彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 離れ家に戻ると開いた大窓の近く脚の筋肉を揉まれている珊瑚と大柄な身体で潰さないように気を遣っているらしき桃花褐から視線を喰らう。
「何かあったのか」
 床にうつ伏せになり胸から上だけ反らせた珊瑚に問われ、何もないと否定した。2人は本当に仲の良い歳の離れた兄弟という雰囲気を醸していた。懲罰の痕がまだ完治していないため、まだ柔軟体操や脚部の按摩という段階だったが珊瑚は態度以上によく懐いているようだった。だが彼等が立ち上がり、玄関に寄っていくところからすると、今日のその時間はもうすぐ終わるようだ。
「桃花褐さん、何か食べていく?」
「いんや。この後浅緋屋。そこで賄いでっからよ」
「…琥珀さんは」
 桃花褐はその呼び方を揶揄するように笑った。当の珊瑚はむず痒げに返事をする。
「俺も部屋に帰るよ」
「…そう。じゃあ桃花褐さん、送るよ」
 虚弟おとうとの寂しげな目には気付かないことにした。躍然やくぜんたる大男へ話を振って逃げる。大雑把なようで機微に聡い彼は苦笑していた。珊瑚とは彼の前ではぎこちないまま姉弟を演じていたが2人きりにはならないようにしていた。桃花褐のほうでも漠然としてはいても、その不自然を察しているようだった。
「部屋まで気を付けてね。帰れる?」
 珊瑚は予想に反して首を振った。隣にいる、早起きに違いないというのに溌剌とした男は欠伸と見紛う苦々しい笑いは誤魔化しが利いていなかった。
「…分かった」
 ひとりでは寝られるほどやたらと広かった玄関が狭い。高い体温が框で身を屈めた際に接近し、その隙に袖を摘まんだ。引っ張っても大きな肉体は極彩の指に従った。少年は不機嫌な顔をちらりちらりと姉とその連れを何度かに分けて一瞥した。言うことがあるようだったが露骨に不満を訴えているだけで言葉にすることは諦めているらしかった。彼は桃花褐にぼそぼそと礼を言って、姉とも別れた。真っ暗な部屋の前でなかなか扉を閉めず、粘っこい眼差しを投げられ続け、極彩を陰気にさせた。少し距離が開くと、依然として袖を引っ張られている男は目敏く横から覗き込もうとする。4度真摯な垂れ目を躱すと、やっと口にした。
「喧嘩か」
「喧嘩ではない、はず」
「違ェのかい。可哀想に。あの調子だと姉ちゃんしか女を知らねェな。当たってっかい?」
 冷やかすように彼は笑った。知らない、と答えようとしたが姉弟であるというそもそも不必要な設定と浅はかな芝居がそれを阻んだ。黙っていると桃花褐は段々と気拙そうな顔をして、悪ィと言った。打ち明けた憂悶のことらしかった。そこまでは極彩本人も考えが回っていなかったため、ひどく悪い気がした。
「ごめんなさい。そういうことじゃなくて……だから、どうしたものかと思ってね。桃花褐さんの近くに同じ年頃の女の子、いないかな」
「あ~、つれェね。はは、それは…」
 摘まんでいる袖が後頭部へ上がろうとして彼は腕を下ろした。そこでもう繋いでおく必要はないことに気付いて極彩も指を外した。
「気を悪くしないで。他に頼れる人がいないものだから。弟が懐いている外の人って桃花褐さんくらいで」
「気を悪くしたわけじゃねェんでさ。弟さんをおもんぱかっただけさね」
 内容の真意がよく理解できずにいた。2人の間に何か濃い話をしたのかも知れない。実兄の山吹や親世代近辺の蘇芳には話せないような話を。深く詮索することも野暮だろう。何より興味がなかった。
「そういえば、この前言った弟の話って…」
「こらやっぱり俺の懲りねェお節介からなんだけどよ、少し遠いところになるが、良い技巧師がいる。義手のことなんて考えてねェですかい」
 思わぬ提案に極彩は足を止めた。外通路は少し寒く、早く室内に入りたいところだった。
「義手?でも紅は肩から…」
「小難しい説明になるんだけどよ、筋力を読んで電気で動かせるらしいんでさ」
 悪い話ではなさそうだった。だが紅の遠慮と天藍の暗黙が恐ろしい。
「…うん」
「次男くんから聞いたんでさ。それであんさんの気がふさいでんのかもって。なかなか姉想いのカワイイ弟だいな」
 正直な性分が現れてしまい、探っているつもりらしいが透けている。
「丸くなった。とっても。前は気難しくて、神経質で」
「反抗期で清算されんでさ。そこからがまた始まりなんだしよ…ま、あんま悩みなさんな…その、首絞めたりは、やりすぎ…だしよ」
 答える必要はない。
「だってああいう小生意気なガキって痛めつけないと分からないんだよ。自分が同じ立場になったって理解する能がないんだから」
 笑いが止まらなくなった。呵々大笑かかたいしょうの発作が治まらない。縹の咳嗽と同じく胸部が跳ねた。
「あんさんは…病人だ」
「病人?どんな?風月的病人ってわけ?この国を取り巻く圧倒的な白痴に頭がおかしくなっちゃったんだな。アンタも!臓腑が腐って気化した薄汚い空気に染まっちゃってるんだね」
 高いところにある胸倉を掴んだ。平生の快然を動揺が上塗りされる。
「狂気で支配されるよ!今に見てなよ、今に…苦痛と絶望でしかこの国は救われない。だってそうでしょう、そういう風にしたいんだから。そこが楽園なんだから!何も考えない、力で支配され自由意志なんて必要ない…暴力で決着すれば労力なんていらないんだから」
 腹を抱えて笑っていると厚い掌に捕まった。
「あんさんは病人だ」
「アンタもだよ!わたしがアンタを堕としてあげる…寛大なフリしてばっかみたい。仲良くしてよ、わたしたち、同類なかまでしょ」
 張り手が飛ぶが、瞬発的に身を反らし、当たることはなかった。
「病人だ。あんさんの用心棒なんだね、しっかりとその拙ィ病気を治す」
「病気を治す?えっらそ。自分のコトもどうにも出来てないクセに?深い井戸を覗き込んでみなよ。アンタもその水面に映る化物に気付くってワケだ!転落が怖いなら安心して!わたしが突き落としてあげるから!転落しちゃえばもう何も怖くないでしょ?」
 けらけら笑い極彩は男を睨んだ。
「ちんたらやってる凡愚ばか女に代わって本懐を遂げようとしてるだけ。一体何の問題があるっていうのさ?アンタだってほんとは!欲望剥き出しにこの肉身おんなを貪りたいんでしょ?やりなよ…罰を与えてあげなよ…きっと喜ぶよ…?」
 逞しい腕にしがみつく。頬擦りした。しなやかな筋肉の弾力に跳ね返される。
「や、めろ…」
「やめない。ほら、飲みなよ。どうせこの躯体おんなが貧血になるだけ。アンタは飢えを満たせるってワケだ?お腹減るって惨めだよねェ…哀れだなぁ…施してあげたくなるよ…」
 桃花褐から離れ、舞うように身を翻して両腕を広げた。
「…嬢ちゃん」
 男が地を蹴った。生温い空気が2人の衣類を揺らした。極彩は譏笑きしょうした。壮健な腕が背に回る。
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