瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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多々羅たたらが食器を片付け、早速ゴーグルとイヤホンを装着して戻ってくる。愛はその様子に溜め息を吐きながら、テーブルの上に麗香のコンパクトミラーを置き、それに語りかけた。

コンパクトミラーの化身は、道具を使わずとも姿を現してくれた。化身にも何か訴えたい事があったのだろう。
現れた化身は、赤を基調としたアジアンテイストのワンピースを着ており、頭に花の飾りをつけた手のひらサイズの女性だった。

「初めまして、私は宵ノ三番地の瀬々市ぜぜいちです。麗香れいかさんが身につけていた指輪についてお聞きしたいのですが」

彼女は愛の翡翠の瞳を見ると、やはり怯えた様子を見せていたが、それでも、愛の表情や声を聞いている内にその気持ちも和らいできたのか、今度は泣き出しそうに表情を変えた。

「人の記憶は戻らないの?あんなに幸せだったのに…麗香は、本当に幸せだったのよ?」

そう悲しく訴える化身に、愛は化身と視線を合わせるように床に膝をついた。

「記憶が戻るかはこの先分かりませんが、記憶を失っても、結べる絆はあるかもしれない。その為に、何か知ってる事を教えてほしいんです」

多々羅は思わず愛の横顔を見つめた。
愛の言葉は、上辺だけのものではない、切に願う気持ちが見えて、多々羅はどこか安堵したように頬を緩めていた。
愛は、自分の家族とは距離を置いている、それを思えば、一度途切れた関係なんて、と言いそうだが、そうじゃなかった。それなら、愛だって結子ゆいこ達と昔のように…と、つい期待してしまう。

「麗香さんが指輪を外した所とか見てませんか?」

愛の優しい問いかけに、化身は涙目になりながら口を開いた。

「私は鞄の中だから見えなかったけど、今、修理に出されてる鞄が言ってたわ。さとしが麗香の指輪を外したって」
「それっていつか分かりますか?事故の日でしょうか?」
「えぇ、まだ麗香が眠ってる時だったって」
「それからは?どこにいるかとか、分かりませんか?」
「分からない、あの日から智とは別々になっちゃって、智の持ち物にも会えないから…」
「そうなんですね…事故の前は、喧嘩とかもなかったんですよね」
「私の知る限りは。私が眠ってる時は分からないけど…」
「そうですか…ご協力感謝します」
「…翡翠のあなた」

その一言に、一瞬、愛は固まった。
翡翠、その瞳の色は、恐れられる不吉なものだ。
愛の胸に嫌な思いが過ったが、化身が訴えたかったのは、愛を苦しめるものではなかった。

「私、噂は信じないわ。だからお願い、二人がまた一緒に居られるように協力してあげて。私達は、寄り添いたくても何の力になれないから」

切実に訴える化身からは、麗香への愛情に溢れている。その様子に、愛はそっと微笑んだ。持ち主をこんなに思い案じているのは、このコンパクトミラーが大事に扱われてきた証拠だ。この化身は、恐らくこの先も、禍つものになる事はないのだろうと愛は思う。
同時に、愛自身の事を恐れずにいてくれて、嬉しかった。

「勿論です、その為の探し物屋ですから」

愛がしっかりと頷くと、化身はほっとしたように微笑んだ。






翌日、愛と多々羅は麗香と共に、今は智だけが暮らしているマンションに向かった。

「いいんですか、お邪魔して」
「うん、あの日以来、私も来るのは初めてだけど、私の家でもあるから好きに来て良いって」

そう穏やかに言う麗香だが、家のドアを前に躊躇う様子を見せた。

「麗香さん?」
「あ、ごめんね…、このドアの先に、私は本当に入って良いのかなって」

困って笑う麗香に、多々羅は麗香の思う所に気づき、眉を寄せた。そして、躊躇う麗香に構わず、勝手にドアを開けてしまった。
麗香は焦ったが、玄関にはくたびれたサンダルだけがぽつんと置かれており、それを見てどこかほっとした様子だった。

「智さんが、麗香さんを待ってない訳ないじゃないですか。昨日友達に聞いたら、今も指輪してるって言ってましたよ」
「…そう、なんだ」

ほっとしたように肩を落とした麗香に、多々羅も表情を緩めた。
部屋に上がると、一人暮らしになったせいか部屋は多少散らかって見えた。キッチンにもゴミが溜まっており、色々山積みになっている。

「…あの、お、お茶出しますね、あるかな」
「麗香さん、いいですよ。それに…もし良ければですけど、片付け手伝いましょうか」

多々羅の言葉に、麗香は同意して苦笑った。こんな状態でも、愛のゴミ屋敷よりは断然ましだった。

「俺は、少し部屋を見させて貰っても良いですか」

愛が尋ねると、麗香は申し訳なさそうに頷いた。

「ごめんなさい、まさかこんなに散らかってるなんて」
「こんなの可愛いもんですよ」

多々羅の言葉に、愛は思わずじとっと多々羅を睨んだが、多々羅はあえて、カラッと笑うだけだ。
愛は一つ溜め息を吐いて、二人に背を向けた。何にせよ、麗香の視線を逸らせれば、それでいい。

麗香が片付けにキッチンへ入るのを見て、愛はパイプを咥えて、作り出した煙を和紙に吹き掛けた。すぐに足跡が現れたが、それはその場で回るだけで、すぐに消えてしまった。
足跡が現れたので、麗香の探したい思いは本物だ。それでも足跡がすぐに消えてしまったのは、麗香が探しても見つけられなかった通り、この家の中に指輪が無いからだろう。
愛は、部屋の中に入る許可を得て、智の部屋の中を探った。智の持ち物に話を聞く為だ。入ったのは仕事部屋だろうか、机の上にパソコンが置かれていて、脇に棚がある位の、やけに殺風景な部屋だった。

「…無いな」

化身になる物というのは、持ち主からの思いが込められた物や、物自身が何か主張したい思いに突き動かされた時という、曖昧な物だ。智の部屋からは、物を大事にしている印象は窺えたが、化身として姿を現してくれそうな物が見つからなかった。手当たり次第に声を掛けても、物の気持ちがこちらに向かなければ、姿を見せてくれることはない。それが探し物である場合はパイプの煙を使って、化身を引き出す事も出来るが、そうでない場合は、無理に引き出す事は極力避けたかった。こうして姿を見せないのは、愛を恐れている場合もある、こんな時、もっと上手く立ち回れたら良いのにと、愛は器用になれない自分に嫌になる。

それでも、自分を偽って化身と対峙する事は愛には出来ず、どうしようかと頭を悩ませた。
このまま何もヒントが得られないと、智に直接聞かなくてはならない。もし、智が指輪を隠したなら、すんなりと話を聞いてくれるだろうか。

愛が思案していると、「もし」と小さな声が聞こえた。驚いて振り返ると、デスクの上にちょこんと腰掛けている化身の姿があった。

見た目は初老の男性で、着物を纏い、頭には帽子を被っている。彼の傍らには黒い万年筆があり、その手にも、万年筆を細くした様な杖を持っている事から、彼は万年筆の化身のようだ。

「初めまして、私は宵ノ三番地の瀬々市と申します」

愛は相手の方から姿を見せてくれた事に安堵して、身を低くして挨拶をした。化身は愛の瞳を見ても恐れる様子はなく、しょんぼりと肩を落として愛を見上げている。

「私は、智の万年筆だ。他の物達は、翡翠の瞳が苦手でな、顔を見せない事を許しておくれ」
「いえ、こちらこそ押し掛けるような真似をして、申し訳ありません。あなたは、どうして?」
「麗香の声が聞こえてな、彼女は智の元に帰って来てくれたのだろうか?」
「…指輪を探しに来たんです。彼女は智さんの記憶を失い、智さんとの関係について悩んでいるようです」
「そうか…」

化身は、寂しそうに話を続けた。

「智が、どうやら引っ越しを考えてるみたいでな」

それには、愛は目を丸くした。

「ここを引き払うって事ですか?どうして?」
「さてな…私は従うだけだからな」

智は、麗香との関係を絶とうとしているのか、まだ麗香は別れるとは言っていないのに。

「麗香さんの指輪の事は知りませんか?その指輪が見つかれば、何か、二人が共に居られるような、きっかけが得られるかもしれません」

愛にとっては、麗香も智も親しくないので、正直、二人が夫婦でいようが別れようがどちらでも良い。それは、二人で決める事だ。ただ、目の前の化身の寂しそうな姿を見ていたら、無関心のままではいられなかった。彼はまだ、二人の側に居たいと望んでいる、その気持ちを大事にしたかった。

その思いは、万年筆の化身にも届いただろうか。彼は、そっと表情を緩め、それから考え込む仕草を見せた。

「指輪の事は指輪に聞くのが良いだろう、智の指輪は、智が対の指輪を土に隠したって言っておったぞ。ただ、場所までは分からんでな」
「…そうですか、ご協力感謝します」
「あまり力になれんでな、二人をよろしく頼むよ。智の下手くそな鼻歌が聞けなくて寂しいんだ」

智は、気分が良いと鼻歌を歌うらしい。毎回調子が外れてるというが、今は家に帰ってきても、それを聞く事は無くなってしまったようだ。

智は、本気で麗香と別れる気でいるのだろうか。

愛は化身が戻った万年筆をそっと撫で、部屋を後にした。



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