彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 両腕の中にいたはずの温もりが消えていることに気付き、目が覚めた。外が騒がしかった。小さな人影は傍にあったが壁に寄りかかり、窓を見ていた。狭い輪郭が赤く照っている。
「紅?」
 呼んでも、予想に反して彼は窓奥を見据えたまま微動だにしない。
「どうしたの?」
 問うても反応はない。そのうち静寂を怒号が破った。忙しない足音が廊下に響く。しかし窓際の少年染みた男は外ばかりに意識を凝らしている。この者を刺した日に耳を劈いた爆音と同類のものが地を揺らす。
 いたぞ!縹だ!
 紅がゆっくりと極彩へ首を曲げた。斜陽の広がる双眸は日頃と変わらない。表情のなさも普段通りだった。
「ごめん。ちょっとだけ用があるから」
 膨らむ不安を払拭するだけのつもりだった。布団を大きく捲る。寒気が、布に残った体温を奪っていく。小さな手が女を掴む。いつもと大差ないが、その姿を見られない。
「放して、紅」
 寡黙な少年は、唸る。再会を果たしたばかりの時によく聞いた。ただ違うのは彼が癇癪ではなく、威嚇の意を持っていることだった。
「ただちょっとだけ、見てくるだけ…」
 遠くで轟音が破裂している。叔父の頭を下げる光景と、胸の重苦しさが蘇る。
「紅…あなたを抱き上げてでも行く」
 手を振り解くことはできなかった。彼は虚ろに床を見下ろし、女の手を握る手から力が抜けた。夜更けにしては明るい外にその小柄な姿を炙り出されている。
「すぐに帰ってくるから」
 何度も抱擁した肉体だったが、欠けた腕の大きさが新しく彼女を責め立てた。しかし振り切った。花香に満ちた部屋へ急いだ。夜間勤務の下回りたちが動揺を極彩へ向ける。混乱さえしていた。武装した集団の波を見つけ、彼等も極彩に取り乱す。捕縛すべきか、事情説明をすべきか迷っているふうだった。統率者の深刻な態度に段々と平静を失っていく。ただ避難することと、その場所を告げられた。何かがあったのだ。騒然としている。目的地までの道程が長く長く、苦痛が現れはじめた。
 御謀反、御謀反!縹様、御謀反!
 まだ年若い官吏が叫び、情報伝達役を全うしている。視界が明滅する。顔面の皮膚がぷつりと裂けた。誰が何をしたのか、聞き間違いに決まっていた。意識不明の、呼吸もやっとな病人に成せることがあるだろうか。眩暈がした。どこに行くべきか、どうしていいのか、眼前にある選択肢に息が詰まる。床に眉間の傷から血が滴る。後ろから乱暴に肩を掴まれ、過ぎたばかりの暗い曲がり角へ引き込まれた。全身に汗が浮かぶ。背中を固く打ち付けられ、光の届かない通路の中に微笑みが見えた。
「叔父様のことで危なくなっています」
 涼やかな声だった。艶やかな黒髪の愛らしい美女に壁に押さえ込まれていた。夜間にもかかわらず濃い化粧をしていた。その匂いの中に沈水香木がある。驚きに言葉が出なかった。
「事が収まるまで、避難しましょう。どうぞ、こちらへ」
 丁寧な仕草で白い手袋を嵌めた手を差し伸べた。沈香の脅迫が拒絶を勧告している。
「今、城は極彩様にとって危ない場所。きっとこの世のどこよりも」
 女は差し伸べた手を返し、応えようとしない極彩の手を繊細な動作で掬い上げた。薫る香木の風が判断を鈍らせ、腹と頭を内部から乱打し、圧倒的な追従を強いていた。
「気分が悪いのですか。急なことですもの…」
 女は極彩の寝間着の首元を緩め、背を摩った。その間も繋がれた手は離れず、むしろ力強さを増していく。彼女の放つ香りに脂汗が止まらない。胃の辺りが捩じ切られるようだった。胸には異物を詰め込まれているのかと錯覚するほどだった。白布に覆われた手の下から自身の手を抜こうとすることも赦されない。二公子に寵愛を受けている下回りの若い女といった具合であるのに、その移り香に嫌悪感と嘔吐感を催してしまう。
「もう少しですから」
 淑やかな女だった。しかし嗅覚はこの女の知りもしないすべてを否定する。行ってはいけない。香木の薫風ただひとつが彼女の行動ひとつひとつを信用から遠ざける。拒否感が満ち溢れ、足を止めてしまった。合わせるようにゆっくり止まり。微笑みながら振り返る女の物腰は一時期共に過ごした芸妓を思わせた。
「こういう時ですが、こういう時だからこそ…頑張りましょう?」
 可愛らしく首を傾げ、鈴の鳴るような声で彼女は気の動転しているらしき謀反人の姪を鼓舞する。化粧によって強調された垂れ目が眇められる。その仕草が、彼女を愛しただろう男のものとよく似ていた。からからに乾いていたはずの口内だったが今度は生唾が溢れた。
「縹様は素敵な人ですもの…きっと何かの間違いに決まっています。分かっています」
 麗らかな瞳が笑みを湛える。蛇蝎の如く、それ以上に憎悪している類の目だった。
「それを、確かめに行くんです…!」
 腕を女から取り戻そうとする。しかし叶わなかった。頬に体温のある手袋が添えられ®、額と額がぶつかる。香木が嗅覚を刺す。膝が震えた。四肢が弛緩する。鼻が曲がりそうだった。嫋やかな女が恐ろしくて仕方ない。
「まだ終わりそうにないですね」
 女は周囲を警戒した。武装兵が廊下を練り歩いていた。隠れながら進んでいく。二公子のよく使う広間へ続く通路を抜け、2階渡り廊下へ出る。初めて訪れた場所だった。外の喧騒と火事のような明かりが夜を返上しようとしている。様々な罵詈雑言が飛び交っていた。城下で聞いた急進的改革派団体が口にしていた文句も中には混じっていた。風月国、風月王、二公子、制度に対する中傷や中には真っ当な批判と思しきものもあった。女は一切の関心や興味も示さなかった。空いた窓から矢が射られる。芳しい悪臭が焦げ臭さや爆薬臭さ、肥やしの匂いの中に溶けていく。石が投げ込まれ、怒号が飛ぶ。意匠の凝らした木製の窓枠が砕けた。喧しい輩には纏まりがなかった。
「お怪我はありませんか」
 渡り廊下を渡り終え、すぐに彼女は極彩の身体中に触れた。俯きながら頷いた。目の前は真っ暗で足元も見えないような道が続く。視界が漆黒で塗り潰されている。
「足元、気を付けてくださいね。それとも腕を組みましょうか」
 不快な異香いこうで女の居場所は把握できた。手袋は枷同然に手首を締め上げる。どこに連れて行かれるのか、疑心が闇から現れる。それと同時に両胸の間を一点押された。心臓のある箇所だった。沈水香木が鼻伝いに腹を殴り続ける。
「以前…城には美しい舞姫がいたんです…とても美しかった。誇り高く、優しく、時には厳しく…顔に大きな傷がありましてね。それもまたあの方の包み込むような優しさを引き立てていましてね」
 顔面の傷が痛んだ。白い手袋が血を吸っているらしかった。
「その方は若い官吏と恋仲だったんです。けれど彼は一向に求婚なさらない…そのうちある権力者へ、嫁ぐことに決まったんです」
 前髪を布が撫でる。頭部の形を確かめられていた。鳥肌が治まらず、呼吸が荒くなる。
「亡霊みたいに、その若い官吏が今になって怒り狂っているんでしょうね」
 渡り廊下から強烈な花の芳香がした。わずかな光が謀反人であり叔父の凄まじい容貌を照らし出す。あと数歩というところで、一閃が矢の針刺しと化した病人は接近を阻まれる。
「行ってください」
 声が闇に滲みていく。返り血を浴びた裂傷だらけの病人でも、極彩の前にいる女のものでもない。
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