彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

文字の大きさ
上 下
206 / 336

206

しおりを挟む
 入れ違いに新たな気配が近付く。煙草の匂いが淡く薫った。
「初めまして。姫様の護衛と監視の任に就きました、紫煙と申します」
 知った情報だけを並べる優男やさおとこに何の反応もしないでいた。彼は再び自己紹介をする。相手が声を発するまで繰り返し、4回目で短い返事をした。
「単刀直入に申し上げます。くだんの曲者と姫様の関係性をお訊ねしたいのです。話していただけますか」
 数拍以内に反応を示さなければ、彼はまったく同じことをまったく同じ態度で繰り返した。
「話すことなどありません」
「承知しました」
 木製の格子扉が開かれる。振り向く間も与えず、髪を掴まれた。殴打が3発入り、目線を合される。同じ問いを投げかけられる。痛みに変わる前の熱が冷めていく。彼は女が声を発するまで待った。そして同じ問い。
「知りません」
 仰向けに倒され、金属が軋む音が聞こえた。寒気がした直後に側頭部を衝撃が襲う。抜刀の勢いで柄頭つかがしらで打たれていた。状況が判断できなくなった。視界に映るものをひとつひとつ確認することも厄介で、無表情から目を離さないことで精一杯だった。
「質問を変えます。曲者とはどういった経緯で知り合いましたか」
 目が合う。彼は待った。逸らす。乾いた音が響く。力任せに張られた横面が砕けたみたいだった。動けないでいると、拘束を解かれる。重い四肢は制御が利かなかった。片腕を取られ、指を握られる。
「一本ずつ折ります。答えてください」
 脅迫ではなかった。宣告だった。利き手の人差し指が関節の可動域とは逆に曲げられる。骨が折れる恐怖に迷いが失せる。口が滑る。核心に迫ったところで理性が働いた。
「あの人は…」
 紫煙は待たなかった。呆気ない音が内部に響く。耳を劈くような悲鳴が上がる。尋問官を蹴る。彼は折れた指に関心を抱かず、その隣に指を握った。手の甲へ曲げられていく。
「お答えください。次は中指です」
 痛みに暴れ、紫煙の腕を噛む。関節が砕けるか、彼の肉を食い千切るかだった。汗が吹き出る。力の入らない手が冷たい指からの逃れようと必死になった。
「あの者とはどういうご関係ですか」
「…ッ!」
 逃げたいという衝動が紫煙を蹴り続け、反して口は紫煙の肉を齧る。同じ問いをされ、訳も分からず首を振った。中指が折れる。唾液で濡れた紫煙の衣類が口角を掠める。泣き叫ぶ。彼は痛みに喘ぐ女の肘に手を添えた。
「何もご回答いただけないのであれば、次は腕ごと折ります」
「やめろよ!」
 すぐ傍に影が落ちる。しかし構っていられる余裕はなかった。紫煙は女の腕を捨てた。刀の柄に手を置き、巨大なネズミと相対あいたいする。物騒な剣士を前に侵入者は狼狽えた。明るい茶髪が照っている。
「待っ…」
 待つはずがないことは知っている。畳に落ちた極彩は紫煙の衣類を引っ張った。指に力が入らず布は掌を抜けていく。
「曲者は必ず仕留めるようめいが出ております。事情聴取は後程行いますのでそのつもりでいてください」
 片手で縋り付き、足首に噛み付く。顎を踵で蹴り上げられる。内部で歯を打ち、脳天に釘を刺されたような振盪。一瞬にも満たない空白。顔面の傷が大きく脈打つ。畳へ転んだが、そのまま解かれた縄を拾い上げ、飛び起きる。拷問官の首に引っ掛け、自身の手首ごと若い剣士を締め上げる。懐剣に裂かれた他傷行為による躊躇い傷へ熱が集まっていく。
「あ、あんた…」
「この人本当に殺すよ」
 極彩は口の端を吊り上げる。噛んだ舌から血が出ていた。紫煙は喋った隙を突き、彼女を退ける。腹部に回し蹴りが入り、噎せてしまう。紫煙は己の首に触れたが、軽く撫でただけだった。そして女へ抜刀し、刃を返す。
「待てって…」
 市井の若者にありがちな雰囲気の青年は呑気なことを言った。極彩は呆れた笑みを浮かべ、懐に手を挿し込む。剣士が動く。女の手の中で房飾りが揺れた。殺意の無い威圧だけの一刀が壁を傷付ける。頼りない短剣が喉を貫いた。昨晩巻いた包帯が血に染まる。煙草臭い拷問官の奥に立つ自己を喪失した青年は放心し、膝を着いた。目の前の若者の掠れた呼吸。刃物を伝う液体が柄を潤滑させたが、大きく手首を捻る。貫いた喉が湿った音をたて隆起した。殺意のなかった刀が落ちる。懐剣を肉から引き抜いた。何人目かも分からない傀儡が傾く。
「服、汚れちゃった」
 懐剣を袖で拭った。織物が巻かれている絵は繊維に沁み込み、拭いた程度では模様がはっきりしなかった。房飾りが無邪気に揺れる。
「結局あなたも口先だけだね。一緒に行こう、ぼくを選んで。幸せになるのは許せない、気に入らない。権力もないクセに、わたしに惨めな思いはさせない?何を言っているの。圧倒的な権力と、飽いてこの世に絶望するほどの美食もなしにどうして貧民あなたを選ぶの」
 両膝を着き愕然としている若者へ血塗れの懐剣を投げた。畳を汚して転がる。
「あなたが来なければ手足の1本2本消えていたかもしれないけれど、この人は死ななくて済んだかもね。あなたが殺したも同然じゃない?分かったらとっとと帰りなさい」
 ばたばたと足音が聞こえる。半端者を睨む。彼は壁を蹴り上げ、慣れた様子で天井へ消えた。
「問題行動を起こしてるじゃありませんか!え?」
 足音の正体は胡散臭い中年男だった。菖蒲は座敷牢の惨状に顔を顰めた。しかし騒いだり取り乱したりはせず、どこか想定内といったふうな態度で大きく溜息を吐いた。
「派手にやりましたね。大事おおごとですよこれは」
 菖蒲はざりざりと髪を掻いて、返り血を浴びた女を凝視し、処遇に惑っていた。
「喉が渇いた」
「ええ、そうですね。生きる上で大事なことですよ、水分補給は。ああこうしましょう。例の侵入者の奇襲に遭った。死人に“梔子”ですよ」
 名案ですね、と自身で返答をして菖蒲は座敷牢の格子扉を開けた。
「腫れてますね、指。すぐに処置します」
 大雑把に見えた中年男は暗赤色をこびりつかせた手を判じ、媚びるような笑みを浮かべ、極彩の前を横切った。そして横たわる若者を見下ろす。無精髭の男から表情が消える。真っ直ぐ俯せの発展途上の若い体躯をなぞるように眺めていた。ゆっくりと乾燥で荒れた両手が合わさった。河教の者でも紫雷教の者でもないらしかった。菖蒲は触れる前に一度だけ後込みしたが、紫煙を後ろから抱えるようにして壁へ凭れさせた。落ちていた懐剣を極彩へ手渡す。錆びついたように赤黒く汚れた刃先を握ることも厭っていなかった。
「わたしのではありません」
「それなら…ボクが預かっておきます。この柄の模様が綺麗ですし、はい。落ちなかったら張り替えてもらいますよ、ええ…房飾りも可愛らしい。綺麗に落ちるといいんですがね」
 媚び諂う笑みが固い。極彩は適当に返事をして、どうでもいいことのように目を逸らした。
「いやぁ、ボクの可愛い息子くんもこれくらいの…もう少し年はいってるかな、それくらいのものですからついついね。とはいえご無事でよかった、極彩さん。果たして利き手の指2本骨折は無事といえるか怪しいところではありますが」
「致命傷でなければ認められていると聞きました」
「最悪逃げられるようなことがあれば、という話ですよ…若様はご自分の唾を付けた相手に他人が傷を付けるのを嫌がる…そういう御方です。いずれにせよ貴方の尋問を任せられた段階で、彼は死にゆく次第さだめだったというわけです」
 彼は血塗れの女におもねた笑みを浮かべた。
しおりを挟む

処理中です...