彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

文字の大きさ
上 下
36 / 336

36

しおりを挟む
 紫暗は灰白の姿を何度も眺めては上機嫌に何度も頷く。明るい桃色に染められた鳥の羽と同じ色味の花の髪飾りが少し重かった。
 まだ入ったことのなかった大広間に案内され真っ先に玉座が目に入る。艶のある木製のそれは他の者を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。座面の金糸が威圧的だ。視界に入れた途端に手が震える。あの場所へ今髪を挿す簪でも突き刺しそうになる。玉座を最上階にした3段ほどの雛壇になっており、その1段ずつ両脇に席が設けられている。おそらくそこに二公子や珊瑚、山吹が着くのだろう。
 暫くお待ちくださいと下回りの者に言われ、灰白は座して待つ。玉座からは離れた位置だった。背後の、入ってきたばかりの装飾過多な分厚い扉の奥がざわついている。随分と分厚い扉だったがそれでも騒がしさが伝わっている。下回りの者たちは忙しそうに右往左往し、不安や焦りの色を隠さず慌てふためいている。何かあったのかと灰白は分厚い扉を開いて、傍を通りかかった者へ訊ねた。花緑青の様子が変なのだという。どのように変なのかと問えば、困り果て疲れた表情で、更衣の呼び出しをしても反応がないのだという。わたしが様子を見てくるよ。灰白がそう言うと、助かりますとわずかだが安堵が窺えた。縹があつらえたという晴れ着は重かった。動くための生地や作りではなく、むしろ制限さえしている。大広間から離れ、城の最短にある屋敷へ向かう。花緑青は下回りたちが住む屋敷の大きな一室を借りていた。長い裾を踏まないように歩き、透き通った足袋が滑りやすく脚の普段使わない筋肉が引き攣る。振る度に帰ってくる大きく開いた袖が邪魔だった。腰を強く引き締める帯もまた歩きづらさに拍車をかける。長い廊下を通り抜け、人混みのできた派手な襖の前へ辿り着く。下回りの者たちは灰白を見ると任せるように道を空ける。花緑青様が…と事情を説明される。
緑青ろくしょう殿!」
 呼ぶがやはり返事はない。灰白は襖を指の背で軽く叩いた。執務室の扉にするように。だが返事も反応もない。寝ているのか。
「花緑青殿?」
 襖に手を掛ける。後ろの下回りの者たちがざわざわとしはじめ、口々に縹様、縹様、と縹の名を口にしはじめた。縹が来たらしい。振り返るとやはり縹立って、灰白と目が合うと冷ややかな双眸を大きくさせた。だが雑に結われた髪を乱して、灰白の真横までやって来る。
「花緑青殿?」
 縹は灰白には何も言わず襖に両手を掛け容赦なく開け放つ。花緑青から薫った甘酸っぱさが抜けていく。生活感のない部屋だと思った。天井と部屋と開け放たれたままの窓とその奥の竹林を映す漆の卓袱台。その上に置かれた花緑青の髪と同じ色をした毛束。白い紙で纏められている。窓の脇の畳まれた布団には煌びやかな着物が覆うように掛けられ、壁に飾るように掛けられた着物も壮麗だった。
「花緑青殿は、どこへ…」
「君、何か出来る?」
 灰白は花緑青の部屋から視線を逸らして縹を見上げた。荒らされた形跡はない。
「何かって、何ですか」
「何でも構わない。剣舞でも、詩舞でも、舞踊でも」
 音曲でも。
「…どういうことですか」
「花緑青殿は帰って来ないよ」
 冷淡な言い方は洗朱の家で酔っていた縹を思い出させる。
「帰って来ないっていうのは…どういう…」
「こうなったら君が場を持つしかない。でないならまともに座興の準備も出来ない群青くんはまず打ち首だ。おそらくボクも無事ではすまないね」
 まるで他人事のようだった。縹にとって、縹自身のことも群青のこともどうでもいいことのようだ。
「…剣舞が出来ます。でも…帰って来るかも知れないじゃないですか」
 縹の冷たい目が灰白を見下ろし、薄い唇が開く。それが随分と遅く感じられた。
「故郷が恋しくなったそうだ」
 周りに聞こえないように縹は灰白の肩に手を置き、耳元に口を寄せる。どこだか分かるだろう?、と。
「そうでしたか。分かりました」
 花緑青は風月王を恨んでいると言っていた。その風月王が目の前に現れたら。気持ちが分からないわけがなかった。
「やれるかい」
「はい」
「あの短刀は」
「離れ家に」
 あの短刀なら剣舞も映えるだろうと呟いて縹の目が眇められる。朽葉から渡された短剣のことだ。灰白は、はい、と小さく頷いた。
「皆そのことで緊迫していたが…君が芸達者で良かった」
 師から教わったものだ。剣術や武術を教えることに師は積極的ではなかったが、合間に剣舞を見せたり指南することがあった。洗朱で師であることを肯定した男と会う前だったなら、快諾していただろう。剣舞は師を強く意識してしまう。剣術や武術より、分かりづらいが表情が緩むから。
「頼んだよ」
「はい」
 灰白は段取りを聞きながら離れ家へ短剣を取りに行く。縹はまだ準備があるのだと外通路に出る前に別れた。離れ家の前に誰かいる。髪色や背格好が花緑青と合致する。灰白は歩きづらさも忘れ、駆け寄った。普段はきちんと整えられた複雑な髪型を下ろし、垂らされた長い髪の片側を乱雑に切り落としてある。
緑青ろくしょう殿」
「ごめんなさい、ごめんなさい、極彩様…」
 花緑青は憔悴した様子で灰白の両手を取り、眉を下げた。ごめんなさい、と謝り続ける花緑青を灰白は宥めた。今にも泣き出しそうに濡れた大きな瞳。
「気にしないで。花緑青殿にも、花緑青殿の事情があるもん。仕方ないよ」
 全てではないにしろ理解しているつもりだった。
「洗朱に帰るの?」
 こくり、と頭が縦に動く。風月王が帰ってくるとなるとここにはいられないらしい。灰白は俯いたままの花緑青を見つめる。握られたままの冷たい手から手を抜いて雑に断ち切られた毛先に触れる。
「長い間じゃなかったけど楽しかったよ。…またいつか会えたらいいね」
 桜桃さくらんぼ色の大きな瞳が膜を張り、そして大きく頷く。
「ありがとうございました。本当に。何とお礼を申し上げたらよいか…」
「お礼言われるようなことなんて何もしてない!…元気でね」
 花緑青は頭を下げ、去っていく。風月王の帰還の宴が始まれば城門の警備は薄くなる。それまでは竹林に身を潜めるつもりらしい。竹林に小柄な身体が紛れていく。その姿を見ていたが用を思い出し離れ家の中の短剣を掴む。風月王を討つ。剣舞の途中で。その後逃げられるだろうか。大広間に用意されていた席の数々。まず無傷では不可能だろう。城から出られた後はどうなる。どうなったとしても縹は謀反人の叔父になる。世話係の紫暗もまた何かしらの尋問は受けるだろう。考えれるだけ迷いが生じる。だが決めたことだ。行かねばならない。やらねば。師から教わった剣舞の型を思い浮かべる。短剣を持って大広間へ向かった。途中で会った下回りの者に座興の際に使う、と伝えて渡す。緊張しているのかと人懐こい笑みで問われ、少しだけね、と笑って誤魔化した。
しおりを挟む

処理中です...