彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 他者の寝息で目が覚める。店主のこだわりの洗剤で同じ薔薇の香りがした。寝椅子で寝ると言っていたはずの夫に抱き締められ、体勢を変えることは禁じられている。衛星用の口覆ますくを付け、化粧のない素顔はあどけない。浴室に行く前に、恥ずかしいから顔を見ないでほしいと頼まれていた。芸妓との懐かしい出来事が蘇る。異性に入浴後の見張り番を頼むほどだった。そう珍しいことでもないのだろうか。叔父の眠る室内とは違う人工的でわざとらしい花の香りに涙が出そうなほど安心しながら、洗髪によって勢いを失った夫の髪を梳いた。毛先が傷んでいる。彼が赦すのなら二公子に会う前に切ってしまうのもいい。この者と生きていく。拒絶していた、一緒に暮らすという選択肢がふと肯定的に浮かんだ。叔父や従弟いとことはまた違った、自ら選んだ家族として。寝台の脇にある抽斗ひきだしの上に置いた生菓子の紙箱へ首を傾けると、突然苦しくなった。腹へ胸の上を無邪気に這う生温い手に探られ、慰めるみたいに指を絡められた。

『君にいいひとが見つかってよかった』
 優しい叔父はそう微笑んでくれるに違いなかった。
『末永く幸せになってほしいっすよ』
 爛漫な従弟は輝かしく笑いかけてくれるに決まっていた。
『全部ほっぽり投げて、ひとりのうのうと生きようとか思ってるの?』
 顔面から血を流す女がいやらしく笑った。


 目覚めの時間を夫は柘榴に告げていたらしく、店主は朝早くに部屋へ訪れた。遠慮のない物音と威圧的な人の気配で目が覚め、寝呆けながらも傍らで眠っているはうの同年代の男を手繰るが彼はいなかった。琵琶も、寝椅子の上の畳まれた洗濯物もない。
「おはよう」
 強張った顔で相手を捉える。
「結婚詐欺じゃないかしら」
 寝椅子に座っていた巨大な店主は煌びやかな衣装を揺らめかせ立ち上がり、布団を剥いだ。妻の焦りを見てとったらしく、冷やかすように言った。
「結婚しているのは本当です」
「…銀灰ちゃんから簪もらったんだってね」
 昨夜銀灰からされた話を、店主は沈んだ声で切り出した。頷く。
「あの子、意味分かってなかったみたいなのよ。アテクシとしては、お似合いだと思うケド。あの子には落ち着いた年上のちょっとはっきりした娘が似合うと思うのよね」
「そうですね。銀灰くんにはそういった女性がお似合いだと思います」
 夫のことで頭が真っ白になっていた。考えもなく同意を示す。浴室からの音もない。
「あっらアナタ、既婚者じゃないの!やだわ~」
 極彩の肩を叩き、柘榴は室内の掃除をはじめる。
「どう思うの?」
 まだ青白い窓から入る光に照らされた布団の皺と、剥がされた掛布団の下にあった足ばかりを意味もなく凝視していた。柘榴が上体を捻り視界に飛び込む。
「え…?」
「銀灰ちゃんのコトよ」
「…素敵な従弟だと思います」
 残った冷静さだけが柘榴を相手にし、それ以外はただ必死に夫の後を追っていた。すべてが夢だと言われてしまったら、納得してしまいそうだった。
「彼はお婿さんに向かない?」
 大きな目が真正面に迫る。お婿さん。嗅ぎ慣れない女の匂いを漂わせる眠そうな男の眼差しが脳裏に鮮明に留まっている。
「従姉弟ですから…」
関係カンケーないわよ」
 家名のために血縁関係にある婿養子を取るということは四季国でも話に聞いたことがあり、法的にも問題はなかったが身近に例があったかというとなかった。手首の鈴が、他の夫を赦している。
「銀灰くんはまだ、養子の話に戸惑っているみたいなんです。背負わせるだけですから…」
「割り切れない多感な時期ね…あの子は洗朱の生まれでも、風月の生まれでもない。ただお親父とう様に巻き込まれただけだから、アテクシとしては…アナタを利用してでも解放してあげたい…本当はね。市井の若者みたいに…」
「むしろ、縛られるだけだと思いますよ。だから夫も、消えたみたいです。あの人のお支払はわたしからします」
 柘榴はやれやれとばかりに肩を竦め、金額を呟くと鼻唄を歌って次の部屋に向かっていった。長い滞在だったらしく安くはなかった。私物の失せた室内にひとり残され、反故にされた口約束に崩れかける。あぶくの如く消え去った淡い夢に呼吸が途切れた。生菓子の入った紙箱だけが成すべきことを告げている。受付で店主を待ち、溜まった料金を払う。柘榴は不機嫌な面をしたが何も言わなかった。惨めな思いに陥りながら弁柄地区を歩く。生菓子の入った紙箱を包む袋が微風に高らかな音をたてる。彼なりの気遣いで本音であったなら、責め立てる筋合いはなかった。傍にいる配偶者など不要だった。書類上結婚していればいいのだ。風に踊りながら城へと帰る。他人の熱が沁み込んだ手を荒れるほど水で漱ぐ。石鹸を放せなかった。傾きかけた選択。甘んじて絆されかけた己の怠慢。曝した弱味。同情に等しい、従弟婚の周旋しゅうせん。叔父への裏切り。すべて洗い流してしまいたかった。
『全部ほっぽり投げて、ひとりのうのうと生きようとか思ってるの?』
 振り返る。蘇芳が立っていた。何か言いたそうにしていたが、彼は怯えと驚きにぶんぶんと首を振って、口をぱくぱくさせた。
「お、おかえりなさいませ…」
 何か他に用件があったらしいことはすぐに察せられたが彼は引き攣った笑みを浮かべ、それしか言わなかった。相当する返答がすぐに出てこなかった。
「おはようございます」
 それだけ言って水気を払い、紅の元に向かった。彼は広いばかりで殺風景な大部屋の壁に背を預け項垂れていた。少し形の変わってしまった練り切りを食べさせる。暫く来られなかったことを詫びたが、きちんと理解はしていないらしく、曖昧に首を傾げるだけで、聞いてさえいないようだった。静かに生菓子を小さく刻んで口へ運び、溶かして嚥下する。気を利かせたつもりが食べづらいらしかった。非力さに襲われ、紅が滲む。幼い容姿の中年男性が菓子楊枝を咥えながら俯いてしまった女を覗こうとする。
「紅に贈った首飾りを売ったお金で、一体何をやってるんだろう…?」
 両手を覆う。吐露するたびに余計情けなくなった。小さな硬い手が肩を揺らす。夕陽を閉じ込めた眸子が影を帯びながら女を見据えている。
「今度、散歩に行こう?いいところ、調べておくから。二公子の許しをもらってさ。紅と行きたいな」
 彼は二度三度頷いた。小さな体躯を胸へ迎える。冬になってから紅の食事の量を少し増やしてもらっていた。元が痩せ過ぎていただけに、わずかながら肉付きが良くなってもまだ足りないくらいだった。軟らかさを持った背中を摩り、女は笑んだ。
「また来るから。温かくして寝るんだよ」
 肩口に伝わる頷きに跳ねた毛先へ指を通し、頭を抱く。鼓膜にこびりついている弦楽器の音が頭から離れなかった。彼が伝承童謡を鼻で唄う。冬の風景を歌った詩歌だった。幼い頃、音痴な主に代わってよく聞いていた気がする。眠りに落ちた時まで聞こえていたそれは時折母親代わりの女のものであり、妹のような娘のものでもあった。静かに部屋の隅に佇む赤茶けた髪の帯刀した少年も鮮明だった。話しかけて困惑する声も姿も今では懐かしい。四季国の風景が呼び起こされ、腕の中の少し高い体温をさらに寄せた。彼は歌い続ける。低い弦楽器の演奏は消えていく。
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