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リップスフレンド 15話放置/眼鏡受け/剽軽攻め/カノジョ持ちマイペース攻め/未定のため地雷注意
リップスフレンド 16
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「変なジョーダンよせよ。マジでキモい。その美貌なかったらマジで逃げてる」
櫻岬は、柊のしかつめらしい顔を見なかったことにした。
「本気なんだけど~?」
柊は拗ねたような口調で戯け、櫻岬を引き寄せると振り返らせて、自身に背を向ける形にした。それはつまり、櫻岬を離れていく2人の友人の背中に向けさせたことを意味する。
「損な役回り、自分で買っちゃうタイプ?」
「なんだよ、損な役回りって……」
「割り込んできなよ」
「あんたにはカンケーないだろ!」
ふん、っと櫻岬は背の高い同期のもとを去った。そして宮末にも吉良川にも知られない位置へ潜り込む。吉良川は宮末が好きで、宮末も吉良川を憎からず思っているけれど、宮末は何故か、何かしらの理由があって自分を苦手がっている―というのが櫻岬の見立てである。風邪をひいて迷惑をかけてしまったからか、それか、吉良川と気心が知れるようになって第三者が邪魔になったか……で、なければ、あの苦りきった表情の説明がつかない。
櫻岬はまったく、自分があの爽やかで寛容な人物を目にすると甘えたになっていることに気付いていないらしい。
宮末は優しく、寛大で、包容力のある清い男である。ゆえに、少し苦手がられたくらいでは櫻岬も相手を憎らしく思えなかった。何か事情があって、その事情はおそらく"正しい"のだ。彼の中に芽吹くのは怒りではなく寂しさである。
頬杖をついて、右下方にいる2人の後姿を眺めた。段々畑のようになった講義室は、教壇に近付くほど低い造りになっている。そして扇状に座席が設けられているのだった。
共に座る約束があったわけではない。以前から成り行きで合流したり、しなかったりであったのだ。だからここで、彼等が1人友人がいないと言って探す筋合いもないのである。
「ンヒっ」
頬に当たる冷たい感触に彼は跳び上がった。ガタ、と後ろの机の前面に建て付けられた座面も重みを失って撥ね上がる。室内の注目を集めてしまう。その視線の中には隠れているつもりだった彼の友人2人のものも含まれていたかもしれない。
「なんだよ!」
「へへ、かわい~。ボクも座るからもうちょっとあっち行って」
柊である。コーヒーの缶を片手にしている。3人分ほど空ける。だがすぐに距離を詰められた。隣に座るにしても近い。
「こっち来んなって」
「べいべと一緒がいいんだもん」
「オレはヤだ」
「でもここには居てくれるんだ?優し~ね、べにたん。いい子!」
抱擁はヘッドロックのようである。柊はボディラインを浮かせないゆとりのある服装ばかり着ている。今日もそうだった。まるで布団やクッションみたいに櫻岬は柔らかく包まれる。柔軟剤と洗濯用芳香剤がよく効いている。目眩に似た芳烈だった。
「べにたん」
「離れろって」
柊に揉みくちゃにされてようやく放される。彼はコーヒーの缶を差し出した。
「オレコーヒー飲まん」
「そうなん?べいべってガキなんだね。やーい、子供!子供!」
もう一度、馨しい抱擁に巻き込まれる。ぬいぐるみにされている。背中をぺしぺしと叩き、大きな図体ではしゃいでいる。
「べいべ、かわいい」
「かわいくねーし」
「かわいいから、好き」
「じゃあ顔面ボコボコにぶん殴られたら、もう好きじゃないってコト?」
ぬいぐるみになりながら揚げ足を取っていると、柊は抱き締めるのをやめて、ぬいぐるみを目の前に据えた。人懐こい男の戯れ合いで済んでいた空気感が変わる。
「なん……だよ」
改まった雰囲気に圧される。普段は蒟蒻みたいにふにゃりふにゃりと捉え所がないけれど、黙っていれば美青年なのだ。真面目腐った顔が近付く。櫻岬はぼけっとしていた。唇が塞がる。ここは講義室である。人がいる。だが騒がれることもない。それがマナーでエチケットで良識なのであろう。ただいくらか賑やかだった場内が静まり返る。
「お、ま、え……」
「深いのは、あとで」
「しねぇよ!」
櫻岬も周りの異変に気が付いた。顔を真っ赤にして机に伏せる。その背中に覆い被さるのが柔らかな布地と佳芳で分かる。だが反抗する気も起きない。
「おまえ、元は女の子が好きなんじゃないの」
「うん」
「じゃあなんでオレに構うの」
「別に男の子でも女の子でもどっちでもいい。可愛ければなんでもい~や。べいべも多分、可愛ければなんでもい~と思うよ」
櫻岬は机に伏せて、腕に顔を埋めたままだ。
「ンなワケあるか」
「あるよ」
背中にすりすりと頬擦りされているが、櫻岬は伏せたままである。
「紅ちゃん」
降ってきた声に、駄犬としての根性を煽られて、彼は頭を上げた。宮末がすぐ近くの通路に佇んでいる。
「ほぇ、ひゅ~ちゃ~……」
宮末はただ一直線に櫻岬を見下ろしていた。連れなど居らず、隣席者も居ず、一人しかいないかのような接し方で、その腕を取る。
「どったの」
「具合悪いのか」
背中に張り付いていた体温と重みがあっさりと退いていく。
「え……?」
「おいで」
優しい飼主みたいな男においでと言われてしまえば、彼の愛犬と自負してしまった以上、行かないわけがなかった。行く行かないの判断すらなかった。おいでと言われたら行くのである。判断も思案もない。櫻岬は大好きな飼主に連れられて講義室の外へ出た。
「荷物とか、平気か」
「うん……でも、なんで?」
講義室前の空間は待合室みたいに壁から座面が生えている。日当たりの良い南側の窓辺の席へと連れていかれ、櫻岬は座らされた。
「大丈夫か?熱は……?無さそうだけど、気持ち悪い?」
隣に座らず、対面に屈み、宮末の分厚く大きな手が額に触れたり、頬や首筋を探る。
「大丈夫だケド、なんで?」
心配されていることは分かった。そのような罪のない前科もある。しかし何を以って彼がそう思い至ったのか、櫻岬は自身の行動を振り返ってみるけれども見当がつかない。
「蹲っていたから……」
「ああ、へーき、へーき。ごめんな、心配かけて」
「あんまり無理すんな。休むか?」
少し過保護な感じのするこの同い年の兄貴分はまだ愛犬のように懐く友人の火照りを疑っている。
「講義始まるし、戻ってよフューチャー!オレほんと、へーき。紛らわしいことしてごめん。マジでへーき」
出てきたばかりの講義室から柊が現れ、無言のまま荷物を傍に置いていった。焦りが募る。これでは迷惑をかけてしまう。彼は大学に遊びに来ているのではない。勤勉な態度を知っているから櫻岬はたじろいだ。ただでさえ苦い顔をされるのだ。親しく、憧れている相手だけに嫌われたくはない。
「吉良川だって、待ってるしさ。本当に平気なんだ!」
その名を出せば、想い合う2人なのだ。引き下がるかと思った。けれど宮末は困ったように眉を動かすだけだった。
「今は紅ちゃんのことだろ」
大きな手が年少者にやるみたいだった。見くびるな、ばかにするな、なめるなと怒る場面だったのかもしれない。しかし彼を飼主に、保護者に、兄貴分にしてしまったのは櫻岬本人だ。その自覚もある。
「じゃあちょっと休んでから行く。だから戻れよ」
「……分かった。無理はするなよ」
サメやシャチが海鳥でも喰らうかの如く、宮末は腕を広げ、浅く腰掛けていた甘えたの同期を包む。
「何かあったら言ってくれ」
「う、うん。あんがと。ほんと、助かる……」
抱擁が解かれ、彼が講義室に戻るまで、櫻岬は硬直していた。背後の窓から差し込む陽だまりを凝らし、視界が炙られるようだった。あの抱擁は何か、と疑問が湧き、だが他意の無いことは分かっていた。面倒見のいい男である。もし吉良川に見られていたらいい気はしないだろう。2人は想い合っている。いいや、知らず知らずのうちにさらにその先へ進んでいるのかもしれない。聡明で真面目な2人は気が合うのだろう。吉良川は宮末が好きだと言っていたではないか。友人なら応援するのが筋である。宮末とも友人ではあるけれど、彼の苦りきった笑みが物語っている。第三者は不要であると。同性愛に厭悪を示していたのが懐かしい。実際関わってみれば、事情も変わってくるものだ。
多動の癖がついたみたいに櫻岬は足でリズムをとりながら茫としていた。宮末は、その場凌ぎに集まって、その時間を何となく過ごす類いの友とは違う。ゆえに生きたまま友人をひとり失ったような寂しさがある。近くにいて遠くへ行ってしまったような切なさがある。
小中高のものと比べると音の外れたチャイムが鳴り、講義が始まるようだった。開始10分は遅刻扱いにならない。櫻岬も講義室へと戻った。
元いた席はすでに埋まって最後列に座った。どっと疲れてしまった。机に伏していると、背中をぽす、と叩かれた。吸着し包むようなその感触に安堵した。隣に来た者を見てしまう。喚きそうな唇に長い指が添えられる。
「し~」
柊だ。彼にふざけたようなところはなかった。タブレットのカバーを三角形に折り、キーボードでレポートを打ち込んでいる。元いた席から移ってきたらしい。隣からはぱちぱちタイピングが聞こえる。
櫻岬は腕の枕からちらと横書きの長い電子テキストを覗いていた。隣から頭を撫でられる。柔らかく優しい手付きはただの知り合いにするものではなかった。飼猫にされた気分だった。隣の席のやつは片手で漢字を変換している。
やがて90分の講義が終わった。やる気になったのは後半のほんの20分間くらいで、配られたプリントには空欄が目立つ。
「だいじょぶだった?」
「ン何が」
タブレットが手早く片付けられているのを所在なく眺めていた。
「具合悪かったんでしょ」
「お前の所為な」
講義を受けていた学生たちが背後や横に溢れ返る。その人混みの中には宮末と吉良川もいる。人の好い宮末は櫻岬の肩に手を置いて、一緒に来いとばかりだった。
「じゃあな、ひ~らぎ。ツラ見せんなよ」
柊は軽やかに笑っていたが、顔や目ですら櫻岬を追わない。散々弄んでいた吉良川に声をかけることもない。まるで知らない相手だったとでも言いたげな有様で、人混みに紛れていった。
宮末と吉良川と合流し、櫻岬はまたどんよりとした窮屈さを覚える。そして何かと理由をつけて別れてしまった。彼等はやっと意気投合した。それは望んでいたことで、喜ばしいことだ。吉良川が柊と別れたことは、思っていた以上の効果を齎した。宮末に対しても、櫻岬の希望としては、あの避けるような素振りを無くすだけで良かった。だがそれを通り越して長年の親友のようになっている。いいことではないか。そして彼は、己が孤独に気付いてしまった。だが寂しさはない。
「隣、いい?」
赤い服が目を惹く美女に声をかけられて、櫻岬はぎょっとして硬直した。気に入りの秘密基地というには外に隠れているわけではないが、人通りの少ない西キャンパスの、新しい建物の脇にあるベンチは、目立たないところであるから他の者がやって来るとは思わなかった。
彼女は宮末と柊の元交際相手の竹井七瀬だった。
「え……?うん………」
宮末と柊の元交際相手が隣に座ったとき、甘い香水が周囲に膨らんでいくようだったら。
「色々と、ありがとう」
「何かしましたっけ~?オレ……」
美女に対して、彼は鼻の下を伸ばし、でれでれと間延びした喋り方になっていた。
「嫌がらせされてたの、庇ってくれたでしょ。吉良川くんだっけ、あの人も」
「ほ、ほぇえ?」
彼は情けない声を上げて恍けることにした。
「自分の口から言うのが筋なのだけれど、松籟が居るでしょう。ああ……えっと、元カレでさ。だから吉良川くんにも、よろしく言っておいてくれる?」
「う、うん。へへ、でも、あいつも何のことだか分からなかったりして」
ちらちらと長く細いデニムパンツに包まれた脚を見てしまった。組まれているのがまた悩ましい。
用件は済んだものかと思われたが、彼女はまだそこにいた。沈黙がふと気拙くなってきた。ただ隣が空いていたために座った人と見做すには近い。かといって共通の話題が豊富なわけでもなかった。
「真八とは別れた」
彼女は縦長に並んだチョコチップクッキーの袋を開けた。そして差し出され、1つもらう。それは薄いプラスチックの受皿を伸ばして2人の間に置かれた。
「え、別れたんすか?」
知っていることだったが、しらを切った。裏で噂をされていたなどと、気持ちの良いものではないだろう。最近まで嫌がらせをされていたなら尚更そうだろう。
「うん……別れたら、丸く治まるっていうのもあるし……」
けれどもそれでは嫌がらせをしていた側の思う壺であろう。
「好きな人が他にできたらしくて」
「ええっ!」
これにも彼はオーバーリアクションをした。
「うっふっふ……でも仕方ない」
竹井七瀬は明るく笑ったかと思うと、いくらか神妙な面持ちになる。
「仕方ない?」
「わたしも元カレ捨てた側だからさ。紅くんもそういう経験、あるのかな」
「無いよ、ないない」
大袈裟に顔の前で手を振った。そして期待がふっと湧いた。このスタイルの良い美女が、もしかすると……
「そうなんだ」
「でもさ、宮末ってめっちゃいいヤツじゃん。男のオレからみてもパーフェクトなんだよな。女の子的にはダメ?付き合うのとはやっぱ違うんかな……後学のために……」
それは世間的に言って、訊いていいことなのか否か、彼には判断がつかなかった。しかし頼れる兄貴分が破局するのなら、この世の男の大部分が破局するに決まっている。櫻岬にとってはそう考えられるのだった。
「面倒臭いね、人間関係って」
櫻岬はふにゃけた顔で竹井七瀬を見ていた。彼女はその表情を見て噴き出した。
「人間関係?」
「うん。向いてなかった。価値観が違ったっていうか。そこのすれ違いを埋め合わせようとすると……どっちかが譲らなきゃいけないし。それもまた、重いでしょ」
櫻岬は兄貴分兼飼い主兼同期生に対するのとはまた違う、あざとい態度をみせた。
「ひ~らぎのこと?」
だが宮末についての説明を求めたのは櫻岬である。竹井七瀬は緩く唇を引き結んで首を振る。
「松籟のこと」
「あ~。ひゅーちゃー、優しいからさ。あんまりピンと来なかった。男同士だからかも?」
櫻岬は女を知っているが、知らなかった。徐々に冷めていく表情を、彼が読み取れる由もない。
「恋愛ってものが、途端に関係を腐らせるのかもね」
女の思考は微細なコードが複雑に絡み合っていて、そして本人たちは上手くそれを解け、元を辿り、仕分けができる。だが櫻岬はそうではない。
「オレの知らないフューチャーの話だったな」
「男と女って面倒臭い。あたしも男の子だったら……憧れだけで済んでたのかもね。人としては尊敬してる。でも……」
竹井七瀬は突然、俯いてしまった。
「ちょっと急ぎすぎたのかな」
「ケンカ?」
彼女は首を振った。櫻岬もまた宮末が喧嘩する様を想像したわけではなかった。諌めたりすることはあれど、怒ったりしたところは見たことがない。
「カップルらしいことしなかった。デートしたりはしたけどね。それだけ。小学生とか中学生とかみたいな付き合い方しかできなかった。気を遣わせたの。松籟の心のキズになってなければいいけど、男の子ってそういうの、気にしない……かな?」
「うーん。男の子って括っても、フューチャーはその辺の小物臭い男とは違うからな~。優しいし、頭良いじゃん。よく分かんないけど…… 」
櫻岬は宮末と吉良川の姿を思い浮かべていた。気分が重い。これからは、宮末と対するのに、吉良川へ気を遣わねばならないのかも知れない。
「フューチャーは、その辺の男とは違うからさ、七瀬ちゃんの思うようなことにはならないよ。忘れてるっていうとあれだけど、気にはしてないんじゃないかな。だからその、悪い方向には」
「ありがとう、紅くん。なんだか、接待させちゃったね」
「別に!全然、全然。フューチャーがすごいやつってことは、オレも知ってるもんな」
彼はへらへらと情けなく鼻の下を伸ばしていた。柊の元交際相手は華やかだった。柊は、ばかだ。
「じゃあ、吉良川くんによろしく」
竹井七瀬が離れていくとき、甘すぎない香水が薫った。櫻岬は背凭れに大きく身を預けた。宮末と吉良川の間に上手く割り込むことのできない自身にうんざりしてしまった。日差しの眩しさに目蓋を閉じ、その上に腕を乗せる。
「あ~……」
溜息を呻めきで誤魔化した。宮末のような懐の大きな男にはなれなかった。己の器の小ささを知るのである。
「櫻岬。ここにいたのか」
しわしわとした目を開いて、櫻岬は声の主を認めた。吉良川がぽつりと立っている。
「宮末は?」
「さっき別れた。宮末に用だったのか?」
「違うけど……一緒じゃないんだ、って」
吉良川はただでさえ寄りがちな眉根をさらに寄せた。
「俺は櫻岬に用があったんだけれど……」
「あ、マジ?何?」
「いや、その……櫻岬は、宮末に用があったのか?」
「無いよ。ただ、一緒にいるもんだと思っただけ。で?用って何」
櫻岬は純真無垢な目を向けていた。それが吉良川の口を噤ませていることに、彼は気付きもしない。
「そうだ、そういえば、七瀬ちゃんだっけ?―が、ありがとうってさ」
「何のことだ?」
吉良川は首を傾げ、困惑を示した。
「よく分からんけど。ま、ちゃんと伝えたぜ」
「俺もよく分からなかったが、一応受け取った。隣、いいか」
「もち、もち……」
櫻岬は隣を叩いた。ひとりのときは真ん中を陣取っていたが、先程まで同席者がいた。
「誰かいたのか」
「はぇ?何、探偵みたい」
「……別に。竹井さんか?」
「そうだけど」
隣に吉良川が腰を掛けた。そして少し前まで櫻岬がそうしていたように背凭れへ上体を預ける。眼鏡に覆われた目は、曲線を描いて閉じられていた。
「どしたん」
「少しだけ疲れた」
宮末といたせいだ。櫻岬は思った。否、宮末といて疲れるものだろうか。好きならば、癒されるはずだ。では他に理由がある。卑屈になったような考えに、彼はまた腹を立てた。
「徹夜でもした?」
「いいや」
「肩貸そか?」
妙な沈黙が流れた。冗談のつもりであったし、冗談ではあったけれど借りたいというのなら貸すつもりであった。
「櫻岬」
改まった呼び方に、呼ばれた本人はぎくりとしてしまった。
「何?」
彼はできるだけ、それが拒絶の色を持たないように努めた。
「……した、くて」
それは予想外の返答ではない。
「分かった」
「でも、」
立ち上がりかけた膝に手が置かれた。
「キス……したい」
櫻岬は一瞬だけ狼狽えた。
「櫻岬……」
繕ったような声で我に帰る。
「ん、いいよ。分かった」
吉良川とはそういう関係だ。互いに宮末には秘めておかねばならない、そういう関係なのだ。
「オレから行くな」
辺りを見回した。人はいない。それから吉良川を見た。
「すまない、櫻岬」
「謝るなよ。友達じゃん?」
そして一思いに、俯き気味な顔を掬い上げ、噛み締められている唇をぶつけた。
「あんま色気、なかったな」
相手の満足していないような顔も見ず、彼は照れ笑いで誤魔化した。
「櫻岬は、」
吉良川を見遣る。
「俺に気を遣っているのか。だから宮末といるとき、一人でどこかに行っちゃうのか」
心臓に槍でも一刺しされた気分になった。すぱりと綺麗に刺さった気分だった。だが櫻岬の顔には剽軽な笑みが満面に咲いている。
「ンなわけないじゃん。偶然だって。意識しすぎ。オレ別に、四六時中、宮末といるわけじゃないし」
「俺が宮末のことを好きだって、知ってるからだろう……?」
「そんなこと、忘れてたよ」
軟派で軽率げな笑みで糊塗し、嘘を並べ立てた。ちくりとも胸は痛まない。ただ息苦しさがあった。
「櫻岬」
「あんま気にしなさんな。オレはオレで、結構ひとりが好きなんだよ。友達と友達が仲良くなって、イヤなやつなんているわけないだろ」
嘘を並べたてたが、これは嘘ではなかった。吉良川と宮末の相性の良さが、嫌なわけではなかった。
「本当だな?」
「ホント、ホント。だって宮末と吉良川が仲良くなって、オレ、嬉しいもん。前からオレ、そういうスタンスだったじゃん」
おどけて、吉良川の肩をぺしりぺしり叩く。彼のほうが背が高い。しかし櫻岬にはそうは思えなかった。
「だから、オレたちの関係はバレないようにしよ」
吉良川は項垂れながら首肯する。宮末は"ホモが嫌い"なのだ。
櫻岬は、柊のしかつめらしい顔を見なかったことにした。
「本気なんだけど~?」
柊は拗ねたような口調で戯け、櫻岬を引き寄せると振り返らせて、自身に背を向ける形にした。それはつまり、櫻岬を離れていく2人の友人の背中に向けさせたことを意味する。
「損な役回り、自分で買っちゃうタイプ?」
「なんだよ、損な役回りって……」
「割り込んできなよ」
「あんたにはカンケーないだろ!」
ふん、っと櫻岬は背の高い同期のもとを去った。そして宮末にも吉良川にも知られない位置へ潜り込む。吉良川は宮末が好きで、宮末も吉良川を憎からず思っているけれど、宮末は何故か、何かしらの理由があって自分を苦手がっている―というのが櫻岬の見立てである。風邪をひいて迷惑をかけてしまったからか、それか、吉良川と気心が知れるようになって第三者が邪魔になったか……で、なければ、あの苦りきった表情の説明がつかない。
櫻岬はまったく、自分があの爽やかで寛容な人物を目にすると甘えたになっていることに気付いていないらしい。
宮末は優しく、寛大で、包容力のある清い男である。ゆえに、少し苦手がられたくらいでは櫻岬も相手を憎らしく思えなかった。何か事情があって、その事情はおそらく"正しい"のだ。彼の中に芽吹くのは怒りではなく寂しさである。
頬杖をついて、右下方にいる2人の後姿を眺めた。段々畑のようになった講義室は、教壇に近付くほど低い造りになっている。そして扇状に座席が設けられているのだった。
共に座る約束があったわけではない。以前から成り行きで合流したり、しなかったりであったのだ。だからここで、彼等が1人友人がいないと言って探す筋合いもないのである。
「ンヒっ」
頬に当たる冷たい感触に彼は跳び上がった。ガタ、と後ろの机の前面に建て付けられた座面も重みを失って撥ね上がる。室内の注目を集めてしまう。その視線の中には隠れているつもりだった彼の友人2人のものも含まれていたかもしれない。
「なんだよ!」
「へへ、かわい~。ボクも座るからもうちょっとあっち行って」
柊である。コーヒーの缶を片手にしている。3人分ほど空ける。だがすぐに距離を詰められた。隣に座るにしても近い。
「こっち来んなって」
「べいべと一緒がいいんだもん」
「オレはヤだ」
「でもここには居てくれるんだ?優し~ね、べにたん。いい子!」
抱擁はヘッドロックのようである。柊はボディラインを浮かせないゆとりのある服装ばかり着ている。今日もそうだった。まるで布団やクッションみたいに櫻岬は柔らかく包まれる。柔軟剤と洗濯用芳香剤がよく効いている。目眩に似た芳烈だった。
「べにたん」
「離れろって」
柊に揉みくちゃにされてようやく放される。彼はコーヒーの缶を差し出した。
「オレコーヒー飲まん」
「そうなん?べいべってガキなんだね。やーい、子供!子供!」
もう一度、馨しい抱擁に巻き込まれる。ぬいぐるみにされている。背中をぺしぺしと叩き、大きな図体ではしゃいでいる。
「べいべ、かわいい」
「かわいくねーし」
「かわいいから、好き」
「じゃあ顔面ボコボコにぶん殴られたら、もう好きじゃないってコト?」
ぬいぐるみになりながら揚げ足を取っていると、柊は抱き締めるのをやめて、ぬいぐるみを目の前に据えた。人懐こい男の戯れ合いで済んでいた空気感が変わる。
「なん……だよ」
改まった雰囲気に圧される。普段は蒟蒻みたいにふにゃりふにゃりと捉え所がないけれど、黙っていれば美青年なのだ。真面目腐った顔が近付く。櫻岬はぼけっとしていた。唇が塞がる。ここは講義室である。人がいる。だが騒がれることもない。それがマナーでエチケットで良識なのであろう。ただいくらか賑やかだった場内が静まり返る。
「お、ま、え……」
「深いのは、あとで」
「しねぇよ!」
櫻岬も周りの異変に気が付いた。顔を真っ赤にして机に伏せる。その背中に覆い被さるのが柔らかな布地と佳芳で分かる。だが反抗する気も起きない。
「おまえ、元は女の子が好きなんじゃないの」
「うん」
「じゃあなんでオレに構うの」
「別に男の子でも女の子でもどっちでもいい。可愛ければなんでもい~や。べいべも多分、可愛ければなんでもい~と思うよ」
櫻岬は机に伏せて、腕に顔を埋めたままだ。
「ンなワケあるか」
「あるよ」
背中にすりすりと頬擦りされているが、櫻岬は伏せたままである。
「紅ちゃん」
降ってきた声に、駄犬としての根性を煽られて、彼は頭を上げた。宮末がすぐ近くの通路に佇んでいる。
「ほぇ、ひゅ~ちゃ~……」
宮末はただ一直線に櫻岬を見下ろしていた。連れなど居らず、隣席者も居ず、一人しかいないかのような接し方で、その腕を取る。
「どったの」
「具合悪いのか」
背中に張り付いていた体温と重みがあっさりと退いていく。
「え……?」
「おいで」
優しい飼主みたいな男においでと言われてしまえば、彼の愛犬と自負してしまった以上、行かないわけがなかった。行く行かないの判断すらなかった。おいでと言われたら行くのである。判断も思案もない。櫻岬は大好きな飼主に連れられて講義室の外へ出た。
「荷物とか、平気か」
「うん……でも、なんで?」
講義室前の空間は待合室みたいに壁から座面が生えている。日当たりの良い南側の窓辺の席へと連れていかれ、櫻岬は座らされた。
「大丈夫か?熱は……?無さそうだけど、気持ち悪い?」
隣に座らず、対面に屈み、宮末の分厚く大きな手が額に触れたり、頬や首筋を探る。
「大丈夫だケド、なんで?」
心配されていることは分かった。そのような罪のない前科もある。しかし何を以って彼がそう思い至ったのか、櫻岬は自身の行動を振り返ってみるけれども見当がつかない。
「蹲っていたから……」
「ああ、へーき、へーき。ごめんな、心配かけて」
「あんまり無理すんな。休むか?」
少し過保護な感じのするこの同い年の兄貴分はまだ愛犬のように懐く友人の火照りを疑っている。
「講義始まるし、戻ってよフューチャー!オレほんと、へーき。紛らわしいことしてごめん。マジでへーき」
出てきたばかりの講義室から柊が現れ、無言のまま荷物を傍に置いていった。焦りが募る。これでは迷惑をかけてしまう。彼は大学に遊びに来ているのではない。勤勉な態度を知っているから櫻岬はたじろいだ。ただでさえ苦い顔をされるのだ。親しく、憧れている相手だけに嫌われたくはない。
「吉良川だって、待ってるしさ。本当に平気なんだ!」
その名を出せば、想い合う2人なのだ。引き下がるかと思った。けれど宮末は困ったように眉を動かすだけだった。
「今は紅ちゃんのことだろ」
大きな手が年少者にやるみたいだった。見くびるな、ばかにするな、なめるなと怒る場面だったのかもしれない。しかし彼を飼主に、保護者に、兄貴分にしてしまったのは櫻岬本人だ。その自覚もある。
「じゃあちょっと休んでから行く。だから戻れよ」
「……分かった。無理はするなよ」
サメやシャチが海鳥でも喰らうかの如く、宮末は腕を広げ、浅く腰掛けていた甘えたの同期を包む。
「何かあったら言ってくれ」
「う、うん。あんがと。ほんと、助かる……」
抱擁が解かれ、彼が講義室に戻るまで、櫻岬は硬直していた。背後の窓から差し込む陽だまりを凝らし、視界が炙られるようだった。あの抱擁は何か、と疑問が湧き、だが他意の無いことは分かっていた。面倒見のいい男である。もし吉良川に見られていたらいい気はしないだろう。2人は想い合っている。いいや、知らず知らずのうちにさらにその先へ進んでいるのかもしれない。聡明で真面目な2人は気が合うのだろう。吉良川は宮末が好きだと言っていたではないか。友人なら応援するのが筋である。宮末とも友人ではあるけれど、彼の苦りきった笑みが物語っている。第三者は不要であると。同性愛に厭悪を示していたのが懐かしい。実際関わってみれば、事情も変わってくるものだ。
多動の癖がついたみたいに櫻岬は足でリズムをとりながら茫としていた。宮末は、その場凌ぎに集まって、その時間を何となく過ごす類いの友とは違う。ゆえに生きたまま友人をひとり失ったような寂しさがある。近くにいて遠くへ行ってしまったような切なさがある。
小中高のものと比べると音の外れたチャイムが鳴り、講義が始まるようだった。開始10分は遅刻扱いにならない。櫻岬も講義室へと戻った。
元いた席はすでに埋まって最後列に座った。どっと疲れてしまった。机に伏していると、背中をぽす、と叩かれた。吸着し包むようなその感触に安堵した。隣に来た者を見てしまう。喚きそうな唇に長い指が添えられる。
「し~」
柊だ。彼にふざけたようなところはなかった。タブレットのカバーを三角形に折り、キーボードでレポートを打ち込んでいる。元いた席から移ってきたらしい。隣からはぱちぱちタイピングが聞こえる。
櫻岬は腕の枕からちらと横書きの長い電子テキストを覗いていた。隣から頭を撫でられる。柔らかく優しい手付きはただの知り合いにするものではなかった。飼猫にされた気分だった。隣の席のやつは片手で漢字を変換している。
やがて90分の講義が終わった。やる気になったのは後半のほんの20分間くらいで、配られたプリントには空欄が目立つ。
「だいじょぶだった?」
「ン何が」
タブレットが手早く片付けられているのを所在なく眺めていた。
「具合悪かったんでしょ」
「お前の所為な」
講義を受けていた学生たちが背後や横に溢れ返る。その人混みの中には宮末と吉良川もいる。人の好い宮末は櫻岬の肩に手を置いて、一緒に来いとばかりだった。
「じゃあな、ひ~らぎ。ツラ見せんなよ」
柊は軽やかに笑っていたが、顔や目ですら櫻岬を追わない。散々弄んでいた吉良川に声をかけることもない。まるで知らない相手だったとでも言いたげな有様で、人混みに紛れていった。
宮末と吉良川と合流し、櫻岬はまたどんよりとした窮屈さを覚える。そして何かと理由をつけて別れてしまった。彼等はやっと意気投合した。それは望んでいたことで、喜ばしいことだ。吉良川が柊と別れたことは、思っていた以上の効果を齎した。宮末に対しても、櫻岬の希望としては、あの避けるような素振りを無くすだけで良かった。だがそれを通り越して長年の親友のようになっている。いいことではないか。そして彼は、己が孤独に気付いてしまった。だが寂しさはない。
「隣、いい?」
赤い服が目を惹く美女に声をかけられて、櫻岬はぎょっとして硬直した。気に入りの秘密基地というには外に隠れているわけではないが、人通りの少ない西キャンパスの、新しい建物の脇にあるベンチは、目立たないところであるから他の者がやって来るとは思わなかった。
彼女は宮末と柊の元交際相手の竹井七瀬だった。
「え……?うん………」
宮末と柊の元交際相手が隣に座ったとき、甘い香水が周囲に膨らんでいくようだったら。
「色々と、ありがとう」
「何かしましたっけ~?オレ……」
美女に対して、彼は鼻の下を伸ばし、でれでれと間延びした喋り方になっていた。
「嫌がらせされてたの、庇ってくれたでしょ。吉良川くんだっけ、あの人も」
「ほ、ほぇえ?」
彼は情けない声を上げて恍けることにした。
「自分の口から言うのが筋なのだけれど、松籟が居るでしょう。ああ……えっと、元カレでさ。だから吉良川くんにも、よろしく言っておいてくれる?」
「う、うん。へへ、でも、あいつも何のことだか分からなかったりして」
ちらちらと長く細いデニムパンツに包まれた脚を見てしまった。組まれているのがまた悩ましい。
用件は済んだものかと思われたが、彼女はまだそこにいた。沈黙がふと気拙くなってきた。ただ隣が空いていたために座った人と見做すには近い。かといって共通の話題が豊富なわけでもなかった。
「真八とは別れた」
彼女は縦長に並んだチョコチップクッキーの袋を開けた。そして差し出され、1つもらう。それは薄いプラスチックの受皿を伸ばして2人の間に置かれた。
「え、別れたんすか?」
知っていることだったが、しらを切った。裏で噂をされていたなどと、気持ちの良いものではないだろう。最近まで嫌がらせをされていたなら尚更そうだろう。
「うん……別れたら、丸く治まるっていうのもあるし……」
けれどもそれでは嫌がらせをしていた側の思う壺であろう。
「好きな人が他にできたらしくて」
「ええっ!」
これにも彼はオーバーリアクションをした。
「うっふっふ……でも仕方ない」
竹井七瀬は明るく笑ったかと思うと、いくらか神妙な面持ちになる。
「仕方ない?」
「わたしも元カレ捨てた側だからさ。紅くんもそういう経験、あるのかな」
「無いよ、ないない」
大袈裟に顔の前で手を振った。そして期待がふっと湧いた。このスタイルの良い美女が、もしかすると……
「そうなんだ」
「でもさ、宮末ってめっちゃいいヤツじゃん。男のオレからみてもパーフェクトなんだよな。女の子的にはダメ?付き合うのとはやっぱ違うんかな……後学のために……」
それは世間的に言って、訊いていいことなのか否か、彼には判断がつかなかった。しかし頼れる兄貴分が破局するのなら、この世の男の大部分が破局するに決まっている。櫻岬にとってはそう考えられるのだった。
「面倒臭いね、人間関係って」
櫻岬はふにゃけた顔で竹井七瀬を見ていた。彼女はその表情を見て噴き出した。
「人間関係?」
「うん。向いてなかった。価値観が違ったっていうか。そこのすれ違いを埋め合わせようとすると……どっちかが譲らなきゃいけないし。それもまた、重いでしょ」
櫻岬は兄貴分兼飼い主兼同期生に対するのとはまた違う、あざとい態度をみせた。
「ひ~らぎのこと?」
だが宮末についての説明を求めたのは櫻岬である。竹井七瀬は緩く唇を引き結んで首を振る。
「松籟のこと」
「あ~。ひゅーちゃー、優しいからさ。あんまりピンと来なかった。男同士だからかも?」
櫻岬は女を知っているが、知らなかった。徐々に冷めていく表情を、彼が読み取れる由もない。
「恋愛ってものが、途端に関係を腐らせるのかもね」
女の思考は微細なコードが複雑に絡み合っていて、そして本人たちは上手くそれを解け、元を辿り、仕分けができる。だが櫻岬はそうではない。
「オレの知らないフューチャーの話だったな」
「男と女って面倒臭い。あたしも男の子だったら……憧れだけで済んでたのかもね。人としては尊敬してる。でも……」
竹井七瀬は突然、俯いてしまった。
「ちょっと急ぎすぎたのかな」
「ケンカ?」
彼女は首を振った。櫻岬もまた宮末が喧嘩する様を想像したわけではなかった。諌めたりすることはあれど、怒ったりしたところは見たことがない。
「カップルらしいことしなかった。デートしたりはしたけどね。それだけ。小学生とか中学生とかみたいな付き合い方しかできなかった。気を遣わせたの。松籟の心のキズになってなければいいけど、男の子ってそういうの、気にしない……かな?」
「うーん。男の子って括っても、フューチャーはその辺の小物臭い男とは違うからな~。優しいし、頭良いじゃん。よく分かんないけど…… 」
櫻岬は宮末と吉良川の姿を思い浮かべていた。気分が重い。これからは、宮末と対するのに、吉良川へ気を遣わねばならないのかも知れない。
「フューチャーは、その辺の男とは違うからさ、七瀬ちゃんの思うようなことにはならないよ。忘れてるっていうとあれだけど、気にはしてないんじゃないかな。だからその、悪い方向には」
「ありがとう、紅くん。なんだか、接待させちゃったね」
「別に!全然、全然。フューチャーがすごいやつってことは、オレも知ってるもんな」
彼はへらへらと情けなく鼻の下を伸ばしていた。柊の元交際相手は華やかだった。柊は、ばかだ。
「じゃあ、吉良川くんによろしく」
竹井七瀬が離れていくとき、甘すぎない香水が薫った。櫻岬は背凭れに大きく身を預けた。宮末と吉良川の間に上手く割り込むことのできない自身にうんざりしてしまった。日差しの眩しさに目蓋を閉じ、その上に腕を乗せる。
「あ~……」
溜息を呻めきで誤魔化した。宮末のような懐の大きな男にはなれなかった。己の器の小ささを知るのである。
「櫻岬。ここにいたのか」
しわしわとした目を開いて、櫻岬は声の主を認めた。吉良川がぽつりと立っている。
「宮末は?」
「さっき別れた。宮末に用だったのか?」
「違うけど……一緒じゃないんだ、って」
吉良川はただでさえ寄りがちな眉根をさらに寄せた。
「俺は櫻岬に用があったんだけれど……」
「あ、マジ?何?」
「いや、その……櫻岬は、宮末に用があったのか?」
「無いよ。ただ、一緒にいるもんだと思っただけ。で?用って何」
櫻岬は純真無垢な目を向けていた。それが吉良川の口を噤ませていることに、彼は気付きもしない。
「そうだ、そういえば、七瀬ちゃんだっけ?―が、ありがとうってさ」
「何のことだ?」
吉良川は首を傾げ、困惑を示した。
「よく分からんけど。ま、ちゃんと伝えたぜ」
「俺もよく分からなかったが、一応受け取った。隣、いいか」
「もち、もち……」
櫻岬は隣を叩いた。ひとりのときは真ん中を陣取っていたが、先程まで同席者がいた。
「誰かいたのか」
「はぇ?何、探偵みたい」
「……別に。竹井さんか?」
「そうだけど」
隣に吉良川が腰を掛けた。そして少し前まで櫻岬がそうしていたように背凭れへ上体を預ける。眼鏡に覆われた目は、曲線を描いて閉じられていた。
「どしたん」
「少しだけ疲れた」
宮末といたせいだ。櫻岬は思った。否、宮末といて疲れるものだろうか。好きならば、癒されるはずだ。では他に理由がある。卑屈になったような考えに、彼はまた腹を立てた。
「徹夜でもした?」
「いいや」
「肩貸そか?」
妙な沈黙が流れた。冗談のつもりであったし、冗談ではあったけれど借りたいというのなら貸すつもりであった。
「櫻岬」
改まった呼び方に、呼ばれた本人はぎくりとしてしまった。
「何?」
彼はできるだけ、それが拒絶の色を持たないように努めた。
「……した、くて」
それは予想外の返答ではない。
「分かった」
「でも、」
立ち上がりかけた膝に手が置かれた。
「キス……したい」
櫻岬は一瞬だけ狼狽えた。
「櫻岬……」
繕ったような声で我に帰る。
「ん、いいよ。分かった」
吉良川とはそういう関係だ。互いに宮末には秘めておかねばならない、そういう関係なのだ。
「オレから行くな」
辺りを見回した。人はいない。それから吉良川を見た。
「すまない、櫻岬」
「謝るなよ。友達じゃん?」
そして一思いに、俯き気味な顔を掬い上げ、噛み締められている唇をぶつけた。
「あんま色気、なかったな」
相手の満足していないような顔も見ず、彼は照れ笑いで誤魔化した。
「櫻岬は、」
吉良川を見遣る。
「俺に気を遣っているのか。だから宮末といるとき、一人でどこかに行っちゃうのか」
心臓に槍でも一刺しされた気分になった。すぱりと綺麗に刺さった気分だった。だが櫻岬の顔には剽軽な笑みが満面に咲いている。
「ンなわけないじゃん。偶然だって。意識しすぎ。オレ別に、四六時中、宮末といるわけじゃないし」
「俺が宮末のことを好きだって、知ってるからだろう……?」
「そんなこと、忘れてたよ」
軟派で軽率げな笑みで糊塗し、嘘を並べ立てた。ちくりとも胸は痛まない。ただ息苦しさがあった。
「櫻岬」
「あんま気にしなさんな。オレはオレで、結構ひとりが好きなんだよ。友達と友達が仲良くなって、イヤなやつなんているわけないだろ」
嘘を並べたてたが、これは嘘ではなかった。吉良川と宮末の相性の良さが、嫌なわけではなかった。
「本当だな?」
「ホント、ホント。だって宮末と吉良川が仲良くなって、オレ、嬉しいもん。前からオレ、そういうスタンスだったじゃん」
おどけて、吉良川の肩をぺしりぺしり叩く。彼のほうが背が高い。しかし櫻岬にはそうは思えなかった。
「だから、オレたちの関係はバレないようにしよ」
吉良川は項垂れながら首肯する。宮末は"ホモが嫌い"なのだ。
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