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8 理性と本能の狭間で揺れ動く

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 車の中には、濃厚な甘い匂いが充満している。
 運転席と後部座席の間はガラス張りになっていて、カーテンがしかれよりいっそう匂いは濃いものになっていた。
 甘い匂いにすっかり息をあげて動けなくなってしまった俺は、今、夏目の膝を枕に横たわっている。
 ぐらぐらと揺れる視界。
 熱い身体。吐く息も熱い。
 なんでこんな風に俺の身体はなってしまったのだろう。

「まるでオメガだね。オメガはアルファのフェロモンにあてられるとこんな感じだよ」

 言いながら彼は俺の頬をつーっと撫でる。
 たったそれだけなのに、俺は身体を震わせ声を漏らした。

「あ……」

「まあ、発情期のオメガはもっと理性も完全に失って、ほしい、早くちょうだいっておねだりしてくるんだけど。君はベータだものね」

 おねだりってなんだよ。
 そんなことするわけないじゃないか。
 俺はベータで、俺は男だ。

「なつ……なに考えて……」

「朱里」

 咎めるような鋭い声に、俺は胃のそこが冷える感じがした。

「名前で呼ぶように、言ったよね」

 手は優しく頬を撫でるが、声は冷たく響く。
 従わなくちゃいけないような気がして、俺は言い直した。

「飛衣……どこいくつもり……」

「そのままじゃ帰れないだろうから、うちにつれていくつもりだよ」

 うちにつれていく。
 言葉を反芻し理解したとき、俺はゆっくりと身体を起こし夏目を見つめた。
 彼は微笑んで、俺を見ている。

「何、で家……」

「その熱を、解放してあげるよ」

 熱を解放する。
 その言葉の意味を、理解したくなかった。
 俺は首を振り、呻くように言った。

「そんなの……いらない、から……」

 駄目だ、息をするたびに匂いが俺の中に入り、身体を、脳を侵していく。
 オメガみたいだと、夏目は言った。
 今までアルファに関わったことがないからよく分かんねぇけど、俺はベータなのに、アルファの匂いに充てられて、発情してるってことか?
 んなことあるかよ……?
 今までそんなことなかったのに。
 そもそも、身近にアルファなんていなかったけど。

「だって、この間助けてくれたお礼、してないしね? ちょうど、周りにいるやつらはあらかた食べたし、見合いにも飽きてたから丁度いい」

 今、なんて言った?
 駄目だ、頭がまわらない。
 車ががたん、と揺れ、俺は思わず夏目に抱きついた。

「う……あ……」

 匂いが身体中にまとわりつき、俺の体温は徐々に高くなっていく。

「ほら、俺が触っても君にはなんにも起きないのに、匂いはわかるんだから面白いよね」

「なんにも、て……う……あ……」

「言ったよね? 俺は精神干渉ができるって。最初、君をこの部屋に連れてきた時、君に触ったけど君には力が通じなかった。なのに匂いは通じるんだもん。ベータなのにオメガの性質を持っているなんて。オメガに擬態するオミと言い、君と言い、ほんと、変わった人間が多いよ」

 言いながら、夏目は俺の背中へと手を回し、耳たぶをぺろり、と舐めた。

「ひ、あ……」

 ベータなのにオメガの性質を持っている。
 そんなことあるのかよ?

「ねえ、朱里。最近よく俺の事、見てたよね?」

 言いながら、夏目はブレザーの上から背中を撫でる。
 
「う……あ……んなこと、してな……」 

「見てたよ、君は。気がついてないの? ずっと俺のこと、目で追ってたじゃない? 俺がオミに話しかけているときも」

 オミ。
 その名前を聞くとなぜか心がざわついてしまう。
 俺が知る限り、彼はよくオミに話しかけていたと思う。その度に素っ気ない態度をとられて。
 それでも話しかけ続けるのはきっと理由があるのだと思っていた。

「お、まえは……オミが、好き……なんじゃあ……」

「違うよ」

 はっきりと明確に、彼は否定した。
 て、え?

「彼はアルファだよ。オメガに擬態してるけど、あれは彼の匂いじゃない。なんでそんなことしてるのか聞いたけど、教えてはくれないんだよね」

 オメガに擬態しているアルファ。
 そんなのがいるのか?
 なんで、何のために?
 そんなことしたって、いいことないじゃないか。
 オメガの発情期は、ベータにとっても興味の対象で誘拐事件だって起きたりしている。
 オメガに擬態するメリットは何にもない。

「今は、彼のことはどうでもいいよ。まあ、オミもいつかは欲しいって思ってるけど、なかなかしぶといんでよね。彼にも俺の力は通じないし」

「う……あ……」

「君は、俺に興味があるんじゃないの? だから、俺が誰と話しているのか、誰と一緒にいるのか最近ずっと見てたでしょ?」

 そんなに俺は、夏目を見ていただろうか?
 ……そう言うつもりは全然ないのに。
 思い返してみれば、確かに夏目の言う通りかもしれない。
 今日だって、夏目がオミに話しかけ、フラれる姿を見ている。
 ……そして、別の友人たちと話す姿も。
 やばい、夏目の言う通りじゃねえか。
 俺は……無意識に夏目を目で追っていた。

「もうちょっと駆け引き楽しみたかったんだけどなあ。ねえ、朱里。俺から逃げたい?」

「ひ、あ……」

 耳元で囁かれ、俺は思わず声を漏らす。
 逃げたいに決まってる。
 俺はベータだ。そんな暇つぶしの玩具にされたくはない。

「やだ……俺、帰る……」

 首を振ると、甘い匂いがまとわりついてきて、俺は大きく息を吐いた。
 やばい。またぐらぐらする。
 
「そんなに苦しそうなのに? 帰って自慰でもするの?」

 ストレートに問われて、俺は顔中が紅くなるのを感じた。
 んなこと言えるかよ……!
 それに今、俺のモノからはじわりと先走りが溢れ、下着を濡らしている。
 触ってもいないのに、なぜ俺は欲情しているんだ。
 全部この匂いのせいだ。匂いが俺を惑わせる。
 こんなこと考えていいわけないのに。
 この熱を解放してほしいとか、気持ちよくなりたいとか。
 そんなこと考えちゃいけないのに。
 なのに俺は……目の前のアルファに囚われてしまう。

「欲望に溺れきらないのが、ベータの特徴かな。オメガなら、欲望に従って自分から抱いてと叫ぶんだけどね」

「俺は、そんなこと……」

「わかってるよ。君がそんな風に泣き叫ぶわけがないことくらい。理性と本能の狭間で揺れ動いて、抗っている姿に俺は煽られているんだ」

 悪趣味だ。
 そう思うのに、身体が動かない。
 車が静かに停車したのが、僅かな揺れの違いでわかった。

「とい……俺……」

 帰りたい、という言葉は口付けに飲み込まれていく。
 逃げようとしても頭を手で押さえられ、それは叶わなかった。
 舌が唇を舐め回し、俺の口を開こうとする。
 けれど、無理に口をこじ開けようとはしてこなかった。
 ゆっくりと、少しずつ俺の硬く閉じた唇を舐め、ほぐしていく。
 結局舌は入ることはなく、唇が離れていってしまった。俺はすっかり息をあげ、ぐったりと夏目にしがみついた。
 ドアが開く音が聞こえる。

「着きましたが、彼、どうされるんですか」

 抑揚のない、若い男の声が聞こえる。
 きっと運転手だろう。姿は見ていないが、車に乗る前に声を聞いた気がする。

「部屋に連れていくよ」

 そう言って、彼は車から降りると俺を抱き上げた。
 俺だって男だ。体重だってそこそこある。なのに、同じ男に抱き上げられるとか。
 夏目のほうが背は高いが、大して体重差はないだろう。そんな相手に軽々と持ち上げられるとか。
 正直信じられないが、彼はすっかり動けなくなってしまった俺を家の中に運んで行った。
 靴を運転手に脱がされ、俺は夏目の部屋へと連れ込まれてしまう。
 大きなベッドにゆっくりと下ろされ、彼は離れていく。
 相変わらず、俺の身体には甘い匂いがまとわりついていた。
 このまま匂いに溺れたほうが幸せだろうか?
 抗って、理性と本能の狭間で苦しむより、その方が楽じゃないか?
 そんな考えがよぎっては消えていく。
 この状況から逃げる手段なんて思いつかないし、身体が動かない以上どうにもならない。
 なら――
 このまま、彼の好きなようにさせた方が、楽じゃないだろうか?
 いや、でも俺は男で、ベータだ。
 男にいいように身体を触られるとか……最悪抱かれるとか、そんなの嫌に決まっている。
 何が最善なのか考えれば考えるほどわからなくなっていく。
 ただ俺は、ベッドに横たわり、ぼんやりと夏目がブレザーを脱ぐのを見つめた。
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