彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

文字の大きさ
上 下
122 / 337

122

しおりを挟む
「どうせ失礼なことでも考えていたんでしょう。ご安心ください。これでも一時期は料亭に潜伏していた頃がありましたからね。ある程度の料理は大体出来ます」
 翡翠は野菜を選び終えると奥へと入っていく。
「城の食事はどうです」
 肉や魚の賞味期限や品質を見定めながら翡翠は問うた。
「美味しいです」
 翡翠は極彩を振り返ってから首を倒し、黙った。溜息を吐いて商品棚に直る。
「顔色があまりよくないです。肉料理で構いませんか」
「顔色、悪いですか」
 自身の冷えた顔に触れた。
「貧血では」
 そう言って買い物籠に生肉が入れられる。不言通りにあった祭囃子が店の前に訪れ、騒がしくなった。店内までもざわついている。風月王は要らない、二公子は暗愚だ、不敬罪がある限り後進的である、などという非難と誹謗の数々を声高に叫び、さらに彼等へ向け罵声が飛んだりした。他の客たちは外を気にしたり、動揺したりしていたが翡翠はすいすいと奥へ進んでいったしまったらしく肉や魚の売り場から姿を消していた。大きな迷子を捜しているみたいだった。彼は菓子売り場いた。少し離れて見ると均整の取れた体躯と穏和な横顔に胸が一瞬大きく脈打つ感じがあった。
「塩味でいいですね」
「え、はい」
 何の話かも分からないでいたが、彼は塩味の煎餅を籠に入れた。まだ他に欲しい物があるかと問われ、首を振る。すると会計へと向かっていった。袋に買った物を詰め、翡翠の両手が塞がった。片方持つ、と言ったが、歩くのが遅くなりそうなのでいいです、と彼らしい嫌味と共に断られる。店を出ても長春通りはまだ騒々しかった。喧騒にそわそわしてしまう。来た道を戻らず、抗議活動とは反対の方向に進んでいた。そのことに気付くと翡翠を見上げてしまう。
氷菓子アイスでも食べますか」
「いいえ、要らないです」
 大小ふたつの影が並ぶ。喧騒に沸いた背後の遠くとは真逆の長閑な感覚に支配される。
「唇、荒れてます」
 翡翠は買い物袋からいつの間にか買ったらしい筒状になった口唇保湿剤を出し、極彩へと渡す。
「…ありがとうございます」
「あまり舐めないことですよ」
 両手に買い物袋を下げる影とその隣の買ってもらった保湿剤を抱く影に意識が惹かれた。不思議な気分だった。街を歩くと目で追ってしまっていた親子の伸びゆく影。それが今、自身の足元にある。胸元が妙に温かく、けれど肌で感じられるものとは異なっていた。浮遊するような軽やかな心地だった。緩やかな空腹が愉快でさえあった。
「疲れましたか」
 優しい声で問われ、首を振る。
「ずっとこうして、穏やかな日々が続くといいんですが」
 幻聴や空耳かと疑ってしまうほど柔和な雰囲気を纏っていた。外見の印象通りの人好きする爽やかな青年がそこにいる。返事をしたら嫌味な彼に戻ってしまいそうだった。極彩は固まったまま頭を縦に振った。
「貴女の悲願が叶う日が来るといいですね」
 平素の陰湿さが滲んだ笑みは、今はただ温厚そのままな微笑へ変わっている。極彩は動作の選択肢をやっと与えられたように小刻みに首肯を繰り返す。カラスが鳴いた。乾いた風が唇を痛めつけ、赤とんぼが空を駆けていく。
「冷え込みますし、早く帰りましょう」
 摺鉦が高く響いていた。

 夕飯は豚の肝臓と韮ともやしの味噌炒め、かした馬鈴薯と人参、魚肉の練り物の和え物、そして胡麻の浮かぶ溶き卵とワカメの吸い物に豆腐が付いた。どれも美味しかった。自身の食欲に驚くほどだった。「料理は久々でしたが、作り甲斐がありましたよ」と言っていた。食器洗いを申し出るも入浴を勧められた。2度目の狭い風呂も落ち着いた。城の浴場は極彩は個人で使えたがひたすらに広く、却って落ち着かないくらいだった。風呂から出ると入れ違いに翡翠が風呂場へ向かった。すでに布団が1枚敷かれていた。客人が来るような庵でもなかった。自身が床で寝るか、翡翠が寝ないか、折衷案として2人で畳の上で寝るのだろうと思い、座布団に腰を下ろす。一度着た衣類を脱ぎ、ゆったりした中で包帯を巻き直す。これも着替えと共に新しい物が置かれていた。袖と裾を折り、髪を拭きながら身体を伸ばす。簡単な柔軟体操をしている間に行水のように素早く入浴を済ませた家主が下半身にタオルを巻いただけの姿で居間へと現れる。顔と首半分を覆う火傷だけでなく上半身には様々な傷が走り、凹んでいたり染みになってしたりした。しかしどれも昔のもののようだった。ぎょっとして半裸姿を観察してしまった。翡翠もまた目を瞠り、台所のほうに身を隠してしまう。
「驚かせてしまってすみませんね」
 しかし着替えは居間を通り抜けた、廊下の先にある一室にあるらしく、一言そう残すと何事もなかったふうに居間を出ていった。庵の主のそれは早着替えだった。ゆったりとした装いの翡翠が現れ、気拙そうな顔で極彩を見下ろす。
「嫁入り前の娘と同室で寝るわけにはいきませんからね。俺は自室で寝ますよ。1人で怖くありませんね?……肘、怪我してるんですか」
 袖が捲られた肘に視線が落ちた。翡翠は身を屈め彼女の腕を引いた。
「虫刺されみたいです」
 誤魔化すと険しく射抜かれる。
「虫刺され?それならいいんですよ、それなら……随分と大きな虫がいたものですね。この季節に?新種の虫なら貴女の名が付きますよ。いっそ申請してみたらどうですか」
「…そうですね。考えておきます」
 誤魔化しにさらに誤魔化しを重ねる。微笑を浮かべられ、だが2秒もせず消えた。
「出来るだけワタクシには隠し事をしないでいただきたいんですが、まぁ、それは個人の問題ですからね。強要はしませんよ。貴女の弁護人というわけでもありませんし」
 家主は立ち上がり、救急箱を持ってきた。肘に絆創膏を2枚並べて貼られる。2点の傷口の距離が1枚では足らなかった。
「大したことじゃないんです…」
 彼は眉を上げるだけだった。説明を待っているらしい。
「でも、縹さんには言わないでください…」
「叔父御?」
「雇い主が大激怒かんかんだというから…」
 翡翠はいやらしく笑ってから、そうですね、と言った。
紫雷しでん教に入るために、さっきの…桃花褐つきそめさんに…血を吸われて…でも本来は、人肉を喰らわなければならなかったらしくて、わたしがそれを躊躇ったから…」
「血を吸う?」
 笑みは消え、深く眉間に皺が寄っていた。
「怖い人ではないんです。色街にわたしが居るのは、危ないって…闇競りのことで。あそこの区画に喧嘩売ったも同然だったみたいで。それで用心棒を買って出てくれたんです」
「彼自身の事は、別にどうでもいいんですけどね」
 絆創膏の上から肘を撫でられる。親指の腹がゆっくりと肌をその周辺を彷徨う。
「…すみません」
「いいえ、別に。彼と関わるとは言いません。よく話してくれました、感謝します。ただ…気を付けることですね」
 桃花褐のことを話しているうちに俯きがちになっていた極彩の頬に掌を添え、上を向かされる。
「様々な人がいますからね。本当に様々な人が。環境が違ったばかりに理解できない人もいる。ですが、もし貴女が耐えられないと思うなら罪悪感など無視することです。自分の身が一番ですからね。罪悪感に従って、己が疲弊したものは気付けば全ての権利を失っているんですから。偏見の中に真理があるとは思いませんが、時には、必要なのです」
 翡翠は珍しく興奮気味に喋った。極彩は眉根を寄せる。
「……どういうことですか」
「まだ知らなくてもいいことです。たったこれだけ言っておけばいい。今は、まだ」
 追及は許されなかった。翡翠は立ち上がり、おやすみなさい、と言った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話

ラララキヲ
恋愛
 長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。  初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。  しかし寝室に居た妻は……  希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──  一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……── <【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました> ◇テンプレ浮気クソ男女。 ◇軽い触れ合い表現があるのでR15に ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇ご都合展開。矛盾は察して下さい… ◇なろうにも上げてます。 ※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

妹と旦那様に子供ができたので、離縁して隣国に嫁ぎます

冬月光輝
恋愛
私がベルモンド公爵家に嫁いで3年の間、夫婦に子供は出来ませんでした。 そんな中、夫のファルマンは裏切り行為を働きます。 しかも相手は妹のレナ。 最初は夫を叱っていた義両親でしたが、レナに子供が出来たと知ると私を責めだしました。 夫も婚約中から私からの愛は感じていないと口にしており、あの頃に婚約破棄していればと謝罪すらしません。 最後には、二人と子供の幸せを害する権利はないと言われて離縁させられてしまいます。 それからまもなくして、隣国の王子であるレオン殿下が我が家に現れました。 「約束どおり、私の妻になってもらうぞ」 確かにそんな約束をした覚えがあるような気がしますが、殿下はまだ5歳だったような……。 言われるがままに、隣国へ向かった私。 その頃になって、子供が出来ない理由は元旦那にあることが発覚して――。 ベルモンド公爵家ではひと悶着起こりそうらしいのですが、もう私には関係ありません。 ※ざまぁパートは第16話〜です

この度、双子の妹が私になりすまして旦那様と初夜を済ませてしまったので、 私は妹として生きる事になりました

秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
*レンタル配信されました。 レンタルだけの番外編ssもあるので、お読み頂けたら嬉しいです。 【伯爵令嬢のアンネリーゼは侯爵令息のオスカーと結婚をした。籍を入れたその夜、初夜を迎える筈だったが急激な睡魔に襲われて意識を手放してしまった。そして、朝目を覚ますと双子の妹であるアンナマリーが自分になり代わり旦那のオスカーと初夜を済ませてしまっていた。しかも両親は「見た目は同じなんだし、済ませてしまったなら仕方ないわ。アンネリーゼ、貴女は今日からアンナマリーとして過ごしなさい」と告げた。 そして妹として過ごす事になったアンネリーゼは妹の代わりに学院に通う事となり……更にそこで最悪な事態に見舞われて……?】

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

婚約者が病弱な妹に恋をしたので、私は家を出ます。どうか、探さないでください。

待鳥園子
恋愛
婚約者が病弱な妹を見掛けて一目惚れし、私と婚約者を交換できないかと両親に聞いたらしい。 妹は清楚で可愛くて、しかも性格も良くて素直で可愛い。私が男でも、私よりもあの子が良いと、きっと思ってしまうはず。 ……これは、二人は悪くない。仕方ないこと。 けど、二人の邪魔者になるくらいなら、私が家出します! 自覚のない純粋培養貴族令嬢が腹黒策士な護衛騎士に囚われて何があっても抜け出せないほどに溺愛される話。

処理中です...