彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

文字の大きさ
上 下
155 / 336

155

しおりを挟む
 額を指先で小突かれる。そして一点を強く押される。懐かしい感じがした。立ち眩んだ女の肉叢ししむらを桃花褐の頑健な腕が支える。
「ごめんなさい。ぼーっとしてた」
「いや…ぼーっとしてたならいいんでさ」
 大きな図体に懐抱されていることに気付き、離れる。何事もなかったはずだ。
「お疲れなんですかい」
「ううん。ちゃんと寝たつもりなんだけれど…冬が近いからかも知れない」
 一度は離れたが、桃花褐の熱い手が極彩の後頭部に添えられ、筋肉の乗った胸板へ誘われる。垂れ目の奥は血走り、愛嬌のある唇が歪む。
「桃花褐さん?」
 切羽詰ったものを感じ拒むことは出来なかった。拒むつもりすら。体温は春を運んでいる旅人を彷彿させる。境界を失い溶け込んでいく錯覚に陥った。屈強な体躯も、張りのある皮膚も、瑞々しい肉感も現実を疑い、前後不覚になるような苦しみを味合わなくていい。素直で多弁で、癖のある喋り方に包まれていく。湯を嚥下した時に似ていた。
「嬢ちゃんはよくやってる」
 口説いているのとはやはり違っている堅さがあった。なんてな。はぐらかそうとしても引っ掛かりは消えなかった。
「桃花褐さん…ありがとう。ごめんなさい…弟のことも…上手く折り合えなくて」
「多感な年頃だもんな。こりゃ嫁さん選びに苦労するわ…おっと、」
「口説いてないのは分かってる」
 知らない風に吹かれたみたいだった。駆け巡っていく自身の中の熱。気恥ずかしくなり、しきりに頬を拭った。辿り着いた離れ家は外よりいくらか温かかった。
「へへ、よかった」
 軽妙な笑顔を向けられる。
「あんさんとはこれからも仲良くやっていきたいからよ」
「よ、ろしく」
 頭を雑に撫で、彼は仕草とは裏腹に顔だけを逸らした。
「桃花褐さんが彼の兄みたいに接してくれて、助かってる」
 青年は豪放さを抑えた、品の良さを感じさせる繊細な表情を浮かべ、それが似合っていなかった。滑稽さに極彩の口元が吊り上ってしまう。
「なんだい」
「ううん、別に」
 我に返ると突然叔父の病状が脳裏に過り、罪悪感に襲われる。縹はひとり苦しんでいるのだった。和やかに笑っている場合ではなかった。
「嬢ちゃん?」
「なんでもない。ところで、報酬のことだけれど…」
 その都度代価を払っていたわけではなかった。金ではないということしか明らかにされていない。
「この前みたいに?」
 袖を肘の内側まで捲った。柔和だった青年の目の色が変わる。凶暴さすら持っていた。
「嬢ちゃん」
 蒼褪めているのが日によく焼けた肌を不健康に見せる。動揺と戸惑に焦点は明滅していた。
「こんな暮らしだから座ってばかりだし、美味しくないかも知れないけれど」
「嬢ちゃん!」
 怒っているらしく声を荒げ、それでも男の腹は別の意思を飼っているように空腹を訴えて鳴っていた。瞳が燃えていた。極彩は挑戦的に艶笑し、男を自ら迎えた。迷いに戦慄いていた人の好さそうな唇から牙が剥かれた。尖ったそれは一閃の痕が薄く皮膚に留まっている首へ刺さる。激しい抱擁を交わしながら女へ覆い被さり血を吸った。
「好い人のフリは疲れる?人狼ひとおおかみめ。若い娘の生き血は美味しい?半端な善人は結局、罪のない悪人をも殺すものだと思わない?」
 唾液と血液の混じった泡をたてながら腹を満たしていく桃花褐の後頭部を、犬猫を愛でる要領で撫でた。硬めな毛が面白かった。女の表情に痛みを示す。唸り、猛獣と化した男は獲物を吸い尽くす。
「今まではどうしてたの?みんなが知ったらどうなるんだろ?救済者のつもりだったはずなのにね?」 
 けたけた、けたけた彼女は嗤笑ししょうした。
「男に無理矢理組み敷かれて味が変わったとか言わないでよ?可哀想な愚婦(おんな)なんだからさ!この前だってほだされかけてた駄目犬に裏切られてさ!アンタに何もかも打ち明けた日だよ。アンタはずかずかずかずか土足で踏み込んできたね?アンタも精神的にこの抜作おんなを陵辱したも等しくない?あんな生易しくて手酷い強姦はなかったな?でもわたしたち上手くやっていけるよ。ほら、この子を救えるのはアンタだけ…助けてよ?一度は気を許した襤褸雑巾に蹂躙されかけた愚盲おんなを、アンタは!救えるっていうの?軽佻浮薄けいちょうふはくの偽善者め…」
 獣の跳ねた黒髪を梳きながら独言を紡ぐ彼女はこれ以上ないというほどに楽しげだった。血を嚥下する音が応答のようだった。
「わたしの大切な人も生き血飲んでるんだって。あの人にもあげられたらな。きっと拒否するだろうけど。多分ダメだね。あれで助かるっていうなら信じようかな、奇跡ってやつを。信じる者だけが救われるってセコい教えごとさ。疑うことと信じることに一体何の違いがあるのさ。あの人は独り死んでくんだな、姿も中身も変わって。あの人はあの人じゃなくなって完成しちゃうってわけだ。じゃああの人でいられたのは結局過程でしかなかった。こんな虚しいことってあるの。まぁあの人は大事だよ。あの人が完成してないものを怖がるならわたしは二公子に嫁いで、あの人の不安と期待を裏切って完結させて、諦めさせて楽にしたっていいのにな。この愚図おんなが嫌がってもね。…ねぇ、生き血って美味しい?美味しいって言ってよ。あの人がカワイソウだから」
 物憂げに極彩は目を閉じた。吸血と嚥下、衣擦れの音はやまない。意識が渦巻くように引き寄せられていく。抗いがたい睡魔に沈みかける。体温が剥がれ、寒くなった。必死な声に呼ばれる。本名と化した偽名を口にしている様が新しかった。彼に名乗ったものとは違う。
「…起きてる」
 上体を起こそうとしたが、眩暈がした。大きな手が傾く背を止めた。すまなそうな顔も似合わなかった。
「…悪ィ」
 何をされたのか一瞬のことでよく分からなかった。ただ首の違和感で、納屋での出来事がふと浮かぶ。
「もういいの?」
 ほんの1秒2秒のことのように思えた。春の転寝うたたねのような。唇に付いている血をぼんやりと見ていた。
「代価は払えた?」
「十分なほどいただきましたわ」
 弱く疼く首をなぞり、眠気をやり過ごそうと目を閉じる。
「寝ますかい」
「桃花褐さんを送ったら」
 世話係どころか城の者でもないというのに狼狽しながら布団を敷こうとしている。互いに静かになった。人懐こい男の、気拙さを前面にした挙動を観察していた。
「嬢ちゃんは…俺に何も訊かねェんですかい」
「桃花褐さんも寝る?」
「違いまさ。そうじゃなくて」
「話したくないって前、言ってたでしょ…桃花褐さんがそれで思いもしない感情に囚われるなら、訊かない。でもその逆なら聞いてもいい?」
 快活さは消えていた。垂れ目は大窓から入る光で照った床を遠泳している。
「難しいこと言うなぁ、嬢ちゃんは」
「不公平とか思わないで。もともと公平に与えられたものでもないし、比べるものでもないから。話したくないなら、尊重したほうがいいから」
 いつかの彼女と同じように彼は話すことを選ばなかった。俯きがちに肩を落としている。堂々とした剽軽な空気はない。
しおりを挟む

処理中です...