客らしかった。
「次のお酒は何になさいます」
 品書きを開いて酒を促す。男はまだ残っている酒を飲む。
「叔父が泣くな。まぁ、いい。好きな物を頼め」
 鏡の中で男と目が合う。縹の知り合いか。どこかで会っていたのかもしれない。距離感の掴めない態度はそのせいか。視線で問う。伝わらなかったのか男は目を逸らした。
「ではこちらとこちらとこちらでいかが」
「好きにしろ」
 高額な酒をまた注文する。鏡の中の男はわずかに頬を緩めていた。
「注文したからには飲めるんだろうな」
 鏡越しに会話する。この客はあまり酒を飲まないらしく、他の客ならば3杯目に入っていてもおかしくなかったがまだ1杯目も飲み切っていない。だがすこし赤みの差した白い顔は酔いを訴えている。
「付き合って下さいます?」
 延長を遠回しに要求する。客は軽侮の眼差しをくれて指を鳴らす。店を中心的に回している榛自らが飛んでくる。不穏な客は延長の胸を告げた。目的を忘れかけていたが菖蒲から外出を許されたからには、榛から聞き出さねばならないことがある。少しでも有利に事が動くと信じて彼女は高い酒を開けさせた。
「醜悪な男と共にいる屈辱よりも売り上げを取るのか」
 店に出る前に散々榛に引っ張られ捏ね繰り回されて解れた頬を上げる。
「ご謙遜を。お客様は素敵な御方ですわ。失礼ですが、何とお呼びしたら?」
笑みを崩さず、分かりづらい酔っ払いが飲み干した杯にまた酒を注ぐ。
「謙遜、か。この面を目にして何を以て素敵だなどと。つまらん女だな。商売女に名乗る名はない。好きに呼べ」
「では仮面様と…それとも、そこまで思い入れがおありなら、ヤケド様とでもお呼びしたほうが失礼がございませんか?」
 氷が額を打ち、小気味良く床を転がった。冷たい酒が髪から垂れ、胸元を流れていく。薄膜で塞がった傷が小さく疼いた。場が静まり返る。
従業員きゃすとに何かご無礼がっ?」
 榛が駆け寄ってくるまで何が起きたのか分からなかった。
「手が滑った。この場は全額私が持つ。シラけさせて済まなかったな」
 片膝を着いて謝る榛の頭を鷲掴むように手を置き、客は前屈みになって彼の耳元に口を寄せる。何か話していたが聞き取れなかった。
「その嬢にも上乗せしてやれ」
「は、はぁ」
 まるで兄弟のような親しさで肩を叩いて退店していく。榛は困惑気味に返事をして別の従業員を見送りに遣わせる。極彩には揺らめいた黒い髪に見惚れている間もなかった。綺麗に畳まれた手巾を頬に当てられる。そして我に返る。
「ごめんなさい。日当も要らないから、この辺りで、…」
「いや、ダメ。それ違法になるから。ちゃんと払うし、こんなんよくあるコトだから気にしないで」
 洒落た手巾を受け取り、衣装の濡れた部分に当てる。彼はある程度自分で片付けると他の従業員に任せ、室内の状況を最もよく見渡せる壁際に戻った。控室に連れられ、葡萄酒に近い赤いドレスに着替えさせられ、店に戻るまでに心にも無さげな励ましの言葉をもらった。殴られたり、怒鳴られたり、酒をかけられたり、脅されたりなどは愛庭館めいていかんに限らず色街では日常同然によくあることらしかった。理解を越えた色街の事情に生半可に足を運んだ日が重く圧し掛かる。新たな衣装と共に気持ちを入れ替え仕事をこなし、終業時間の頃にはべろべろに酔い、歩行もままならず寝椅子ソファで意識を手放し掛けていた。うつらうつらとしながらも意識を取り戻すたび控室から人が減り、とうとう他の従業員たちはいなくなる。人の気配や物音の消えた控室で暫く集中的に眠っていると店内の片付けを済ませて榛がやって来た。隣に腰を下ろしたため、座面が沈んだ。
「たった1日でやってくれたネ」
 おそらく仮面の客のことだろう。返す言葉もなかった。だが酔った頭では大した罪悪感も主張もなくひとつの事実としてしか認識できなかった。
「売り上げはとってもいいヨ。あのお客さんにいっぱい注文してもらったし。明日も明後日も頼みたいくらいだヨ…って言ってもさすがにお客さん煽るのは爆弾だネ」
 帳簿に数字を書き込みながら卓上計算機をいじり、彼は分厚い札束から紙幣を十数枚抜いた。硬貨の山から崩れた金貨と銅貨が数枚弾かれる。
「とりあえずこれが固定給と、それから今手当分を出すから待って」
 染められた髪を掻きがら諸手当を算出している横顔を見つめる。別人と見紛う。色付きの接触式眼鏡こんたくとれんずでもなければ誤魔化せない明るい瞳が白く照っている。
「よっし、こんなもんかな。ホントありがと。助かった」
 さらに数枚紙幣が抜かれ、わずかに厚みの出た紙束と硬貨を渡される。極彩は代わりに懐剣を差し出した。
「え?」
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