彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 入ってすぐに長年放置されているらしきくどがあり、反対側は框になって畳が張られていた。藺草いぐさの匂いが充満していた。部屋の隅にいくつも布団が積まれ、埃っぽくはあったがわずかに空いた場所に布団を敷いてから群青を寝かせる。吊った布を外し、持参していた毛布を丸めてその上に板を当てられた腕を乗せた。彼は眉根を強く寄せ、熱に潤んだ目で極彩を見上げた。無視しようと思っていたが何か要求めいていて、寒いのか、水は必要かと口を開いてしまった。群青は首を振るだけで、しかしまだじっと極彩を捉えたままでいた。
「置いて行かない。別に貴方を捨てに来たわけではないから。ただ帰りたくないのなら、どうぞ残ったら。名前も変えて身分も偽って、思い出もなかったことにして」
 譫言でも始まりそうな感じを覚って食事の予約をしに宿へいった。迷惑を謝り、布団を借りたことを伝えてから食事を注文した。簡素な宿だったが造りは立派だった。ついでに水をもらい、倉庫に戻り胸部を波打たせる病人へ飲ませた。咳が落ち着き、極彩も框へ上がった。空いた場所はもうなく、布団と布団の狭間に腰を下ろし、膝を曲げた状態で横になった。和らいではいるが庫内に響く空咳に、ふと彼女の中で婿のことが呼び起こされた。あの若者も然る治療をしていなければ今頃はひとりで起き上がれなくなるほどに進行しているはずだ。まさかそのためにあの者は姿を現さないのだろうか。指先に絡んだ低い体温がつい先日のことのようだった。まだ何も伝えられていない。別れを切り出されてしまっても断ることしか出来ないのだから秘してしまったほうが互いに傷付かずに済むのかもしれない。咳を続ける群青に少しずつ水を飲ませながら、夜には飯を食わせた。意識は朦朧としていた。食べているという自覚もないようで、あまり咀嚼もせず嚥下する様が危なっかしく、箸で解したり、刻んだりして少しずつ口へ運ばねばならなかった。その後に冷めた食事を摂った。食器を返しに行けば、時間外ではあったが宿の主人の厚意で浴場を使うことができた。それでいくらか身体は寛げたが、やはり寝る場所はなかった。布団の山と布団の山の小さな空間に掛け布団だけ借りて横になった。唸り声と化している呼吸がくぐもって聞こえ、心身ともに休まらず、不安と緊張を煽られる一方で節々や筋肉の痛む夜だった。寒さに膝を抱きながら、布と畳の狭間の温もりに浸かる。群青はもうこれ以上動けそうにない。そして明日には快方に向かう見込みもやはりなかった。山奥に捨てられるという群青の珍言ちんげんは忖度だったのか真意だったのか。肉体は疲労の限界を訴え、極彩はやがて病人の漏らす低い音も気にならなくなった。結局、朝になっても群青は寝たきりで、激しい咳を繰り返してばかりだった。まだ城下の地域には訪れていない寒気が堪えるらしかった。時間外だったが一人分の粥を作ってもらい、やっと静かな寝息を立てはじめた病人を起すこともできず、枕元に置いた。群青は置いて行くことがすでに極彩の中で決まっていた。宿と倉庫を隔てる一本道を行く。緩やかではあったが上がったり下がったりの長い斜面が続いていた。そのうち、石造りの門壁が枝や葉の奥に透けていた。それが目的地だった。坂道を上がり終え、門壁の前へ出る。粗末な衣を身に纏った、剃髪した男性たちが一列に並んでその外構を磨いていた。数は非常に多かった。部外者の女を認めると、敵意や好奇の視線に晒された。中には歓迎のような眼差しもあるようだった。頭だけ下げ、開かれそうもないほどに冷たく重厚な門の前に進む。すると横から声をかけられた。特別の行事がない限り、正門は開かないらしい。声の主は重げな袈裟を来た糸目の男で、数歩離れた先から極彩へ礼をした。戒律によって一定の地位に就かなければ異性との接触が禁じられているらしく、その者は無礼を詫び、そして用件を問うた。極彩は手紙を渡す。欲を煽るおそれがあるため検閲をする必要があると説明される。極彩も手紙の内容は知らなかったが、了承した。横に長い紙がまるで帯のようだった。問題ありません、お渡ししておきます。そう言って、書簡が懐へしまわれた。会いますか。糸目の僧は穏和な笑みを浮かべて訊ねる。極彩としては会う気はなかったが、天藍に根掘り葉掘り問い質されるだろう。会いたい旨を伝えると、目的の人物はこの場にはいないらしかった。付いて来るようにと言われ、道から外れた茂みを案内される。人が通った跡は確かにあったが獣道といった具合で歩きづらいものだった。その先にあばら家があった。人目の外れた場所で男と2人きりというのはどうにも緊張感と焦りが伴った。そして疑心と不信を抱いてしまうことに後ろめたさが湧き起こる。死角に立たれると尚更だった。震えた声で礼を言い、小屋へと入る。壊れかけの扉を開く。外観そのままに中も廃れていた。框があるだけで家具という家具は何もない。背を向けた体格のいい男が座しているのみだった。肉体の雰囲気からは感じられない老いによって色素を失った髪はすべて剃りあげられている。後姿だけであったが、城で会う時よりも若々しく思えた。紙の捲れる音がした。
「お久しうござりまする」
 長いこと声を発していなかったとばかりに掠れていた。
「お久し振りです」
 壊れかけた扉が開き、袈裟の者が入ってくる。框によって一段上がった床に手紙を置いた。
「城には戻れませぬ」
「…そうですか。では、理由だけ聞かせていただけますか」
 天藍を諌められる者が城にはもういないかった。引き留められる立場にはなかったが、この元・世話係さえいたならば身を裂かれるような痛みはなかっただろう。悍ましい薬を飲まされることも、剣士が自害を命じられることも。この男も二公子に流されただろうか。
「崖から突き落とされた男児おのこを拾いましてな」
 低い声が話を始める。
「よくある話でして。一時期は流行りのような教育でござりました。物を知っている親ならばそれが喩え話であることを理解するものでしょうが」
袈裟を来た案内人は小屋を出ていった。
「その者は強く頭を打っておりまして、両脚の骨なんかもうは砕けて、見るも無惨といった具合でした。一夜は生きていたのですが、明くる日に逝きました。とはいえ谷を這い上がり、山を抜けて親元に戻れば戦士として育てられるだけの人生。親に憤ったものです。まだ子供であると。野犬もいる。道を間違えば弓矢ではどうにも出来ぬ熊もいる。しかし、己の過ちに気付いてしまったのです。周りの目を気にし、流され、孫を手放すことを強い、のうのうと皆に高みに行くよう説いてきたのでござりまする」
 自身の鼓動が聞こえそうなほど静かな空間に低く嗄れた声が告白する。
「貴嬢を傷付けたのは拙僧の孫ではありませぬ。拙僧でありまする。よって、戻るわけには参りませぬ」
「なるほど。では、二公子がお訊ねになられた際にはそのように」
 極彩個人としてはまったくその件について怒りや不満はなかった。しかし双方の蟠りと負い目はおそらく溶けて消え失せることはない。そして隠しきれるものでもなかった。何を言っても通らないのだろう。帰ろうとしたところで修行僧は口を開いた。
「群青殿は健在か」
「はい」
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