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しおりを挟む朝食といっても簡単な物だ。トーストに、オムレツとウインナーを焼いて、カットサラダをただ脇に添えただけのワンプレート。昨日、冷蔵庫の中が空なのを知り、何かに使えるだろうと買っておいたものだ。
ダイニングのテーブルに二人分用意していると、絢也が髪を拭きながら戻ってきた。
「…!」
水も滴る何とやらだ、無防備なその姿に、葵は慌てて顔を背け、何気なくを装いながらカップを取り出した。昨夜キッチンを使わせて貰ったので、ある程度の食器の場所は覚えている。なので、変に挙動不審にならずに行動出来ただろう。まさか、男の湯上がりに胸を高鳴らせているなんて知られたら、きっと不快に思わせてしまう。
そんな葵の葛藤など露知らず、絢也は目を輝かせながらテーブルに向かった。
葵が平静を装いながらどうにかそこにコーヒーを差し出す、簡単な朝食だが、絢也はそれだけで嬉しそうだ。
「朝食べるの久しぶりかも!」
「…口に合えば良いですが」
早速席につき、いただきます、と弾む声を聞きながら、葵は少し躊躇いながらも彼の向かいに座った。
「美味しいです!」
そして、葵が席に着いたタイミングで、絢也は顔を上げて頬を綻ばせた。オムレツを美味しそうに頬張るその様子に、葵は数度目を瞬いて、それから肩の力が抜けていくのを感じた。
積み重ねた不安が不思議と緩んでいくようで、何も解決していないのに、絢也の美味しそうに食べる姿を見ていたら、何だか悩む気も失せてしまう。
「ただ焼いただけですけど…簡単な物ですみません」
「俺には、ただ焼くだけが面倒なんで。本当にありがたいです」
そう言って、絢也はパクパクとオムレツを口に放り込んでいく。
ただ焼くだけのものでも、これだけ美味しそうに頬張ってくれるなら、作った甲斐があった。
葵は思わず頬を緩める。なんだろう、この多幸感は。まるで大型犬に懐かれたみたいで気分が良い。
夢の続き、というか、行き場を失った所を拾ってくれた、その安堵感が続いてるからなのだろうか。
日の当たる場所は怖いのに、もう少しここに居たいと思ってしまう。
そんな風にぼんやりと彼を見つめていると、絢也が不意に顔を上げ、トーストを齧りながらにこりと微笑みを返してきた。まるでCMのワンシーンを見ているかのようで、思わず見惚れてしまったが、ややあって葵ははっと我に返った。慌てて自分の皿に視線を落とすと、ドクドクと騒ぎ始めた心臓を必死に宥める。
これもスターのなせるわざなのか、いつの間にか考える事を放棄している、それどころか絢也に見惚れている自分に、いけないいけないと頭を振る。このままいけば、何もかも忘れて、ずるずると日々を送ってしまいそうだ。その危機感に、葵は意を決して顔を上げた。
葵には、確めなくてはいけない事がある。
「三崎さん、あの」
「絢也です。絢也って呼んで下さいって昨日も言ったでしょ?俺の方が年下だし、もし外で声掛けられても、友達っぽくした方が良いじゃないですか」
ニコニコと絢也が言う。なんだか聞くまでもない気がするが、いや、まだ分からないと葵は再び口を開く。
「…じゃあ、絢也、くん」
「はい」
ニコッと返事され、思わず胸が高鳴った。なんでそんなに嬉しそうなのか。余計に聞きづらくなる。
「…実は昨夜のこと覚えてなくて…俺達、どんな話をしてたんでしょうか」
絢也は少し驚いて、それから戸惑った様子で眉を下げた。
「覚えてないですか?うちに住む約束したじゃないですか。葵さん、家が無いって、ヒモみたいな生活してたって」
嘘だろ、まさか話していたのか。
自分の事ながら信じられず、顔面蒼白になる葵だったが、絢也はそれでも嫌な顔一つしていない。それが葵には不思議だった。
「…あの、それ聞いて受け入れたんですか?俺のこと。何も知らないのに、それに俺、男だし」
「男の人だからですよ。丁度良いと思ったんです。男同士なら変な噂もたたないし、俺としては、同居人が増えただけで、しかもその人が家事をやってくれるなら助かりますし」
家事苦手なんですよね、と苦笑う絢也に、それでも葵は理解し難い顔だ。
「だとしても、どこの誰ともしれない相手ですよ?今までの人達は…その、俺を知って応援してくれてる人達っていうか」
「それなら問題ありませんよ」
「え?」
知らない相手ではない、という事かと、葵はきょとんとする。絢也はそっと目元を緩めた。
「…昨日会って、一緒に酒飲んで、他愛ない話を沢山して、もう知り合いも同然ですよ」
その言い分に、葵はがっくり肩を落とした。そういう事じゃない。
「そういう知ってるじゃなくて…みさ…絢也君はいつか人に騙されて痛い目に遭いますよ」
「心配ですか?」
「そりゃ、まあ…」
「会ったばかりの俺を心配してくれるなんて優しいんですね」
「別にそういうんじゃ…知らない人じゃないし」
言って、満面の笑みの絢也と目が合い、葵ははっとした。
「ね。もう、知った仲も同然でしょ?」
違う、それはただの揚げ足取りだ。そう言いたかったが、それでも満足そうな絢也を見ていたら、何だか何も言えなくなる。それどころか、少しの間ならそれも良いのかもしれないとすら思っている自分がいる。まだ次の居場所を見つけていないし、それを考えれば、助かるのは葵も同じだ。
絢也は有名人だし、絢也の側に居れば、今までよりも誰かの目に触れる機会が増えるかもしれない。自分が誰なのかを知られてしまうのが、過去を知られてしまうのが怖い。
それでも、少しだけなら。
「…本当に良いんですか?」
葵の返答に、絢也は嬉しそうに頷いた。
「勿論です!」
「じゃあ…、次の居場所が見つかるまで、よろしくお願いします」
「いつまでも居てくれて良いですよ!」
「…その気持ちだけ、有り難く頂きます」
少し寂しそうな顔をされたら、申し訳ない気持ちになる。彼は、何故こんなにも自分に懐いてくれたのだろうか。昨夜は確かに楽しかったと思う、記憶が飛ぶほど飲んでいたくらいだ。だけど、それだけだ。葵は絢也の事をテレビの中でしか知らないし、絢也だって、葵の事を何も知らない筈だ。
そうか、何も知らないからか、と思い至り、葵はそっと瞳を伏せた。
「葵さん、今日は時間ありますか?」
「え?あぁ…うん」
「なら買い物行きましょう、身の回りの物揃えないと」
「あぁ、それなら必要ないですよ。大体は荷物の中にあるから」
「…じゃ、お皿とかお箸とか!」
「家にあった余分な物を使わせて貰うよ」
「服は?下着や靴下とか」
「間に合ってる」
「洗顔は?シャンプーとか」
「あー、借りてもいいですか?」
「同じ匂いになっちゃいますね」
「…そうですね」
なんだこの会話、と思ったが、顔には出さないように努めた。絢也はずっと楽しそうだ。
「じゃ、デートしましょう」
「あー、デートですか……デート?」
「俺、久しぶりに休みなんですよ。どこか行きましょう」
「…先に、部屋作らなくて良いんですか?」
言いながら葵は、置きっぱなしの段ボール箱へと目を向ける。
「いつでも出来ますよ、そんなの。でも、葵さんとはいつでも一緒に居られないじゃないですか」
そう言って、絢也はまた少し寂しそうな顔をする。なんだか置き去りにされた子犬のような眼差しを見ていたら、駄目だとは言い出せなかった。
「…分かりました、行きましょう」
「やった!」
絢也は満開の笑顔でガッツポーズをした。
その姿は、あのコスメブランドのポスターに写っていた人物と同じにはどうしても見えなかったが、世間に認知されているクールな姿よりも、葵にはこちらの素顔の方が好感が持てた。
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