彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「ちょっと!通しなさいよ!」
 離れ家に戻る途中の中央通路で騒がしい声が聞こえた。
「ここに入っていったの見たのよ!」
 女は叫んだ。群青とともに血の雨を浴び、介抱されていた娘だ。
「幼馴染なんだから見間違えるハズないでしょ!何年一緒にいたと思ってるのよ!」
 官吏や下回りたちが壁を作って宥めている。まだ洗濯代として預かった紙幣を返していなかった。群衆を眺めていると娘は極彩に気付いた。
「あんた、この前の!お願い。天藍様に会わせて。群青殿か藤黄殿に取り次いでくれるだけでもいいの…!」
 娘は元気そうだった。大勢の人々を押し破ろうとしている。
「この前はお世話になりました。使わなかったから、お返しします」
「そんなことよりあたしは天藍様に会いたいの…お願い…」
 下回りや官吏の視線が不安に蠢いている。
「まずは落ち着いてください。でないと、わたしもどうしていいか分かりませんので」
「信じていいの…?取り次いでくれるワケ…?」
 娘は抵抗を緩める。信用していいのか否かを品定めされている。彼女の楂古聿チョコレートに近い色の大きな瞳になぞられている。しかし娘は自信のなさそうに目を伏せ、ゆるゆると首を振る。極彩は紙幣だけを取り出し、彼女へと返した。渡された時と同じく、彼女の腕を取り、握り込ませる。信用ならないという判断をされたことに何の嫌気も示さず、背を向け離れ家に戻るが、外通路へ出る前に天藍の世話係の1人が待ち構えていた。紫煙という物騒な剣士でなかったことだけが唯一喜ばしいことだった。案内されたのは日当たりのいい広間で、見限ったばかりの明るい茶髪が、麗らかに外を眺めている二公子の前で揖礼していた。威圧的な静けさの籠った室内におののきながら敷居を跨ぐ。無味乾燥といった心情を秀麗な貌に書いた天藍は極彩を認めると態度を一変させた。
「おかえり。とうとう駆け落ちしてしまったかと思ったよ。君が帰ってくるか否か、賭けてたんだ」
 日差しを浴びた特徴的な虹彩が妖しく煌めいた。顔面に白刃を突き付けられているに等しい心地がした。
「君の夫君から来てくれるなんてね。先に君の肌に触れてしまったこと、しっかり謝っておいたから。君のお腹をダメにしちゃったことも、他の男に抱かせようとしたことも」
 楽しげに二公子は目元を眇め、口角を上げる。陰湿な悦びに溢れ、そこには一切の後ろめたさもなく清々しいほどだった。明るい茶髪が小刻みに震えている。壁一面に並ぶ高級官吏や世話係、側近たちが不穏な面差しで視線を交わす。
「まさかもう説明済みだったなんて…正直者で偉いね」
「お手数をおかけいたしました」
 体内から肉を抉り取られていくようで、それでいて軽くなる。空になり、軸も芯も奪われる。立っていられそうになかった。
「こんなにデキた奥方をもらって羨ましいな。自分のお嫁さんを他の男がこんなふうに言ったら、オレだったら相手の面張り倒すけどね。でも、ま、男性おのこであることに重きを置かれる現代いまの世の中じゃ、耐えるのもまた男の価値つとめだよねぇ。そういう意味でならいい男なんじゃない?それともただただ権力を恐れているか…いいや、結婚したなら権力なんて恐れないで、アイする者を守って耐えるか、殴るかするべきだよね。手前じぶんだけが可愛いんじゃアイじゃないね。だからこれは忍耐を偽った恐れだ?愛じゃない。ただの恋だね。震えているよ。冬だからねぇ、寒いのかな。これはまた素晴らしい甲斐性なしを捕まえたね。君は自分の見る目のなさに気付くべきだよ」
「そういった不甲斐なさに堪らなく惹かれております」
「恐れに耐え、妻の屈辱を背負うのも男の仕事ってワケね。なるほど、勉強になるな。甘ったるさにてられそうだよ」
 周りの世話係たちや側近の目が怪物となり、狙っているようだった。とうとう躯体は均衡を保てなくなる。背後から何者かに支えられた。天藍の表情が険を帯びた。秘しておきたかったことなのだと初めて自覚する。中心に寄ろうとする顔面と熱を、唇を噛んでやり過ごす。
「ところでさ…君、その腕の鈴、紫雷教だよね?」
「…はい」
「一妻多夫か~。羨ましいな。君と結ばれるのならオレも改宗しちゃおうか。河教にそんな思い入れもないし…」
 冷水を浴びせられているも同然だった。冗談だろう。だが冗談と割り切れなかった。周りの者たちがざわめき、天藍は外野に「冗談に決まってるだろ」と笑いかける。
「紫雷教って虫食べるんだっけ。最も自然とカラダにいい食材は虫とかなんとかって。病人の死体まで食べるくせに健康に気を遣ってどうするのさ?そのために健やかな肉体が必要ってワケ?食文化っていうのは恐ろしいな。刷り込みだけでこうも違う。ところで食生活って結婚生活で最も大切だと思わない?」
 くっく…と笑いを堪えながら天藍は話す。挑戦的な面をしている。
「オレも美味そうに虫喰うところ見られたら考えを改められそうなものだけど…紫雷教の慣れたお口で食われてもあんまり共感できない、かな…」
 天藍は手叩きする。極彩は後退った。しかし背後はおそらく二公子の世話係の1人に押さえられている。
「彼も紫雷教?鈴は見当たらないけど」
 顎で明るい茶髪の若者を差す。極彩は息を呑む。
「愛ってのは苦しみまで共に背負うものさ。でなきゃただの肉欲だね。君がそんな性欲先行の男に愛を誓ったなんて、オレは嫌だからさ。愛っていうのは苦しいものだな…誰でも持てるものじゃないよ…」
 天藍は傍らに控えさせている紫煙へ合図する。若い剣士の手には茶筒があった。
「代わりに夫君が食べたらいいね。奥方の嗜好を理解して共有できないなら…ただの寛容だ。そんなの愛じゃないだろ?夫婦は共有しなきゃ…生まれも血肉も違う男女が同一化していく…すべて共有して一緒じゃなきゃ、ただの慣れ合いだ。どうして国が恋愛結婚を許可したと思ってるの?崇高な愛にするためだろう?できないなら、愛じゃないね、そんなのは」
 二公子は世話係たちを顎でしゃくり、じっと揖礼を続ける極彩の夫を押さえ付けた。
「二公子…何を…」
 無礼にも構わず極彩は夫へ駆け寄った。複数の腕に捕縛されている肩に触れる。赤い化粧の差した眠そうな目は妻へ側められることなく二公子を捉えたままだった。
「二公子…!おやめください」
 カサカサ…と軽快な、衣擦れにも紙を捲るように聞こえる曇った音が近付いている。紫煙の手の中にある器からだった。
「二公子…」
 天藍は呆れたように溜息を吐いた。
「お嫁さん…大丈夫だから…下がって…」
 夫は目もくれない。二公子を見上げたまま特に緊張や恐れもなさそうだった。
「貴男、虫食べたことあるの?」
「ない…でも、お嫁さんが困るから…大丈夫だよ…下がって」
「下がれるわけないでしょう。貴男にこれ以上甘えるわけにはいかない」
 夫は妻へ手を伸ばそうとした。しかし拘束が強まり、叶わない。紫煙は茶筒の蓋を開き、箸を入れた。物音が鮮明になる。鳥肌が立った。
「わたしがやります。夫は関係ありません」
 紫煙と夫の間に割って入った。剣士の奥で天藍は昏い表情のまま微笑している。おどきください、と煙草臭い若者は無表情のまま呟いた。この剣士は容赦や加減がないことを知っている。身を翻して、場違いな笑みを見せた夫の頭を拘束する腕の上から抱いた。
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