彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「極彩殿!」
 指笛が続けざまに響いた。十数歩離れた先に白と銀の髪が消えた老年とは侮れない壮健な肉体の男が忙しなく頭を動かしていた。黙っていると、峻厳な顔面がこちらを向いた。
「極彩殿…!大丈夫でしたか。一体何があったというんです」
「…道に迷ってしまいまして。ご迷惑をおかけしました」
 藤黄は剃髪したことでさらに威圧的な雰囲気を纏っていた。眉間の皮膚は隆起を覚え、怪訝の眼差しが容赦なく注ぐ。粗末な衣類には葉や枝が付いていた。裸足は土に汚れている。
「先程の者に、何か無礼がござったか」
「い、いいえ。方向感覚が狂ったものですから」
 険しい表情を窄め、顎を引いて極彩を見る。そして小さく短く唸った。
「山から出ることはできませぬが、途中まで送りまする」
 外見の印象は大きく変わったが、低く掠れた声はやはり藤黄だった。
「お願いします」
 断るのは気が咎めた。喋ることは何もなかったが苦痛ではなかった。好かないと両断された夏の頃が懐かしい。
「閉鎖された縦社会。さらには俗世のそういった限定的な社会とも変わっておりまする。内幕では人を従え、外では持て囃される。研ぎ澄まされていかねばならぬものを、道を違えて妙な気を起こす者がおるのです。罪を憎み、人を恨まず、義と理を折り合い生きていく。しかし難しいもの。その業を背負いながら道を歩むことこそ、生きる物を喰らい、考える能を持ち、矛盾の中を騙し騙し過ごす人間に与えられた試練なのやも分かりませぬ。むしろ俗世を捨てたつもりになったこの環境こそが人の頭を鈍らせているのやも…」
 語りながら藤黄は極彩の前を歩いた。道にまで伸びた枝を押さえ、極彩を潜らせるも、また前に出る。
「孤独になると己と戦うことになりまする。己ほど己をみているものはござりませぬ。かといってそれが正しい認識とは限りませぬ。さらには己ほど己を甘やかすものもおりませぬ。しかし傷は舐めれば舐めるほど、膿んで腐りきってゆくもの。城の生活ではなかった、ひどく長い時間の中でひとつ思い出したことがござります。以前、妻も娘も姉妹もおらぬと貴嬢に申しました。あれはまことです。娘も姉妹もおりませぬ。妻とは随分と昔に別れました。しかしせがれの嫁ならばありました。子を産んで間もなく病にかかって没しましたが。小倅はその前の年に泥酔し、馬車に轢かれましてな。情けない話です。酒に弱いのは家系でして…飲まなければいいものを。人になくてはならぬ思考を奪う。まるで火です。否、人に知を恵んだのが火であるのなら、人から知を奪うのが酒…」
「藤黄殿」
 呼ぶと修行僧は口を噤んだ。
「戻ってきてくださいとは、わたしからは申しません。ただ、藤黄殿は人の世にいるほうがお似合いです」
 宿が木々の奥に見えた。大きな老体が立ち止まり、極彩は藤黄を追い抜いた。
「極彩殿」
 改まった低い声が呼ぶ。
「はい」
 返事をしても藤黄はそこに不可視の壁があるらしく、近寄ることもしない。互いに動かずにいると、色の悪い唇が「こちらを」と言った。極彩は近付いた。深く手相の刻まれた掌に小さなやじりが置かれていた。黒曜石で作られている。
「看取った男児おのこの形見です。貴嬢をお守りくださるかと」
 渡す際に、手を切らぬよう、と添えられた。
「いいんですか」
「我が身には必要ありませぬゆえ」
 尖った黒曜石をゆっくりと握り込んだ。ただ人伝に聞いた者の死が突然生々しく感じられた。
「ありがとうございます。ではまた」
 峻悄な顔に苦笑が浮かぶ。見送られながら倉庫へと帰った。荷物と敷かれたままの布団だけ残され、群青の姿はない。脱力感に襲われ、ふらふらと框に腰を下ろす。両手で顔を覆った。病人がもういないのなら、今から帰ろうという気になった。車椅子の座面の下部の空間や座面の上に持ち物を片付けた。布団も畳むだけ畳んでいる最中に、枕の上の書置きに気付く。遺書だろうと高を括っていたが、宿の一部屋に運んだという旨が、群青の左に傾きがちな癖のある達筆とは違う筆跡で記されていた。宿に入ると、主人が慌てて駆け寄り、医者が来たということを捲し立てながら群青のいる部屋へと案内する。薬と果物を置いていったそうで、診断費用も受け取らなかったという。この辺りでは見ない顔だが人当たりは好く、良家の出を窺わせていたらしい。最果ての部屋の前から連続する空咳が曇って聞こえた。迷惑をかけることを詫びると、それが合図のように主人が襖を控えめに開いた。目の前に広がる繭が咳嗽とともに蠢いた。枕元に袋が置かれ、中には飴玉と見紛う丸薬3つと蜜柑がいくつか入っていた。主人は医者から聞かされた説明をしはじめる。要約すると、洗朱風邪は人から人へ感染する通常の風邪ではなく、特殊な材質の建築物を解体した際に空中い飛散した粉塵を大量に吸い込むと発症するとのことだった。極彩がもう一晩泊まりたいことを告げれば、主人は快く受け入れ、退室していった。
「群青殿、起きて」
 激しく喘ぎ、息を求める病人の上体を起こし、水を飲ませる。意識は朦朧として、口角から水が零れていった。咳ばかりしていた口内を潤してから、極彩は丸呑みするには大きな薬を齧って半分に割った。中身がわずかに残り、薬草の風味が鼻を抜け、強い苦みが広がったため極彩は鼻梁に皺を寄せた。3つ全てを割り、咳で吐き出さないよう口に放ってから押さえた。苦みは分かるようで、群青は首を横に振った。もともと太くもなかったが、痩せる一方の肉身を後ろから抱き、口元を塞ぐ。嫌いな物を拒む幼子のようだった。指で押し込むと噛まれる。歯型の付いた指を摩りながら群青を睨んだ。さらに小さく割って、顔を背け、胸を押して嫌がる子供の口に入れた。水の入った杯を唇に当て傾けると、慌てて嚥下する。その様が普段の群青の態度とは大きな差異があった。すべての薬が飲み終わり、蜜柑の皮を剥いて食わせた。主人が置いていってくれたらしい着替えを見つけ、汗にまみれた病人の衣類を開く。
「ごく…さい、さま…」
 熱に濡れた双眸が薄く開いた。咳をして虚空へ移ったが、治まると極彩を再び捉える。震えた手が乾布を掴む極彩の手首を握った。
「寝ていて」
 群青は罅割れた唇を舐めた。また虚空を凝視している。
「…にが、い…」
「薬飲ませたから」
「くすり…」
「言いっこなしでしょう」
 意地悪く笑ってやると、彼は起き上がろうとした。だが突き撥ねられて呆気なく枕に崩れる。
「早く寝て」
 ひとりではもう何も出来ない罹病者の言葉を全て流し、着替えさせた。倉庫に戻る頃には疲れ果て、框の上で四肢を自由にした。帰り道を思うと気が重かったが、一仕事終えたという実感が眠気を誘う。腕を枕にしながら目を閉じた。少し頭が痛む。柑橘に染まった指先がまだ何も腹に入れていないことを思い出させたがそれよりも休みたかった。畳んだ薄い毛布を手繰る。若い官吏の柔らかな残り香が眠りに落ちる意識に抗い、毛布を投げ捨てる。膝を抱いて己の体温だけを頼りに眠る。今日には帰るつもりだったが、予定外のことが起きてしまった。天藍は何を言うのだろう。縹はどうしているのだろう。季節は寒くなっていく。
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