彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 珊瑚が戻ってくるのを待つ。纏められた手首の脈動を感じる。1人で「どこか」へ行ってしまったのだろうか。対面の壁一色が視界を占め、思考は働かない。体勢を変えながら、珊瑚を待つ。ここではないどこかに行くのだ。
 時間の感覚も忘れた頃に狭まった廊下から珊瑚が姿を現した。灰白を見て、陰鬱な顔から一瞬で目を丸くさせた。
「何してんの?」
 両腕が括られたまま抱いていた膝から顔を上げる。
「何してんだろ」
 はははと乾いた笑い。珊瑚は溜息を吐いて灰白の腕を掴んで立ち上がらせる。
「やっぱ行くか、どこか」
 その前にその腕と顔どうにかしろ、と珊瑚の自室に入れられる。照明が点いており、テーブルの中で小鳥が灰白に首を傾げた。
「なんであそこに」
「あんたが連れて行かれたって話聞いたんだよ」
 珊瑚は悪態を点きながら灰白の両手首の拘束を解こうとしている。珊瑚の顔が近付いて、固い結び目を噛む。緩み、外される。タオル濡らしてくるから待ってろな、と言われ珊瑚は布を持って部屋から出て行った。忙しなく首を傾ける小鳥を眺めていた。以前来た時よりもさらに殺風景になった部屋。棚と、真っ黒に塗り潰された据え置き型の額縁、寝台、そしてテーブルとソファ。鳥籠。朽葉の写真やその周りの供え物はなくなっていた。広い部屋だがその半分も生活感はない。珊瑚が戻ってきて濡らされた布を顔に投げられる。顔面で受け取る。乱暴に拭う。藤の花の飾りが揺れる簪が抉った亀裂が鋭く痛む。師が付けた傷。どれだけ小さくても怪我するたび、傷を付けるたび師は四季王に深く詫びた。たとえそれが灰白の不注意でも。
「痛むの」
 繊維が血の固まった血を絡め取っていく。その布をずっと見ていると珊瑚が心配そうに問う。テーブルの上に鏡が置かれた。
「大丈夫だよ」
 テーブルの上に立つ鏡を覗く。傷口は思っていたよりも大きかった。痕が残るだろう。それが何故か、良かったと思った。泥と血で汚れた周りを拭き取る。珊瑚は「あ、そ」と興味無さそうに棚を漁りはじめる。テーブルに置かれた鳥籠の中の小鳥が不思議そうに灰白を見て首を傾げる。
「これ着替えな」
 下から被る、珊瑚がよく着ている形の薄手の衣類が雑に投げられた。そして縹や群青が身に着けているものよりさらにゆとりのある、股引きに似た袴のような衣類も続けて投げられる。
「ありがとう」
 大方拭き取ると珊瑚は「テキトーにゴミ箱捨てといて」と言って扉の横に置かれたゴミ箱を指す。汚したタオルを捨て、乱れた衣服に手を掛けると珊瑚は慌てて背を向けた。一言なんか言え!と叱られてしまって灰白はごめん、と小さく謝る。土と血、草で汚れた舞衣装を脱いでいく。帯や紐、布を解き、珊瑚から渡された薄布を被る。腰回りに伸縮性のある袴に似た衣類に足を通す。感覚は袴に似ていたが膝まで内側の布が肌に触れた。難しげな顔で着替えた姿を眺められてから、どこ行くか、と訊かれた。
「どこがいい?」
 風月国にはあまり詳しくないのだ。珊瑚のほうが知っているのではないかと思った。
「あんたとなら…いや、どこがいいだろうな。もう夜だし…不言いわぬ通りでもほっつき歩きながら決める?」
 灰白は頷いた。珊瑚は鳥籠を手にして、暗幕によって閉ざされていた大きな窓を開けた。じゃああんたの竹林の前に集合な。愉快げに笑って珊瑚は出て行った。部屋に残された灰白は照明を消す。借りた衣服は舞衣装よりも動きやすかった。廊下にいた人々の驚きと顰蹙、困惑と好奇。聞き覚えのある声と聞き覚えのない声。灰白には廊下の先だけしか見えていなかった。外通路を目指し歩くだけ。この城にはもう何もない。何かはあるけれど、潰えてしまった。そして潰えるだろう。だがそれが何なのか、本当にあるのかさえ分からなくなってしまった。
「極彩様」
 外通路の前に来て、止まる四季国の亡霊。置いてきてしまった世話係で妹分だと思っていた。気に留めることもしなかった。
「極彩様…」
 外通路の履物に足を突っ込む。四季国にはもう帰れない。どういう理由か、狙われていると朽葉は言っていた。「灰白」という女を狙っていると朽葉は言った。だが縹と城に入り、そして得た機会で何も出来なかった。恨み言か。仇を討てなかったから。恨み言だろう。無関係に巻き込まれ。後ろ手に外通路の扉を閉める。ここではないどこかへ行く。離れ家で適当な荷物を作って。漆の台に乗せられた短剣が目に入った。何者かが返しに来たようだ。手を伸ばす。森の中で見送った青年の背中が脳裏を過った。腕から力が抜ける。乱暴に離れ家の引き戸を閉める。磨り硝子が軋む。
「平気か」
 竹林の前に立つ珊瑚に問われ、反射的に「平気だよ」と返した。珊瑚様は、と問い返して、俺も平気、と言った。珊瑚の肩に乗った小鳥が首を傾げる。袖を掴まれ、「どっか」へ歩き出す。腕を引かれ、大門の方へ向かう途中で全く違う方向へ曲がる。門番が多分通さないから、と言って竹林とは反対方向にある雑木林へ入っていく。
「何かあったの」
 珊瑚は止まらず進む。
「何もねーよ。なんで?」
 雑木林の中は竹林の中よりも歩きづらかった。暗いため間近に迫るまで枝や蔦が見えない。
「冗談だったんじゃないの」
「冗談のつもりだった。最初は」
 珊瑚は難なく木々の間を抜け、灰白は身を低くする。
「あんたに山吹連れて逃げろって言ったの、俺なのにな」
「山吹様と何かあったんだ」
 さぁな。はぐらかされ、問い詰めるのはやめた。さして興味も湧かなかった。固い枝を踏む小気味良い音、珊瑚が葉を除ける音。歩き続け、城の敷地を囲む塀が見えてきた。老朽化し穴が空いている。膝を着いて這えば出られるほどの大きさだ。慣れた様子で珊瑚はその穴を通り抜ける。灰白も続いた。目の前に手が伸ばされ、白く薄い掌に掌を重ねる。立ち上がって膝の汚れを払う。
「雨降りそうじゃない?」
 塀の外の木々が揺れる。湿った風が髪を揺らす。
「…とりあえず長春まで下りるか」
 再び袖を掴まれ、それから不器用な手が灰白の指を纏めて握り、斜面を下っていく。木々に白く印が付けられている。蛙の合唱。
 ふわりと頭の中が浮いた感覚がした。知らない男の子と昔、こうして坂を下りた。鳥の囀りの中、手を引かれ。日をよく浴びた麦穂ばくすいを思わせる髪を揺らす男の子。あれが誰だか、今になって―
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