上 下
8 / 18

8 理性と本能の狭間で揺れ動く

しおりを挟む
 車の中には、濃厚な甘い匂いが充満している。
 運転席と後部座席の間はガラス張りになっていて、カーテンがしかれよりいっそう匂いは濃いものになっていた。
 甘い匂いにすっかり息をあげて動けなくなってしまった俺は、今、夏目の膝を枕に横たわっている。
 ぐらぐらと揺れる視界。
 熱い身体。吐く息も熱い。
 なんでこんな風に俺の身体はなってしまったのだろう。

「まるでオメガだね。オメガはアルファのフェロモンにあてられるとこんな感じだよ」

 言いながら彼は俺の頬をつーっと撫でる。
 たったそれだけなのに、俺は身体を震わせ声を漏らした。

「あ……」

「まあ、発情期のオメガはもっと理性も完全に失って、ほしい、早くちょうだいっておねだりしてくるんだけど。君はベータだものね」

 おねだりってなんだよ。
 そんなことするわけないじゃないか。
 俺はベータで、俺は男だ。

「なつ……なに考えて……」

「朱里」

 咎めるような鋭い声に、俺は胃のそこが冷える感じがした。

「名前で呼ぶように、言ったよね」

 手は優しく頬を撫でるが、声は冷たく響く。
 従わなくちゃいけないような気がして、俺は言い直した。

「飛衣……どこいくつもり……」

「そのままじゃ帰れないだろうから、うちにつれていくつもりだよ」

 うちにつれていく。
 言葉を反芻し理解したとき、俺はゆっくりと身体を起こし夏目を見つめた。
 彼は微笑んで、俺を見ている。

「何、で家……」

「その熱を、解放してあげるよ」

 熱を解放する。
 その言葉の意味を、理解したくなかった。
 俺は首を振り、呻くように言った。

「そんなの……いらない、から……」

 駄目だ、息をするたびに匂いが俺の中に入り、身体を、脳を侵していく。
 オメガみたいだと、夏目は言った。
 今までアルファに関わったことがないからよく分かんねぇけど、俺はベータなのに、アルファの匂いに充てられて、発情してるってことか?
 んなことあるかよ……?
 今までそんなことなかったのに。
 そもそも、身近にアルファなんていなかったけど。

「だって、この間助けてくれたお礼、してないしね? ちょうど、周りにいるやつらはあらかた食べたし、見合いにも飽きてたから丁度いい」

 今、なんて言った?
 駄目だ、頭がまわらない。
 車ががたん、と揺れ、俺は思わず夏目に抱きついた。

「う……あ……」

 匂いが身体中にまとわりつき、俺の体温は徐々に高くなっていく。

「ほら、俺が触っても君にはなんにも起きないのに、匂いはわかるんだから面白いよね」

「なんにも、て……う……あ……」

「言ったよね? 俺は精神干渉ができるって。最初、君をこの部屋に連れてきた時、君に触ったけど君には力が通じなかった。なのに匂いは通じるんだもん。ベータなのにオメガの性質を持っているなんて。オメガに擬態するオミと言い、君と言い、ほんと、変わった人間が多いよ」

 言いながら、夏目は俺の背中へと手を回し、耳たぶをぺろり、と舐めた。

「ひ、あ……」

 ベータなのにオメガの性質を持っている。
 そんなことあるのかよ?

「ねえ、朱里。最近よく俺の事、見てたよね?」

 言いながら、夏目はブレザーの上から背中を撫でる。
 
「う……あ……んなこと、してな……」 

「見てたよ、君は。気がついてないの? ずっと俺のこと、目で追ってたじゃない? 俺がオミに話しかけているときも」

 オミ。
 その名前を聞くとなぜか心がざわついてしまう。
 俺が知る限り、彼はよくオミに話しかけていたと思う。その度に素っ気ない態度をとられて。
 それでも話しかけ続けるのはきっと理由があるのだと思っていた。

「お、まえは……オミが、好き……なんじゃあ……」

「違うよ」

 はっきりと明確に、彼は否定した。
 て、え?

「彼はアルファだよ。オメガに擬態してるけど、あれは彼の匂いじゃない。なんでそんなことしてるのか聞いたけど、教えてはくれないんだよね」

 オメガに擬態しているアルファ。
 そんなのがいるのか?
 なんで、何のために?
 そんなことしたって、いいことないじゃないか。
 オメガの発情期は、ベータにとっても興味の対象で誘拐事件だって起きたりしている。
 オメガに擬態するメリットは何にもない。

「今は、彼のことはどうでもいいよ。まあ、オミもいつかは欲しいって思ってるけど、なかなかしぶといんでよね。彼にも俺の力は通じないし」

「う……あ……」

「君は、俺に興味があるんじゃないの? だから、俺が誰と話しているのか、誰と一緒にいるのか最近ずっと見てたでしょ?」

 そんなに俺は、夏目を見ていただろうか?
 ……そう言うつもりは全然ないのに。
 思い返してみれば、確かに夏目の言う通りかもしれない。
 今日だって、夏目がオミに話しかけ、フラれる姿を見ている。
 ……そして、別の友人たちと話す姿も。
 やばい、夏目の言う通りじゃねえか。
 俺は……無意識に夏目を目で追っていた。

「もうちょっと駆け引き楽しみたかったんだけどなあ。ねえ、朱里。俺から逃げたい?」

「ひ、あ……」

 耳元で囁かれ、俺は思わず声を漏らす。
 逃げたいに決まってる。
 俺はベータだ。そんな暇つぶしの玩具にされたくはない。

「やだ……俺、帰る……」

 首を振ると、甘い匂いがまとわりついてきて、俺は大きく息を吐いた。
 やばい。またぐらぐらする。
 
「そんなに苦しそうなのに? 帰って自慰でもするの?」

 ストレートに問われて、俺は顔中が紅くなるのを感じた。
 んなこと言えるかよ……!
 それに今、俺のモノからはじわりと先走りが溢れ、下着を濡らしている。
 触ってもいないのに、なぜ俺は欲情しているんだ。
 全部この匂いのせいだ。匂いが俺を惑わせる。
 こんなこと考えていいわけないのに。
 この熱を解放してほしいとか、気持ちよくなりたいとか。
 そんなこと考えちゃいけないのに。
 なのに俺は……目の前のアルファに囚われてしまう。

「欲望に溺れきらないのが、ベータの特徴かな。オメガなら、欲望に従って自分から抱いてと叫ぶんだけどね」

「俺は、そんなこと……」

「わかってるよ。君がそんな風に泣き叫ぶわけがないことくらい。理性と本能の狭間で揺れ動いて、抗っている姿に俺は煽られているんだ」

 悪趣味だ。
 そう思うのに、身体が動かない。
 車が静かに停車したのが、僅かな揺れの違いでわかった。

「とい……俺……」

 帰りたい、という言葉は口付けに飲み込まれていく。
 逃げようとしても頭を手で押さえられ、それは叶わなかった。
 舌が唇を舐め回し、俺の口を開こうとする。
 けれど、無理に口をこじ開けようとはしてこなかった。
 ゆっくりと、少しずつ俺の硬く閉じた唇を舐め、ほぐしていく。
 結局舌は入ることはなく、唇が離れていってしまった。俺はすっかり息をあげ、ぐったりと夏目にしがみついた。
 ドアが開く音が聞こえる。

「着きましたが、彼、どうされるんですか」

 抑揚のない、若い男の声が聞こえる。
 きっと運転手だろう。姿は見ていないが、車に乗る前に声を聞いた気がする。

「部屋に連れていくよ」

 そう言って、彼は車から降りると俺を抱き上げた。
 俺だって男だ。体重だってそこそこある。なのに、同じ男に抱き上げられるとか。
 夏目のほうが背は高いが、大して体重差はないだろう。そんな相手に軽々と持ち上げられるとか。
 正直信じられないが、彼はすっかり動けなくなってしまった俺を家の中に運んで行った。
 靴を運転手に脱がされ、俺は夏目の部屋へと連れ込まれてしまう。
 大きなベッドにゆっくりと下ろされ、彼は離れていく。
 相変わらず、俺の身体には甘い匂いがまとわりついていた。
 このまま匂いに溺れたほうが幸せだろうか?
 抗って、理性と本能の狭間で苦しむより、その方が楽じゃないか?
 そんな考えがよぎっては消えていく。
 この状況から逃げる手段なんて思いつかないし、身体が動かない以上どうにもならない。
 なら――
 このまま、彼の好きなようにさせた方が、楽じゃないだろうか?
 いや、でも俺は男で、ベータだ。
 男にいいように身体を触られるとか……最悪抱かれるとか、そんなの嫌に決まっている。
 何が最善なのか考えれば考えるほどわからなくなっていく。
 ただ俺は、ベッドに横たわり、ぼんやりと夏目がブレザーを脱ぐのを見つめた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

生粋のオメガ嫌いがオメガになったので隠しながら詰んだ人生を歩んでいる

はかまる
BL
オメガ嫌いのアルファの両親に育てられたオメガの高校生、白雪。そんな白雪に執着する問題児で言動がチャラついている都筑にとある出来事をきっかけにオメガだとバレてしまう話。

毒/同級生×同級生/オメガバース(α×β)

ハタセ
BL
βに強い執着を向けるαと、そんなαから「俺はお前の運命にはなれない」と言って逃げようとするβのオメガバースのお話です。

獣人王と番の寵妃

沖田弥子
BL
オメガの天は舞手として、獣人王の後宮に参内する。だがそれは妃になるためではなく、幼い頃に翡翠の欠片を授けてくれた獣人を捜すためだった。宴で粗相をした天を、エドと名乗るアルファの獣人が庇ってくれた。彼に不埒な真似をされて戸惑うが、後日川辺でふたりは再会を果たす。以来、王以外の獣人と会うことは罪と知りながらも逢瀬を重ねる。エドに灯籠流しの夜に会おうと告げられ、それを最後にしようと決めるが、逢引きが告発されてしまう。天は懲罰として刑務庭送りになり――

完結・虐げられオメガ妃なので敵国に売られたら、激甘ボイスのイケメン王に溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

白熊皇帝と伝説の妃

沖田弥子
BL
調理師の結羽は失職してしまい、途方に暮れて家へ帰宅する途中、車に轢かれそうになった子犬を救う。意識が戻るとそこは見知らぬ豪奢な寝台。現れた美貌の皇帝、レオニートにここはアスカロノヴァ皇国で、結羽は伝説の妃だと告げられる。けれど、伝説の妃が携えているはずの氷の花を結羽は持っていなかった。怪我の治療のためアスカロノヴァ皇国に滞在することになった結羽は、神獣の血を受け継ぐ白熊一族であるレオニートと心を通わせていくが……。◆第19回角川ルビー小説大賞・最終選考作品。本文は投稿時のまま掲載しています。

【完結】運命さんこんにちは、さようなら

ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。 とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。 ========== 完結しました。ありがとうございました。

ある日、人気俳優の弟になりました。2

雪 いつき
BL
母の再婚を期に、立花優斗は人気若手俳優、橘直柾の弟になった。穏やかで真面目で王子様のような人……と噂の直柾は「俺の命は、君のものだよ」と蕩けるような笑顔で言い出し、大学の先輩である隆晴も優斗を好きだと言い出して……。 平凡に生きたい(のに無理だった)19歳大学生と、24歳人気若手俳優、21歳文武両道大学生の、更に溺愛生活が始まる――。

【完結】幼馴染から離れたい。

June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。 βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。 番外編 伊賀崎朔視点もあります。 (12月:改正版)

処理中です...