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しおりを挟む寮から事務所までは、歩いて十分程の距離にある。春翔は学校へ向かう和喜と真尋を送り出すと、せめて洗い物位はしようと再びキッチンへ向かった。それから身支度をしても、十分出社には間に合う距離と時間だ。しかし、春翔が戻ると既にリュウジがキッチンに立っており、ユキはのんびりとダイニングでお茶をすすっていた。
「リュウさん!洗い物くらい僕がやりますから!」
「いいって、いつもやってもらってるんだし」
「そーそー、春ちゃんは出掛ける準備してきな。後はぜーんぶリュウがやってくれるから」
「お前はたまには手伝ったっていいんだぞ、ユキ」
「俺はお客さんだからさ」
「自分専用の茶碗は、普通人ん家には無いんだけどな」
「ねーねー春ちゃん!」
「聞けよ」
リュウジの苦み走った顔を気にも止めず、ユキは春翔に話題を向ける。
「春ちゃんもさ、一緒に撮影の下見に行ってみない?」
「え?」
突然の事に、春翔はきょとんとする。
「仕事終わったらさ、神社においでよ。今さ、映画で神社が使われるって事で、それに便乗してイベントやろうって色々計画しててさ、リュウも協力してくれる事になってるんだよね。その打ち合わせも含めてさ、今晩顔見せがあってね。春ちゃんあの小説のファンでしょ?あの作品に便乗するならファンの意見も聞きたいし、ちょっと顔出さない?」
思わずつられてしまうようなユキの笑顔に、春翔は表情を緩め、しかしそれは申し訳なさそうに歪んだ。
「…そういう事でしたら僕よりも適任が、」
「それだけが理由?」
「え?」
問われ逸らした視線を向けると、真っ直ぐに見つめるユキの瞳とかち合う。その瞳は、いつもの陽気な人懐こいものと違い、鋭く何かを見抜こうとしているようで落ち着かない。ドクドクと心臓が騒ぎだし、同時に困惑する。
僕は何を恐れているんだろう。
知らず焦る心に動揺する春翔、その様子を見て、リュウジは春翔の肩に手を置き、ユキの視線から逃すように春翔の体を反転させた。
「ほらほら、あんまりのんびりしてると遅刻するぞ!」
「あの、」
「別に無理に来いとは言ってねぇよ、ユキも強引な聞き方するな」
「…そうだね。ごめんね、春ちゃん」
苦笑うユキはいつもの表情で、春翔はほっと息を吐く。リュウジに背を押される形で慌てて身支度を済ませると、春翔は仕事に向かった。春翔が寮を出ていくと、リュウジは溜め息を吐いてユキに向き直った。
「おい、あんな聞き方ないだろ」
ユキは「分かってるよ」と、唇を尖らせた。
「リュウの気持ちは分かるよ、俺だって春ちゃんを傷つけたくない。けど、これは大事な事だ。春ちゃんの事をはっきりさせないと、俺達は動けない。もし望んでいる事なら無理に連れ出さなきゃいけないし、本当に気づいていないなら、忘れてしまってるなら、言わなきゃいけない。もう、動き始めてるんだから」
落ち着かない気持ちに急かされるように、春翔は急ぎ足で事務所に向かった。
芸能事務所STARSは、少々古びた三階建ての小さなビルを所有している。レイジのスターとしての功績を知る人から見れば、都心に佇む高層ビルを想像するかもしれないが、現実はどこにでもあるような雑居ビルだ。レイジの活躍を知る人々は、ここがレイジの事務所かと拍子抜けするかもしれない、春翔もその中の一人だった。
春翔がSTARSの社員になったのは、就職活動が上手くいかず落ち込んでいた時、街でレイジに声を掛けられたからだ。
「君、随分浮かない顔してるね」
一休みしようと駅前広場のベンチに腰掛けた時だった、深みのある落ち着いた声に引き寄せられるように顔を向ければ、帽子を目深に被り、サングラスとマスクをした男がこちらを見つめていた。細身ながらしっかりとした体躯、背も高そうなその男は明らかに普通とは思えず、もし不審者なら力では敵いそうもない、これは適当にあしらって席を立とう、そう思ったのだが、その男は春翔の心を読んでいたかのようにサングラスとマスクを取り、名刺を差し出した。その顔を見た瞬間、春翔は驚き呆然とその男を見上げた。
「怪しい者じゃないよ、実は新しいスタッフを探していてね。僕と一緒に仕事してみない?」
表舞台から去った大スターは、現役のアイドルより輝いて見えた。春翔は彼の放つオーラに圧倒され、まるで現実が受け止めきれていない状態だった。だって目の前にいるのは、日本中を虜にしたまま姿を消した、久世レイジその人なのだ。しかも、十年以上経っても全く姿が変わっておらず、その事にも驚きだった。
そんな春翔に、レイジは「一度会社に来てよ」と、柔らかな物腰ながら強引に約束を取り付け、そして、春翔はろくな面接もないまま、あれよあれよという間にSTARSの一員となった。
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