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A:神様のアイテム②

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 長さは30センチほどだろうか。古い洋館の重々しいドアの鍵穴とぴったり合いそうな、レトロなデザインの〈鍵〉だ。長年使い込まれた真鍮しんちゅうのような鈍い光沢を放っている。

「そいつは、【弁天鍵(べんてんキー)】といって、他人の【未来金庫】から好きなだけカネを奪い取ることができる優れものや。〈強奪キー〉なんて言うやつもおるが、由緒正しき弁財天のアイテムやからな。しばらくは特別に貸したるわ」

 だが、狗藤は心底、迷惑そうな顔つきである。
「あのぉ、蹴られたことは気にしていませんから、この左手を元に戻してください」

 予想外の申し出だったらしい。カノンはキョトンとしていた。
「おいおい、欲のない奴やな。そないなことを言われたのは初めてやで。【弁天鍵】の使い方一つで、世界一の大金持ちになれるっちゅうのに」
「えっ、そうなんですか?」

「そいつは【未来金庫】と同じでな、実在しているように見えるが、実体は【DOG(神の次元)】にあるんや。この次元に、かりそめに呼び出しただけや。もし、おまえが消したいんやったら、【弁天鍵】に向かって意識を集中してみぃ。ただ、『消えろ』って念じるだけで済むこっちゃ」

 狗藤が言われた通りにしてみると、【弁天鍵】の輪郭は次第に薄くなり、十秒もたたずに消え失せてしまった。見慣れた自分の左手が現れたので、狗藤は安堵の溜め息を吐く。

「飲み込みの悪いおまえに付き合って、いろいろと話してきたわけやが、今後、おまえには死ぬほど働いてもらう。性根《しょうね》を据えて、ついてきぃや」

「あの、すいません、話が見えませんが」
「今日からおまえは、下僕げぼく。つまり、私の犬っちゅうわけや」

 狗藤は文句を言おうとしたが、何も言えなかった。

 カノンが目の前で、一瞬のうちに黒下着を身につけたからだ。全身から放っていた光が封じられた結果、露出度は確かに減少した。しかし、黒下着の際どいカットのせいで、エロさは三割増しである。

 狗藤は眼を大きく見開き、鼻の穴から一筋の血をたらした。

「何や、刺激が強すぎたんか」カノンは呆れ顔で苦笑する。「我ながら、エロ可愛すぎるのは罪作りやな」

 今度は瞬時に、ミニドレス姿へと変化した。昨晩、居酒屋で見せた姿である。
「この格好でええか? ほら、これを使え」
 と、カノンはティッシュケースを放り投げた。まるめたティッシュを鼻の穴に詰めて、狗藤の興奮はようやく収まった。

「ええと、カノンさん。さっき、僕のことを、犬とかおっしゃいました?」
「ああ、言うたで。おまえは、私の犬や」
「それはちょっと勘弁してください。実は今、バイトが忙しくって」
「そうかそうか、忙しいんか。なら、こう言い直そう」

 カノンは満面の笑顔になる。次の瞬間、右脚がうなりをあげて、狗藤の左側頭部をとらえた。切れ味の鋭い見事なハイキックである。
「うだうだ言わずに、黙ってキリキリと、死にものぐるいで、私のために働くんやっ!」

 狗藤は再度のされてしまった。何とも、荒っぽい弁天様である。

「おおっと、もうこんな時間か。えらく無駄な時間を過ごしてそもうたで。こう見えても、私はメチャクチャ忙しいんや」
 そう言って軽く膝を曲げると、助走もつけずに軽々とジャンプした。
「詳しい話は、また今度な」

 カノンは重力を無視した跳躍力を見せた。不忍池を埋め尽くしたハスの葉の上を、ポーンポーンと飛び跳ねながら去っていく。

 狗藤は呆けた顔で、遠ざかっていく美女を見送った。マジシャンのイリュージョンのような、まるで現実感のない情景である。もし、二日酔いの幻覚ならいいが、そうではないことを狗藤は知っている。蹴られた左側頭部がジンジン痛むのがその証拠だ。

 まぁ、どうでもいいや。大きな溜め息を吐くと、狗藤は考えることを放棄した。理解不能の出来事があまりにも連続し、頭の許容範囲をとっくに超えていたからだ。
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