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しおりを挟むそんなアパートのキッチンにて、高野なずなは、肩までの髪を後ろに纏め、コンロを前に真剣な眼差しを向けていた。
背も顔も成績も、何かが秀でている訳でもなく、大体が平均的な二十八才。突出する物を持たない彼女だが、夢があった。夢の為なら、寝る時間を減らしてでも頑張る事が出来たし、普段は出せない勇気も出せた。お陰で度胸だけはついたかもしれない。
夢でも目標でも、頑張れる何かがあるのは良い事だ。それがあるだけで、いつだって前向きになれたし、学校の授業には注げなかった勉強への情熱も注げてしまう。お金がなくても、いつかの夢の為なら少々のひもじさだって我慢が出来た。
そのように、なずなの心は無敵だった。一ヶ月前までは。
今、なずなが熱心に視線を注ぐのは、熱したフライパンに落とした生卵の行く末だ。このアパートでは、住人達は共に食事を摂るので、皆の為に朝食を作っている所だ。
先程、彼女は平均的だといったが、料理の腕前だけはすこぶる悪かった。誰もがほぼ失敗しないで作れるであろう目玉焼きを、彼女は六日連続で焦がしている。つまり、今日失敗すれば、一週間連続で苦い目玉焼きを食べる羽目となるわけだ。それがまだ自分だけなら仕方ない、自分のせいなので諦めもつくが、今、フライパンの上には目玉が二つある。なずなの他に、確実に犠牲になる者が一人いる。
それは、なずなの隣に立ち、料理作りを見守っている青年、フウカだ。
赤茶の髪に、人柄が滲み出ているような優しく穏やかな眼差し。端正な顔立ちで、スラリとした体躯の青年だ。彼は室内でも必ず革のグローブをはめていた。薄手の物だが、料理をする際も、料理用のグローブを用意していた。これは潔癖症というわけではなく、不用意に誰かが彼の手に触れてしまうと危険だからだという。
フウカは一見普通の青年に見えるが、人間ではない。火の鳥、妖だった。
とにかく、なずなは彼の為にも、目玉焼きを焦がすわけにはいかなかった。
「なずなさん、そろそろじゃないかな」
「い、今ですか?」
恐々卵の裏に菜箸を差し込み、どうにか皿に移す。二つの目玉焼きは、なずなが作ったとは思えない程キレイで、心なしか輝いてすら見えた。
「わ、凄い…!焦げてない!焦げてないですよ、フウカさん!」
感動だ、初めてフライパンの上の物を焦がさないで出来たからだ。
「あらあら、今日はご機嫌ね」
そう言いながら、喜び満ちるキッチンに現れたのは、色香を存分に纏った女性だ。
水色の長い髪を右肩に寄せて垂らし、豊満な胸元を大胆に開けたワンピースを身に付けている。たれ目がちの瞳は、色気だけでなく包容力を感じさせる美しい女性だ。
彼女は水の妖で、マリンという。だが、「マリリンって呼んでね」と言われてから、なずなだけは彼女の事をマリリンと呼んでいる。あの同名の映画スターにもひけをとらない色気と美しさなので、マリリンというあだ名に違和感はなかった。
「それにしても今日は暑いわね、湯立っちゃいそう」
ほう、と、一際色っぽく吐息を零すマリンの足元を見て、なずなはぎょっとした。マリンの足先は形を変え、くるぶしから下が水に浸かっているみたいに見える。だが、広がる水溜まりに深さはない、マリンの足が溶けて水になってしまっていた。
「マ、マリリンさん!足が、水、水になってる!」
「えー?この方が楽なのよー?」
「床板腐っちゃいますから!お風呂と庭以外で水になるのは禁止です!」
「もぅ、厳しいのね…」
とろん、と喋りながら頬を膨らますも、マリンは言われた通り、足を人のものに戻していく。彼女は水の妖なので、体を水にする事が出来るようだ。
通常の背丈に戻ったマリンは、なずなより背が高く、モデルみたいにスタイルは抜群だ。彼女は、「あら」と喜びの表情で、なずなの手元を覗き込んだ。綺麗に仕上がっている目玉焼きを見て微笑んでいる。
「美味しそう、朝食が楽しみね」
「任せて下さい!」
張り切るなずなに、マリンはまるで妹でも見つめるように微笑んで頷くと、テーブルへと向かった。
「さぁ、人数分作りましょうか。僕はお味噌汁炊きますね」
「はい!」
上達すれば楽しさも増してくるもの。この調子で頑張ろうと、なずなは意気揚々と卵をフライパンに落とし入れたのだった。
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