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しおりを挟む「…三吉さんが…?」
あのヒマワリの絵は、一葉の為のものだった。そんな事を聞かされたら、平常心ではいられない。だって、あの絵に心が震わされたんだ、それが葵と特別な関係にある一葉だったなんて、どうしたら落ち着いていられるのか。
それでも、絢也は葵が話してくれたのだからと、どうにか気持ちを落ち着けて話を促した。
「うん、あいつとは、学生作品の展示会で知り合ったんだ。小さな展示会だったけど、あいつの親父さんが展示会の主催者と知り合いだったみたいで来ててさ、俺も挨拶したんだ。それでその時、一葉も来てて。
最初は、金持ちの息子だくらいにしか思わなかったけど、話してみたら、真面目でまっすぐで、不器用で…」
葵は言いかけて俯き、軽く頭を振って、無理に口元に笑みを浮かべた。絢也からは背中しか見えないが、それでも葵がどんな表情を浮かべているのかが分かり、思わず視線を逸らしていた。
「…でもあいつは、俺との仲を騒ぎ立てられて、俺との関係をあっさり絶った。俺じゃなくて立場を取ったんだ。そうしなきゃならないのは、分かるけど…分かるけど、いきなり突き放されて、俺は記者にも追いかけられて。それまでの作品も、価値は無いって評価も覆されたりして、…はは、もう散々だったな」
葵はから笑い、はぁと深く息を吐いた。
「…ヒマワリの絵だって…あんな絵、すぐに破って捨てるはずだった。例え金を積まれたって、あいつを思って描いた絵がどこかにあると思うと、それだけでも許せなくて…いや、怖かったんだな、もしそこから俺と一葉の関係が知れたらどうしようって」
葵は小さく笑って「そんなこと分かるはずないのにな」と、顔を上げた。
「…あの絵は、思い出でもあったんだ。夢を存分に見ていられた頃の気持ちが詰まってて、でも同時に、夢の終わりを見た最悪な絵にもなった。もう、呪いみたい。捨てたくても捨てらんない、訳分かんないよ。
でも、絢也君に、あの絵を使いたいって言われた時、なんか手放せると思ったんだ。必要な人の手に渡る、そう思ったらさ、なんか、夢中で絵を描いてた時の事思い出して、ずっと蟠っていたものも受け入れられるような気がして」
葵はクラゲの水槽を見上げ、それからそっと目を伏せた。
「…俺、三年間、全然絵が描けなかったんだ。キャンバスでもチラシの裏でも、絵を描こうと思うだけで、線の一つも描けなかった。
絵を描く事がずっと怖かったんだ。でも不思議でさ、あの日、絢也君があの絵を必要としてくれた時、あの後さ、まるで嘘みたいに描けたんだ」
絢也が結依と共に帰って来た日、葵は絵を描きたいと思い、道具を並べてペンを持っても、やっぱり何も描けなかった。だけど、絢也がヒマワリの絵を必要としてくれたあの瞬間、過去も今の自分も、絢也がまとめて抱きしめてくれたような気がして、過去の思い出を手放せると思った。
そして、いざ絢也に絵を託してみれば、魔法にかかったみたいに手が動き、絵が好きだと改めて感じられた。
だから、困惑もした。絢也の存在が葵の中で大きくなればなるほど、同時に怖さも増していく。失う物が大きい程、傷も大きなものになると、葵は身を持って知っているからだ。
一葉を失った時のような痛みは、もう味わいたくなかった。
葵はクラゲの水槽に手をあて、水の中を漂うクラゲを見上げる。その横顔は、水槽の水がライトに反射して、キラキラと煌めき美しかったが、葵が俯いてしまうと、たゆたう水の煌めきは、涙のように葵の頬を染めた。
「あの記事読んで、軽蔑したろ」
「しませんよ。言ったじゃないですか、昔に何があったかなんて関係ない。俺は、今の葵さんの気持ちを聞きたいんです」
自嘲する声に、絢也は堪らず葵の肩を掴み、こちらに顔を向けさせた。葵の揺れる瞳は、怯えを必死に隠そうとしているかのように俯き、絢也も瞳を揺らしたが、もうその瞳を逸らすことはしなかった。
「…大丈夫です、俺は葵さんを信じてますから。怖いことなんか何もありません、今度は俺が葵さんを守る番です」
迷って迷って、葵は絢也を見上げる。目が合えば、耐えきれずといった様子で葵は顔を歪めた。
揺らがないその瞳に、胸が苦しくなる。塞き止めていたものが涙となって、溢れていく。
ライトにあたって零れる涙、その一つだって美しくて、愛しくて、絢也はそれをそっと親指で拭った。
「…ただ、一葉が好きだった。それだけだったんだ。あいつや、あいつの親父さんがどう思ってたのか、俺の絵が欲しかっただけなのか分からないけど、俺はただ好きで付き合ってただけなんだ。金なんか貰ってないし、売名とかじゃない…でも、周りは違った」
葵は顔を伏せ、頬に触れる絢也の手を包むように触れた。
「記者に写真撮られて怖かった。また何か好き勝手に書かれて、君に迷惑かけたらって、君が傷ついたらって、怖かった、俺は、この手に救われたから」
それから葵は、ぎゅっと、絢也の手を両手で包む。
「この手は凄いんだ。一瞬で俺の世界を変えたんだ。三年も怖くて描けなかったのに、気づいたらペン持って、描いてて、俺やっぱ絵がないとダメだって、自由になんかなれないって」
ぽろぽろと、涙が落ちていく。
「でもそれ以上に、この手を傷つけるのが、怖かった、失いたくなかった、君を、だから、その前に消えようって、」
しゃくり上げ始める葵を、絢也は優しく抱き締めた。
「そんな簡単に、傷ついたりしませんよ。記者に何書かれたって平気です」
「でも、世の中の目はそう見るんだよ、実際はどうあれ、インパクトのある字面を信じるんだ」
「それぐらいで俺はへこたれませんよ」
「ダメだ、俺がいたら、何度だって同じ思いをする」
「葵さんに会えなくなるくらいなら、なんてことありません!」
体を離し、絢也は葵の顔を覗き込む。
「俺達は、表面上はただの先輩後輩なんですから」
「だから、それは嘘だろ?」
「嘘じゃありません」
そう真っ直ぐに言われ、葵は意味が分からず困惑した。
「格好悪いから言いたくなかったんですけど…俺、本当にあなたと同じ高校の後輩なんですよ。卒業式の日、根暗な一年男子に、握手を求められませんでしたか?」
その問いかけに、葵は暫しきょとんした。そして「卒業式」と、呟いた後、何か思い出したのか、大きく目を見開いた。もはや涙など吹き飛んだ、といった様子だ。
「え、嘘だろ!?あの子が君!?だって背だって俺より小さくて、こんなキラキラじゃ…」
「はは、あなたが言ってくれたから、俺は変われたんです」
「俺、何言ったんだ…」と、焦る葵に、絢也の中で、卒業式の思い出が甦っていく。
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